「わしは小学2年まで、南区の皆実町(みなみまち)に住んどったんよ。わしが住んどった家のすぐ近くに鷹の記念碑があっての、ようここで遊びよったもんじゃ。おばあさんが、手押し車でお菓子なんか売りに来よったよのう」
「お父さんは「記念碑」いうていうたけど、この写真を見ると「平和塔」って彫ってあるけど?」
「そのあたりから話をしていこうかの…」
「この記念碑、もともとは日清戦争の凱旋碑で、1896年(明治29)3月に建てられたそうじゃ」
「1896年いうたら、今から115年前に建てられたんか。古いもんなんじゃね」
「日清戦争が始まったのが、1894年(明治27)7月。同じ年の6月には、山陽鉄道が神戸から広島まで開通しとったんよ」
「宇品港(うじなこう)が作られたのが、1889年(明治22)じゃったよね」
「正解! その宇品港と広島駅を結ぶ宇品線が開通したのが1894年8月で、わずか17日間で完成させたんじゃ」
「突貫工事じゃね」
「戦争に間に合わせるためじゃけぇの。これで、兵隊を汽車で宇品に集めて、そこから船で戦地の中国へ送るという態勢が整えられたんじゃ」
「宇品港から、たくさんの兵隊が出て行ったんよね」
「日清戦争は日本が勝利し、兵隊たちは宇品港に凱旋してきたんじゃ。そこで1895年(明治28)7月、御幸(みゆき)通りに凱旋門を建てて迎えることにしたんよ。こちらは文字通り「門」で、高さ・幅とも約10.9メートル、奥行きが約3.6メートルあったそうじゃ」
「へぇ」
「この凱旋門は仮のもので、本格的に作られたのが日清戦争凱旋碑なんじゃ。花崗岩(かこうがん)で作られて、碑の上には銀製の金鵄(きんし)が飾られとるんよ。高さが約16メートル」
「金鵄って?」
「トビのことじゃ。トビいうたら、タカ科の鳥じゃのう。1896年から太平洋戦争が終わる1945年(昭和20)までの約半世紀、兵士たちはこの凱旋碑を通って宇品から出征して行ったというわけじゃ」
「それで今もトビが飾られとるんじゃね」
「戦時中に鉄の類(たぐい)は国に供出することになっとったんじゃが、そういう理由もあってこのトビは供出をまぬがれたそうじゃ」
「ところで、「平和塔」の説明はまだ?」
「おう、今からじゃ。太平洋戦争が終わって、日本は連合国軍によって占領されたじゃろ」
「あぁ、「凱旋碑」という名前はよくないと考えたんじゃね」
「ほうなんよ。戦争に関係があるもんじゃけぇの」
「連合軍の目に止まったら、「壊せ!」いうて言われたじゃろうね」
「そこで、「凱旋碑」の文字をセメントで塗りつぶして、「平和塔」に変えたそうじゃ」
「なるほどね」
「裏側には「昭和二十二年八月六日」と彫ってあるじゃろ」
「戦争が終わった後の1947年(昭和22)の8月6日に建てた平和塔ですよ、ということにしちゃったんじゃね」
「ほうじゃろうの。連合軍が撤退して、わしが物心ついた昭和40年代には、みんな「記念碑」と呼びよったけぇの」
「そういや、「鷹の記念碑」という呼び名はいつごろからあったん?」
「うーん、戦前からあったらしいんじゃが、詳しいことはわからんのじゃ」
鷹の記念碑(南側から見る)
鷹の記念碑のある皆実町緑地内
「わしの記憶が確かなら、この藤棚の下には石をくりぬいて作った池があったはずじゃ」
↓宇品港についての関連記事は、こちら↓
広島港(宇品港)の築港に尽力した県知事は誰でしょう?
宇品中央公園に歌碑があり、「空も港も夜ははれて」と歌われる唱歌の題名は?
↓皆実町についての関連記事は、こちら↓
猫田記念体育館 広島市南区
「今日は、鷹の記念碑について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「お父さんは「記念碑」いうていうたけど、この写真を見ると「平和塔」って彫ってあるけど?」
「そのあたりから話をしていこうかの…」
「この記念碑、もともとは日清戦争の凱旋碑で、1896年(明治29)3月に建てられたそうじゃ」
「1896年いうたら、今から115年前に建てられたんか。古いもんなんじゃね」
「日清戦争が始まったのが、1894年(明治27)7月。同じ年の6月には、山陽鉄道が神戸から広島まで開通しとったんよ」
「宇品港(うじなこう)が作られたのが、1889年(明治22)じゃったよね」
「正解! その宇品港と広島駅を結ぶ宇品線が開通したのが1894年8月で、わずか17日間で完成させたんじゃ」
「突貫工事じゃね」
「戦争に間に合わせるためじゃけぇの。これで、兵隊を汽車で宇品に集めて、そこから船で戦地の中国へ送るという態勢が整えられたんじゃ」
「宇品港から、たくさんの兵隊が出て行ったんよね」
「日清戦争は日本が勝利し、兵隊たちは宇品港に凱旋してきたんじゃ。そこで1895年(明治28)7月、御幸(みゆき)通りに凱旋門を建てて迎えることにしたんよ。こちらは文字通り「門」で、高さ・幅とも約10.9メートル、奥行きが約3.6メートルあったそうじゃ」
「へぇ」
「この凱旋門は仮のもので、本格的に作られたのが日清戦争凱旋碑なんじゃ。花崗岩(かこうがん)で作られて、碑の上には銀製の金鵄(きんし)が飾られとるんよ。高さが約16メートル」
「金鵄って?」
「トビのことじゃ。トビいうたら、タカ科の鳥じゃのう。1896年から太平洋戦争が終わる1945年(昭和20)までの約半世紀、兵士たちはこの凱旋碑を通って宇品から出征して行ったというわけじゃ」
「それで今もトビが飾られとるんじゃね」
「戦時中に鉄の類(たぐい)は国に供出することになっとったんじゃが、そういう理由もあってこのトビは供出をまぬがれたそうじゃ」
「ところで、「平和塔」の説明はまだ?」
「おう、今からじゃ。太平洋戦争が終わって、日本は連合国軍によって占領されたじゃろ」
「あぁ、「凱旋碑」という名前はよくないと考えたんじゃね」
「ほうなんよ。戦争に関係があるもんじゃけぇの」
「連合軍の目に止まったら、「壊せ!」いうて言われたじゃろうね」
「そこで、「凱旋碑」の文字をセメントで塗りつぶして、「平和塔」に変えたそうじゃ」
「なるほどね」
「裏側には「昭和二十二年八月六日」と彫ってあるじゃろ」
「戦争が終わった後の1947年(昭和22)の8月6日に建てた平和塔ですよ、ということにしちゃったんじゃね」
「ほうじゃろうの。連合軍が撤退して、わしが物心ついた昭和40年代には、みんな「記念碑」と呼びよったけぇの」
「そういや、「鷹の記念碑」という呼び名はいつごろからあったん?」
「うーん、戦前からあったらしいんじゃが、詳しいことはわからんのじゃ」
鷹の記念碑(南側から見る)
鷹の記念碑のある皆実町緑地内
「わしの記憶が確かなら、この藤棚の下には石をくりぬいて作った池があったはずじゃ」
↓宇品港についての関連記事は、こちら↓
広島港(宇品港)の築港に尽力した県知事は誰でしょう?
宇品中央公園に歌碑があり、「空も港も夜ははれて」と歌われる唱歌の題名は?
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猫田記念体育館 広島市南区
「今日は、鷹の記念碑について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
鷹の記念碑で私もあの頃は良く遊んでました。
懐かしく思いだされました。
公園のおばあちゃんが駄菓子を売ってて、
確か10円を入れるとルーレットが廻り、当たりは赤枠または青枠で針が止まると20円分または15円分のお菓子が買えました。
大きな水溜め槽があり、おもちゃの船を浮かべたりして遊んでました。
ただこの水溜槽は早くから撤去された記憶がありますね。
昭和40年代は良かったなー
近くにお婆ちゃん一人で経営の銭湯もありましたね。
八百屋は「ささだ」があり成人映画館もありました。
懐かし時間をありがとうございました。
コメントありがとうございます。
なお様は、あの公園を三角公園と呼んでいたのですか?
言われてみれば、確かに三角の形をしていたような…。
私はこの公園を、単に「記念碑」と呼んでいました。
銭湯もありましたね。
我が家(借家でしたが)には内湯がなかったので、銭湯通いでした。
お金を節約するためか(?)、毎日でなく2日に1度でしたが…。
「ささだ」という八百屋さんもありましたね。
店のご主人は戦争中、炊事兵だったとおふくろから聞いた記憶があります。
そのおふくろも1年前に亡くなったので、今は確認できませんが…。