味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

是の故に、上聖は民事を治むるを務めずして、

2019-12-03 17:26:19 | ブログ
第3974号 01.121.04(水)

是の故に、上聖は民事を治むるを務めずして、民心を理むるを務む。故に曰く、訟(うったえ)を聴くは、吾猶ほ人のごときなり。必ずや訟無からしめんか、と。之を導くに禮を以てし、務めて其の性を厚くして、其の情を明かにす。民相愛すれば、則ち相害傷するの意無く、動きて義を思へば、則ち姦邪を畜ふるの心無し。此の若きは、律令の理むる所に非ざるなり。此れ乃ち教化の致す所なり。『貞観政要』426

それゆえに、上聖の君は、民の事を治めるに務めないで、民の心を治めることを務める。それゆえに、孔子は「訴訟ごとを聞いて裁くのは、私にも人並のことしかできない。必ず訴訟などはないような政治をやりたいと思う」と言い、礼によって民を導き、その性を厚くすることを務め、その情を明らかにする。民が互に愛しあえば、互いに傷害する意はなく、動くのに義を思えば、邪悪な心を持つことがない。このようなのは、法令だけによって治められるものではない。これこそ教化によってこのようにできたのである。427

 【コメント】人間社会では、お互いが信頼して愛しあえば、物事は良好に推移すると思います。それを一方的に早トチリし逆の方へは持っていかないようにしたいものです。それでも中には気ぜわしい人もいて世を攪乱することもあるものです。

 ですから良い世の中にするために、各人が精神的にゆとりを持って諦めずに取り組みたいものです。

--------------------
『善の研究』第375回

 勿論意識の内容を個々に分析して考うる時は、この統一力を見出すことはできぬ。しかしその綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。たとえば画面に現われたる一種の理想、音楽に現われたる一種の感情の如き者で、分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。而して斯の如き統一力をここに各人の人格と名づくるならば、善は斯の如き人格即ち統一力の維持発展にあるのである。

--------