彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

会津若松と平泉訪問記 その10~中尊寺~

2012年10月09日 | 史跡
この旅行記もやっと二日目の目的地に到着しました。中尊寺です。

2011年に世界遺産として登録された平泉のメインはやはり中尊寺です。世界遺産登録が決まったあと、TVで特集をしていたときに映像を観ていて涙が出てきました。何の涙だったのか未だに解りませんが、この瞬間に「生きている間に平泉に行きたい」と思いました。
正直言えば、ここまで思った場所は初めてです。しかしそれは過度な期待をしてしまう結果でもありました。


中尊寺は、奥州藤原氏の初代藤原清衡が建立した大伽藍です。刃毀れが酷い刀で苦しみながら首を斬られた父の藤原経清、同母弟でありながら奥州の覇権を巡って戦わねばならなかった清原家衡、その弟に殺された妻子…
清衡が奥州藤原氏の基礎を築くまでには多くの身内の血が流れました、そして身内以上にたくさんの殺し合いもあったのです。
そんな奥州を制した清衡が目指したのは仏国土、現世に極楽浄土を出現させることだったと言われています。こうして建立されたのが中尊寺でした。
黄金で輝く有名な金色堂は、清衡自身が死後に遺体が安置される場所として作った大きな墓標でもあったのです。そしてこの伝統は子や孫に引き継がれ、金色堂には藤原氏三代のミイラと四代泰衡の首が安置されました。また各当主は自分たちの代でも大伽藍を建立して仏国土を広げていったのです。


これらの歴史の基礎となった中尊寺。
まず入口の前には武蔵坊弁慶の墓があります。

真剣に考証すれば弁慶が実在したのかも疑問視がありますし、もしかしたら北行説にしたがって平泉では死ななかったかもしれません。でも、ここにずっと続く義経主従への想いもありました。

ここから月見坂を登ります。

どれくらいの長さがあるのか、しっかり知りませんが、ゆったりとした坂道を自然に囲まれながら登るのは気持ちいです。

そしてさまざまなお堂が見えてきます。
寄った時間が早かったので、開いていないお堂もありました。
 

本堂に到着すると、ちょうど見学できるくらいの時間になっていました。
 
ここで、朱印帳を受けて、各伽藍を巡りながら御朱印を受ける事にします。


全部を書いていると長くなるので、メインになる金色堂

中での撮影は禁止されていますから覆堂をアップします。実は期待度が高すぎた所為でしょうか、確かに金色堂は美しく格調も感じたのですが、TVで平泉に行きたいと感じた時ほどの衝撃はありませんでした。他の伽藍に比べても造りの丁寧さも美しさも勝るものであり劣る物ではありません、京都の金閣とは違った黄金文化も感じます。
そして、歴史上の方々がよくこの建物に手を付けずに残してくれたなぁと感謝すら感じます。たぶんここは蝦夷(歴史用語なので使いますが、あまりいい言葉ではありませんね)たちの心の拠り所だったのだと思います。源頼朝や豊臣秀吉がここの保護を続けたのは、太平洋戦争が終わったとに天皇を残すことで日本人を治めたGHQの方針に近いのかもしれません。

今はこの覆堂ですが、昔の物も残っています。
 
近くの経蔵の雰囲気好き

そして松尾芭蕉の句碑もあります」

白山神社の能舞台は嘉永6年(1853)に仙台藩が再建させた物が残っています

中尊寺の境内で、お蕎麦もいただきました。

そして御朱印は12か所受けました。


期待度が大きすぎたがゆえに、ちょっと物足りなさを感じてしまった中尊寺。

ですが、管理人が感じた期待度を満たしてくれる場所を最後に発見することになるのです。

平安京跡・聚楽第跡 現地説明会

2012年10月08日 | 史跡
「聚楽第の本丸遺構が出た!」
この週末、歴史関係者にある意味で衝撃的なニュースが駆け巡りました。聚楽第付近は今までも発掘が無かったわけではなく、北部では北ノ丸跡の石垣も見つかっていますし、金箔瓦も出土したことはありますが、本丸遺構は見つかりませんでした。
今回の発掘地のすぐ近くも調査があったのですが、堀だったために本丸に迫れなかったのです。
しかし、ついに出ました本丸遺構。
たぶん歴史的な発見の一つです。


今回の一番のメインは、本丸遺構が初めて見つかったことであることはさっきも書きました。しかし見つかった物は本丸遺構だけではなく、当然それ以外の時代の遺構も見つかります。
この辺りは、平安時代には平安京の一部でしたし、江戸時代には土が掘削されて聚楽土として重宝されていたのです。
ですからさまざまな時代の遺物が出てきます。



発掘現場では、江戸時代の掘削の跡と、そこにゴミを捨てた跡が出てきたそうです。



それも歴史の流れなんですね…

そして聚楽第跡として出てきたのは、やはり金箔の瓦

織部焼などもあったようですね。


遺構はこんな感じであり、とくに2か所の遺構が注目されました。


○石垣

今回は7mに渡って2段確認されたようです。ほとんど加工されることなく割っただけの石ですが、大きさや形が揃えられていたとのことです。
そして栗石も他の城郭に比べると丁寧に数多く並んでいたとのことでした。

○盛土

京都は北部が高く南部が低いという高低差があるのですが、この高低差を利用して、人工的に2mの高低差を持った壇状を作っていることが解りました。
つまりは、石垣を越えて、2mの人工的な崖がありその上に本丸があったということです。これは高低差を生かすとともに、外から見ればより豪華にそして威圧的に見えたことになります。

聚楽第の新たな姿を垣間見る発見になったことは間違いなさそうですね。

会津若松と平泉訪問記 その9~高館義経堂~

2012年10月03日 | 史跡
無量光院から1キロほど歩くと、義経堂に行けます。
ここは、源義経が衣川の戦いで藤原泰衡に敗れ自害した地だと伝わっています。この為に義経の供養堂が建立されました。

ちょっと急な階段を登ると、

松尾芭蕉の句碑
「夏草や 兵どもが 夢の跡」

幕末の学者の頼三樹三郎の碑

などがあります。

義経堂は、こじんまりとした物でした。

中には義経象が安置されていて

建物の横には供養塔もあります。

司馬遼太郎さんが「日本最初のアイドル」と評した義経の供養堂にしては、静すぎるくらいに静かでした。

以前にも書いた通り、管理人の友達の家には「先祖が義経を追いかけて青森まで行って、そこで哀れに思って逃がした」という伝承があるそうです。俗に言う義経北行説ですが、もしその伝承が正しいとするなら、ここで亡くなったのは他人ということになってしまいます。
このあまりにも意外な素朴で静かな空間に立つと、もしかしてここから義経は逃れることができたのかもしれないとも思います。
それも含めて歴史のロマンではあります。

ちなみにここは毛越寺の管理になっています。御朱印も受けました。

会津若松と平泉訪問記 その8~平泉へ、二つの御所と無量光院~

2012年10月02日 | 史跡
一関で泊まり、翌朝早くに宿を出ました。
8時には平泉駅に到着し、レンタルサイクルを借りて中尊寺まで往復する計画を立てました。帰りに東京駅に寄ることも考えると午前中だけが活動時間となりますので、早い時間から動き始めるのが賢明との判断でした。
しかし平泉駅に7時半ごろに到着。
時間がもったいないので、荷物を身軽にまとめてコインロッカーに預け、近くに史跡まで歩いて行くことにしたのです。

目的地は加羅御所跡と柳之御所跡
奥州藤原氏は、藤原経清が前九年の役に敗れて処刑されたあと、その息子である藤原清衡が後三年の役を勝ち抜いて奥州に巨大な黄金文化を築きました、これ以降、初代清衡・二代基衡・三代秀衡に続き四代泰衡の時に源頼朝に滅ぼされるのです。
そんな奥州藤原氏の居館があったのが二つの御所でした。

・清衡と基衡は柳之御所
ここは広大な敷地を歴史公園として残しています。
 

 
深く掘られた濠や、それぞれに残されている後世の曲輪のようなイメージの作りは、単なる居館や政庁ではなく、城その物を連想させます。
当時の武士屋敷が単郭単濠だったことを考えても、とてつもない規模です。そしてそれが残っているこの土地のあまり開発されていない状況にも奇跡を感じます。

・秀衡と泰衡は加羅御所
こちらは案内板がメインで土塁や濠などが残っているくらいらしいのですが、土塁らしきところが個人の敷地に囲まれているようで近づけずでした。

宿を出る時は、雨が降りそうな様子がありながらも、それほど気にしなくてもよさそうだったのですが、この二つの御所を訪れた時、急に豪雨に見舞われました。
途中で聞いた話では、1ヶ月ぶりくらいに振った雨だったそうです。前日の会津での雨といい、どうも今回も何かを連れているようでした。

そのまま雨に打たれながら無量光院へ
奥州藤原氏は、当主ごとに大伽藍を建立していて、無量光院は三代秀衡が宇治の平等院を真似て、鳳凰堂を越える伽藍を建立させた物でした。
残念ながら今は建物は残っておらず、東日本大震災に伴う現地調査中で池の水もありませんでした。
 

 
残っている礎石や、池と島を隔てる境を見ながら、その上に建つ平等院らしき建物を想像すると、圧倒されてしまいます。


さて、このまま駅に戻れば自転車を借りることもできたのですが、ここで歩くという選択肢を選びました。駅まで戻るのと次の目的地である義経堂に行く距離がほとんど変わらなかったためです。
こうして、高館を経由して中尊寺に向かうという予定変更を行います。そして無量光院以降に雨に振られることはありませんでした。

第5回 とりいもと宿場まつり

2012年10月01日 | イベント
9月30日、中山道の鳥居本宿で行われたイベントが、『とりいもと宿場まつり』です。
観に行くといろんな発見があったり、鳥居本宿を端から端まで歩くことが結構長い距離だったりとさまざまな体験をしています。
本来ならばこの日に合わせて佐和山城に登るイベントが行われるので、それに参加して佐和山城に登ることもあるのですが、今年は台風襲来の為に多くのイベントが中止になってしまいました。
それでも、9月30日に行われる決断をされたことは凄いです。

まずはオープニング。
鳥居本交流センターさんあかって建物があったなんて…と思っていたら、今年から交流センターになったと教えていただきました。

いしだみつにゃんとしまさこにゃん登場
  チンタンバンドの皆さんの演奏もあります。

やはり雨なのでお客さんは少なめ?でも鳥居本の名物が手に入るチャンスでもあるので、さまざまな方にお会いしました。

中山道沿いには、ちょっとした楽しさや風流もあります。
もしかしたら、江戸時代の人たちもこんな風に旅人に興味を持ってもらうような工夫をしたのかもしれませんね。




ちなみに僕のお薦めは百々家住宅。
佐和山城主だったこともある百々家のお宅で、日本建築の工夫が観れます。
という訳で、百々家住宅を訪問。いろいろお話していただきました。
お家の前をチンタンバンドさんが通って行かれます。



お腹が空いた時は、三成汁が「しろすけ」さんにありました。

台風の影響で予定を大幅に早めての終了となりましたが、今年も面白かったですよ。