彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

9月28日、滋賀県誕生

2010年09月28日 | 何の日?
明治5年(1872)9月28日、大津県と長浜県が合併して滋賀県が誕生しました。

この時に誕生した滋賀県は、近江国と同じ地域であり、今の滋賀県とも同じ地域になります。

では滋賀県がそのまま同じ形だったのかと言えばそうではありません。実は明治9年(1876)8月21日から明治14年(1881)2月7日までは、福井県嶺南(旧の若狭国)は滋賀県に組み込まれていました。これは以前にも書きましたが、今は海無し県に含まれる滋賀県も4年半だけは日本海に面する海がある県だったのです。

さて、滋賀県は県庁所在地で大津と彦根が争った近年の例も含めて、昔から北と南に分かれた感がある地域です。それは戦国時代の京極氏と六角氏の戦いを発端とする説や、もっと以前から風土の違いが生むモノだという説など様々ですが、そう言う話からは広い県土を想像される方もおられます。

しかし、滋賀県は
・1/6が琵琶湖
・半分が森林
で人が住んでいる場所ではありません。

つまり滋賀県民は県土の1/3の地域の中にひしめき合っている事になります。
滋賀県の広さは全都道府県の中では狭い方から数えて10番目になり、一時期日本で一番狭いと言われた大阪府(今は2番目)よりも人が住める地域は狭いとの統計が出ています。

実は滋賀県って狭い県なのです。
でも琵琶湖を一周すると東京から浜松まで行くのと同じ距離だという話もあり、一方では広く感じている方もおられる不思議な県なんですよね。

中山道ウォーク&湖東ふるさと塾

2010年09月27日 | 湖東定住自立圏地域創造事業
湖東定住自立圏地域創造事業の一つとして、2010年9月26日に『秋の一日まるごと中山道! 中山道ウォーク&湖東ふるさと塾』と題した中山道沿い高宮・豊郷・愛知川の各宿場町合同のイベントが行われました。

それぞれの宿場町を歩いて巡りながら、多賀杉で作られた通行手形に12か所のスタンプを集めるウィーキングイベント『中山道ウォーク』では、

高宮宿のメインである多賀大社の大鳥居を中心に…

近江上布の商人だった堤惣平の店・布惣が活用された“座・楽庵”



など、なかなか入る機会が無かった場所にも入りました。

豊郷では先人を偲ぶ館

伊藤忠兵衛旧宅

など、近江商人の足跡を辿れる場所が多くあります。

そして愛知川には
近江上布伝統産業会館で近江湖東地域の特産品である近江上布を学びます。




また、明治天皇が二度の休憩場所とした竹平楼もポイントの一つでした。


中山道の3つの宿場を通る事で、近江商人や近江上布を知る機会があり、そして12か所のスタンプは天秤棒を担いだ近江商人の姿から当時を少しでも振り返る機会になるのではないでしょうか?
約10キロのコースは、秋晴れの中でそんな思いも巡らせてくれます。



そして『湖東ふるさと塾』では、3つの宿場の会場で中山道の旅や近江商人・近江鉄道の鉄道路線絵地図の講演や、湖東焼・近江上布・びん細工手まりの体験もできたのです。
全てを受講することは無理ですが、それぞれに選びながら体験したり受講したりできるようになっていました。

管理人はこの中から、 高宮での『近江鉄道の時代 明治~昭和の鉄道沿線絵地図を読みとく』と題された講演と、豊郷での『わがまちの近江商人 近世湖東近江商人の活躍』と題された講演を聴講しました。



『近江鉄道の時代 明治~昭和の鉄道沿線絵地図を読みとく』は、大正期の吉田初三郎の鳥瞰図を資料として初三郎地図の魅力についてお話がありました。
鳥瞰図から、当時の人々のグローバル化された意識を読みとったり、吉田初三郎が絵図を描くために現地を訪れた事や、その絵図の用途に合わせて必要な情報を大きく見せた工夫、欄外を上手く取り入れた技法などが聴けました。
講演後に「鳥瞰図で描かれた案内図が、今は正確な地図を使った図に変わっています。これはお客さんのニーズの変化なのでしょうが、いつ頃からなのでしょうか?」と質問すると、「ちゃんと調べたことはありませんが、今でも鳥瞰図のような地図が使われるので、今は混在しているのではないでしょうか」とのお答えでした。
普段なら捨ててしまうようなパンフレットに描かれる地図にも、その時代を反映する魅力があるのだと知りました。


豊郷小学校の講堂で、アニメファンの方々が出入りする中で行われた『わがまちの近江商人 近世湖東近江商人の活躍』と題された講演では、明治後の生糸・麻・綿を使った製品や琵琶湖疏水事業などを通じての近江商人の生き方が聞けました。
琵琶湖疏水ができる事で、大津の酒造業者が壊滅状態になった話や、賢が力を入れた彦根製糸工場が浜縮緬との兼ね合いで繭不足になった話。そして近江上布の原材料に亜麻を使うことがブランド低下になった話など興味深い話も多かったです。

また質問の中から、西村捨三・大東義徹・中井弘・弘瀬助三郎(日本生命)・近江商人らの繋がりの可能性などもこれからの研究の一つの議題として面白さが浮かび上がってきた様子がありました。

全ての事を一度に体験できる物ではありませんでしたが、選んでそれぞれに楽しむ。そんな一日がありました。

9月20日、山内一豊死去

2010年09月20日 | 何の日?
慶長10年(1605)9月20日、土佐藩初代藩主山内一豊が亡くなりました。

戦国武将としては、超マイナー武将で大きな活躍をした記録もほとんどありませんが、なぜか多くの人が知っている武将であり大河ドラマ『功名が辻』の主人公(?)でもあった一豊。その人生は奥さんの千代無しには語れない生き方でした。


では山内一豊と千代とはどのような人生を歩んできたのでしょうか?

【千代の生家・若宮館(米原市)】


【一豊の母の墓(米原市)】


戦国の三賢女と呼ばれる三人の女性が居ます。
○貧しい時代から支え続け夫を天下人にまでのし上げた豊臣秀吉の妻・お寧
○徳川家康の元に自ら人質として出向いて夫が生涯を掛けて築き上げた100万石の領地を守った前田利家の妻・松
○山内一豊の妻・千代
です。

私達の中ではあまり聞き慣れないように思う千代ですが、戦前の教科書には必ず載っていて、一豊の最終所領地である高知には、最近まで千代の像が立っていても一豊の像が無い状態でしたし、湖北の坂田駅前には千代と一豊の二人の像が並んでします。

そして、千代の像には横に必ず馬の像が立っています。


千代と馬、これこそが、千代を戦国の三賢女の一人に数えさせたエピソードを表す重要な物語に繋がるのです。


山内一豊は、戦国時代に生きるには余りにも平凡な人物でした。
特技は箸の先しか汚さずに食事ができたことだとも言われていますが、それが戦国の世に役に立つとも思えません。しかし“運”という大きな物を味方に付ける事ができたのです。

一豊に運をもたらした人物が千代だったのです。織田信長が少しずつ勢力を広げつつある頃、一豊は信長に直接仕えるのではなく、秀吉の配下となりました。

湖北地方を治めていた浅井長政が信長に滅ぼされた後、秀吉が湖北を任されて長浜に城を築きました。その時、一豊は虎姫唐国400石(50石説も有り)を与えられました。千代が一豊の所に嫁いできたのはそんな頃だったそうです。

しかし、領地があるといってもまだまだ少なく、山内家の台所には俎も用意ができず、お米を計るための升の裏を俎代わりにしていたとも言われています。


そんな貧しい一豊が信長の居城・安土城に行った時の事、城下町をうろうろしていると、東国からやってきた馬商人が馬を売っている場面に出くわしました。

その馬は「東国一の名馬」という触れ込みで売っていただけあって見ただけも分かる様な駿馬だったのです。
織田家の家臣たちは重臣も集まってその馬を欲しがりましたが、余りにも高価だったために誰も手が出せませんでした。

「自分があの馬に乗って戦場に出たら信長公の目に止まって出世できるのに…」と一豊にとっては夢でも見る事が叶わないような望みを抱いたのでした。

鬱々とした顔で帰宅した夫を迎えた千代は馬の話を聞きだしました。そして、「その馬はいかほどの値でございますか?」と訪ねると。「黄金10枚だ」と一豊が応えて深くため息をつきました。
千代は「その馬を買いなされ」と言います。
一豊は「何を言っている、そんな金がどこにある!」と怒鳴ると、千代は毎日愛用していた鏡箱の底から10枚の黄金を取り出したのです。

俎すら買えない様な貧しい暮らしをしていたとは思えないような大金を見てビックリした一豊がその理由を訊ねると、「これは、私が嫁ぐ時に母から渡された物です、母は『この金は普段の生活には使ってはならない、一豊殿の一大事とあなたが判断した時に使いなさい』と申しました、そして今こそその一大事ではないでしょうか」と千代が語ったのです。

しばらくして、信長は自分の実力を示すために盛大な閲兵式「馬揃え」を行いました。
一豊は購入した馬に乗ってこれに参加して周囲の注目を浴び、信長の目にも止まったのです。
信長は近習に一豊の名前と馬を買った経緯を聞きました、そして「貧しいながらもあれほどの名馬を買おうとするとは天晴れな武士の嗜み、また天下一の妻女を貰った果報者だ」と1000石への加増となったのです。

いきなり倍以上の給与アップは破格ですが、信長にすると「東国から来た商人と言うことは北条や武田の領国も通って買い手が付かず、織田家ならばと期待して来た筈だ、これで買い手が付かずもっと西で売れたならば、『織田家にはこれほどの馬を買える者も居ないのか』と笑い者になっていただろう、一豊の妻女は織田家の面目も守った」と評価するほどだったのです。

この話は「内助の功」として戦前の道徳の教科書には必ず載っているくらい有名な話でした。


やがて本能寺の変が起こって一豊が仕えていた秀吉が天下を取ると秀吉の旧領・長浜を任されて一族を呼び寄せ豊かになった山内家ですが、長浜を任された年の天正13年(1585)の11月29日、湖北地方は大きな地震に襲われ御殿が崩壊します。

この御殿の崩壊に巻き込まれて6歳の娘・よね姫を失った千代には二度と子どもができる事がありませんでした。

よね姫の供養と貧しい時代を忘れないようにする戒めを兼ねて、端切れを繋ぎ合わせた着物を縫い始めた千代でした。その着物が話題を呼び秀吉の正室・お寧(おね)の目に止まって、やがて秀吉から後陽成天皇にも献上されました。また、山内家の屋敷で披露もされます、これが世界初の展示会と言われていて、平安時代からあったカラフルで趣のある紙を“千代紙”と呼ぶようになりました。


長浜で5年過ごした一豊と千代は関東に移った徳川家康の押えとして静岡県の掛川6万石を任されるようになりました、豊臣政権ではそこまで信頼されるようになったのです。


掛川城主の時に秀吉が亡くなり、徳川家と豊臣家の争いが表面化します。この時、前田利家の妻・松が人質に出向いた話は冒頭でもしましたが、秀吉の正室だったお寧までが家康の味方になったのです。

石田三成が大坂で兵を挙げた時、街道を封鎖して家康に情報が漏れないようにしますが、大坂に居た千代の元には増田長盛から一豊が豊臣方に参戦するように勧誘の手紙がありました。
千代は長盛の手紙と三成の挙兵を知らせ徳川方に味方するように記した密書をコヨリにして笠の緒に編みこんで使者に託したのでした。
この手紙が三成挙兵を家康に伝える最初の手紙となったのです。この時、長盛からの勧誘の手紙を封を切らずに家康に渡したと言われています、これは「中にどんなことが書かれていても堂々と見せられる」という100%相手を信頼している証だったのです、これも千代の指示によるものでした。

家康は「千代殿のことは信長公からも聞いてはいたが誠に良き妻女をお持ちだ」と感激しました。

翌日、家康は同行していた豊臣家の家臣達を集めて三成の挙兵を伝え、豊臣家と徳川家のどちらに味方するかを尋ねました、諸将がざわざわと動揺していると、事前に家康と打ち合わせをしていた福島正則が家康に味方する事を表明します、しかし、後に続く者が居なかった時、一豊が「掛川城も一族も家臣も全て家康様に差し上げる、自由にお使いください」と発言しました、この後は雪崩れの様に家康支持の発言が飛び交ったのです。


関ヶ原の戦いでは後方の安全な場所に居た一豊でしたが、戦後、土佐(高知県)24万石の国持ち大名に任命されました。

【高知城・管理人が行った時は改装中でした】


周囲の者が驚いていると家康は「山内一豊の手柄は木の幹のようなモノだ、他の者は枝葉にすぎない」と言ったそうです。

しかし、土佐国は関ヶ原で改易となった長曾我部盛親を主君と仰ぐ、一領具足と呼ばれる地侍たちが大いに幅を利かせている土地で、新しい領主となった一豊の命を聞く者が少なかったのです。

一豊は、井伊直政に相談して井伊家の軍勢と共に一領具足を武力で弾圧しました。この結果273人の首が刎ねられ塩漬けにして大坂の井伊直政の許に送られました。

【一領具足供養の碑とお地蔵さま】




浦戸一揆と呼ばれたこの騒動が、土佐藩では長曾我部の遺構を徹底的に破壊し、土佐の地侍を登用せずに下士や郷士として差別する制度となり、高知城築城や藩の上士の関係者は全て余所の土地からやってきた者となったのです。

【高知城築城によって壊された浦戸城址】






それが、幕末に坂本龍馬などの土佐の志士たちを誕生させるきっかけともなります。
また、山内一豊の旧領が長浜であった為に、湖東地区から登用されて土佐に入った近江武士も多く存在します。その子孫の中には龍馬と関わりのある人物も登場します。

差別された土佐の地侍でしたが、江戸時代全てを通しては下士から上士になった家も40家弱ほどあったそうです。


晩年はこのように悲劇も生みましたが、一豊の手柄はそのまま千代に置き換える事ができるのです。山内家の土佐入国の5年後の慶長10年9月20日、一豊は61歳で亡くなりました、そして元和3年(1617)12月4日、同じく61歳で千代も他界したのです(いま気が付きましたが、千代の亡くなった年の7月に松も亡くなってるんですね)。

仲が良かった夫婦は同じ享年でこの世を去ります、一豊は当時では常識だった側室も持たず、今でも二人が並んだ墓で仲良く眠っています。

9月19日、長束正家自害

2010年09月19日 | 何の日?
慶長5年9月19日、長束正家が自害しました。
(以前の記事で五大老と五奉行が間違って伝わっていると書きましたが、これより先はややこしいので通説通りに書いて行きます)
長束正家は、豊臣政権では、石田三成や増田長盛と共に近江出身の五奉行の一人でした。
近江出身者の多くは豊臣政権下において官僚的な役割を持って仕えます。


正家も元々は丹羽長秀に財政担当として仕えた人物でしたが、その才能によって丹羽家が豊かになった為に、秀吉が1万石で丹羽長秀から譲り受けた人物だったのです。

天下の財政を差配することに才能を発揮した正家は、まずは太閤検地を献策して成功させ、秀吉の巨万の富を築かせる一歩を作ります。その後には聚楽第・伏見城などの築城にかかる財政も担当して成功させました。

こうして、水口(水口岡山城)に5万石を与えられます。


また蒲生氏郷が伊勢松阪に転封になったとは、日野1万石も加増されました。


やがて秀吉の死…

正家は当初は増田長盛と共に家康に味方していました。この為に、落城前の伏見城に入って鳥居元忠と会ったという話も伝わっています。
しかし、大坂から東海道経由で江戸に向かう徳川家康が、水口の近くの石部で命を狙われる計画が発覚します。この計画の発案者は、石田三成の重臣・島左近と言われていますが、ここに正家も加担していると見られてしまい、仕方なく正家は石田三成の軍に加わることとなったのです。


関ヶ原の合戦当日。

正家は1500の兵を率いて南宮山にある毛利秀元の陣の麓に布陣します。しかし毛利家の参謀だった吉川広家が動かないまま長束軍も動けず、結局戦わないままに戦いが終わり軍を引いたのです。

その帰りに瀬田城主の山岡景隆の軍に出会いました。

景隆は本能寺の変の時に瀬田の唐橋を焼いて明智光秀の近江侵攻を遅らせた武将として有名ですが、その弟は伏見城で戦死していたのです。東軍に味方するそぶりを見せながら伏見城攻めに加わる事になった正家に対し、弟の仇とも言わんばかりに襲いかかり、正家は命からがら水口まで落ちのびました。

しかし水口城は既に敵に占領され、正家の妻は自害していました。

城にも入れず日野まで逃げた正家は、池田長吉と亀井滋政の兵に囲まれ、ついに中西孫左衛門という人物の屋敷に池田と亀井を迎え入れて庭先に2枚の畳を敷き、弟と共に自害して果てたのです。
この時に池田亀井の両将に対して「石田三成に味方した事が、勘定方の自分の最大の誤算だった」と言ったと言われています。

首は、三成らと共に京で晒されました。

そして墓が中西屋敷近くの安乗寺に作られたのです。

(30~40年ほど前の写真にはこの石垣らしき場所の上に墓石が確認できますが、今はありませんでした)


この後、水口城からは黄金五千枚を始めとする多くの財宝が出てきて、蓄財家としての長束正家を皮肉るような悪口が伝わるようになり、貧しい城と財産を残さなかった石田三成と比較されるようになります。

どちらが正しいのかは今も続く問題ですが、管理人はこのエピソードは、同じ近江出身の五奉行でもまったく正反対の結果を残した石田三成と長束正家に相応しい話のように思えてなりません。

9月13日、秀吉聚楽第に転居

2010年09月13日 | 何の日?
天正15年(1587)9月13日、豊臣秀吉が大坂城から京の聚楽第に移転し、豊臣政権の中心が京へと移りました。

このように書くと大坂城が出来上がった後に聚楽第の築城が行われたような印象を受けますが、実はこの2城はほぼ同じ時期から築城されています。
聚楽第の築城が始まったのは天正14年2月21日、完成祝賀会がは翌年2月7日に行われていますのでどれだけ大規模な人海戦術を使ったのか想像ができないくらいです。
秀吉は、大坂城と聚楽第の両方を行ったり来たりしながら築城の陣頭指揮を執ったそうです。
大坂城は総石垣の城、聚楽第は石垣を使わない土塁の城という、まったく違う城を秀吉は同時に築城しています。


では、2月に完成祝賀会をした聚楽第への入城が何故9月になったのでしょうか?
天正15年3月1日から九州の島津征伐に出兵している為でした。
九州から大坂に戻った秀吉が落ち着いた後に移転となったのです。

ちなみに聚楽第の“聚楽”という言葉の意味は「長生不老の楽を聚(あつ)むるものなり」という言葉からきていて、第は「高級貴族の私邸(別邸)」という意味がありました。
こう考えると、大坂城が秀吉の本宅で、聚楽第は別荘との考えから同時期に築城が行われたように理解できるのですが、京の天皇や貴族を近くで監視する必要性からそのまま聚楽第が政庁になったとも解釈できます。



天正16年4月14日~18日、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を招くという歴史的に“聚楽第行幸”という一大イベントを成功させます。
これは、秀吉が実質的にも権威的にも天皇の第一の臣である、日本最高の人物だという証にもなったのでした。

このイベントには、井伊家も大きく関わっています。
徳川家康の婚礼の為に浜松に人質として送られたいた大政所を手厚く歓迎した直政は、その後に秀吉の元へ戻った大政所から直政の事を耳にして大いに気に入りました。そして、直政に羽柴姓を与えようとしたのですが、井伊家が名門である事から直政はこれを辞退して、侍従に任官されたのです。

天皇の前に出る時は官位が必要であるため、直政はこの時点で天皇に拝謁できる身分を正式に得ました。そして後陽成天皇が聚楽第に行幸した時に、秀吉の命で、徳川家康と共に井伊直政を倍席させたのです。これは徳川家臣団で唯一の事例となりました。
ここで和歌の会が催され、秀吉に献歌をふられた直政は、
「たちそふる 千代のみどりのいろふかき 松のよそほひ きみも経ぬへし」
と詠み、大いに賞賛を得たのです。
こうして秀吉のお気に入りとなった直政は、徳川家の第一の家臣としての地位を確実にし、家康の関東入りの時に秀吉の命で徳川家家臣団で一番高い石高を与えられたのです。



天正19年2月26日、そんな聚楽第に落首が書かれました。
「まつせ(末世)とは へち(別)にハあらし木の下の さる(猿)関白を見るに付けても」
意味としては「この世の末とはこういう事か? 木の下の猿(どこの馬の骨ともわからない男)が関白になった事を見るだけでも理解できる」くらいに訳せがいいでしょうかね?

この落首によって、秀吉が“さる関白=猿関白”となり、秀吉のあだ名が「猿」と誤解されるようになりました。

そんな事件も起きた聚楽第では逆に後世に残る物の名前も付けられています、それは「楽焼」
これは、秀吉が気に入った焼き物に聚楽第の名から取って与えられた名前だったのです。


こうして豊臣政権の政庁として後まで引き継がれる予定だった聚楽第は、秀吉が甥の秀次に関白の座を譲った時に一緒に秀次に譲られ、豊臣家二代の政庁となりました。

しかし秀吉が秀次を謀反の嫌疑で切腹に追い込んだために、徹底的に破壊され今はその遺構も殆ど残らなくなってしまったのでした。
伝承以外には聚楽第の遺構は全く無く、歴史家の間でもずっと「幻の城」と呼ばれていたのです。

近年になって研究が進み、多少の形が見え始めてきたのですが、それでもまだまだ多くの謎を残している「歴史的に一番有名な悲劇の城」とも言えるのですよ。


ちなみに、聚楽第は平安京大内裏跡に建築されたので、現在の聚楽第の碑(聚楽第本丸西濠跡地)の隣には平安京の時に大蔵省があった事を示す碑も一緒に建っています。

9月7日~14日、大津城の戦い

2010年09月07日 | 何の日?
慶長5年(1600)9月7日、関ヶ原の戦いの局地戦の一つである大津城の戦いが行われました。

浅井三姉妹の次女・お初の夫である京極高次は、当初西軍に味方して大谷吉継と共に北陸での戦いに参加していました。北陸が落ち着き、吉継が美濃に入ると急に大津城に引き返して3000の兵と共に籠城したのです。

大坂にはお初の姉である淀の方(茶々)が居るので、驚いた淀の方がお初に真意を問うたのですが、お初は夫に従うことを返事したと言われています。


大津城は、琵琶湖に浮かぶ水城なので、周囲の高地から砲撃されると弱い城でもあった為、高次は城下を焼いて籠城準備をしました。


9月7日、西軍は毛利元康(元就の八男・西軍総大将毛利輝元の叔父)を総大将にして、15000の兵と、立花宗茂・小早川秀包(毛利元就の九男・秀秋の前に小早川家の跡継ぎだった人物)・宗義智・伊東祐兵らが大津城を包囲しました。

大津城には、お初の他にも京極竜子という人物も籠っていました。竜子は松の丸殿と呼ばれた豊臣秀吉の側室の一人で、醍醐の花見の時には淀の方とどちらが先に杯を受けるか争った人物でもありました。
大津周辺の民たちは、「天下人の側室にもなった女性がどのように戦う(死ぬ)のか?」という興味が抑えきれずに、大津城が見える山や丘に登って、弁当を広げて戦見物をしたと言われています。

攻め手の中の立花宗茂や小早川秀包は、猛将として知られていて、彼らが5倍の兵で攻め込む大津城は直ぐに落城すると思われていました。しかし大津城は西軍の猛攻に耐え、砲撃に遭っても天守が落ちることも無かったのです。

そして関ヶ原の戦いを翌日に控えた9月14日に開城しました。

関ヶ原の戦いの後、京極高次は家康に開城を詫びて高野山で出家しますが、家康は15000の兵と立花宗茂を関ヶ原に送らないで足止めした功績を称え、若狭国小浜を与えて労に報いたのです。


また、大津城は、落城した訳ではなくあくまで降伏による開城だったため、落ちなかった目出度き城として、天守は彦根城天守に転用され、その他の資材も膳所城(徳川家康が人生で初めて築いた城)に転用されて行ったのです。

9月6日、高台院死去

2010年09月06日 | 何の日?
寛永元年(1624)9月6日、豊臣秀吉の正室・高台院(寧)が亡くなりました。享年76歳(かどうかは分からない…)

寧は、“おね”“ねね”“ね”“ねい”など様々な呼び方があり定まっておらず、NHK大河ドラマでは、小和田哲男先生は“おね”とされていますので、小和田先生が時代考証をされる時は“おね”ですが、『功名が辻』の時だけは原作者の司馬遼太郎さんのご家族が「作品で使っている物を変えて欲しくない」とのお話があり“ねね”が使われています。

管理人は、その辺りの専門家ではないので何とも言えませんが、“おね”の場合の“お”は御という意味も含まれているでしょうから、それを抜くと“ね”の一文字はちょっと読み難いので、他人が呼ぶ時(ほとんどないですが)は“おね”で、自称は“ねい”辺りが気持ちいいかな?って思ってます(笑)


さて、そんなお寧の生涯は、一人の男に出会ったことからはじまります。お寧の父親の杉原定利が仕えていた織田信長の家の足軽とも下男とも分からないような藤吉郎という男との出会いでした。

二人の出会いは“野合”とも言われています。

野合とは何かといえば、まぁ日本のおおらかな時代の性習慣といえばいいでしょうか…、フリーで色んな男女の出会いがあった一つですね。

こういうことを書くと、色々問題になりそうですが、お祭りというのはそういう相手の名前も解らないような一度限りの出会いの場であり(ねぶた祭などもその流れ…)、それらの野合や夜這いは、戦前近くまで残っていた日本の当たり前の文化でした。

そして、日本では江戸時代に入るまで特定の身分の者以外は“家”という考え方は無く、こういった野合で生まれる子どもは領主の財産であり、野合ですから両親が同じ領主の下にいるとも限らないので、そういった場合は領主間での財産争いに発展する可能性があったので、分国法が出来上がる時期になると、「男の子は父親の主の財産、女の子は母親の主の財産」という取り決めも出てきました。


…と、予想以上に戦国期の日本の性事情を語りましたが(笑)

本来なら、一夜限りの出会いで終わるはずの情事が、なぜかお互いに惚れ合うようになりました。こうして藤吉郎の元にお寧が嫁ぐことになったのですが、お寧の母が反対したために(これは、家のある杉原家から家のない藤吉郎に嫁ぐから当たり前の感覚)お寧は叔母での嫁ぎ先の浅野長勝の養女となってから嫁ぎました。

この一連の流れから考える管理人の勝手な予想では、もしかしたら藤吉郎の上司が浅野長勝で、この方法が一番色んな問題を解決できるやり方だったのかもしれませんね。


さて、こんなお寧と藤吉郎には、子どもが生まれなかった為に秀吉は後で2人の女性との間に3人の男の子を作る事になります。

この為に世間では「お寧は子どもができない身体だったのではないか?」との憶測があります。これについて一部の資料では反対意見もあります。

二人が結婚してすぐにお寧は妊娠したのですが、生活がギリギリだったために、藤吉郎はお寧に頭を下げてしぶしぶ灸でお寧を流産させました。この事が数度続いて、藤吉郎が出世して余裕ができた頃には、お寧は子どもが産めない身体になっていたという話です。

江戸時代になって、碁の席で語られた物が今に記録として伝わっているので、史料としての価値があるとは言い切れませんが、一つの説として面白味はあると思います。


そんな貧しい生活を助け続けたお寧は、秀吉の死後に徳川家康に味方して、淀の方が我が物顔で居る豊臣家を潰したとの話もあります。しかし最近の研究では高台院(お寧)と淀の方は秀吉の正室として同じ立場であり、秀吉の死後も淀の方と協力して豊臣家の為に尽くしていた史料が多く指摘されています。

大坂の淀の方、京の高台院がそれぞれに動いていたと考えられているのです。しかし大坂の陣で大坂城が無くなり残った豊臣家までを滅亡させないようにする事が、高台院の亡くなるまでの仕事だったのかもしれませんね。

お寧の死後、その家は木下利次によって近江木下家として残り、数家の木下家と共に豊臣姓を明治まで残すのです。
この近江木下家は、旗本寄合(高禄の無役の旗本)3000石を所領にしていたのですが、それは野洲郡と栗太郡辺りだったと言われています。

「映画『桜田門外ノ変』を語る!」聴講報告

2010年09月03日 | 講演
10月16日に上映される映画『桜田門外ノ変』の佐藤純彌監督による歴史講演会「映画『桜田門外ノ変』を語る!」を聴講に行きました。


映画『桜田門外ノ変』は吉村昭さんの同名の小説の映画化ですので、水戸浪士の関鉄之介を主人公とした物語です。
この作品を映画化する話があった時、佐藤監督は、最初に桜田門外の変のシーンを描くように提案したそうです。
それは、最後に桜田門外の変を持ってくると、政治を変えるためのテロ行為を賛美する形になるのでという断る理由の為だったそうですが、それでOKがでたそうです。

桜田門外の変はその事件だけが注目されますが、実はその実行者の中で明治まで生き残ったのは3名だけで事件の後にも様々な出来事があったそうです。

この映画を撮影するにあたって幕末の事を色々調べた監督は、御三家の一人として幕府大老を暗殺した水戸浪士を処罰しなければならない水戸斉昭の立場や、黒船来航当時に日本が東アジアの中では珍しいグローバル化していたことなどを話されました。

そして井伊直弼については、自身の思いを最後まで貫いた素晴らしい人物であり、強烈なリーダーシップを持っていた人物だったのだとの事でした。

佐藤監督は「映画を見て色んな意見があるとは思いますが、観て感じた事を他の人に伝えてくれれば嬉しい」との事でした。



ある意味では、もう一つのご当地であり敵役でもある彦根での講演は緊張されたとは思いますが、独自の史観のお話が面白かったです。
「桜田門外の変は、黒船来航から明治維新までの14年間の間のちょうど真ん中に当たる事件という時代背景もこの時に改めて知って驚いたとの話も、視点の面白さの一例かもしれません。


桜田門外の変から50年が過ぎた頃、横浜に井伊直弼の像ができたりして直弼評価が高く、水戸の方の手によって「櫻田十八義士を評価しよう」との動きから『櫻田義擧録』が書かれました。
100年が過ぎた頃、船橋聖一さんの『花の生涯』が小説で人気が上がり映画化もされ、数年後には大河ドラマで描かれ、井伊直弼の評価が上がっていました。
150年目になってやっと、水戸浪士から見た桜田門外の変が出来上がった事実を見ると、この作品は水戸の方々の150年が詰まっているのかもしれませんね。

9月2日、梁川星巖病没

2010年09月02日 | 何の日?
安政5年9月2日、漢詩人の梁川星巖が亡くなりました。70歳。

誰?という方も多いでしょうし、「彦根との関係は?」との質問もあると思います。
彦根との関係というよりは、この人は安政の大獄の幻の第一号捕縛予定者だったのです。


梁川星巖は、漢詩人として京都で妻の紅蘭と共に多くの著名人と交流があった当代一の文化人でした。

その交流は梅田雲浜・頼三樹三郎・橋本左内…
名前を見ただけで、「あぁ」と言いたくなるような人物と尊王攘夷運動も行っていたのです。

その交流の中には佐久間象山も含まれていました。


そして、長野主膳の指揮の元で、京の尊攘派の志士たちが捕縛されていく“安政の大獄”が起こる前に、コレラによって星巖は亡くなったのです。

9月7日、役人が梁川邸に踏み込んだ時にはすでに亡くなっていた星巖を指して、世間では「さすが詩に上手(死に上手)」と皮肉を含めて噂しました。

この為に、漢詩人としてではなく、安政の大獄で捕まらずに上手に死に逃げた男というイメージが付きまとうことになるのです。
役人はこの時、仕方ないので妻の紅蘭を捕えて尋問しますが、紅蘭は「夫は、女の私には同志にも会わせなかった」と言い張って、この尋問を乗り切ったのです。