2009年3月21日、『新修 彦根市史』第三巻刊行記念として「彦根歴史フォーラム~幕末維新を生き抜いた彦根藩~」という講演会が行われました。
今回はその前半に行われた基調講演「大老井伊直弼の決意―通商条約調印と安政の大獄―」をご紹介します。
これは安政期の井伊直弼の政治について話されています。
「大老井伊直弼の決意―通商条約調印と安政の大獄―」
名古屋大学教授:羽賀祥二さん
今日は、井伊直弼の実像にどこまで迫れるかはわかりませんが、特に安政年間の井伊直弼やその周辺の人々の役割について触れてみたいと思います。
1.井伊直弼の時代認識
直弼にはたくさんの書状が残っていて、それらは東京大学から発刊されています。そんな書状から直弼の時代認識を探る事はできますが、今回はペリーが来航した嘉永6年に『独言』という覚書を書いていますので、その中から彼の時代認識をご紹介します。
『独言』は嘉永6年までに幕府が取り巻く状況について井伊直弼が見解を述べたものです。そこで10個の変事が起きたというふうに述べています。特に天保年間から20年くらいにどのような変事が起きたかを挙げ、変事が起きると国が滅びる(災いが起きる)と唱えた上で、執政者として善政を行うべきだと主張している短い文章です。
その変事は以下の通り
○災害
・文政度の凶作で数万人の死亡者が出たこと(文政11年 全国的な水害による不作)
・西丸の火災(天保9年3月)
・本丸の火災(天保15年5月)
・信州地震(弘化4年3月 信濃善光寺地震)
○政治的事件
・大塩平八郎の乱(天保8年2月)
・水野忠邦邸への投石(天保14年閏9月 水野忠邦失脚)
○徳川家関係
・「天下の福将軍家」徳川斉昭が善政を褒賞されたが、数年で気ままの廉で蟄居(天保15年5月 徳川斉昭隠居)
・尾張徳川家の不幸で若い藩主が立つ(弘化2年8月 徳川慶臧相続 10歳)
・紀州徳川家の不幸で若い藩主が立つ(嘉永2年閏5月 徳川慶福相続 4歳)
(注・直弼の『独言』では尾張・紀州を一項目でまとめて表示されています)
○異国船
・異国船の江戸への渡来(弘化3年閏5月 ビッドル)
・異国船防禦のため肥前・松前に秦城築城を命じる(嘉永2年7月 松前藩・福江藩(五島列島)に築城を許可)
この時代意識に基づいて直弼の時代意識は培われて行ったと思うのですが、ペリー来航以降も同じように変事が起こっていきます。
ペリー来航後の主要な変事は
○徳川家関係
・嘉永6年6月 12代将軍徳川家慶死去、家定相続
・安政5年7月 13代将軍徳川家定死去、慶福相続(13歳)
○政治的事件
・嘉永6年7月~7年4月、安政2年8月~4年7月 徳川斉昭の幕府参与への就任
○災害
・嘉永7年4月 京都御所炎上
・嘉永7年11月 東海地震
・安政2年10月 江戸大地震
・安政5年6月~10月 コレラ流行
・安政6年10月 江戸城本丸炎上
○異国船
・嘉永6年 ペリー、プチャーチンの来航
・安政3年7月 アメリカ総領事ハリス来日
・安政5年 五か国条約の締結
『独言』に指摘した変事はその後も次々と起こってくるのです、直弼が自ら責任を負って江戸で活躍する背景がこうして出来上がったのです。
直弼の幕政を担う強い意志を示した事として、これはよく知られていますが、安政2年8月1日に自ら“宗観院柳暁覚翁大居士”という戒名を付けて天寧寺と清凉寺の住職に預け守護する事を命じたのです。それで天寧寺の住職は京都で位牌を作らせて毎日祈念したという事がありました。
安政2年から直弼に対ししきりに「江戸に来るように」との誘いがあり、幕政に対する周囲の強い期待感を踏まえて自ら乗り出す意思を示した事実ではないかと思います。
変事の中で善政を布かなければならない、その為に譜代筆頭の井伊家として担うべき役割があり、周囲の期待に答える覚悟で直弼の安政期がはじまったのだと思います。しかし直弼がこう言った覚悟を持った段階で政敵となるのが徳川斉昭でした。
2.政治的対抗の構図―井伊直弼と徳川斉昭―
斉昭が蟄居の処分を受けた後、息子の慶篤に藩主の地位は譲りますが、嘉永6年7月に幕政参与、とくに海岸防御について当時の老中の阿部正弘の諮問を受ける立場として江戸城に登城するようになります。一旦は和親条約に抗議して幕政参与を辞めますが、安政2年8月になって幕政参与の地位に再任します、直弼にとっては斉昭との関わりをどうするかが重要な課題だったように思います。
幕政参与としての斉昭は、明治になって近くに居た松平慶永が批判を強めますが、当初は斉昭を「天下の副将軍家」として病弱な将軍家定に代わって幕政の最高指導者(元帥)として期待されました。
田安家出身で福井藩主の松平慶永が「軍事、政務を一切委任できる大元帥を置いて国家の政務に対応すべき」と主張し、この元帥について言及はしていませんが、想定できるのは徳川斉昭もしくは一橋慶喜だと思われます。ですから、斉昭やその子の一橋慶喜に対する期待は徐々に大きくなってくわけです。
そして斉昭から見た直弼像について水戸藩主が書いた安政元年の記事があります。そこには「溜り詰にて井伊家殊之外邪論、老公(斉昭)と福山侯(阿部正弘)を退け、自分大老ニすハり」と推測しています。ですから直弼が大老に推挙されるという噂は安政元年にはあったように思われます。他方で斉昭や慶喜を大元帥に据える動きもあったのです。ですから直弼と斉昭の対立の構図は安政元年からあったように伺えます。
直弼は安政2年に江戸に上がる時に強い意志を示した事は先ほど挙げましたが、周囲でも将軍の側近などから直弼待望論が生まれました。
調印問題と将軍継嗣問題が勃発した段階で、ついに将軍の側近が彦根藩邸を訪問して直弼を大老に推し頂くという形になりました、それが安政5年4月22日の事です(大老就任は4月23日)。
徒頭の薬師寺元真という人が彦根藩邸を訪れて密議(どんな内容かは詳細不明)をして大老就任を依頼します。これは堀田正睦が調印を求めて京都に交渉にあたったのが不調になり江戸へ戻った翌日の事でした。ですから堀田では問題が処理できないと判断した将軍の側近が直弼の力で対応しようとした結果だと思います。
将軍の側近と言いましたが、薬師寺元真の経歴を見ると天保元年に当時将軍世子だった家慶の小姓を務め嘉永6年に家定の小姓から徒頭になります。
こういう直弼に対する期待の一方で斉昭の期待もある中、彦根藩では唯一斉昭との提携を主張した人が居ます。それが岡本半介(黄石)という家老です。
19世紀後半日本の漢詩人で最も著名な人物に梁川星巌という人が居ます。この人は安政の大獄で逮捕される前に亡くなりますが攘夷主義者です。この梁川星巌に漢詩を学んだ人が岡本半介です。星巌は天保年間に度々彦根を訪れ、家老の木俣土佐の別宅に滞在し多くの彦根藩士に漢詩を教えた文人ですが、その弟子の中には後の谷鉄臣や日下部鳴鶴などが居ます。半介は攘夷論者の星巌の教えを受けた事から斉昭に近く、直弼とは政治的な見解が違っている人物でした。
安政5年3月、半介は自分の家臣を京都に送って情報収集をしていました。その情報では京都の形勢が斉昭に有利に働く認識があり、これを受けて直弼に意見書を出しました。これには「交易論を主張するな」「徳川斉昭に取り入って、彼の同志になるべきだ」と書かれています。彦根藩内でも斉昭との提携論があったのです。
3.大老政権の成立―条約問題・将軍継嗣問題解決のために
安政5年6月、条約問題と将軍継嗣問題が同時に起こり、同時に解決しなければならないという事態に大老直弼は直面します。
条約調印には孝明天皇以下朝廷の承認が必要だという幕府の共通した思いでした。ですから堀田正睦は京に上り説得しますが不調に終わり、幕府はもう一度協議を図る事となります。
そして将軍後継者問題についても一橋派の諸大名が朝廷に工作し、慶喜を指名できるような状況を整えますが、これも上手くいかずに問題が残されました。
安政5年6月19日、ハリスの脅迫で日米修好通商条約が調印されました。25日には将軍後継者に慶福が決まったと公表され、ほぼ同時に問題を決着させるのです。こういう大問題二つを決着させる為に直弼は慎重に事を運んだようです。
ひとつは、後継者の決定や条約調印について将軍家定の決定だという形を作りました。直弼は大老就任直後からたびたび家定と意見交換をしながら、いわば将軍と大老の直接協議という政治のやり方をしたと考えられます。
もうひとつは、将軍と大老の間を結ぶ将軍側近たちと結合した事です。先程紹介しました薬師寺元真以外にも、天保時代から将軍家慶の小姓を務めた御側役取次の平岡丹波守や小姓頭取の高井豊前守と諏訪安房守とも意見交換をしながら事を運んで行きました。
薬師寺は平岡ら三人を「同志忠義之衆」と呼んで結束の固さと忠誠心を固く評価し、これらの人々と協議しながら家定の意思を体現化していったと考えられるのです。
そして安政5年4月から2年間に渡った井伊政権では老中の選任についても独自の意思がありました。
京都の交渉に失敗した堀田正睦は更迭され、堀田政権の久世広周・脇坂安宅は留任させます。それ以外に太田資始(掛川)・間部詮勝(鯖江)・松平乗全(西尾)という家慶期の老中経験者再任させます。しかも脇坂と松平は老中になる前に京都所司代を経験しています。
京都朝廷の対策が重要なテーマですので、京都所司代かつ老中経験者を集めて状況を打開を志したという特徴を持っているように思います。
4.朝廷と幕府の調和(公武一和)―安政の大獄―
通商条約締結と将軍後継者発表の数ヶ月後から反幕府・攘夷グループが一斉に検挙される“安政の大獄”と言われる出来事が起こります。
この背景には幾つかの要因がありますが、ひとつは直弼が公武一和(公武合体)を進める中で障害となる政治的グループを処罰していったものだと思います。
直弼が考える公武一和は三つの事が計画されていました。
・関白との政治的な関わりを堅持する。
当時の関白は九条尚忠という人物でした。近世の朝廷は実質上関白が全てを取り仕切っているわけです。ですから関白の権力が朝廷の中で強ければそれだけ朝廷内の政治的な力があり、反対派も抑えつけられるのです。ですから関白の力をいかに堅持するかが重要な問題でした。
具体的には長野義言を京に送り、九条家家士の島田左近との間で議論しながら大老と関白を結び、九条尚忠も京に長野が居る事で強い信頼感を抱いていたのです。当時の朝廷の中で関白以外に有力な家は鷹司・近衛などの家がありました。
鷹司政道という人物が長い間関白を務め、九条に代わってからは太閤という称号を与えられ影響力がありました。その子どもに鷹司輔熙、近衛家では近衛忠煕という人が権力を持っていました。この三人と元内大臣の三条実万の四人が反直弼・親斉昭派だったのです。
堀田正睦が通商条約の許可を求め交渉した時は、一旦は九条関白の元で「幕府に委任する」という方針がなされたのですが、鷹司政道が変心(長野の書状より)し、方針を撤回させて「再度幕府の方針をまとめるように」というふうに変更されたのです。
関白と鷹司らの対立が激しくなり朝廷は分裂状態いなりました、その中で九条尚忠が辞職をしてしまうという大問題が起こったのです。これを見た岡本半介が直弼に斉昭と結ぶように意見書を出したのです。
関白辞職の直接の原因は、孝明天皇が攘夷主義者で条約調印を認めず、調印締結に怒り自らは譲位するという意思を示し、この意思を踏んだ鷹司ら4名は、天皇の意思を書いた勅書を水戸藩に下しました、これを“戊午の密勅”と呼ばれ、後に政治的大問題になります。
この勅書が出される時の会議に関白が外されました、そうしますと朝廷の頂点である関白を外される政治は順調に動いていない事になりますので、これをきっかけに井伊直弼は“安政の大獄”で政治責任を追及しははじめるのです。最初に捕縛されるのは鷹司家家士の小林良典という人物でした。その小林の告白や探索で次々に捕縛されるのです。
安政の大獄を通じて鷹司らを追い落とし、九条をもう一度復権させる工作を直弼が始めるのです。この過程で徳川家康が発布した『禁中並公家諸法度』を踏まえた上で朝廷秩序を再編する旨を長野は主張します。
・京都の掌握
彦根藩は徳川家康の深密の御意趣を受けて京都守護をする家柄だと強く主張しました。それは彦根藩が相模警備を命じられた事により、井伊家は京都を守護する家柄だと主張して相模警備から外れようとした。という活動を続け、結果的に通商条約締結以降に彦根藩は京都守護の任を与えられました。
しかし、京都守護は文久2年に会津藩の松平容保が京都守護職として与えられた職ではなく、あくまで守護の任という職名があった訳ではないので、京都所司代との関係が問題になりました。
脇坂安宅とその後任の酒井忠義と直弼は、京都の主導権を巡って度々衝突しました。彦根藩は京都所司代の権限を含んだ形での守護を担いたいと欲しますが、所司代側は従来の所司代の権利を維持しようとして幾つかの争いが起きたのです。こうして直弼の時代の後の京都守護職の前提条件が作られたのは確かだろうと思います。
・天皇家と将軍家の婚姻
和宮と将軍家茂の婚姻は大きな課題でした。この考え方は長野義言が安政5年に主張した意見で、桜田門外の変の直前に義言は和宮降嫁を主張した書簡を出しています。
当初は、孝明天皇の第二皇女・豊貴宮という関白九条家の娘を母に持つ皇女が候補でしたが2歳で亡くなってしまいます。
続いて第三皇女・寿万宮も候補に挙がりますが、産まれたばかりで若過ぎて、孝明天皇の妹の和宮が年齢的にもふさわしいと選ばれたのです。
関白との関係、所司代との関係、皇女降嫁などの色んな動きをしながら公武一和を目指していったのです。
今回はその前半に行われた基調講演「大老井伊直弼の決意―通商条約調印と安政の大獄―」をご紹介します。
これは安政期の井伊直弼の政治について話されています。
「大老井伊直弼の決意―通商条約調印と安政の大獄―」
名古屋大学教授:羽賀祥二さん
今日は、井伊直弼の実像にどこまで迫れるかはわかりませんが、特に安政年間の井伊直弼やその周辺の人々の役割について触れてみたいと思います。
1.井伊直弼の時代認識
直弼にはたくさんの書状が残っていて、それらは東京大学から発刊されています。そんな書状から直弼の時代認識を探る事はできますが、今回はペリーが来航した嘉永6年に『独言』という覚書を書いていますので、その中から彼の時代認識をご紹介します。
『独言』は嘉永6年までに幕府が取り巻く状況について井伊直弼が見解を述べたものです。そこで10個の変事が起きたというふうに述べています。特に天保年間から20年くらいにどのような変事が起きたかを挙げ、変事が起きると国が滅びる(災いが起きる)と唱えた上で、執政者として善政を行うべきだと主張している短い文章です。
その変事は以下の通り
○災害
・文政度の凶作で数万人の死亡者が出たこと(文政11年 全国的な水害による不作)
・西丸の火災(天保9年3月)
・本丸の火災(天保15年5月)
・信州地震(弘化4年3月 信濃善光寺地震)
○政治的事件
・大塩平八郎の乱(天保8年2月)
・水野忠邦邸への投石(天保14年閏9月 水野忠邦失脚)
○徳川家関係
・「天下の福将軍家」徳川斉昭が善政を褒賞されたが、数年で気ままの廉で蟄居(天保15年5月 徳川斉昭隠居)
・尾張徳川家の不幸で若い藩主が立つ(弘化2年8月 徳川慶臧相続 10歳)
・紀州徳川家の不幸で若い藩主が立つ(嘉永2年閏5月 徳川慶福相続 4歳)
(注・直弼の『独言』では尾張・紀州を一項目でまとめて表示されています)
○異国船
・異国船の江戸への渡来(弘化3年閏5月 ビッドル)
・異国船防禦のため肥前・松前に秦城築城を命じる(嘉永2年7月 松前藩・福江藩(五島列島)に築城を許可)
この時代意識に基づいて直弼の時代意識は培われて行ったと思うのですが、ペリー来航以降も同じように変事が起こっていきます。
ペリー来航後の主要な変事は
○徳川家関係
・嘉永6年6月 12代将軍徳川家慶死去、家定相続
・安政5年7月 13代将軍徳川家定死去、慶福相続(13歳)
○政治的事件
・嘉永6年7月~7年4月、安政2年8月~4年7月 徳川斉昭の幕府参与への就任
○災害
・嘉永7年4月 京都御所炎上
・嘉永7年11月 東海地震
・安政2年10月 江戸大地震
・安政5年6月~10月 コレラ流行
・安政6年10月 江戸城本丸炎上
○異国船
・嘉永6年 ペリー、プチャーチンの来航
・安政3年7月 アメリカ総領事ハリス来日
・安政5年 五か国条約の締結
『独言』に指摘した変事はその後も次々と起こってくるのです、直弼が自ら責任を負って江戸で活躍する背景がこうして出来上がったのです。
直弼の幕政を担う強い意志を示した事として、これはよく知られていますが、安政2年8月1日に自ら“宗観院柳暁覚翁大居士”という戒名を付けて天寧寺と清凉寺の住職に預け守護する事を命じたのです。それで天寧寺の住職は京都で位牌を作らせて毎日祈念したという事がありました。
安政2年から直弼に対ししきりに「江戸に来るように」との誘いがあり、幕政に対する周囲の強い期待感を踏まえて自ら乗り出す意思を示した事実ではないかと思います。
変事の中で善政を布かなければならない、その為に譜代筆頭の井伊家として担うべき役割があり、周囲の期待に答える覚悟で直弼の安政期がはじまったのだと思います。しかし直弼がこう言った覚悟を持った段階で政敵となるのが徳川斉昭でした。
2.政治的対抗の構図―井伊直弼と徳川斉昭―
斉昭が蟄居の処分を受けた後、息子の慶篤に藩主の地位は譲りますが、嘉永6年7月に幕政参与、とくに海岸防御について当時の老中の阿部正弘の諮問を受ける立場として江戸城に登城するようになります。一旦は和親条約に抗議して幕政参与を辞めますが、安政2年8月になって幕政参与の地位に再任します、直弼にとっては斉昭との関わりをどうするかが重要な課題だったように思います。
幕政参与としての斉昭は、明治になって近くに居た松平慶永が批判を強めますが、当初は斉昭を「天下の副将軍家」として病弱な将軍家定に代わって幕政の最高指導者(元帥)として期待されました。
田安家出身で福井藩主の松平慶永が「軍事、政務を一切委任できる大元帥を置いて国家の政務に対応すべき」と主張し、この元帥について言及はしていませんが、想定できるのは徳川斉昭もしくは一橋慶喜だと思われます。ですから、斉昭やその子の一橋慶喜に対する期待は徐々に大きくなってくわけです。
そして斉昭から見た直弼像について水戸藩主が書いた安政元年の記事があります。そこには「溜り詰にて井伊家殊之外邪論、老公(斉昭)と福山侯(阿部正弘)を退け、自分大老ニすハり」と推測しています。ですから直弼が大老に推挙されるという噂は安政元年にはあったように思われます。他方で斉昭や慶喜を大元帥に据える動きもあったのです。ですから直弼と斉昭の対立の構図は安政元年からあったように伺えます。
直弼は安政2年に江戸に上がる時に強い意志を示した事は先ほど挙げましたが、周囲でも将軍の側近などから直弼待望論が生まれました。
調印問題と将軍継嗣問題が勃発した段階で、ついに将軍の側近が彦根藩邸を訪問して直弼を大老に推し頂くという形になりました、それが安政5年4月22日の事です(大老就任は4月23日)。
徒頭の薬師寺元真という人が彦根藩邸を訪れて密議(どんな内容かは詳細不明)をして大老就任を依頼します。これは堀田正睦が調印を求めて京都に交渉にあたったのが不調になり江戸へ戻った翌日の事でした。ですから堀田では問題が処理できないと判断した将軍の側近が直弼の力で対応しようとした結果だと思います。
将軍の側近と言いましたが、薬師寺元真の経歴を見ると天保元年に当時将軍世子だった家慶の小姓を務め嘉永6年に家定の小姓から徒頭になります。
こういう直弼に対する期待の一方で斉昭の期待もある中、彦根藩では唯一斉昭との提携を主張した人が居ます。それが岡本半介(黄石)という家老です。
19世紀後半日本の漢詩人で最も著名な人物に梁川星巌という人が居ます。この人は安政の大獄で逮捕される前に亡くなりますが攘夷主義者です。この梁川星巌に漢詩を学んだ人が岡本半介です。星巌は天保年間に度々彦根を訪れ、家老の木俣土佐の別宅に滞在し多くの彦根藩士に漢詩を教えた文人ですが、その弟子の中には後の谷鉄臣や日下部鳴鶴などが居ます。半介は攘夷論者の星巌の教えを受けた事から斉昭に近く、直弼とは政治的な見解が違っている人物でした。
安政5年3月、半介は自分の家臣を京都に送って情報収集をしていました。その情報では京都の形勢が斉昭に有利に働く認識があり、これを受けて直弼に意見書を出しました。これには「交易論を主張するな」「徳川斉昭に取り入って、彼の同志になるべきだ」と書かれています。彦根藩内でも斉昭との提携論があったのです。
3.大老政権の成立―条約問題・将軍継嗣問題解決のために
安政5年6月、条約問題と将軍継嗣問題が同時に起こり、同時に解決しなければならないという事態に大老直弼は直面します。
条約調印には孝明天皇以下朝廷の承認が必要だという幕府の共通した思いでした。ですから堀田正睦は京に上り説得しますが不調に終わり、幕府はもう一度協議を図る事となります。
そして将軍後継者問題についても一橋派の諸大名が朝廷に工作し、慶喜を指名できるような状況を整えますが、これも上手くいかずに問題が残されました。
安政5年6月19日、ハリスの脅迫で日米修好通商条約が調印されました。25日には将軍後継者に慶福が決まったと公表され、ほぼ同時に問題を決着させるのです。こういう大問題二つを決着させる為に直弼は慎重に事を運んだようです。
ひとつは、後継者の決定や条約調印について将軍家定の決定だという形を作りました。直弼は大老就任直後からたびたび家定と意見交換をしながら、いわば将軍と大老の直接協議という政治のやり方をしたと考えられます。
もうひとつは、将軍と大老の間を結ぶ将軍側近たちと結合した事です。先程紹介しました薬師寺元真以外にも、天保時代から将軍家慶の小姓を務めた御側役取次の平岡丹波守や小姓頭取の高井豊前守と諏訪安房守とも意見交換をしながら事を運んで行きました。
薬師寺は平岡ら三人を「同志忠義之衆」と呼んで結束の固さと忠誠心を固く評価し、これらの人々と協議しながら家定の意思を体現化していったと考えられるのです。
そして安政5年4月から2年間に渡った井伊政権では老中の選任についても独自の意思がありました。
京都の交渉に失敗した堀田正睦は更迭され、堀田政権の久世広周・脇坂安宅は留任させます。それ以外に太田資始(掛川)・間部詮勝(鯖江)・松平乗全(西尾)という家慶期の老中経験者再任させます。しかも脇坂と松平は老中になる前に京都所司代を経験しています。
京都朝廷の対策が重要なテーマですので、京都所司代かつ老中経験者を集めて状況を打開を志したという特徴を持っているように思います。
4.朝廷と幕府の調和(公武一和)―安政の大獄―
通商条約締結と将軍後継者発表の数ヶ月後から反幕府・攘夷グループが一斉に検挙される“安政の大獄”と言われる出来事が起こります。
この背景には幾つかの要因がありますが、ひとつは直弼が公武一和(公武合体)を進める中で障害となる政治的グループを処罰していったものだと思います。
直弼が考える公武一和は三つの事が計画されていました。
・関白との政治的な関わりを堅持する。
当時の関白は九条尚忠という人物でした。近世の朝廷は実質上関白が全てを取り仕切っているわけです。ですから関白の権力が朝廷の中で強ければそれだけ朝廷内の政治的な力があり、反対派も抑えつけられるのです。ですから関白の力をいかに堅持するかが重要な問題でした。
具体的には長野義言を京に送り、九条家家士の島田左近との間で議論しながら大老と関白を結び、九条尚忠も京に長野が居る事で強い信頼感を抱いていたのです。当時の朝廷の中で関白以外に有力な家は鷹司・近衛などの家がありました。
鷹司政道という人物が長い間関白を務め、九条に代わってからは太閤という称号を与えられ影響力がありました。その子どもに鷹司輔熙、近衛家では近衛忠煕という人が権力を持っていました。この三人と元内大臣の三条実万の四人が反直弼・親斉昭派だったのです。
堀田正睦が通商条約の許可を求め交渉した時は、一旦は九条関白の元で「幕府に委任する」という方針がなされたのですが、鷹司政道が変心(長野の書状より)し、方針を撤回させて「再度幕府の方針をまとめるように」というふうに変更されたのです。
関白と鷹司らの対立が激しくなり朝廷は分裂状態いなりました、その中で九条尚忠が辞職をしてしまうという大問題が起こったのです。これを見た岡本半介が直弼に斉昭と結ぶように意見書を出したのです。
関白辞職の直接の原因は、孝明天皇が攘夷主義者で条約調印を認めず、調印締結に怒り自らは譲位するという意思を示し、この意思を踏んだ鷹司ら4名は、天皇の意思を書いた勅書を水戸藩に下しました、これを“戊午の密勅”と呼ばれ、後に政治的大問題になります。
この勅書が出される時の会議に関白が外されました、そうしますと朝廷の頂点である関白を外される政治は順調に動いていない事になりますので、これをきっかけに井伊直弼は“安政の大獄”で政治責任を追及しははじめるのです。最初に捕縛されるのは鷹司家家士の小林良典という人物でした。その小林の告白や探索で次々に捕縛されるのです。
安政の大獄を通じて鷹司らを追い落とし、九条をもう一度復権させる工作を直弼が始めるのです。この過程で徳川家康が発布した『禁中並公家諸法度』を踏まえた上で朝廷秩序を再編する旨を長野は主張します。
・京都の掌握
彦根藩は徳川家康の深密の御意趣を受けて京都守護をする家柄だと強く主張しました。それは彦根藩が相模警備を命じられた事により、井伊家は京都を守護する家柄だと主張して相模警備から外れようとした。という活動を続け、結果的に通商条約締結以降に彦根藩は京都守護の任を与えられました。
しかし、京都守護は文久2年に会津藩の松平容保が京都守護職として与えられた職ではなく、あくまで守護の任という職名があった訳ではないので、京都所司代との関係が問題になりました。
脇坂安宅とその後任の酒井忠義と直弼は、京都の主導権を巡って度々衝突しました。彦根藩は京都所司代の権限を含んだ形での守護を担いたいと欲しますが、所司代側は従来の所司代の権利を維持しようとして幾つかの争いが起きたのです。こうして直弼の時代の後の京都守護職の前提条件が作られたのは確かだろうと思います。
・天皇家と将軍家の婚姻
和宮と将軍家茂の婚姻は大きな課題でした。この考え方は長野義言が安政5年に主張した意見で、桜田門外の変の直前に義言は和宮降嫁を主張した書簡を出しています。
当初は、孝明天皇の第二皇女・豊貴宮という関白九条家の娘を母に持つ皇女が候補でしたが2歳で亡くなってしまいます。
続いて第三皇女・寿万宮も候補に挙がりますが、産まれたばかりで若過ぎて、孝明天皇の妹の和宮が年齢的にもふさわしいと選ばれたのです。
関白との関係、所司代との関係、皇女降嫁などの色んな動きをしながら公武一和を目指していったのです。