通でがんす

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上田宗箇の造営した和風堂が再現されている町はどこ?

2010年01月25日 | 広島の話題

茶道の上田宗箇流(うえだそうこりゅう)は、桃山時代のわび茶を今に伝える武将の茶。
力強く躍動感にあふれ、凛(りん)として「うつくしきを好む」と伝えられている。



【問題】
約400年の歴史を持つ武家の茶道「上田宗箇流」の流祖・上田宗箇が、江戸時代初期に広島城内の上田家上屋敷内に造営した和風堂が2008(平成20)年に再現されましたが、どの町にあるでしょう?

1.安佐南区祇園町(ぎおんちょう)  2.東区戸坂新町(へさかしんまち)  3.西区古江東町(ふるえひがしまち)  4.安芸区船越町 (ふなこしちょう )









【正解】
3.西区古江東町



【解説】
茶道上田宗箇流の正月行事「初釜」が9日、広島市西区古江東町の上田流和風堂で始まった。
江戸時代、広島城内にあった上田家上屋敷を再現した全面改修後2回目の初釜。
12日までの4日間で約700人を招く。
(「健康願い一服 上田流の初釜」中国新聞 2010年1月10日)




↓上田宗箇流については、こちら↓
上田宗箇流



上田宗箇はもと武将で、上田重安(しげやす)と名乗っていた。

主君であった丹羽長秀(にわ ながひで)の死後、豊臣秀吉の家臣となり、越前国1万石の大名となる。
関ヶ原の戦いで豊臣方に属して敗戦、領地を没収されて摂津国(せっつのくに。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)に隠居、仏門に入る。

親族の紀州藩主・浅野幸長(よしなが)の家臣となって1万石を与えられ、徳川家康に許されて還俗(げんぞく)した。
大坂の役には徳川方として出陣、戦功を立てる。

1619(元和(げんな)5)年、浅野家が広島藩に移封されると重安は佐伯郡小方(おがた)に1万2000石を与えられた。

その後は、茶道と造園を趣味として生涯を送り、浅野家の別邸・縮景園(しゅっけいえん)、名古屋城二の丸庭園の作庭を担当した。



今年一年の無病息災を祈る「大福(おおぶく)茶会」が17日、広島市中区の縮景園であった。
園内の清風館の茶室で上田宗箇流直心会の門弟たちがもてなした。
(「息災祈りお点前 広島で茶会」中国新聞 2010年1月18日)




大福茶というのは、薄茶の中に梅干・黒豆・山椒の実を入れたもので、縁起のよいお茶として正月によく飲まれるそうじゃ。

と書いたが、わしゃ、実は茶道のことは、ようわからん。
中学に茶道部があって、文化祭の時にはお茶菓子目当てでチケットの争奪戦をやって負けたことがある。

が、一度は正装して、お点前を頂いてみたいもんじゃ。



↓縮景園については、こちら↓
名勝-縮景園



ところで、三瀧寺のある三滝山の正式名称を「宗箇山」というのは、ご存知ですかの?
この名は、上田宗箇が1621(元和7)年、和風堂と縮景園の借景としてこの山の山頂に松を植えたことに由来するそうじゃ。
現在、4代目の宗箇松が植えられとります。

先日、三瀧寺に行ったついでに宗箇山(三滝山)に登ってきた。
結構しんどかったが、頂上からの見晴らしはえかったのう。
広島市内はもとより、西は宮島から東は江田島まで、瀬戸の島々を一望することができるんよ。



↓三瀧寺については、こちら↓
「参道に石仏や原爆死没者慰霊碑などがあり、紅葉で有名な寺の名は?」 通じゃのう



今日は、和風堂と上田宗箇流について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



今回は、「ひろしまファンクラブ 第221号 平成22年1月14日(木)発行」から出題させてもらいました。感謝!



「ひろしま通」の過去問は、「ひろしまファンクラブ」というメールマガジンに出とります。
興味のある人は、メールマガジンを取ってみんさい。



ほいじゃあ、またの。

コメント
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