彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『大老井伊直弼の決意―通商条約調印と安政の大獄―』

2009年03月28日 | 講演
2009年3月21日、『新修 彦根市史』第三巻刊行記念として「彦根歴史フォーラム~幕末維新を生き抜いた彦根藩~」という講演会が行われました。

今回はその前半に行われた基調講演「大老井伊直弼の決意―通商条約調印と安政の大獄―」をご紹介します。
これは安政期の井伊直弼の政治について話されています。



「大老井伊直弼の決意―通商条約調印と安政の大獄―」
名古屋大学教授:羽賀祥二さん

 今日は、井伊直弼の実像にどこまで迫れるかはわかりませんが、特に安政年間の井伊直弼やその周辺の人々の役割について触れてみたいと思います。
 
1.井伊直弼の時代認識
 直弼にはたくさんの書状が残っていて、それらは東京大学から発刊されています。そんな書状から直弼の時代認識を探る事はできますが、今回はペリーが来航した嘉永6年に『独言』という覚書を書いていますので、その中から彼の時代認識をご紹介します。
 『独言』は嘉永6年までに幕府が取り巻く状況について井伊直弼が見解を述べたものです。そこで10個の変事が起きたというふうに述べています。特に天保年間から20年くらいにどのような変事が起きたかを挙げ、変事が起きると国が滅びる(災いが起きる)と唱えた上で、執政者として善政を行うべきだと主張している短い文章です。

その変事は以下の通り
○災害
・文政度の凶作で数万人の死亡者が出たこと(文政11年 全国的な水害による不作)
・西丸の火災(天保9年3月)
・本丸の火災(天保15年5月)
・信州地震(弘化4年3月 信濃善光寺地震)
○政治的事件
・大塩平八郎の乱(天保8年2月)
・水野忠邦邸への投石(天保14年閏9月 水野忠邦失脚)
○徳川家関係
・「天下の福将軍家」徳川斉昭が善政を褒賞されたが、数年で気ままの廉で蟄居(天保15年5月 徳川斉昭隠居)
・尾張徳川家の不幸で若い藩主が立つ(弘化2年8月 徳川慶臧相続 10歳)
・紀州徳川家の不幸で若い藩主が立つ(嘉永2年閏5月 徳川慶福相続 4歳)
(注・直弼の『独言』では尾張・紀州を一項目でまとめて表示されています)
○異国船
・異国船の江戸への渡来(弘化3年閏5月 ビッドル)
・異国船防禦のため肥前・松前に秦城築城を命じる(嘉永2年7月 松前藩・福江藩(五島列島)に築城を許可)

この時代意識に基づいて直弼の時代意識は培われて行ったと思うのですが、ペリー来航以降も同じように変事が起こっていきます。

ペリー来航後の主要な変事は
○徳川家関係
・嘉永6年6月 12代将軍徳川家慶死去、家定相続
・安政5年7月 13代将軍徳川家定死去、慶福相続(13歳)
○政治的事件
・嘉永6年7月~7年4月、安政2年8月~4年7月 徳川斉昭の幕府参与への就任
○災害
・嘉永7年4月 京都御所炎上
・嘉永7年11月 東海地震
・安政2年10月 江戸大地震
・安政5年6月~10月 コレラ流行
・安政6年10月 江戸城本丸炎上
○異国船
・嘉永6年 ペリー、プチャーチンの来航
・安政3年7月 アメリカ総領事ハリス来日
・安政5年 五か国条約の締結

 『独言』に指摘した変事はその後も次々と起こってくるのです、直弼が自ら責任を負って江戸で活躍する背景がこうして出来上がったのです。
 直弼の幕政を担う強い意志を示した事として、これはよく知られていますが、安政2年8月1日に自ら“宗観院柳暁覚翁大居士”という戒名を付けて天寧寺と清凉寺の住職に預け守護する事を命じたのです。それで天寧寺の住職は京都で位牌を作らせて毎日祈念したという事がありました。
 安政2年から直弼に対ししきりに「江戸に来るように」との誘いがあり、幕政に対する周囲の強い期待感を踏まえて自ら乗り出す意思を示した事実ではないかと思います。
 変事の中で善政を布かなければならない、その為に譜代筆頭の井伊家として担うべき役割があり、周囲の期待に答える覚悟で直弼の安政期がはじまったのだと思います。しかし直弼がこう言った覚悟を持った段階で政敵となるのが徳川斉昭でした。


2.政治的対抗の構図―井伊直弼と徳川斉昭―
 斉昭が蟄居の処分を受けた後、息子の慶篤に藩主の地位は譲りますが、嘉永6年7月に幕政参与、とくに海岸防御について当時の老中の阿部正弘の諮問を受ける立場として江戸城に登城するようになります。一旦は和親条約に抗議して幕政参与を辞めますが、安政2年8月になって幕政参与の地位に再任します、直弼にとっては斉昭との関わりをどうするかが重要な課題だったように思います。
 幕政参与としての斉昭は、明治になって近くに居た松平慶永が批判を強めますが、当初は斉昭を「天下の副将軍家」として病弱な将軍家定に代わって幕政の最高指導者(元帥)として期待されました。
 田安家出身で福井藩主の松平慶永が「軍事、政務を一切委任できる大元帥を置いて国家の政務に対応すべき」と主張し、この元帥について言及はしていませんが、想定できるのは徳川斉昭もしくは一橋慶喜だと思われます。ですから、斉昭やその子の一橋慶喜に対する期待は徐々に大きくなってくわけです。
 そして斉昭から見た直弼像について水戸藩主が書いた安政元年の記事があります。そこには「溜り詰にて井伊家殊之外邪論、老公(斉昭)と福山侯(阿部正弘)を退け、自分大老ニすハり」と推測しています。ですから直弼が大老に推挙されるという噂は安政元年にはあったように思われます。他方で斉昭や慶喜を大元帥に据える動きもあったのです。ですから直弼と斉昭の対立の構図は安政元年からあったように伺えます。

 直弼は安政2年に江戸に上がる時に強い意志を示した事は先ほど挙げましたが、周囲でも将軍の側近などから直弼待望論が生まれました。
 調印問題と将軍継嗣問題が勃発した段階で、ついに将軍の側近が彦根藩邸を訪問して直弼を大老に推し頂くという形になりました、それが安政5年4月22日の事です(大老就任は4月23日)。
 徒頭の薬師寺元真という人が彦根藩邸を訪れて密議(どんな内容かは詳細不明)をして大老就任を依頼します。これは堀田正睦が調印を求めて京都に交渉にあたったのが不調になり江戸へ戻った翌日の事でした。ですから堀田では問題が処理できないと判断した将軍の側近が直弼の力で対応しようとした結果だと思います。
 将軍の側近と言いましたが、薬師寺元真の経歴を見ると天保元年に当時将軍世子だった家慶の小姓を務め嘉永6年に家定の小姓から徒頭になります。

 こういう直弼に対する期待の一方で斉昭の期待もある中、彦根藩では唯一斉昭との提携を主張した人が居ます。それが岡本半介(黄石)という家老です。
 19世紀後半日本の漢詩人で最も著名な人物に梁川星巌という人が居ます。この人は安政の大獄で逮捕される前に亡くなりますが攘夷主義者です。この梁川星巌に漢詩を学んだ人が岡本半介です。星巌は天保年間に度々彦根を訪れ、家老の木俣土佐の別宅に滞在し多くの彦根藩士に漢詩を教えた文人ですが、その弟子の中には後の谷鉄臣や日下部鳴鶴などが居ます。半介は攘夷論者の星巌の教えを受けた事から斉昭に近く、直弼とは政治的な見解が違っている人物でした。
 安政5年3月、半介は自分の家臣を京都に送って情報収集をしていました。その情報では京都の形勢が斉昭に有利に働く認識があり、これを受けて直弼に意見書を出しました。これには「交易論を主張するな」「徳川斉昭に取り入って、彼の同志になるべきだ」と書かれています。彦根藩内でも斉昭との提携論があったのです。


3.大老政権の成立―条約問題・将軍継嗣問題解決のために
 安政5年6月、条約問題と将軍継嗣問題が同時に起こり、同時に解決しなければならないという事態に大老直弼は直面します。
 条約調印には孝明天皇以下朝廷の承認が必要だという幕府の共通した思いでした。ですから堀田正睦は京に上り説得しますが不調に終わり、幕府はもう一度協議を図る事となります。
 そして将軍後継者問題についても一橋派の諸大名が朝廷に工作し、慶喜を指名できるような状況を整えますが、これも上手くいかずに問題が残されました。
 安政5年6月19日、ハリスの脅迫で日米修好通商条約が調印されました。25日には将軍後継者に慶福が決まったと公表され、ほぼ同時に問題を決着させるのです。こういう大問題二つを決着させる為に直弼は慎重に事を運んだようです。
 ひとつは、後継者の決定や条約調印について将軍家定の決定だという形を作りました。直弼は大老就任直後からたびたび家定と意見交換をしながら、いわば将軍と大老の直接協議という政治のやり方をしたと考えられます。
 もうひとつは、将軍と大老の間を結ぶ将軍側近たちと結合した事です。先程紹介しました薬師寺元真以外にも、天保時代から将軍家慶の小姓を務めた御側役取次の平岡丹波守や小姓頭取の高井豊前守と諏訪安房守とも意見交換をしながら事を運んで行きました。
 薬師寺は平岡ら三人を「同志忠義之衆」と呼んで結束の固さと忠誠心を固く評価し、これらの人々と協議しながら家定の意思を体現化していったと考えられるのです。

 そして安政5年4月から2年間に渡った井伊政権では老中の選任についても独自の意思がありました。
 京都の交渉に失敗した堀田正睦は更迭され、堀田政権の久世広周・脇坂安宅は留任させます。それ以外に太田資始(掛川)・間部詮勝(鯖江)・松平乗全(西尾)という家慶期の老中経験者再任させます。しかも脇坂と松平は老中になる前に京都所司代を経験しています。
 京都朝廷の対策が重要なテーマですので、京都所司代かつ老中経験者を集めて状況を打開を志したという特徴を持っているように思います。


4.朝廷と幕府の調和(公武一和)―安政の大獄―
 通商条約締結と将軍後継者発表の数ヶ月後から反幕府・攘夷グループが一斉に検挙される“安政の大獄”と言われる出来事が起こります。
 この背景には幾つかの要因がありますが、ひとつは直弼が公武一和(公武合体)を進める中で障害となる政治的グループを処罰していったものだと思います。
 直弼が考える公武一和は三つの事が計画されていました。
・関白との政治的な関わりを堅持する。
 当時の関白は九条尚忠という人物でした。近世の朝廷は実質上関白が全てを取り仕切っているわけです。ですから関白の権力が朝廷の中で強ければそれだけ朝廷内の政治的な力があり、反対派も抑えつけられるのです。ですから関白の力をいかに堅持するかが重要な問題でした。
 具体的には長野義言を京に送り、九条家家士の島田左近との間で議論しながら大老と関白を結び、九条尚忠も京に長野が居る事で強い信頼感を抱いていたのです。当時の朝廷の中で関白以外に有力な家は鷹司・近衛などの家がありました。
 鷹司政道という人物が長い間関白を務め、九条に代わってからは太閤という称号を与えられ影響力がありました。その子どもに鷹司輔熙、近衛家では近衛忠煕という人が権力を持っていました。この三人と元内大臣の三条実万の四人が反直弼・親斉昭派だったのです。
 堀田正睦が通商条約の許可を求め交渉した時は、一旦は九条関白の元で「幕府に委任する」という方針がなされたのですが、鷹司政道が変心(長野の書状より)し、方針を撤回させて「再度幕府の方針をまとめるように」というふうに変更されたのです。
 関白と鷹司らの対立が激しくなり朝廷は分裂状態いなりました、その中で九条尚忠が辞職をしてしまうという大問題が起こったのです。これを見た岡本半介が直弼に斉昭と結ぶように意見書を出したのです。
 関白辞職の直接の原因は、孝明天皇が攘夷主義者で条約調印を認めず、調印締結に怒り自らは譲位するという意思を示し、この意思を踏んだ鷹司ら4名は、天皇の意思を書いた勅書を水戸藩に下しました、これを“戊午の密勅”と呼ばれ、後に政治的大問題になります。
 この勅書が出される時の会議に関白が外されました、そうしますと朝廷の頂点である関白を外される政治は順調に動いていない事になりますので、これをきっかけに井伊直弼は“安政の大獄”で政治責任を追及しははじめるのです。最初に捕縛されるのは鷹司家家士の小林良典という人物でした。その小林の告白や探索で次々に捕縛されるのです。
 安政の大獄を通じて鷹司らを追い落とし、九条をもう一度復権させる工作を直弼が始めるのです。この過程で徳川家康が発布した『禁中並公家諸法度』を踏まえた上で朝廷秩序を再編する旨を長野は主張します。

・京都の掌握
 彦根藩は徳川家康の深密の御意趣を受けて京都守護をする家柄だと強く主張しました。それは彦根藩が相模警備を命じられた事により、井伊家は京都を守護する家柄だと主張して相模警備から外れようとした。という活動を続け、結果的に通商条約締結以降に彦根藩は京都守護の任を与えられました。
 しかし、京都守護は文久2年に会津藩の松平容保が京都守護職として与えられた職ではなく、あくまで守護の任という職名があった訳ではないので、京都所司代との関係が問題になりました。
 脇坂安宅とその後任の酒井忠義と直弼は、京都の主導権を巡って度々衝突しました。彦根藩は京都所司代の権限を含んだ形での守護を担いたいと欲しますが、所司代側は従来の所司代の権利を維持しようとして幾つかの争いが起きたのです。こうして直弼の時代の後の京都守護職の前提条件が作られたのは確かだろうと思います。

・天皇家と将軍家の婚姻
 和宮と将軍家茂の婚姻は大きな課題でした。この考え方は長野義言が安政5年に主張した意見で、桜田門外の変の直前に義言は和宮降嫁を主張した書簡を出しています。
 当初は、孝明天皇の第二皇女・豊貴宮という関白九条家の娘を母に持つ皇女が候補でしたが2歳で亡くなってしまいます。
 続いて第三皇女・寿万宮も候補に挙がりますが、産まれたばかりで若過ぎて、孝明天皇の妹の和宮が年齢的にもふさわしいと選ばれたのです。

 関白との関係、所司代との関係、皇女降嫁などの色んな動きをしながら公武一和を目指していったのです。

石田三成と嶋左近の伝承~道標~

2009年03月22日 | イベント
四番町スクエアで、近江むかし発見隊という組織の方々が演じられる『石田三成と嶋左近の伝承~道標~』という演劇が行われました。
近江むかし発見隊はおうみ未来塾9期生の研究グループとして近江各地の昔話や伝承を研究したり今回のように紹介したりしているそうで、地元の方々と協力してこういったイベントを続けておられるのだとか。

今日行われたのは、安政の大獄の決断をした井伊直弼が、古く佐和山で義を尽くそうとした石田三成・大谷吉継・嶋左近に思いを馳せて歴史の道標となって行く…

というお話でした。


井伊直弼と石田三成と言う彦根に関わった歴史に大きな足跡を残した人物。
共に悪役となっている為に地元でもあまり検証されませんが、こういった小さな活動があちらこちらで広がってやがて大きな地元の誇りになるようになってくれればいいですよね。

第1回大河ドラマ誘致市民勉強会

2009年03月21日 | 大河ドラマ誘致活動
先日お知らせしました、第1回大河ドラマ誘致市民勉強会の報告です。


題名:「大河ドラマを知ろう」

場所と日時:2009年3月21日(土)14時~ 彦根市立図書館

内容:
大河ドラマの誕生の時代背景…前年と翌年に何があったか…
テレビの誕生から大河の年(昭和38年、1962年)までのテレビ普及率などから時代をみる(笑)
『花の生涯』台本集の実物は現場には出てきませんでしたが、その存在は発表されました。

次回予定は詳細未定
今後の流れとしては、月一で勉強会を行う予定で、夏頃に大河ドラマ誘致市民会議の実行委員会を立ち上げる、そして150年祭が終わる迄にNHKに嘆願書を渡せるようにしたいとの事でした。


今回の市民参加者は1名。
第1回にふさわしい数でもあると同時に、彦根市民の関心度を示す数字が明らかになる結果でもありました。


~~以下、配布資料(写真内容)~~


大河ドラマ誘致市民会議
第一回 勉強会
「大河ドラマを知ろう」
2009年3月21日(土)14時~彦根市立図書館

(大河ドラマ)
昭和38年(1963)4月7日~12月29日 花の生涯 20:45~21:30
視聴率 全話平均20,2% 最高32,3%

昭和39年(1964)1月5日~12月27日 赤穂浪士

昭和40年(1965)1月3日~12月26日 太閤記


(時代背景)
昭和38年(1963) 三八豪雪、北九州市誕生、ケネディ暗殺、力道山刺される

昭和39年(1964) 新潟地震、新幹線開業東京大阪、東京オリンピック

昭和37年(1962) テレビ受信者数が1000万件、北陸本線北陸トンネル開通、堀江謙一太平洋横断


(テレビ)
昭和28年(1953)NHK放送開始、半年遅れて日本テレビが放送を開始した。

昭和33年(1958)受信契約数を100万件(テレビ普及率 15,9%)

昭和37年(1962)受信契約数が1000万件(テレビ普及率 79,4%)

昭和38年(1963)テレビ普及率 88,7%

カラーテレビ1966年から(0,3%)、白黒テレビは94,4% 1977年に逆転

第1回大河ドラマ誘致市民勉強会開催決定

2009年03月18日 | 大河ドラマ誘致活動
『花の生涯』大河ドラマ誘致市民会議の第一回市民勉強会が決定しました。


第1回大河ドラマ市民誘致勉強会「大河ドラマを知ろう」
日時:2009年3月21日(土)14時から
場所:彦根市立図書館の一室
(彦根市尾末町8番1号)


今回はこの企画の概要と1963年の大河ドラマ台本を見ての勉強会になる予定です。
借りている部屋が狭く20人弱しか入れませんが、興味がある方はぜひお越し下さい。

しかし…
管理人は先約の為に参加できません。
当日は『どんつき瓦版』編集部の編集長がメインに進行しますので、よろしくお願いします。

『新修 彦根市史』第三巻

2009年03月13日 | 書籍紹介
2009年3月10日、『新修 彦根市史』の八冊目の配本となる第三巻(通史編 近代)が発売されました。

今回の巻は井伊直弼が彦根藩主に就任した嘉永3年(1850)から、太平洋戦争が終わる昭和20年(1945)までの彦根の歴史が綴られています。

彦根では井伊直弼が暗殺される桜田門外の変までの話はよく話題に上っても、その後にどのような立場に彦根藩がいて、新政府とどうやって関わっていったのかを語られる事はほとんどありません。


そして、明治維新の功労者で明治初期から戦前まで居た薩長系の元老職の方々が作った「井伊直弼は吉田松陰を殺したし、違勅開国したから悪人」という評価を受けて彦根市民が「みんなそう言うから直弼は悪人なんだ」と勝手に納得している節があります。
それが現在の彦根市民や彦根の子どもたちが井伊直弼の本当の姿を知らない結果にもなっています。
せっかくの歴史があるのに勿体ないです。

このブログでも応援している『井伊直弼と開国150年祭』ですが、その直弼像は「チャカポン」と開国しか浮かんでこないのも地元市民のレベルです。


では、直弼は何をしたの?
何故暗殺されなければいけなかったの?
直弼が死んだ後の彦根藩って?
そして彦根人は明治をどう生きたの?
彦根の地場産業の誕生は?
彦根の教育は?
戦争と言う暗い時代を彦根市民はどうやって生き抜いたの?

などなど、150年祭開催期間だからこそふさわしい彦根の本当の意味で激動150年の前半分を教えてくれています。
彦根市民が今まで殆ど見てこなかった時代だからこそ、この機会とイベント開催中に見て欲しいですね。
昔の彦根市民は直弼や井伊家を検証する為に今とは比べ物にならない位に本気で動いている様子もうかがえます。

六反田遺跡発掘調査報告会

2009年03月07日 | 講演
2009年3月7日、鳥居本公民館で宮田町の遺跡の発掘報告会が行われましたのでその内容をご紹介します。
展示されていた出土品を手で触る事ができ、しかも説明していただきながらですのでとても面白い時間でした。

縄文時代もじっくり聴いて質問すると奥が深いです。


六反田遺跡発掘調査報告会『食にまつわる縄文人の工夫と祈り』
滋賀県文化財保護協会主任:瀬口眞司さん

 今日お話しますのは縄文時代の事です。縄文時代の人も私たちと同じように飯を食っていますけれども、その食にまつわる縄文人の工夫、それからどんな祈りをしていたか?という事が発掘調査からわかりましたので、それを皆さんにお伝えさせていただきます。

さて、まずは時代背景からです。
『天地人』で有名な石田三成・直江兼続が活躍したのは400年前です。彦根城は築城400年でしたね。次に卑弥呼が活躍したのが大体1800年前。もう一つ、ピラミッド・ツタンカーメンが活躍したのは3350年くらい前です。
 そして六反田遺跡は3000年くらい前、ここは覚えておいてくださいツタンカーメンと一緒なんです。


 まず、縄文時代はどんな時代か?
 ひとつ前に“旧石器時代”がありました。この時代の主食は大型の獣(ナウマンゾウ・アケボノゾウ・オオツノジカ)でした。滋賀でも多賀でナウマンゾウの足跡が見つかったりしたりしていますが、瀬戸内海でも漁師さんが網を張ると海の底からナウマンゾウの肋骨が出てくるそうです、瀬戸内海は昔は海ではなく陸地だったのです。
 旧石器の人たちはこれらの獣をハンティング、槍で殺して食べていました。これらの獣は一つの所には留まらず餌を求めて大移動します。人間はその尻を追いかけて動きまわるんです。
 まとめると旧石器時代は、食べ物を求めて動きまわる、専門用語で言うと“遊動(ゆうどう)”時代でした。

 縄文時代は、主食が変わり木の実を食べます。米を食べるのは次の弥生時代以降です。木の実は木になり動き回りません。木から落ちた実を食べる生活に変わり定住を始めるのです。我々は定住していますがその始まりは縄文時代なのです、縄文時代の人が定住を決めてくれなければ皆さんも今頃は遊動です。
 しかし一つ問題があります。動物を追いかけている頃は年中食べ物があったのですが、木の実は秋にしか稔りません、冬から夏は拾えません、でも食事は毎日します。これが今でも変わらない大問題なのです。それなら、どうしたんだ?という事が六反田遺跡の穴で判ったのです。


 六反田遺跡の場所は、現在の彦根市宮田町、近江鉄道鳥居本駅の近くの新幹線の高架沿いです。
 周辺の環境として、北に今は埋め立てられてしまった入江内湖がありました。ここからは昔、丸木船が出土しましたがその大きさは長さ5m幅50cmの2~3人くらいしか乗れない船でした。丸木船は日本で120艘出ていて、一番出ているのは千葉県、二番目は滋賀県で30艘(全国の1/4)出ています。特に六反田遺跡から佐和山を越えた麓の琵琶湖までの間にあった松原内湖では15艘くらい出ています。入江内湖で出た丸木船は日本最古級の5600年前ですが、この話は長くなるので日を改めてお話しします。続いて周辺を見ると、六反田遺跡の南西には佐和山城跡があります。
 これまで六反田遺跡の内容はよく判りませんでした。ところが昨年(平成19年度)の調査で今回掘った場所のもう少し北側では4000年くらい前の遺跡と、奈良時代・平安時代には色々な物資が集まるターミナルであった役割があったと思われます。

 そして今年度の発掘場所は地元では“セリワラ”と呼ばれる地域でした。“セリ”はどういう場所を指すかと言えば「水が湧き出る所」というそうです。今回の調査でも水が物凄く湧きました。
 そして今回の発掘場所の年代は3000年前、専門の言葉でいうと縄文時代の後期後葉から晩期前半。
 発見資料は、建物5棟以上、お墓11基以上、貯蔵穴15基、土器100箱、石器25箱、それぞれの数を数えると大体2000点くらいと考えています。そして土偶が1点出てきました。
 発掘を始めると普通では考えられないくらい多くの穴が出てきました。六反田はたくさん人が住んでいた都会でした。建物を発掘するとその隣にはお墓があり、縄文時代はひょっとすると家のすぐ隣にご先祖様のお墓がある感じだったのかもしれません、それは今分析中です。
 建物の柱を据えた穴を発掘すると、建物1棟は上から見ると丸い形をしています。そして大きさは畳で17畳くらい、縄文人は大体一人3畳で生活していますのでここは5~6人で住んでいたと判ってきます。穴の大きさは普通ですと穴の大きさは人の顔くらいで深さは30cmあればいい方なのですが、六反田遺跡の縄文人はよく頑張っていたようで普通の遺跡の倍くらいの大きさとなる60㎝位の深い穴が掘られていました。さぞかし立派な家だったことでしょう。浅い穴だと屋根も高くないのですが深いと長い柱が据えられます二階建てという事は無いでしょうが立派なお宅であった事が判ります。
 お墓は棺桶を使っていました。当時は甕を二つ合わせて中に遺体を入れて埋葬したのです。六反田遺跡ではこれが11基見つかりました。


ここからが今回のメインテーマ“貯蔵穴と土偶”です。
 キーワードが3つあります。
1.食糧危機
 最近、経済危機の方が叫ばれていますが、その前の洞爺湖サミットの頃は環境や食糧危機が心配されていました。ですから食糧危機は縄文時代も我々も一緒です。
 縄文時代の一番の危機は“食料資源量の季節変化”です。秋にしか採れず他の季節はどうするか?という問題でした。
2.備蓄・貯蔵
 これが良い形で残っていました。
3.豊穣の祈り
 大問題が起こると縄文時代も神様・仏様に頼むんです、祈りをします。

 お伝えしたい事は、我々はどのように危機を越えるのか?その知恵を先学(ご先祖様)に学ばせていただくという話です。
 縄文時代の人がどのように危機を乗り越えていたのか?です。

“貯蔵穴(ちょぞうけつ)”と言いましたが、何を貯蔵するかと言えば食べ物です。
どんな機能があるか?と言えば木の実を貯蔵する穴です。大きさは直径1m~2m深さは50㎝。これを計算すると一番大きい貯蔵穴でだいたい1600リットルの木の実が貯蔵できます。比較対象で冷蔵庫を考えると、家の冷蔵庫の容量は300~400リットルくらいです。ですから冷蔵庫の4倍くらい入りそれが見つかっただけで15基もあるんです。ですからたくさん蓄えてましたよね。
 発掘すると、何度も掘り返した跡がありました。これは木の実を蓄えて全部使うと下に溜まった土を掻き出して、また木の実を蓄えていたようです。そして掘り返しきれなかった溜まり土が残ったり取り損ねた木の実がそのまま出土したのです。
 発掘された木の実を見ると真っ黒な色をしていますが、これは酸素に触れて色が変わった物で、掘った直後は茶色の木の実の色だったのです。せっかく3000年茶色だったのに掘った為に酸化したのでした。
 ここでは水がコンコンと湧き出て、ポンプで出さないといけないくらいでしたらこの水が大切でした。今、食品を保存する時は塩漬けにしますが塩が無かった当時は今で言う真空パックをしていたのです。真空パックは酸素に触れさせない処置ですが、水の中にはあまり酸素がありませんので水の中に浸けると真空パックと同じ作用があり、水が木の実を3000年も木の実の色を残してくれた原因であったのでした。
 
 ちなみに出てきた木の実は一番多いのは樫の実(イチイガシ)でした。これはちょっと水に晒すとあくが抜けて食べられる木の実でした。縄文人はちょっと手抜きですかね?たぶん周りにたくさんイチイガシがあった為だとは思うのですが。
 豆知識として、貯蔵穴の一番古い例は縄文時代草創期の鹿児島東黒土田遺跡これは12000前です、これくらい前から縄文人は貯め始めました。そして寒いからなのかもしれませんが東日本の方が早くから貯め始めます、縄文時代前期には貯め始めました。関西人はのんびりしていますが貯め始めるのは4000年前です。そして段々増えて一人当たりの貯蔵量がピークに達するのは3000年前なのです。ですから六反田遺跡はぴったり合います。
 滋賀県内では縄文遺跡は300近くありますが、貯蔵穴が見つかったのはたった8遺跡しかないのです。六反田はその内の一つでしかも木の実が残った例は2例しかなく、大津の穴太遺跡で27年前に見つかって以来久しぶりの事でした、通常に遺跡では植物の実は溶けてなくなるのですが豊富な地下水が酸化から守ってくれたのです。
今回の発見の意義は「自然に立ち向かう縄文人の工夫が発見できた」ということです。
四季の変化に伴って変わる食料の変化を回避するために貯蔵を回避し、六反田遺跡はそれがとてもいい状態で見つかりました。人間がどういう風に生きてきたかを教えてくれる大事な文化財だったのです。
 現在の日本の自給率は40%未満であり経済封鎖をされると2か月くらいで兵糧攻めにあいます。現在いくら早稲といえどもお米が採れるのはやはり秋です。ですからそれを保存し、海外から輸入をしていますが、タンカーを動かすのは石油でこれが止まると日本は干上がってしまうので、現代人は縄文人に学ぶところがあるかも知れませんね。

 ですから、縄文人も祈りました…
 続いて“土偶”の話をします。
 土偶は土で焼いた縄文時代の呪いの道具で、六反田遺跡からは1点出土しました。大きさは12cmでちゃんと乳房が付いていましたので女性です。それから腰がくびれて大きなお尻が付いています。でも完全体ではなく、頭・両腕・右足がありません。これはわざと折られた可能性があります。余計なことですが、県内で一番グラマーです。何の自慢にもなりませんがね(笑)
 土偶の最古例はお隣の三重県です松阪市粥見井尻遺跡で12000年前に作られました。全国では数万点出ていますのでそんなに珍しくはないのですが、関西では珍しいのです。
 関西地方では5000年前から出始め、4000年前からドンと増えてきます、実は3000年前はぽっかり無かったのですが、それを六反田遺跡の資料は埋めてくれました。
 発見の意義ですが、これは古い神話(記紀)の話になります。
古い神話の中では、女神を殺しバラバラにします、これだけに新聞に載りますね。そしてバラバラの身体をあっちこっちに埋めるとそこから稲や豆や麦といった芽が吹き始めると言う神話が日本にありますが、日本だけではなく太平洋のあっちこっちに同じ神話があるのです。
 女神の死体は食物の再生の意味があります、男では決してできないのです。この再生ということで「やはり女性は凄い」とこの神話は話しているのです。縄文時代の土偶が女性像でわざと壊しているのは、壊して埋めるんです。するとまた再生し豊穣をもたらすと考えられたと想像できます。
 関西地方では土偶の変化が木の実の貯蔵量とほぼ一致するのです。ですから木の実の貯蔵の増加に伴って祈りの方も増えると考えられます。
 今回は貯蔵の穴から直接出てきました。こんな例は全国を探してもどこにもなく神話を裏付けるぴったりの例でした。


まとめると、
・3000年前の村が見つかり、特に注目されるのは“貯蔵穴”と“土偶”でした。
・食糧危機の工夫を如実に表していました。
・我々のご先祖様がどのように生き抜き、我々がどのように生き抜いていけるのか?という事を考えるきっかけの一つになるのではないのかな。
という事を実感する発掘となりました。


≪質疑応答≫
(質問者)
 貯蔵に水が溜まると腐るのではないですか?
(瀬口さん)
発想が逆なんです“水浸け”にするんです。水にそのまま置くと芽が出て虫が付くのですが、穴を掘って水浸けにして常に新鮮な水を流すようにすると保存でき、関西では湧水の近くに貯蔵穴が発見されます。
ところが東日本では逆に乾燥させます、囲炉裏の上に棚を作って木の実を並べます。しかし偶に棚が崩れて火事になる事もあったようで、火事になって栗が真っ黒になった発掘例もあります。
(質問者)
 この辺りは昔から水が出るので、新幹線もわざわざ高架にしたという歴史がありますが、東山道はどこから繋がりますか?
(瀬口さん)
 六反田遺跡よりはもうちょっと佐和山寄りで、この辺りは水が出た感じがなくその辺りが道と考えられます。
(質問者)
 物を貯蔵し出したら、その事によって起こる争いの跡は遺跡から出てこないのですか?
(瀬口さん)
 縄文時代に関しましてはあまり見られません、人骨やお墓から矢じりが刺さったまま出てくるのは弥生時代からです。お米を作って田を整備して水の争いなどが出てきてから武器も出てきます。縄文時代では矢じりくらいしか武器が出てきませんが、弥生時代は多く出土します。
 ですから縄文時代に関しては争いの心配はあまりないのです。お米は日本の歴史を変える大きな要素だったかもしれませんね。
(どんつき瓦版編集長)
 木の実をネズミに齧られたり、動物に食べられたりは結構あったのでしょうか?
(瀬口さん)
 あるかもしれません、色んな工夫があるかもしれませんが、そういった観点からもう一度分析しなおす時期に来ているかもしれません。
(どんつき瓦版編集長)
 弥生時代なら高床式などもありますが、水に浸くと真空化されて小動物に発見されないとか?
(瀬口さん)
 そうですね、西日本は水に浸ける事によって防いでいた事はあると思います、常に新鮮な冷たい湧水だとできますね。六反田遺跡の湧水は冷たくて気持ちいです。
(管理人)
 昔のシャーマンの伝統が残って、それが神社や祠という形で残ったりしますが、近くの山田神社とこういう所の関係はありますか?
(瀬口さん)
 ここが3000年前で、神社が1200年くらい前なので、その間の1800年間の繋がりですね?
(管理人)
 そういう物が話として残って作られた、とかあるのかな?と…
(瀬口さん)
 こう言って逃げます(笑)
 ここに関してはまだ分かりませんが、岐阜県の飛騨(富山との県境辺り)では石棒という物があり、これは石で作った男性の性器をたくさん作りそう言った物を作った遺跡のすぐ隣にやはり男性を祀る神社がありますので、脈々と続く場合もあります。
 もっと新しい例では古墳の隣や上に神社もありますので、そういた例ではわかり易いですが、今回の山田神社との六反田遺跡については昨年掘った(もう少し神社寄りの遺跡)は関係あるかも知れませんので、担当者にふります。



そして、終了後もまだ質問しました。
(管理人)
 完全体で残る土偶の方が失敗作だとは考えられますか?
(瀬口さん)
 とても作りが良いのでそれは無いと思います。
(管理人)
 2つあって、「こっちの方が良いからこっちにしよう」みたいな事は?
(瀬口さん)
 それは持っていなかったアイデアですが、考えても面白いですね。
(どんつき瓦版編集長)
 3000年前と言いますが、同じ場所に人が居るものですか?
(瀬口さん)
 移動してしまう場合もありますね。例えば磯山なんかは1万年前から1万年間ずっと人が住みついています。
 六反田遺跡は隣に広がっていくかも知れませんが3000年前からは移動して、どんどん鳥居本の駅に近付いているかもしれませんね。


(管理人私見)
発掘資料の中で特に面白い説明の一つが矢じりの材料でした。
湖東地域では岐阜の材料(チャート)から作られ、大津近辺では奈良(サヌカイト)の材料から作られているそうです。これを現在の同地域の新聞購読事情に重ねると、湖東地域は『中日新聞』(東海系)、湖南地域は『京都新聞』(関西系)が多く、縄文時代も現在もあまり経済圏に差がない事を知らされました。

彦根カクテル『イントロダクション~開国~』

2009年03月06日 | イベント
3月1日のひこね開国フェスタでは、彦根カクテルの試飲も行われました。

『彦根カクテル』
ベースは福山の保命酒。
これは黒船来航の時に老中首座だった福山藩主・阿部正弘がペリーにふるまった食前酒として記録に残るものだそうで、高麗人参を材料に作られていますので、阿部正弘が太平洋を渡ってきた客人に対して健康を害さないように気遣った小さな心配りの証拠なのかも知れません。

その保命酒を「開国」の象徴とし、井伊家の家紋である橘に似た感じのゆず風味を加え井伊の赤備えにちなんだ赤い色も付けて「井伊直弼」を表すことで、「開国」と「井伊直弼」を合わせた彦根ブランドのカクテルが出来上がったそうです。

命名は『イントロダクション~開国~』
このレシピは広く公開され、彦根でのカクテルとして広げていきたいそうです。


管理人は車で会場に行った為に飲むことはできませんでしたが、飲んだ方の感想ではジュースのように甘くて飲み易かったそうですし、作られた方に訊きますと「保命酒がそうだったように、食前酒として良いカクテル」との事でした。


公開されたレシピは、以下の通り。

・保命酒…………30ml
・ゆずシロップ…10ml
・クランベリージュース…20ml
・フレッシュレモンジュース‥1tsp
・ソーダ…………Full

黒船カリー

2009年03月01日 | イベント
2009年3月1日、滋賀大学彦根キャンパスで「ひこね開国フェスタ」というイベントが行われました。

それぞれの部門に応じて何度かに分けてご紹介しますが、今回は新しく作られた“黒船カリー”をご紹介します。

これは、今回の開国イベントの為に考案された物で、お米は新潟産「こいしぶき」で、黒船のイメージの為にイカ墨で黒く色付け。
ルーも黒色を付ける為に滋賀県産の竹炭を使用。
そして具には、長崎産のにんじん・淡路島産(神戸近く)の玉ねぎ・函館産(箱館)のホタテ・横浜産の豚肉「はまぽーく」が使われました。
新潟・長崎・神戸・箱館・横浜は『日米修好通商条約』締結時に開港が決められた5港でそこに近江が加わる事で「黒船カリー」となったそうです。
味は、お子さんでもいただけるようにか?少し甘めでしたが、それぞれの都市の雰囲気を味わえる物で、それだけではなく美容や健康も考えた健康的なカレーになっていました。

このイベントだけではなく、この先に商品として生かせていけるような方法を考えておられるそうですから、新しい彦根ブランドの一つになるかもしれませんね。