第3998号 01.12.28(土)
頃(このごろ)、海内(かいだい)虞(うれひ)無く、遠夷懾服せしより、志意盈満し、事、厥の初に異なれり。高く邪を疾むを談ずれども、旨に順(したが)ふの説を聞くを喜び、空しく忠讜(ちゅうとう)を論ずれども、耳に逆ふの言を悦ばず。私嬖の徑漸く開け、至公の道日に塞がる。『貞観政要』443
ところが近年は国内が泰平で、遠い異民族も恐れて服従してからは陛下のお心が満足して得意になられ何事も初めの頃と違いました。高く邪悪を憎むと談じながら、おぼしめしにさからわない説を聞くことを喜び、いたずらに忠直な論をほめながらも、耳にさからう忠言を聞くことを喜ばれません。その結果お気に入りの者が進み出る道が次第に開け、公正な人が進む道が日ごとにふさがります。444
【コメント】人間の世界ではいろいろなことがありますが、意地悪をしたり悪口を言う人でも、殺そうとまではしないので、殊更におびえる事はないと思います。
ですから、自分は出来るだけ平常心で対応した方がいいと思います。一つ二つなぐられても、死ぬことはないので、何事も経験だと思って前向きに臨みたいものです。
とにかく人をいじめるとか、暴力的な人間は長生きはしないのです。そういう人間は、人間社会から疎外されて延び延びと生きてはいけないのです。やがて落ちぶれて朽ち果てるのです。
大根占電話局での前任がそういう人生を辿りました。元気がよく、喧嘩好きで、傍若無人な人間でした。それが晩年は大病にも似た病で倒れたのでした。私は、「あ、昔の行いが悪く、天罰が来ているのだな」と思ったものでした。
ですから、人様をいじめることなく、親切の上にも親切を尽し、大事にしてあげることが大事なのです。そしてできる事は協力して上げることが大事なのです。私は必要以上に人を大事にしていると思っています。そのお蔭で80歳の今日も元気だと思っています。
それと自宅が貧乏であり、何事にも身体ごとぶつかって来たのでした。学問にしてもそうです。漢籍も訳が分からなくても、恋人の本を離す事はないのです。これほどいい教えはないし確信しています。
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『善の研究』第390回
プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
しかし更に一歩を進めて考えて見ると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に從うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我の区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。
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頃(このごろ)、海内(かいだい)虞(うれひ)無く、遠夷懾服せしより、志意盈満し、事、厥の初に異なれり。高く邪を疾むを談ずれども、旨に順(したが)ふの説を聞くを喜び、空しく忠讜(ちゅうとう)を論ずれども、耳に逆ふの言を悦ばず。私嬖の徑漸く開け、至公の道日に塞がる。『貞観政要』443
ところが近年は国内が泰平で、遠い異民族も恐れて服従してからは陛下のお心が満足して得意になられ何事も初めの頃と違いました。高く邪悪を憎むと談じながら、おぼしめしにさからわない説を聞くことを喜び、いたずらに忠直な論をほめながらも、耳にさからう忠言を聞くことを喜ばれません。その結果お気に入りの者が進み出る道が次第に開け、公正な人が進む道が日ごとにふさがります。444
【コメント】人間の世界ではいろいろなことがありますが、意地悪をしたり悪口を言う人でも、殺そうとまではしないので、殊更におびえる事はないと思います。
ですから、自分は出来るだけ平常心で対応した方がいいと思います。一つ二つなぐられても、死ぬことはないので、何事も経験だと思って前向きに臨みたいものです。
とにかく人をいじめるとか、暴力的な人間は長生きはしないのです。そういう人間は、人間社会から疎外されて延び延びと生きてはいけないのです。やがて落ちぶれて朽ち果てるのです。
大根占電話局での前任がそういう人生を辿りました。元気がよく、喧嘩好きで、傍若無人な人間でした。それが晩年は大病にも似た病で倒れたのでした。私は、「あ、昔の行いが悪く、天罰が来ているのだな」と思ったものでした。
ですから、人様をいじめることなく、親切の上にも親切を尽し、大事にしてあげることが大事なのです。そしてできる事は協力して上げることが大事なのです。私は必要以上に人を大事にしていると思っています。そのお蔭で80歳の今日も元気だと思っています。
それと自宅が貧乏であり、何事にも身体ごとぶつかって来たのでした。学問にしてもそうです。漢籍も訳が分からなくても、恋人の本を離す事はないのです。これほどいい教えはないし確信しています。
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『善の研究』第390回
プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
しかし更に一歩を進めて考えて見ると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に從うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我の区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。
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