味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

頃、海内虞無く、遠夷懾服せしより、

2019-12-27 17:31:26 | ブログ
第3998号 01.12.28(土)

(このごろ)、海内(かいだい)(うれひ)無く、遠夷懾服せしより、志意盈満し、事、厥の初に異なれり。高く邪を疾むを談ずれども、旨に順(したが)ふの説を聞くを喜び、空しく忠讜(ちゅうとう)を論ずれども、耳に逆ふの言を悦ばず。私嬖の徑漸く開け、至公の道日に塞がる。『貞観政要』443

ところが近年は国内が泰平で、遠い異民族も恐れて服従してからは陛下のお心が満足して得意になられ何事も初めの頃と違いました。高く邪悪を憎むと談じながら、おぼしめしにさからわない説を聞くことを喜び、いたずらに忠直な論をほめながらも、耳にさからう忠言を聞くことを喜ばれません。その結果お気に入りの者が進み出る道が次第に開け、公正な人が進む道が日ごとにふさがります。444

 【コメント】人間の世界ではいろいろなことがありますが、意地悪をしたり悪口を言う人でも、殺そうとまではしないので、殊更におびえる事はないと思います。

 ですから、自分は出来るだけ平常心で対応した方がいいと思います。一つ二つなぐられても、死ぬことはないので、何事も経験だと思って前向きに臨みたいものです。

 とにかく人をいじめるとか、暴力的な人間は長生きはしないのです。そういう人間は、人間社会から疎外されて延び延びと生きてはいけないのです。やがて落ちぶれて朽ち果てるのです。

 大根占電話局での前任がそういう人生を辿りました。元気がよく、喧嘩好きで、傍若無人な人間でした。それが晩年は大病にも似た病で倒れたのでした。私は、「あ、昔の行いが悪く、天罰が来ているのだな」と思ったものでした。

 ですから、人様をいじめることなく、親切の上にも親切を尽し、大事にしてあげることが大事なのです。そしてできる事は協力して上げることが大事なのです。私は必要以上に人を大事にしていると思っています。そのお蔭で80歳の今日も元気だと思っています。

 それと自宅が貧乏であり、何事にも身体ごとぶつかって来たのでした。学問にしてもそうです。漢籍も訳が分からなくても、恋人の本を離す事はないのです。これほどいい教えはないし確信しています。

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『善の研究』第390回

 プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
 しかし更に一歩を進めて考えて見ると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に從うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我の区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。

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昔在、貞観の初、身を側て行を

2019-12-27 09:45:27 | ブログ
第3997号 01.12.27(金)

昔在、貞観の初、身を側(そばだて)て行を勵まし、謙以て益を受け、善を聞けば必ず改む。時に小過有れば、忠規を引納す。直言を聴く毎に、喜、顔色に形(あら)はる。故に凡そ忠烈に在るもの、咸(ことごと)く其の辭を竭くせり。『貞観政要』443

昔、貞観の初年には、陛下は恐れ慎んで行いに励み、謙遜にして益を受け、善を聞いては必ず過ちを改め、小さい過ちがあれば、忠直の規戒を受け納れ、直言を聞くたびに、喜びが陛下の顔色に出ておりました。それゆえ、すべて忠烈の士は、ことごとく言葉を尽くしてお諌めしました。444

 【コメント】「善を聞いては必ず過ちを改め、小さい過ちがあれば、忠直の規戒を受け納れ」とあるように、我々凡人もかくありたいものです。

 ややもすると人様には小さいことでも大袈裟に立腹する人が多いように見受けられる今日この頃です。その代表例が「あおり運転」です。

 あおられたと思う人は、大袈裟に装っていますが、ご自分は他人様から奇異に見られている部分はないのか、各人が反省をしたいものです。

 私の鄰西側には市営住宅が次々と建てられていますが、そこに入居している若い人々は、「あおり運転」のことに関心がないのでしょうか、私の車の後から来る人は車間距離は意識していない様子です。

 ぺったりくっついてくるなと思って見ると、若い女性の方が多いようです。今まで事故をした経験がないのだろうと思います。経験者なら事故後のトラブルに大変な労力を要しているので分かる筈なのですが、経験がない人は、それが理解出来ないのです。

 何事も経験して欲しいと思うのですが、その場合、多額の金を要するのです。出来ればテレビ等がそういうことを教えてくれればいいのですが、テレビは視聴率稼ぎに翻弄されており、肝心のことには無関係のようです。

 今日のテレビでもあおり運転をした男が、車から降りて後続の人に暴言を発しているのが放映されました。

 数日前、お金持ちの小川さんという人が、強盗に押し入られ殺害されるという事件が発生しました。この方は一億円の現金を見せびらかしていたそうです。こういう多額の金がありますので欲しい人は来てくださいということと同じです。

 兎に角若い人々を刺激する行為は犯罪に繋がり易いので、やめた方がいいと思います。

 昨夜の空手道教室はマサダカナコ様と田中先生と田上さんの三人でした。おけいこをする人がこなくても私は、多くの本を持って行き読書をするので構わないのですが、カナコ様みたいに御稽古を休まず続けた方がいいと思います。

 それは70年の長きにわたり子供を指導している私は、人生に有益なことを教えているのです。天風著『君に成功を贈る』と同様の事を教えているのです。

 過去、大学出の人々と一緒に空手道界を指導してきましたが、私から観て、これは教育上よろしいという人は皆無でした。大学出の師範はチンピラに毛の生えたような男が多かったように思います。

 空手道は稽古を重ねて体力を造り、病気をせず、長生きを目指すべきだと思います。そして学問を日々に実践し、優れた人格を構築することが要諦なのです。

 そして人様には自ら挨拶し優しく鄭重に対応し、出来る親切は惜しまず捧げる度量があって欲しいものです。そして人様と共に人生を楽しむことが出来れば最高ではないでしょうか。

 とにかく非違行為をして警察官に捕まり、刑務所に入ることほど不幸ことはないと思います。

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『善の研究』第389回

 かえって私欲なき人にして甫(はじ)めて心を安んじて他人の私欲を破ることができるであろうと思う。それで自己の最大要求を充し自己を実現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる。即ち客観と一致するということである。この点より見て善行為は必ず愛であるということができる。愛というのは凡て自他一致の感情である。主客合一の感情である。啻(ただ)に人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛である。193
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