彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

宴の松原の鬼

2020年08月17日 | 何の日?
仁和3年(887)8月17日、内裏の宴の松原で女官のバラバラ死体が発見されました。 

この恐ろしい事件の顛末が伝わっていますのでご紹介しましょう。 

8月17日午後10時過ぎ、内裏の中を三人の若い女官が連れ立って歩いていた。 
やがて“宴の松原”という内裏の中にある小さな松林に近づいた。 
その松林の中から水もしたたるような美男が出て来たので三人の女官はボーと見とれてしまった… 

男はその中の一人の手を取り松林に入って楽しそうに会話をしていた。 
残った二人はしばらくそこで待っていたが仲間が中々帰ってこないので暗い松林に入って見ると… 

ついさっきまで男女が会話をしていた草むらの上におびただしい血が飛び散っていて女の手足が見つかった。 

内裏の警護の右兵衛府の衛士が宴の松原の中を調査したが結局首も胴体も見つからなかったそうだ、そして鬼に喰われたと言う事になり、後で聞いた者は恐怖に顔を引きつらせた。 




これは『今昔物語』等に残されている話です。 
“宴の松原”は実際に内裏にあり多くの奇妙な記録が残っている場所なんですよ。 
そして現在この辺りは寺の密集地となっています。 

流石に鬼は出てきていないのでしょうけど奇妙な所である事には間違いないですね。
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偽書、七夕伝説

2020年07月07日 | 何の日?
毎年のように七夕の時期になると滋賀県米原市の七夕伝説が語られていましたし、管理人も過去に紹介しています。

大阪府枚方市に残る七夕伝説と、どちらが本当の日本七夕伝説の発祥か?
を競うくらいに有名な物語なのですが…

最近発刊された馬部隆弘さんの『椿井文書』で、米原市の伝承は偽書とされる『椿井文書』が出典になっていることが指摘されました。
しかも、枚方市の七夕伝説も椿井文書…

近江国湖北と河内国は、椿井文書の影響が強い地域の北限と南限の近くになります。
両伝承が同じ人物から発せられ、それぞれが「わが町の伝承が七夕伝説の発祥地」と言っていたことが面白すぎます。
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5月22日、北畠顕家討死

2020年05月22日 | 何の日?
建武5年(1338)5月22日、北畠顕家が討死しました。
大河ドラマ『太平記』では後藤久美子さんが演じた美男子イメージが強いですが、21歳で南朝に殉じて亡くなったことでの悲劇の若武者であったこともイケメンイメージを上げているとは思います。

しかし、顕家は普通の武将だったわけではなく、二回も東北から関西まで攻め上がった名将だったことは間違いありません。
16歳のときに「陸奥守」に任じられて、父の北畠親房とともに国府多賀城に入って東北地方を治めて行きます。

三年の治世の末に、足利尊氏が後醍醐天皇に反発して京を支配したことから多賀城から京まで一気に進軍して尊氏を追い出しました。尊氏は九州まで逃れて再起を計ることなります。
再び多賀城に戻り、霊山に拠点を移動したものの二年後にまた京に返り咲いた尊氏を攻めることになります。二度目のときはすでに楠木正成が亡くなっていて北陸にいた新田義貞と呼応しての進軍のはずでしたが、義貞は次男の義興を派遣したのみでした。それでも霊山をでた顕家は関東の足利氏の拠点を混乱に追い込み、鎌倉を守る斯波家長を討っています。

二度目の上洛戦では、東北からの連戦の果てに、関ヶ原で3回行われた戦いの一つである、青野ケ原の戦いで勝利を収めますが、黒血川を守る佐々木道誉らの軍を前に奈良に逃れ、河内の戦いで高師直らと戦い、討死したのです。

顕家が戦った地に阿倍野神社が建ち、




近くの北畠公園にお墓があります。








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九品院四百回忌

2019年04月18日 | 何の日?
元和6年(1620)4月18日、彦根藩士青木五郎兵衛の妻が亡くなりました。
つまり平成最後の年が四百回忌になります。

戒名は九品院殿智海妙恵大姉。没年はわかりませんがまだ十代後半だったと考えられます。

青木五郎兵衛家は江戸時代の間に断絶していますし、もし残っていたとしても彦根藩士青木家も妻の九品院も有名な人物でもなければ、地元の偉人というわけでもありません。
ただ、九品院は想像を膨らませるのに楽しい女性ではあります。
父親が真田信繁(幸村)なのです。

信繁には九人の娘がいたとされていて、その四女が九品院です。
先ほど、没年が十代後半書きましたが、兄大助幸昌が慶長6年(1601)に誕生し、妹で五女阿梅(片倉重綱室)が慶長9年に生まれていて、この兄妹の間に三女あぐりと四女九品院(本名不明)が居るからです。



ですから、数えでも17歳から20歳の間に亡くなったことになります。
九品院がどの様な経緯で彦根藩士に嫁いだのかはわかりませんが、若い女性が敵地に嫁ぐ苦労は偲ばれます。
若く亡くなった九品院は、青木家の墓地である少林禅寺に2人の人物と共に埋葬されましたが、その墓石は歴代住職と向かい合う形になっていていつまでも仏の庇護を受けているようにもみえるのです。


関連地:彦根市 少林禅寺
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150年前:蝦夷共和国建国(12月15日)

2018年12月15日 | 何の日?
明治元年(1868)12月15日、蝦夷共和国での新しい政府が誕生しました。

江戸時代が終わろうとするその瞬間。将軍である徳川慶喜は大きな抵抗もせずに新政府に恭順しましたが、それではなっとくできない人々が関東から東北までを転戦し、最後にたどりついたのが蝦夷(北海道)だったのです。

ここで、旧幕府軍の残党は、榎本武揚を中心に結束して、箱館五稜郭を政庁として新しい独立政府を樹立したようなイメージが持たれています。
そして、列強に独立国家として認めてもらうために、日本最初の入札(選挙)を行ったという話もよく聞かれます。


しかし、実際には旧幕府軍は榎本の元で結束していたわけではなく、榎本の行動力に周囲が引っ張られていただけで、実際には藩や幕府内での所属、そして彰義隊の生き残りなどのグループに分かれていたのです。
入札は、列強に対するパフォーマンスではなく、本当に誰をリーダーに立てるのかを切羽詰まった状態で真剣に選んだのでした。
それまでの日本では、そこまでをしてトップを選ぶ必要がなかったので、入札がなかっただけで、逆説的に考えれば入札にしか頼れないくらいまで分裂していたのが旧幕府軍の実状だったのです。

そして、この時にできた蝦夷の政府を、一時的にでも独立国として諸外国が認めていたという話もよく語られますが、榎本たちが、日本から独立した新国家を樹立しようとした形跡はなく、あくまでも徳川政権の権利を主張しただけの内紛に近いものでした。
ですので、正式に蝦夷共和国と名乗ったこともなかったのです。

さまざまな誤報に満ちた蝦夷共和国ですが、明治元年12月15日の入札と同時に政府機能が樹立し、入札の結果で榎本が総裁に選ばれて組閣され、5ヶ月の短さながらも中央に影響されない地方行政が運営されたのです。
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150年前:奥羽列藩同盟成立(5月3日)

2018年05月03日 | 何の日?
慶応4年(1868)5月3日、東北地方の25藩が奥羽列藩同盟を結びました。

奥羽列藩同盟は、輪王宮(寛永寺に住まう親王のこと)北白川宮能久親王を盟主にして、明治新政府に反発した東北地方の藩が結んだ同盟でした。

戊辰戦争での東北での戦いは、会津藩と庄内藩が新政府軍の目の敵にされていて、最初は会津と庄内だけの軍事協定である会庄同盟が結ばれたのです。この頃すでに米沢藩と仙台藩にも加盟を促す計画があがっていました。
その計画と同じ時期に、仙台藩は奥羽の各藩に対して仙台藩領の白石での会合を呼びかけます、これは会津や省内に対して新政府のやり方があまりにもひどいことを指摘して、両藩に対して寛大な処置を願うことを一致した意見として奥羽鎮撫総督に提出しようとする動きだったのです。
奥羽鎮撫総督で参謀をしていた世良修蔵は、これを快く思わず各藩に会津への出兵を命じていたのです。それと同じ時期に京都に対して増兵の嘆願書を書いたのですが、その中に「奥羽皆敵」と書かれた一文があり、その文書を仙台藩士が手に入れたことで、藩士たちは激怒して世良を襲撃し斬首してしまったのです。

この事件により、仙台藩は奥羽鎮撫総督と対立する立場になってしまい、東北の諸藩の代表を再び白石に集めて、鎮撫総督を通さずに直接朝廷に訴えかける決定を行ったのです。そして白河盟約書に調印が行われました。
この日が慶応4年5月3日であり、その時を奥羽列藩同盟の成立日としています。


このような事情ですので、会津藩や庄内藩は白石盟約の段階では列藩同盟には参加していません。
そして奥羽列藩同盟が成立した翌日に長岡藩、そのよ翌日に新発田藩などが加わり、31藩による奥羽越列藩同盟成立となるのでした。
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150年前:大政奉還の建白書(10月3日)

2017年10月03日 | 何の日?
慶応3年(1867)10月3日、後藤象二郎が幕府に大政奉還の建白書を提出しました。

幕末も押し迫った頃、江戸幕府は大きな選択に迫られていました。薩長と戦うか戦わないかです。
よく誤解されがちなのですが、この時の江戸幕府は薩長より弱かったという事実はありません。むしろ世界で最先端の椎の実型砲弾を実戦的に作れる理論が確定されていたので、実は火器に限定すれば世界最強の武装集団でした。
しかも、黒船来航から14年が経過していたために、ひ弱な幕臣ではなく戦うことを念頭に置いた武士としての幕臣も若い世代から登場してきていたので、白兵戦においても日本でトップクラスのレベルを持っていたのです。
もし、幕府が本気で結束して戦ったなら、長州征伐で敗北してもその後の敗北は無かったと考えられます。

しかし、この本気の結束を行えない大きな理由が一番の責任者である将軍徳川慶喜でした。周囲の期待に押される形で将軍に就任しましたが、その期待に多くの人々が裏切られます。慶喜は朝廷との戦いから逃げることだけを考えていたのです。
そんな慶喜に対して大名や幕臣たちの心は離れます。その隙に付け入るように、薩長は討幕の旗を挙げたのです。

そんな高まる討幕熱に対して、出遅れた感があったのが土佐藩でした。
文久年間は、武市半平太の土佐勤皇党が京都で活躍していたこともあり、世情の最先端を進んでいたのですが、武市らを切腹させたことによって、土佐藩は藩としての活動は停止し、脱藩した志士たちが多く犠牲になっていたのです。
土佐藩が、また世情の注目を浴びる窮余の策を思案した時に浮上したのが大政奉還でした。

一説には坂本龍馬が後藤象二郎に献策し、後藤が山内容堂を説き、幕府に提出したとされていますが、現在はここに坂本龍馬が関わることに疑問を投げかける人も多くいます。歴史的にわかっていることは、後藤が容堂に献策し、容堂が幕府に持ちかけたということです。


徳川慶喜は、この策を受け入れ、10月14日の二条城での大政奉還の宣言に繋がるのです。
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150年前:『船中八策』(6月12日)

2017年06月12日 | 何の日?
慶応3年(1867)6月12日、坂本龍馬が『船中八策』を後藤象二郎に示しました。

…と、あたかも当然のように書きましたが、実は『船中八策』が誕生した日は6月15日として知られています。この日に龍馬は長岡謙吉に船中八策を清書させて見せていることが中岡慎太郎の日記にあるとの記述が『坂本龍馬海援隊始末記』に載っているからです。

しかし、実際には後藤象二郎らと共に上洛するべく、6月9日に藩船夕顔で長崎を出発した龍馬が、12日朝に兵庫に到着する間のいずれかで後藤に示したものだと考えられます。だからこそ“船中”という文字が入るのでしょう。
でも船中八策はその原本は見つかっておらず、写本もありません。

『坂本龍馬海援隊始末記』に全文の写しがあるのです。

その内容は

一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令を折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜ク拡張スベキ事。
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。

とあります。

大政奉還、二議会制、内閣制度、不平等条約の解消、憲法の制定、海軍拡大、御親兵創設、為替ルート安定という明治政府の根幹ともなるものですが、この前の月(5月17日)に赤松小三郎が福井藩の松平春嶽に提出した『庶政一新に関する意見書』に酷似していて、これが由利公正から明治政府に示され『新政府綱領八策』になった筈が、龍馬伝説のために『船中八策』という新しいフィクションを後世の人が入れたのか、それとも龍馬が小三郎の『庶政一新に関する意見書』を知っていて、それを基に『船中八策』を作ったのか、いずれにしても船中八策は、作成された過程から後世の評価まで、様々な謎を残したままなのです。
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5月1日、大津~長浜の鉄道連絡路が開港

2017年05月01日 | 何の日?
明治15年(1882)5月1日、東海道本線を結ぶ手段として大津~長浜の鉄道連絡路が開港しました。

イメージとしては青函連絡船と同じような役割です。もっともこの区間は湖の上ですし時代も古いので、鉄道を運ぶわけではありません。
この年に、敦賀から長浜までの鉄道が通ったために、長浜から大津を結ぶ道としてできた日本最初の鉄道連絡船が琵琶湖上で運用されたのです。

もともと明治2年に大聖寺藩が贋金で設けた資本を元手に琵琶湖上に一番丸を就航させたことから琵琶湖上の運輸は盛んになっていたのですが、バラバラでまとまった組織がない状態だったのです。それを藤田組(現・DOWAホールディングス)が頭となって太湖汽船を立ち上げたのです。明治15年時点で18隻を太湖汽船が管理し、大切な水上交通を担っていました。
明治16年には東海道線が長浜まで繋がり、東海道を結ぶ重要な施設になります。

しかし明治22年に長浜から膳所駅までが東海道線で繋がると鉄道連絡船の用途は終わりを迎えたのです。
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150年前:外国総奉行設置(4月24日)

2017年04月24日 | 何の日?
慶応3年(1867)4月24日、江戸幕府が外国総奉行を新たに設置しました。

安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が締結されると、幕府と外国との交渉事が出始めたために、幕府は外国奉行を新たに設置して、諸外国との交渉にあたらせていました。
当初は5人だった奉行なのですが、諸外国との問題が多く発生して、そのたびに外国奉行の人数を増やしていたので、外国奉行をまとめるための役職が必要となったのです。
それが外国総奉行でした。

しかし、外国奉行を纏めるためだけに仕事をするわけにもいかず、若年寄などとの兼任になっていたのでした。

そんな外国総奉行ですが、設置から半年後の10月14日に大政奉還が行われて、幕府が崩壊してしまったために、すぐに廃止されることになり、実質そのような仕事だったのか?実際にどんなことを行ったのかは、ほとんど世に知られていないのです。
唯一といっていいほどの歴史に残る事例が、大政奉還後の12月に外国総奉行に就任した堀直虎という人物が翌年1月17日に江戸城内で突然自害して果てたことです。
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