彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

6月28日、姉川の戦い

2010年06月28日 | 何の日?
元亀元年(1570)6月28日、姉川の戦いが行われました。




織田信長は、妹・お市を嫁がせて義弟として信頼していた浅井長政に裏切られ(中井均先生はこれを、長政の武将としての当たり前の決断とされています)、その報復として浅井攻めを敢行します。
長政は、同盟している朝倉義景に頼り、これを迎え撃ったのです。

信長も同盟している徳川家康と連合軍を組みました。

この戦いについては明確に記録された資料が少なく、今までの定説は推測の域を出ることはありません。
定説によると、姉川を挟んで対峙した両連合軍。
信長軍に攻め込んだのは長政軍の先鋒・磯野員昌(でも、この時に佐和山城に籠っていたという話もあります)で、彼は信長が構えた13段備えの11段までを切り崩したと言われています。
ここで混乱した信長軍に対し、家康軍が義景軍と戦い、これに勝利。
そのまま長政軍に突入した事から形勢が逆転して、織田・徳川連合軍が勝利したというモノです。


戦の後半、信長のすぐ近くまで寄り、もう少しで信長を討てるという前に織田軍の竹中半兵衛の弟・重矩に見つかって殺された遠藤直経の墓

など周辺には数多くの遺跡が残っています。

≪朝倉軍が陣を置いたといわれている三田村氏館≫



近年、『センゴク』と言うマンガでこの説を覆す新たな説が発表されました。
マンガと言う事で今回も学界には無視されるでしょうが(司馬史観も無視するくらいなので…)、結構納得する説ですので読まれる事をお勧めしますよ。


余談ですが、やはり同じ近江地域の合戦ですので、彦根周辺のお話を少し書きます。
まずは、信長の構えを破った先鋒の中で特に活躍したのが八町城(豊郷町)城主・赤田姓(あかた・かばは)です。赤田は織田軍の首を194級取ったそうです。
また茂賀山城(彦根市)城主・小林宗正は藤堂高虎と共に信長の本陣近くまで攻め入ったといわれてます。宗正の息子が正国と正敏が父の勇猛さから信長に召抱えられ本能寺で信長と共に亡くなります。この正国の子が関ヶ原の戦い後に島津義弘を高宮まで道案内しています。



余談ですが、姉川の戦いという呼び方は、徳川家で使われた呼び方です。

織田家や浅井家では“野村合戦”、朝倉家では“三田村合戦”と呼ばれたのですが、3家が滅び江戸時代になってから、家康の功績を大きく伝えるために、徳川家康が活躍した“姉川”をメインにする呼び名に統一されました。

6月14日、毛利元就病没

2010年06月14日 | 何の日?
また、彦根城や井伊家とは直接関係ないお話です。戦国というキーワードのみで紹介させていただきます。

元亀2年(1571)6月14日、毛利元就が75歳で亡くなりました。

この時代を扱ったゲーム『信長の野望』では、元就が亡くなると「三本の矢」というイベントが起る事がありますね。

病の床に伏せた元就が、孫で後継ぎの毛利輝元(長男・隆元は元就の前に亡くなっている)、次男・吉川元春、三男・小早川隆景を集めてそれぞれに1本の矢を折らせます。
三人は元就の思惑が解からず首を傾げながらも折ると、矢は簡単に折れたのです。
次に、三本まとめて折る様に言うと、誰も折る事ができなかったそうです(力強い元春なら折ってもおかしくない気がするんですが…)。
これを見た元就は、「1本の矢は簡単に折れても、3本纏ると折る事が出来ない、毛利家は三人で力を合わせるように」と言ったそうです。
黒澤明監督が、このエピソードを元に『乱』という作品を作ったことでも有名ですよね。


毛利家では、元就が正室との間にもうけた3人の息子を重要視し、吉川・小早川両家が本家を支える「毛利両川体制」が調っていました。
この三本の矢の逸話は、それを物語として残したモノなんですが、この時、吉川元春は出陣中でしたし、この話自体が後世の作り話だといわれています。
ただ、元就が一族が結束するようにしつこいほど言い聞かせた遺言が残っているそうですよ。

ちなみに元就には隆元・元春・隆景以外にも
輝元の相談役だった、四男・穂井田元清(息子は関ヶ原に参戦、子孫は毛利本家を相続)
五男・毛利(椙杜)元秋
六男・出羽元倶
七男・天野元政
毛利元秋の死後にその旧領を引き継いだ、八男・末次元康
元就の武勇をもっとも受け継いだとされる、九男・小早川秀包
そして、元就の子でありながら諸事情から家臣の子して育てられ、穂井田元清と共に輝元を支えた人物・二宮就辰
と10人の男子が育っています。
この中に若死にした人は居ても、当時は当たり前だった幼い頃に亡くなるという事がなかったところをみると、元就がどれほど精力的な人物だったか解かりますよね。

でも、隆元・元春・隆景以外は元就が熱心に育てた形跡は見受けられず、隆元が養育していたのです。


さて、事実かどうかはしっかり調査していないのでわかりませんが、元就は亡くなる時に一家の団結と共に「毛利家は天下を望むな」と言い残したと言われています。
その為に、高松城水攻めの後の羽柴秀吉の中国大返しで、秀吉の後ろを攻めるような事をしなかったとか、関ヶ原で石田三成に望まれるままに西軍の総大将を引き受けて、毛利家取り潰しの危機にまで追い込んだともいわれるくらいです。
関ヶ原当時の毛利両川は、小早川秀秋は豊臣家からの養子で既に一族の団結から外れていたので仕方なく、もう一つの川である吉川広家は主君に内緒で本家を守るために奔走した事が逆に大きな失敗に繋がった感が否めません(しかし、そのお陰で毛利家は残った訳ですが…)

一族を繁栄に導いた英雄の死は、その言葉が如何に重い物であっても、受け止める人間の器量によって変わってくる物なのだと戦国という一寸先が分からない世界で思い知らされるエピソードです。
そういえば、関ヶ原の戦いの後に西日本の大名の仕置きの窓口は井伊直政だったのですから、吉川広家との交渉も直政が担当してるんですよね。

山山城跡現地見学会

2010年06月06日 | 史跡
ひこね歴史手習塾の一つとして中井均先生による、山山城跡の現地見学会が行われました。


山山城は、土の城の跡と石垣の城の後に分かれていて、石垣の城の跡が彦根市によって整備されています。彦根城・佐和山城に続く見る事のできるお城です。


石垣の城の入口には堀切があります。

ここを背にして急な坂を見上げると

虎口のようになっています

ここからの一郭が桝形虎口のようでもあり、また主殿があった場所にも思えるとの事で、メインの段階からいきなり謎を呼び起こすような場所なのです。

また、屏風折れが二か所もあります。

現在残っている石垣も、様々な妄想を掻き立てます。




これらの残っている石垣を見ると、低く何となく幻滅してしまいますが、これは一国一城令の時に大名が藩内の城を破城したためだそうで、本当は7段くらいの石垣があったのではないか?との事でした。
上の石垣は壊して新城築城に転用したり、山の下に落としてしまい、その上から土をかけて痕跡を消してしまうのだそうです。
ですから、残った基礎の石だけで自由に発想するのも城見学の楽しみなんですね。

6月1日、加賀篠原の戦い

2010年06月01日 | 何の日?
寿永2年(1183)6月1日、加賀篠原の戦いで斎藤実盛が木曽義仲の武将・手塚光盛に討ち取られました。享年73歳。

『平家物語』には様々な名シーンがありますが、その中でも特に後年の武士たちの心を鷲掴みにしているのが斎藤実盛の最後ではないでしょうか?
逆に言えば、実盛を知らずに武士は語れないとも言えるかもしれません。


斎藤実盛は、元々源氏に仕えている武将でした。
この源氏の中で棟梁の立場に居たのが源為義でした。そんな為義には義朝と義賢という息子が居たのです。
しかし、兄の義朝は為義に反発していた為に源氏の中で内部分裂が起こっていたのでした。

久寿2年(1155)、そんな源氏の分裂は大きな悲劇を迎えます。
義朝の嫡男の義平が義賢の住む大蔵館(現在の埼玉県)を襲撃して、義賢は殺されてしまったのです。(大蔵合戦)
この時、義賢には2歳になる駒王という男の子が居て、駒王を殺すように義平から命じられていたのが斎藤実盛でした。しかし幼い子どもの命を奪う事を哀れに思った実盛は、駒王を木曽まで落ち延びさせてこの地の豪族中原兼遠に匿わせたのです。
この駒王は後に成長して源義仲(木曽義仲)となる人物なのです。

さて、斎藤実盛はそのまま源義朝の武将として活躍しますが、平治の乱で義朝が平清盛に敗れて源氏が滅びると、当時の武士たちと同じ様に平家の軍に加わるしかなかったのでした。
そんな実盛は西国武士である平家の下に居ても東国武士の誇りを失っておらず、平家の武士たちに「東国の武士は一人で五百人を相手にしても怯まず、いざ戦となれば親が討たれ、子が亡くなっても、その屍を踏み越えて戦う」と言っていたそうで、平家一門だった平維盛(清盛の孫)の後見役となっていた富士川の戦いの前にもこの話を維盛にしていたのです。
これから東国武士と戦おうとする前に敵の勇猛さを聞かされた維盛と平家の軍勢は恐れ慄き、ついには水鳥の羽音を夜襲と勘違いして逃げ出すという平家の弱さを全国に示す原因を作ってしまったのでした。


富士川の戦いは、後見役であった斎藤実盛自身の恥にも繋がるものになったのです。この頃から実盛は戦場での死に場所を求めるようになったと後世では思われています。
そして、自分が命を助けた駒王が木曽で挙兵する報にも接するのでした。

寿永2年5月11日、実盛が仕えていた(この時は実盛は別の所属)平維盛が率いた7万の兵は3万の木曽軍に倶梨伽羅峠の戦いで敗北して、維盛は命からがら都に逃げ帰ります。
5月末頃、勢いに乗って都を目指す木曽軍に追われながら都に向かい北陸道を進んでいた平宗盛(清盛の三男)の軍が木曽軍に追いつかれる形で始まったのが加賀国篠原の戦いでした。
総崩れとなる平家軍の殿を引き受けて奮戦したのが斎藤実盛だったのです。

実盛の猛将ぶりに木曽軍の兵たちが恐れました。
そんな様子を見た木曽義仲の部将・手塚光盛(木曽義仲に最後まで従った四騎の一人)は実盛に一騎打ちを申し込むのでした。
光盛が名乗りをあげたのに対し、実盛は「訳あって名乗れぬ」と己の名を隠した後に一騎打ちが始まったのです。
こうして実盛と光盛は激しく打ち合い、やっとの思いで光盛は実盛の首を取ったのでした。


実盛の首は木曽義仲の前に運ばれて、その顔を見た義仲はそれが幼い自分の命を救ってくれた武将と知って「実盛!」と言葉を発した後に絶句したのです。
そして落ち着いた義仲は実盛の首を改めて見て首をかしげたのでした。
「実盛は既に70を越えている筈、それなのにこの様に若々しく見えるの筈が無い・・・」その原因を確かめると、実盛の髪が老年に達した者とは思えないくらいに黒々としていたからでした。
そして、清めの為に首を洗うと、髪から黒さが落ちて白髪頭が現れたのです。

実盛は、老将として敵に侮られないように白髪を染料で黒く染めて戦場に臨んでいたのでした。
「これこそが誠の武士の姿」と義仲はその覚悟に再び声を失い、実盛は死して武士のありかたを後世にまで示したのです。


この頃、井伊家は『保元物語』に井八郎と言う人物が源義朝にしたがっていた記録が見受けられますが、その後はどうなったのか、もしかしたらこの物語の主人公の斎藤実盛のように平家に仕える事になったのか?も解りません。

ただ、実盛のこの話はのちの武士道に大きく繋がると考えてよいと思います。
平将門のように恨みを残して首が飛んだ訳でもなく、ただ粛々と己の死を演出した実盛の死に様は、大坂夏の陣で木村重成が兜に香の匂いを残して出陣する逸話にも似ていて、430年絶えなかった武士の覚悟でもあったのかもしれませんね。