彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

7月30日、宗祇客死

2010年07月30日 | 何の日?
文亀2年(1502)7月30日、連歌師の飯尾宗祇が亡くなりました。82歳。


連歌師は、様々な大名の元を訪れながら、連歌の会を行ったり指導したりしながら生計を立てる者が多く、宗祇もそのような連歌師の一人でしたので、旅から旅の一生で、80を超えても全国を巡っていて、越後から美濃に向かう途中で(なぜか?)箱根湯本で客死したのです。

『新撰菟玖波集』や『吾妻問答』などの著書が知られていますが、いかんせん僕があまり文化史が得意ではありませんので細かい事は分かりません。


そもそも連歌というものは何か?

簡単に言えば、和歌の韻律(五・七・五・七・七)を基本にして、一人が和歌を作るのではなく、複数の人物が一定の規則に従って歌を作るものでした。

平安末期の頃は、上の句(五・七・五)を一人が詠んで、別の人が下の句(七・七)を作って完成させていたのですが、鎌倉時代や室町時代はその後にまた上の句・下の句と続けて行って百句作るようになったのでした(これを百韻といいます)。

そして百韻を10集めた千句。千句を10集めた万句とエスカレートしていくのです。

そんな中で、最初の対の句のみ(これを発句といいます)を鑑賞する為に世の中の連歌の中から集撰された物を載せたのが『新撰菟玖波集』などです。

連歌には、前の句の世界観を壊さないようにしながら次の句を詠むことを定めていて、でも同じ雰囲気ばかりを続けては面白くないので、春・夏・恋の句は三句以上五句まで、夏・冬・旅・水辺などの句は三句までしか続けてはならない、夜の句は五句以上空けるなどの大まかな流れや、若菜・鶯・昔・村雨などは一座で使えるのは一句。暁・故郷・春風などは二句。神・鹿などは三句など使える言葉の回数を決めるルールもありました。


このように様々な規定を作りながら、知識人の教養として必要文化になっていた連歌ですが、江戸時代に松尾芭蕉がこの中から「連歌に長さが無いままに連歌の世界観を詠む」という俳諧を重要視し連歌の衰退が始まり、明治になって正岡子規によって「俳諧から俳句」という運動の中で忘れられて行ったのです。

現在でも連歌は文化として残っていますが、俳句ほどの繁栄が無いのはこのためです。

しかし、連歌師宗祇の名は、
平安の歌人 西行
江戸の俳諧師 芭蕉
と共に、日本三大漂泊歌人として湛えられています。


さて、そんな宗祇の出身地が近江だとの説があります。
父親は六角氏の家臣である伊庭氏
母親は細川氏の被官である飯尾氏
だといわれているのです。伊庭氏の関係から、その生誕地は旧能登川町(東近江市)ではないかともいわれています。



『「新選組!」剣術家集団の実像』講演聴講報告

2010年07月23日 | 講演
『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』
セミナー3「NHK大河ドラマから見た歴史」
第3回目の講座として「『新選組!』剣術家集団の実像」が開かれました。

講師は『新選組!』で時代考証補佐をされた三野行徳先生。


大河ドラマが『新選組』に決まった時の時代考証の難しさに対する現場の動きや、近藤勇が京都に上洛して1ヶ月ほどしてから多摩に送った手紙から、近藤が上洛してすぐに政治家としての能力を示し、諸藩との周旋を行っていた話など、時代考証から浮かび上がる(大河ドラマでは描けなかった)近藤勇像が示されました。

講演後に、今月の2回の講座の先生と同じ質問を投げかけました。
 


《質疑応答》
(管理人)
 直弼は悪人ではなく大悪役だと思います。直弼がいたからこそ新選組や幕末の10年の歴史に繋がると思います。直弼が全てのスタートのイメージがあるのですが、先生から見る井伊直弼像はどうですか?
(三野氏)
 井伊は一番情報を仕入れる立場にありました。そうすると必然的に導き出される政治的な選択を実行していった人物ですね。
 井伊直弼を評価するなら、江戸時代の言葉でいう「名君」優れた政治家のひとりであることは間違いないと、私は思います。



これで、全10回の講座が開かれた『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』の春・夏講座が終わりました(また、秋・冬があります)
・大石学先生の新しい江戸のイメージ
・中井均先生の彦根の戦国
・幕末を舞台にした大河ドラマの時代考証の話
どれも、ここで短く書くだけではもったいないくらいの濃い濃い学びでしたよ。

『安政期の政局と大河ドラマ「篤姫」』講演聴講報告

2010年07月16日 | 講演
『ひこね市民大学講座 歴史手習塾』
セミナー3「NHK大河ドラマから見た歴史」
第2回目の講座として「安政期の政局と大河ドラマ『篤姫』」が開かれました。

講師は『篤姫』で資料提供(時代考証補佐)をされた野本禎司先生。


大河ドラマ『篤姫』の流れに沿いながら、幕府の開国に対する動きや、将軍継嗣問題での一橋派と南紀派の動き、そして桜田門外の変などを手紙などの資料を交えて紹介されました。

この資料を読むと、大河ドラマでのほんの些細な時間で流される部分に該当する資料などが解り、ドラマを作る上でどれほど細かい資料の参考があったかも理解できる内容でした。
今回のお話で特に重要だったのは「役割」というキーワード。『篤姫』でも「役割と家族」が大きなテーマだったそうですが、幕権強化を役割とした井伊直弼、一橋慶喜を将軍継嗣とすることを役割とした篤姫が、徳川家を守るという役割に変っていくなど、人が何らかの役割を持って生きていることの大切さを学んだ思いでした。

講演後に、前回の佐藤先生と同じ質問を投げかけました。
 


《質疑応答》
(編集長)
 私は、直弼は悪人ではなく大悪役だと思います。直弼がいたからこそ新選組や幕末の10年の歴史に繋がると思います。直弼が全てのスタートのイメージがあるのですが、先生から見る井伊直弼像はどうですか?
(野本氏)
 私自身は、力構造を(研究)していますので、それで、江戸時代は身分や役職に応じて「役割」がある。まさに『篤姫』の描き方とほぼ同じでしたので、私自身は『篤姫』での井伊直弼の描き方に異論はありませんでした。
(編集長)
 私も『篤姫』の直弼はイメージとしてぴったり合い、篤姫も幼少から「役割がある」と教えられて育ち、直弼も悪役であり、篤姫を主人公にしているので直弼は本当の悪人になると思ったのですが、悪人でなく悪役で描かれてとても面白かったです。

鎌倉へ

2010年07月11日 | その他
ネットのニュースを読んでいたら、3月に折れた鶴岡八幡宮の大銀杏の枝を、一口千円の再生援助金を出すことで分けて貰えるとの記事を目にしました。

期間は今月いっぱいだったのですが、管理人の予定では今月鎌倉まで行ける日を考えると、あまり余裕はありませんでしたので、早いうちに行く事にしました。


鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府にとって重要な場所であり、また三代将軍源実朝が暗殺された場所でもある事は以前にも紹介しました。
『鶴岡八幡宮暗殺事件』

そして、井伊家には直接関係ないようにも思えますが、井伊家の中にはこの鶴岡八幡宮で弓始めを行った人物が『吾妻鏡』に登場しますし、鎌倉幕府に奉公していた以上は何か時々に鶴岡八幡宮で大銀杏を見上げていたと思われます。


実朝暗殺事件が起きたのは承久元年(1219)1月27日ですので、800年ほど前には既に人の身が隠せるほどの太い木だったことが解ります。
そんな歴史の大きな事件の目撃者であり生き証人でもあった大銀杏が2010年3月10日に倒壊しました。

これは神社の関係者さんや歴史愛好家だけではなく、多くの方のショックとなり再生のための動きが起こったのです。

その結果、折れた木の隣に若い芽を移す取り組みも行われました。

折れた木の向こうに見えるのが新しい芽を植えた場所です。

こうして御神木である大銀杏の再生の寄付を募る必要もあり、また大銀杏を愛して来られた方々の要望もあったので今回の動きとなったそうです。

そんな思いをしっかりと受け取ってきました。

管理人は、地元歴史愛着家とも自称していますが、根っからの歴史愛好家です、歴史は現場や物証よりも資料として文字に書かれたことで進むことが多いのが現状ですが、ここに文字ではなくても歴史を見た生き証人がいる。
この枝は、約800年ほど前に、身も凍るような雪の中で重要な歴史に立ち会った物の一部であり、千年近く信仰を集めた御神木でもあります。
この一部を受けるのは、歴史を学ぶ者にとしてどうしても無視できない物であり、居ても立っても堪らずに訪問し、受け取った物の重みを改めて感じます。

井伊家だけではなく、もしかしたら管理人のご先祖様の誰かもこの木を見上げたのかもしれませんね。


七夕

2010年07月07日 | 何の日?
今日は七夕様の日。

彦根近辺の七夕伝説については、4年前に紹介しましたのでリンクを張っておきます。
近江七夕伝説

天気も良かったので当日に現地を訪ねてみました。
笹がたくさん飾られています。


本殿への参拝を済ませ


七夕石へのあいさつもしました。


今年は、この場所が特に注目されているのでしょうか?
地元の大手FMラジオ局の生中継も行われていました。
この番組で募集した笹も奉納されているそうです。滋賀県中のリスナーさんの願いがかなえばいいですね。

『龍馬が残したモノ!』講演聴講報告

2010年07月06日 | 講演
『ひこね市民大学講座2010 歴史手習塾』
セミナー3「NHK大河ドラマから見た歴史」
第1回目の講座として『龍馬が残したモノ! ぼくの龍馬・わたしの龍馬・「本物」の龍馬』と題された講義が開かれました。

講師は法政大学講師で『龍馬伝』時代考証補佐の佐藤宏之先生。


『龍馬伝』の映像を使いながら、龍馬という人物の実態や龍馬像が出来上がった経緯など、坂本龍馬について様々な考証をされました。

とくに龍馬の人生を紐解きながら、6つの龍馬伝説の出来上がった経緯も資料を使いながら説明されたした。
・龍馬の生誕時に背中に怪毛が生えていた事
・北辰一刀流免許皆伝
・勝海舟の弟子となった時期
・神戸海軍操練所の塾頭だったのか?
・薩長同盟での役割
・船中八策の謎

などです。
例えば北辰一刀流については、龍馬は『北辰一刀長刀兵法』の目録を受けていて、この中に「家流始之書」と書かれているので、これは免許皆伝とは違うとの話などもあり、興味深かったです。
また司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で描かれた龍馬像についてもお話されました。

講演後に、佐藤先生に質問をしましたので書きます。

(管理人)
 大河ドラマなどの龍馬像はいろいろあると思うのですが、僕は坂本龍馬については赤松小三郎のイメージが凄く重なってると思います。小三郎は中村半次郎が暗殺したので、薩摩藩が出しにくいので龍馬に小三郎の業績も乗せたのかなと思っています。
 そういうイメージでは龍馬は色んな人のイメージが入っているのではないかと思います。
(佐藤氏)
 そうですね。それは言えると思います。
(管理人)
 日露戦争時の霊夢にしても、明石元二郎の配下で働いていた漆原松吉が「あれは、(明石)のスパイ活動を消すために田中光顕が言いよった」という話を残したとも聞いたことがあるので、本当の龍馬像はどうなんでしょう?
(佐藤氏)
 その時々の社会状況や政治状況がかなり影響していると思います。龍馬は途中で亡くなっているので悲劇性と、「その後どうなるか?」との妄想ができるところが、色んな像の増幅
に繋がってると思います。
 ですから、色んな考えがあると思います。
(編集長)
 私は直弼は悪人ではなく大悪役だと思います。直弼がいたからこそ新選組や幕末の10年の歴史に繋がると思います。直弼が全てのスタートのイメージがあるのですが、先生から見る井伊直弼像はどうですか?
(佐藤氏)
 ヒールというより開明的な大名という位置づけです。井伊直弼は開国をして大きな動きを作っていくわけで、弾圧はありますが、直弼がいたからその後の明治維新ができたスタートだと思います。
(管理人編集長)
ありがとうございました。 
 

7月5日、豊臣秀吉天下を統一する

2010年07月05日 | 井伊家千年紀
天正18年(1590)7月5日、豊臣秀吉に包囲されていた小田原城が開城しました。


北条早雲から5代約100年に渡って関東を支配していた北条一族は、小田原城という大掛かりな城を本拠地にしていたことでこれまで何度も危機を脱してきました。
とくに、軍神と呼ばれた上杉謙信に攻められえた時も篭城して守りきった事が大きな自信となっていたのです。
つまり、困った時には篭城と言う戦い方が自然となっていたのでした。

確かに、小田原城はその城内で自給自足ができ篭城するのにはもってこいの城だったのですが、そんな戦に勝つためには「相手が諦めていずれ兵を引く」という大前提が必要となったのです。

上杉謙信の場合は、領土拡大欲が無く、本国が越後だった為に冬になる前に決着をつけるか兵を引き上げるという前提があったので城に篭もっていればいずれ勝手に帰ってくれたのですが、豊臣秀吉は信長の家臣だった頃から干殺しと呼ばれる兵糧攻めや高松城の水攻めなどの長期戦で城を囲んで落とす戦をもっとも得意としていたのです。


そこであてが外れた形になり、小田原城のすぐ近くの石垣山に一夜で城を作ると言う離れ業をやった秀吉の力に脅威を覚えたのです。
この石垣山一夜城は、出来上がるまでの基礎工事を山の木々に隠して行い、ある程度出来上がったところで一気に木を切った為に北条方からは一夜で城が出来た様に見えたそうですが、精神的には凄い恐怖を与えたでしょうね。
とは言いながらも、最近の説では秀吉の石垣山城に驚いたのは、秀吉自身の誇張であり北条方にはそれほど驚いた様子もない。とも言われています。


こうして、どうする事も出来なくなった(らしい)北条一族は堂々巡りの会議を行い、それが「小田原評定」という言葉まで後世に残す事になってしまいます。

結局、小田原城主・北条氏直と先代城主で氏直の父・氏政は秀吉に降伏。
この小田原攻めの最中に東北最大の実力者・伊達政宗が秀吉に臣従している事からこの時点で秀吉の天下統一が確定したのでした。


北条氏は、氏政は開城の後に切腹
徳川家康の娘婿と言う事で助命嘆願された氏直は高野山で出家しますが、翌年に疱瘡で病死。
氏直の叔父・氏規の子孫が江戸期を通じ1万石格の大名として続きます、この末裔が公明党書記長を務めた北条浩さん。
また一門に列せられた北条綱成(正室は北条氏政の叔母)の孫・氏勝も家康に仕えて1万石並みの大名となっていますが、その養子・氏重の代で嫡子が無く改易となっています。


さて、小田原城開城は徳川家にとっては大きな運命の転機となりました。
これまで東海を中心に勢力を広げていた家康でしたが、秀吉の命で江戸を中心とした関東への転封を命じられたのです。
それだけならば、歴史の中のひとつの出来事として終わるのですが、井伊家にとってはそれだけでは済まなかったのです。

秀吉は、井伊直政に箕輪12万石を与えるように家康に指示したのです。
よく、直江兼続の逸話の中で秀吉の指示で上杉120万石の内の30万石を与えられた。との話が登場しますが、実はこれは徳川家でも行われ、その筆頭が直政でした。
こうして井伊直政は徳川家臣団筆頭の地位を、秀吉の指示で得たのです。

しかし、秀吉と言う人物はただの人たらしではなかったと思うのは、この箕輪から東山道を進むと徳川家から豊臣家に鞍替えした真田領に入り、その向こうには家康の元を離れて秀吉の家臣となった石川数正の築く松本城が控えています。
直政と数正は秀吉の目の前で敵対したこともあるくらいですので、もし秀吉と家康が戦うようなことがあれば、真田・石川が直政と戦うことなり、徳川軍の戦力分散が理想的な形でできるという緻密な計算があったようにも見えるのです。

なにがともあれ、井伊家にとっては関ヶ原以前で一番運命が動いたのが秀吉の小田原征伐後だったのです。