彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大泉寺 訪問

2022年03月28日 | 史跡

沼津市の大泉寺は、源頼朝の弟・阿野全成が源家供養のために建てたため、全成が開基と言われていて、本尊聖観音菩薩像は運慶作と伝えられています。




元々は全成の館があったところとのことで、寺には土塁を観ることもできます。



頼朝の弟であり、北条義時の妹婿でもあった全成に対する頼朝の信頼は厚く、この地からは伊豆半島が遠望でき、富士山にも近いことから、源家将軍の時に度々行われた富士の裾野での狩りなどで将軍の休息に使われていたのではないか?とのお話しも聴きました。

頼朝没後、頼朝の後継ぎ頼家と全成は対立し、建仁3年(1203)5月19日に捕縛されて常陸に流され6月23日に八田知家に殺害されたのです。

全成の首は常陸から館まで飛び、この地にあった松に掛かったとの伝承があり「首懸け松」と呼ばれていました。一説には首を持ち帰った家臣が警備の厳しい館に入れずに首を掛けたとの話もあるそうです。

首懸け松は、内部から虫にやられ倒れてしまいそこには切り株のモニュメントと石碑があります(本物の切り株も寺内に残っています)




倒壊時に門の瓦まで届いたとされています。

とんでもない距離なので、現地で実感して欲しいです。



さて、阿野氏は全成の四男時元が継ぎますが、承久元年(1219)2月11日に北条義時に対して挙兵し、北条勢に攻められ10日間の戦いの末に時元は自刃してはてました。


大泉寺は、阿野全成(左)と時元(右)の墓が並んで建っています。





また、源家供養の考えから三代将軍源実朝を暗殺した公暁(頼家の子)の位牌が安置されているのです。


御朱印







対面石八幡神社

2022年03月23日 | 史跡

関東で反平家の旗を掲げた源頼朝を討つために東進した平維盛。

頼朝が、そんな維盛軍を富士川で迎え討って勝利を収めたのは治承4年(1180)10月20日のことでした。

その翌日に黄瀬川に本陣を置いた頼朝を訪ねたのが奥州平泉から駆け付けた源義経だったのです。


こうして頼朝と義経が対面した時に座った石が「対面石』だと言われています。






このとき、柿を食べた頼朝はその柿が渋柿だったために種を捻って捨てたところ、芽をつけて捻れた木に育ったとの伝承があります。



のちに頼朝は対面の地に八幡神社を勧進しました。

それが対面石八幡神社です。




境内には対面石やねじり柿の他に、頼朝を祀った白旗社もあります。



○御朱印





仁田忠常の墓

2022年03月22日 | 史跡
仁田(新田とも)忠常は、北条にも近い仁田の武士で源頼朝挙兵のときから頼朝に従い、源平合戦では源範頼の軍で九州まで転戦しました。

曽我兄弟の仇討ちでは、兄弟の兄曽我祐成を討ち取っています。頼朝が亡くなると息子の頼家にも信頼され頼家の子一幡の乳母父(めのとふ、傅役)を任されています。また富士人穴探索命じられたエピソードは特に有名です。

しかし、頼家が重体に陥ったとき、比企能員の乱が起こり、忠常は北条時政の命令で能員を斬ります。これが結果的に一幡の命を奪うことにもなり、回復した頼家から今度は時政を討つように命じられるのですが、時政邸に向かうとき加藤景廉に討たれたのです。


そんな仁田忠常の墓は、土塁が残る仁田屋敷跡
の中に弟忠時、忠正と並んで建っています。

○土塁







○墓所









富士の人穴探索

2022年03月21日 | 史跡
建仁3年(1203)6月4日、前日から富士の人穴を探索に行った仁田(新田)四郎忠常が帰還します。 

鎌倉時代に洞窟冒険。 
その冒険を行った武士の名前は仁田忠常(10年前に曾我兄弟の仇討ちで兄の方の曽我祐成を討ち取った人物)といい、その時の将軍・源頼家(鎌倉二代将軍)の元で豪の者と言われた人でした。 

建仁3年(1203)6月3日、富士の裾野で巻狩りを行った頼家は偶然“富士の人穴”という洞窟の存在を知って忠常に太刀を与えて探索を命じます。 
忠常は郎党5名を連れて富士の人穴へと入って行ったが、その日は結局忠常一行は戻って来ず翌4日のお昼前に疲れ果てた顔をした忠常と郎党1人がようやく帰ってきたのです。 
しかし、残りの4名の郎党と頼家が与えた太刀を失っていたのだとか・・・ 
果たして富士の人穴では何があったのでしょうか? 


忠常の話によると、洞穴は人一人がやっと通り抜けられるほどの幅で、中は松明の明かりさえ闇に呑まれるほどだったそうです。 
地面に水が流れていて、明かりに驚いた蝙蝠が無数に洞窟の中を飛び回っていた。 
足元には何か白い物がまとわりついていて、見ると縄張りを荒らされて怒った蛇が群れて襲ってくる処だったとか(想像するだけでも恐ろしい…)。 
これを刀で切り払いながら進むと突然大きな轟音がしたりする(まるで『ロード・オブ・ザ・リング』ですね)。 
やがて岩を砕くほどの激流に突当りその水は身を切る程の冷たさで渡れるモノではなかったとか… 
そして130メートルほど向こうの対岸に不思議に揺れる明かりが灯り、それを凝視した郎党4名がその場で即死したのです。 

不思議な明かりで、郎党4名を一度に失った忠常は狼狽。 
しかし、気を立て直し将軍・頼家から拝領した太刀を目の前の川に投げ入れて「南無八幡大菩薩」と唱えた。 
すると不思議な明かりは消えうせて辺りは真っ暗な闇となった。 
忠常は生き残った郎党を連れて来た道を戻りようやく地上に這い出たと言うのです。 

命からがら戻った忠常でしたが、頼家はそれには満足せずもう一度舟を持って調査するように命じました(あんた…他人の苦労を何だと思ってるんですか?)。 
しかし土地の古老がそれを聞き付けて「この人穴は浅間大菩薩の住まいと聞き及んでいます、これを汚した者は無事に済みません」と言ったので、流石の頼家も調査を中止せざる終えなかったとか(もしかしてこの古老も物の怪?)。 


以上が公式記録『吾妻鏡』の記録です。 

当然、こう言った話には因縁めいた落ちがあります。洞窟探索を行った忠常は3ヵ月後に“比企の乱”で横死し、頼家は修禅寺に流され実母・北条政子に暗殺されているのです。 
本当に浅間大菩薩の怒りに触れたのかも知れないですね。

平清盛終焉推定地

2022年03月18日 | 史跡

治承5年(1181)閏2月4日、平清盛は「九条河原口盛国家」で病没したと記録されています。





伊豆に流した源頼朝が挙兵し、討伐のために派遣した孫の平維盛が富士川の戦いで大敗するなど不安が残るなかで病に苦しむことになった清盛。

治承5年2月27日に頭風を病むとの記録がありますが、3日後の閏2月1日(治承5年2月は小の月)には重体。

伝承では、高熱にうなされて水は喉を通らず、病室に入る者は熱さ(暑さ)に耐えられず、清盛は「熱い熱い」と唸るばかりであり七日間苦しんで没した。とされています。比叡山から冷水を運んで清盛の体にかけると一気に蒸発したという話もありますが、その状態で七日間も生きながらえられるとは思えませんので過大な脚色があるものの、高熱で苦しんだことは間違いないのかもしれません。

マラリア、肺炎、脳出血、髄膜炎などの説が上がっています。


『平家物語』によれば、清盛は「葬儀は不要、頼朝の首を墓前に供えろ」と遺言を残したとされています。


六波羅蜜寺の清盛の塚



ちなみに、清盛が亡くなった地と推定されている平盛国の屋敷は、清盛の義妹(妻の異母妹・建春門院平滋子)が後白河天皇との子である高倉天皇を産んだ屋敷ともされているため、平家の繁栄と没落のきっかけが同地で始まったとも考えられるのです。


修善寺温泉、源頼家関連史跡

2022年03月17日 | 史跡
鎌倉幕府二代将軍源頼家は、若くして父頼朝を亡くし将軍に就任しました。
このことに不安を感じた幕府内で有力者十二人による合議制が始まったとされています(異説あり)。

そんな頼家は、後年のイメージでは暴君や暗君に思われがちですが詳しく調べると合理的な政治を目指した将軍だったともされています。

しかし、将軍在任中に大病を患い、快癒見込がないと判断されたために闘病中に後ろ盾であった比企能員ら比企一族と息子一幡が北条時政に殺害され、弟千幡(実朝)の将軍就任が決まっていました。
このため、病が回復したのちに将軍職(鎌倉殿)を追われて修善寺に幽閉されたのです。建仁3年(1203)9月7日のことでした。




翌年7月18日、入浴中に北条時政が放った刺客に襲われて殺害されたのです。
頼家が暗殺されあ修善寺温泉には7か所の外湯があったとされていますが、平成に入った頃に残っていたのは独鈷の湯と呼ばれる修善寺温泉始まりの湯のみでした。


平成12年(2000)に、外湯のひとつとして復活したのが筥湯で、発掘調査では古い温泉場の跡も見つかったことから、ここで頼家が暗殺されたと考えられています。



のちに母・北条政子が修善寺温泉に頼家の菩提を弔らう指月殿を建立。



頼家の墓は境内にあります。


墓の正面は元禄16年(1703)に作られた供養塔で、本来の墓石は供養塔後ろの2基の五輪塔(どっち?それとも2基とも?)と言われています。




そして指月殿が建つ高台には、源頼家だけではなく13基の墓が並びます。




これは、頼家暗殺の6日後(7月24日)報復を計画していたことを理由に金窪行親(後に侍所所司)に討たれた頼家家臣13人の墓です。

本来は200mほど東に建立されていたものが、台風被害によって平成17年7月17日に指月殿境内で頼家の墓近くに移されました。

修善寺温泉では、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に絡んだデジタルスタンプラリーを行っていて(2022年3月時点)、一定数のスタンプを集めると頼家に関連した伝承である神鹿にちなんだ鹿の角の御守が貰えます。





安達盛長の墓

2022年03月14日 | 史跡
安達盛長の墓(伊豆市修繕寺 梅林入口)

安達盛長は、鎌倉時代の有力御家人・安達氏の祖。
源頼朝の乳母・比企尼の娘である丹後内侍を妻にしていたことから流人だった頃から頼朝に仕える最古参の家臣であり、頼朝が三嶋大社に源家再興を祈願した百日参りをしたときには警護も行っていました。



一説には頼朝と北条政子の仲を取り持ったのも盛長といわれています。

頼朝没後の十三人合議制の一人にも名前を連ねています。
そして源範頼の舅という関係でもあります。

墓所のひとつが修善寺温泉梅林入口傍にあるのですが、娘婿である範頼と同じ修善寺にあること(盛長自身はあまり修善寺温泉に関わっていない)に意図的な何かを感じてしまいます。








源範頼の墓と終焉地

2022年03月12日 | 史跡
源範頼は、義朝の六男。
母は遠江国池田宿の遊女と伝えられていますが、実は有力者の娘だったのではないか?との説もあります。
池田辺りの蒲御厨で育ったことから、蒲冠者とも呼ばれていて、歌舞伎『女暫』では蒲冠者で悪役として登場します。

兄の源頼朝が富士川の戦いで勝利したときに頼朝陣営に加わりますが、三人の異母弟(阿野全成・源義円・源義経)のような単身に近いような参戦ではなく、甲斐源氏で遠江に攻略した安田義定の兵を率いての参戦だったと考えられ、頼朝と甲斐源氏の仲介者だった可能性もあります。

やがて、鎌倉を拠点にして動かない頼朝の代理として平家追討の大将となり、北条義時や梶原景時、和田義盛、比企能員などを従えて平家と戦いました。義経の活躍が局地的なものとするならば、その活躍が活きるための下地を固めたのが範頼軍と言えるのです。

しかし、鎌倉幕府開幕後の頼朝による甲斐源氏有力者の粛清や、曽我兄弟の仇討に妙な関わり方をしていたために頼朝に疑われ、修善寺温泉の信功院に幽閉され、梶原景時や仁田忠常に討たれたのです。

修繕寺近くの日枝神社は、信功院跡に庚申堂が建てられた場所で、今も庚申碑が残っています。






また、少し離れた場所ですが修善寺温泉の街中に範頼の墓があります。






源平墨俣川の戦い

2022年03月10日 | 史跡
治承5年(1181)3月10日、墨俣川の戦いで源義円らが討死しました。


源義円は、源義朝の八男、母は常盤御前で平治の乱で義朝が殺害されたあとで常盤御前が平清盛に捕われたときに連れていた三人の男子(今若、乙若、牛若)の一人、乙若丸です。
常盤御前の子は寺に入ることで助命を許され、乙若丸も園城寺で出家し父の名から「義」をとって「義円」と名乗ったとされています。

源頼朝が挙兵したのち、成長した三人の男子はそれぞれに頼朝陣営に加わります。
義円は、叔父源行家の挙兵に加わり頼朝に面会する前に討死したとの話もありますが、最近は頼朝陣営に加わったのちに頼朝の代理として行家軍と共に戦ったとの説もあります。

治承5年閏2月15日、平清盛死後に跡を継いだ宗盛は、平重衡に源氏討伐軍を進軍させ、3月10日、墨俣川(長良川)を挟んで両軍が対陣したのです。
行家は夜襲策を決行しますが、重衡らに見破られ源氏軍が渡川して戦いが始まり、義円は行家に指揮権を握られない為に自ら先頭に飛び出して名乗ったために平盛綱に討たれたのです。
享年25歳
この戦いでは、行家の子光家も討死していて行家自身も矢作川まで逃れますが、重衡は深追いせず軍を引いたのです。

これらの結果を見て、源義仲は木曽で挙兵し一気に軍を進めたとの説もあり、平家は勝利しましたが滅亡を早めたとも考えられるのです。

墨俣川古戦場には、義円を供養する地蔵堂や供養塔があり義円公園になっています。






すぐ近くには、義円の墓もあります。