味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

凡そ獄を理むるの情、必ず犯す所の

2019-12-13 16:27:31 | ブログ
3984号 01.12.14(土)

凡そ獄を理(おさ)むるの情、必ず犯す所の事に本づきて以て之が主と為し、放訊(ほうじん)せず、旁求(ぼうきゅう)せず、多端を貴びて以て聡明を見はさず。故に律に其の擧劾の法を正し、其の辭を參伍するは、實を求むる所以なり。實を飾る所以に非ざるなり。但だ當に參伍して明かに之を聴くべきのみ。獄吏をして鍛錬して理を飾り、辭を手に成さしめず。『貞観政要』435

すべて訴訟を治めて裁判をするときの精神は、必ず犯した罪の根本を尋ねることを主となし、むやみやたらに訊問することをせず、広く尋ね求めることをせず、多方面に手をつけることを貴んで聡明を示そうとはしない。それゆえ法律では罪人を取調べる法を正しくし、その言葉をかれこれ参考にするのは、真実を求めるためのものであって、事実をつくろうためではない。ただ参考比較して明らかに聞き取るべきである。獄吏に巧みに罪をつくりあげて法にあて、理を非に曲げて種々の言葉をでっちあげさせてはならない。436

 【コメント】「獄吏に巧みに罪をつくりあげて種々の言葉をでっちあげさせてはならない」とありますが、まさにその通りだと思います。

 これと真逆なのが、高速道路であおり運転をした際、後方の車を停車させ、後方の車の運転手をなぐりつけた男かいましたが、その男のやり方はどう見ても、同情する所は皆無だったと思います。こういう悪質な男は死刑にしてもよいくらいだと思います。

 車を止めて後方に行く際、怒鳴っていましたが、全うな人間のしぐさではありませんでした。多くの人がそのように見たのではないかと思った次第です。

 その運転手が後方の車の所まで行き、お互い急いでいるところだと思いますが、事故をしないよう、ゆっくりと安全運転で行きましょうや、という優しい言葉の出る人なら長生きをすると思います。この暴力男は長生きはしません、と断言してあげます。私の会社にそっくり似た男がいたからです。

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『善の研究』第384回

 至誠の善なるのは、これより生ずる結果の為に善なるのでない。それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというは、これより起る結果に由るよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。
 自己の内面的必然とか天真の要求とかいうのは往々誤解を免れない。或人は放縦無頼社会の規律を顧みず自己の情欲を検束せぬのが天真であると考えておる。しかし人格の内面的必然即ち至誠というのは知情意合一の上の要求である。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に從うの謂ではない。
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 人と接する時は、明るく、朗らかに、イキイキとして勇ましい態度で応接したいものです。積極的な態度で人に接するためには、いついかなる時でも、至誠の心に悖った言葉や態度は、言ったり、行ったりしないようにしたいものです。

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後の獄を理むる者は則ち然らず。

2019-12-13 09:27:30 | ブログ
第3983号 01.12.13(金)

後の獄を理(おさ)むる者は則ち然らず。未だ罪人を訊せざれば、則ち先づ之が意を為し、其の之を訊するに及びては、則ち驅りて之を意に致す、之を能と謂ふ。獄の由って生ずる所を探りて之が分を為さずして、上、人主の微旨を求めて以て制を為す、之を忠と謂ふ。其の官に當るや能に、其の上に事ふるや忠なれば、則ち名利随ひて之に與ふ。驅りて之を陥れ、道化の隆なるを望まんと欲するは、亦難からずや。『貞観政要』433

後世の訴訟を裁判する者はそうではない。まだ罪人を取り調べない先に、必ずこれこれの罪過があるに違いないと推測し、その訊問するときには、むりやりにその予測した罪へと引き入れてしまう。そして、こういうのを能があると言っている。訴訟裁判の生ずる原因を探究して分析弁別することをせずして、上は君主の内意を求めて判決をする。そして、こういうのを忠であると言っている。官に居て能であり、上に仕えて忠であれば、名誉と利益とが与えられる。むりに追いやって罪に陥れながら、道徳教化が盛んなることを望もうとしても、なんと、むずかしいことではなかろうか。434

 【コメント】罪人を訊問するのに先だって、予めこの人にはこの罪があるに違いないと推測することは危険なことだと思います。

 出来れば改心して欲しいと思った場合は、名誉を与えながら、その人を導く方法がよろしいかと思います。名誉を与えながら対応すると、そういうやり方に魅かれて改心する人が多くいたのだとはお聞きした言葉です。

 その昔、私が若い頃空手道の稽古をしていた時、刑務所に出たり入ったりしていた人に親切に指導したら、泣きながら抱き付かれたことがありました。曰く、捨てる神あれば拾う神ありといって泣きじゃくりました。

 そういうのを考える時、最近話題になっている「あおり運転」をする人は心を入れ替えたら素晴らしい人生が待っているとお教えしてあげます。

 生きている間、仲良くしたいものです。身体のフラフラが治まらないものだから、日赤鹿児島病院に昨日電話をして20日の金曜日に診察して戴きたいとして電話をしました。そこで当該病院まで家内と言って道路の確認をしてきました。

 昨日は第二道場の空手道教室をしました。小学2年のマサダカナコ様も大ハッスルしてくださいました。終盤では22年御稽古している田上青年と空手道と『南洲翁遺訓』の学修をしました。

 田上さんは上達してきたのですが、甘えを取り除かなければと思い、あの手この手で対応しています。とにかく素晴らしい人格の持ち主だと思っています。

 昨日は第二道場から帰るとき、歩行困難になり、ようやく車に辿りつきました。車の運転は、安全第一を意識しながら、大声での声出し運転で、安全運転をして帰りつきました。

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『善の研究』第383回

 人格とはかかる場合において心の奥底より現われ来って、徐(おもむろ)に全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格其者を目的とする善行とは斯の如き要求に従った行為でなければならぬ。これに背けば自己の人格を否定した者である。至誠とは善行に欠くべからざる要件である。キリストも天真爛漫嬰児の如き者のみ天国に入るを得るといわれた。

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人生は、何をおいても、体力、胆力、判断力、断抗力、精力、能力の六つの力をつくりたいものです。ただ、ひとえに心の態度を積極的にすることが要諦だと信じます。
 ですから、いかなる場合でも、心の力を落としては行けないと思います。終始一貫、積極的な心の態度をもって人生に臨みたいものです。

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