通でがんす

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双葉山の70連勝を阻止した、広島県出身の力士は誰?

2010年01月27日 | スポーツ
太平洋戦争前から戦中にかけて、双葉山 定次(ふたばやま さだじ)という力士がおった。
「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」という言葉の通り、まさに不世出(ふせいしゅつ)の大横綱(第35代横綱)じゃったそうな。

双葉山が勝てば70連勝という大一番(おおいちばん)で、双葉山を破った力士がおる。



【問題】
1939(昭和14)年の1月場所で、双葉山の70連勝を阻止した、広島県出身の力士は誰でしょうか?

1.鞆ノ平 武右衛門(とものひら たけえもん)  2.安藝ノ海 節男(あきのうみ せつお)  3.備州山 大八郎(びしゅうやま だいはちろう)  4.安芸乃島 勝巳(あきのしま かつみ)









【正解】
2.安藝ノ海 節男



【解説】
この日の大相撲ラジオ中継で、アナウンサー・和田信賢(のぶかた)は、「不世出の名力士双葉、今日まで69連勝。果たして70連勝なるか? 70は古希(こき)、古来(こらい)稀(まれ)なり。」とのアナウンスで放送を開始したと言う。
勿論、この日に連勝が途切れるなどとは和田も予想しておらず、双葉山が外掛けに倒れた時に、控えのアナウンサーに「双葉負けたね!確かに負けたね!」と確認してから「双葉山敗れる!」とのアナウンスをした。

双葉山は、約3年ぶりに黒星を喫し、69連勝で止められたにもかかわらず、普段通り一礼をし、まったく表情も変えずに東の花道を引き揚げていった。
同じ東方の支度部屋を使っていて、この一番の後の取組の為に土俵下に控えていた横綱・男女ノ川(みなのがわ)は、取組後に「あの男は勝っても負けてもまったく変わらないな」と語っている。

「双葉山定次」ウィキペディア)




負けた双葉山は「木鷄(もっけい。真に強い者は敵に対して少しも動じないことのたとえ)」を目標に相撲道に精進しとったので、「勝っても負けてもまったく変わらない」と評されたのじゃろう。
双葉山がその日の夜、「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と電報を打った話は有名。



勝った安藝ノ海は、故郷の広島に「オカアサンカツタ(お母さん、勝った)」の電報を打ったんじゃと。
ラジオで勝利を聞いた家族が、全員で万歳している写真が残っとるそうな。
師匠の出羽海(でわのうみ)からは、「勝って褒(ほ)められるより、負けて騒がれるようになれ」と諭(さと)されたという。
この時、号外が発行され、これがスポーツ史上最初の号外だといわれとるそうな。



安藝ノ海は、広島市宇品町(現・広島市南区宇品御幸)出身。
四股名(しこな)は安藝ノ海節男(せつお)だが、本名は永田節男(たかお)。
1943(昭和18)年に第37代横綱となった。

体格がよく、宇品港に入港する船舶から食料を運び入れる家業を手伝っていたので、足腰が鍛えられたんじゃと。

双葉山を破った1939(昭和14)年4月には、宇品小学校相撲場の土俵開きにも出席しとるそうな。

墓は、元宇品(もとうじな)の観音寺にある。



永田家の墓(観音寺



選択肢1の鞆ノ平武右衛門は江戸後期の力士。
備後国沼隈郡鞆(現在の広島県福山市)出身で、最高位は関脇。



選択肢3の備州山大八郎は、広島県福山市出身。
伊勢ヶ濱(いせがはま)部屋所属で、最高位は関脇。



選択肢4の安芸乃島勝巳は、広島県豊田郡安芸津町(現在の東広島市)出身。
二子山部屋所属で、最高位は関脇。



このたび東城町から、佐渡ケ獄(さどがたけ)部屋に入門する男の子がおるんじゃと。

庄原市東城町の東城中3年南場雄貴君(14)が大相撲の佐渡ケ獄部屋(千葉県松戸市)に入門する。
早ければ3月の大阪場所が初土俵となる。
南場君は身長176センチ、体重102キロ。
中学1年のとき、部屋の後援会に所属する地元の知人に大柄な体格を認められ、相撲を勧められた。
2007年11月には一緒に九州場所を観戦。
迫力ある技のぶつかり合いに魅せられ、自ら角界入りを決意した。
「東城から中学生が角界入り」中国新聞 2010年1月25日)


角界で名を残す力士になって欲しいもんじゃのう。



今日は、安藝ノ海節男について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。
コメント
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