彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

封建社会の納税(前編)

2020年05月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 私たちはなぜ税金を支払っているのか?
 生まれたときから当たり前のように納税義務があり、その税率も勝手に決められていると感じてしまう。もちろん民主主義においては税金も国民の代表が民意で決めたという建前は成り立っているが、どうしても一方的に決まったようなイメージが付き纏う。
 税金の始まりは弥生時代辺りと考えられる。縄文時代は全員で協力して狩りなどを行わなければならないため、ムラの指導者の下で食料などは平等に分配されていた。しかし農耕が広がると個々の実力が重視されるようになり能力によって貧富の差が生まれてしまったのだ。富んだ者に救いを求める行為が主従関係を作り権力へと変化してゆく。権力者はより大きな権力と富を欲して争いが生じるようになり組織となる。組織が統合され国になり運営する必要性から階級が生まれ、階級の下に属する者は、もっと下を求めて運営に関与しない者を差別するようになる。本来は豊かな者に救いを求めた行為がいつの間にか権力者を集団が支える構造へと変わったのだ。ただし権力者は民衆から献上品を受け取る代わりに民衆を守る義務をより明確に担うようになる。簡単にいえば税金は民衆を守るための積立信託のようなものであり、権力者は民衆のために公共工事や福祉充実・外敵や自然災害の備えを行う責任を負う関係が築かれていったのだ。
 しかし、大和朝廷が国をまとめると税金の徴収が当たり前となる。平安時代になるとその甘味を狙った藤原氏が荘園制を確立させ土地や民衆の私有財産化を行い、この時点で完全な地方分権である独自の封建制度を合法化してしまったのだった。
 やがて権力の中心が貴族から武士に変わるが、民たちは自分たちを保護してくれる相手に年貢という形で納税を行っていた。地方分権であるため税率は領主によって大きく変わる。しかし無理な徴収を行うと民が反発し別の領主を望むようになるため戦国時代になると無理な徴収を行った大名家は他家に攻められ滅亡した。
 江戸時代は徳川幕府が全国の大名に目を光らせているが基本的には地方分権である。大名それぞれの判断で領内の年貢を徴収するが、一部でも幕府に納める制度はなく18世紀初めには幕府の財政は逼迫していた。幕府に対しての各大名の出費は強いて記すならば幕閣に参画する経費が個々の負担であったことと幕府が命じる公共事業も大名負担であったこと。強大な江戸幕府ですら地方分権の兆でしかなかったのだ。
 彦根藩などの譜代大名は政治に参画するため継続的な経費が必要になる。一方、全ての大名には薩摩藩の宝暦治水(木曽三川治水工事)などの特別な公共事業で一時的に多額な経費を要求された。各藩の財政は潤沢なものではないが、年貢を徴収している以上はそれを蓄えて、救民を行うのも当然の義務であったのだ。封建社会の納税とはそれほど重みがあるものだったと言える。


彦根藩の年貢集積地の一つ松原御蔵跡(現・滋賀大グランド)
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鎮守屋敷

2020年05月23日 | 史跡
前回、大阪市阿倍野区の北畠顕家の墓を紹介しまたが、近くにはもう一か所お墓があります。



堺市西区にある鎮守屋敷は、石津の戦いの古戦場であり、この地で顕家が討死したとの説もあり江戸時代には「行家」と刻まれた墓石がありこの名が平安時代末期に暗躍した源行家の墓とも、「ゆきいえ」ではな「あきいえ」の墓で、北畠顕家の墓ではないか?(行家も顕家も共に源氏)とも言われています。




阿倍野も石津も北畠顕家に関わる建武5年5月22日の戦場であることは間違いないのですが、戦場が「阿倍野→石津」か「石津→阿倍野」に移動したかによって顕家終焉の地が二か所になったのです。

昭和12年(1937)、顕家の600回忌を記念した「没後六百年祭」で、重臣南部師行ら家臣も含んだ新たに供養塔も建立されました。






余談ですが、石津の戦いより前の青野ケ原の戦いでは、宗良親王に従った井伊家も参戦していたはずですが、石津の戦いの前に宗良親王や井伊家の人々は遠州井伊谷に戻ったと考えられます。
新田義貞の次男義興も関東に移動していて、関東で戦う義興の家臣には井伊弾正直秀の名前が登場します。
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5月22日、北畠顕家討死

2020年05月22日 | 何の日?
建武5年(1338)5月22日、北畠顕家が討死しました。
大河ドラマ『太平記』では後藤久美子さんが演じた美男子イメージが強いですが、21歳で南朝に殉じて亡くなったことでの悲劇の若武者であったこともイケメンイメージを上げているとは思います。

しかし、顕家は普通の武将だったわけではなく、二回も東北から関西まで攻め上がった名将だったことは間違いありません。
16歳のときに「陸奥守」に任じられて、父の北畠親房とともに国府多賀城に入って東北地方を治めて行きます。

三年の治世の末に、足利尊氏が後醍醐天皇に反発して京を支配したことから多賀城から京まで一気に進軍して尊氏を追い出しました。尊氏は九州まで逃れて再起を計ることなります。
再び多賀城に戻り、霊山に拠点を移動したものの二年後にまた京に返り咲いた尊氏を攻めることになります。二度目のときはすでに楠木正成が亡くなっていて北陸にいた新田義貞と呼応しての進軍のはずでしたが、義貞は次男の義興を派遣したのみでした。それでも霊山をでた顕家は関東の足利氏の拠点を混乱に追い込み、鎌倉を守る斯波家長を討っています。

二度目の上洛戦では、東北からの連戦の果てに、関ヶ原で3回行われた戦いの一つである、青野ケ原の戦いで勝利を収めますが、黒血川を守る佐々木道誉らの軍を前に奈良に逃れ、河内の戦いで高師直らと戦い、討死したのです。

顕家が戦った地に阿倍野神社が建ち、




近くの北畠公園にお墓があります。








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10万円の使い方

2020年05月19日 | その他
いつ貰えるかわからない給付金ですが、使い方を考えてみた。

コロナで減給になった分と、固定資産の残りを払ったりするのに使うくらいでしょうね。
よく考えたら、収入が増えるわけではないですね。
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称念寺

2020年05月17日 | 史跡
『麒麟がくる』で、明智光秀が門前に居を構えた地として紹介された称念寺。

ここには新田義貞の供養塔があります。



福井市内の灯明寺畷の戦いで討死した義貞の遺体が8人の僧によって運ばれたのが称念寺とされているためです。
のちに徳川家康が新田義貞の子孫を称したことから、江戸時代には大きく栄えました。

また、松尾芭蕉も訪れていて、煕子のことを句にしています。



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なんじゃもんじゃ

2020年05月11日 | 史跡
沙沙貴神社のなんじゃもんじゃを5月7日に見てきました。


日本では対馬と木曽川沿にしか生息していないなんじゃもんじゃがなぜか安土町でも花を咲かせます。
5月上旬の一週間程しか咲かないので、タイミングよく思い出した年だけ楽しんでいます。









限定御朱印もありました。



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六波羅と井伊家

2020年05月09日 | 史跡
鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である北条仲時。
その墓を六はら山に移した井伊直定(推定)
そして、六はら山の麓に祀られている井伊直孝。

どんな歴史的背景があるのか?
考えると楽しくなってきますが、六波羅といえば六波羅探題が置かれていた京都の地も井伊家とは深い繋がりがあります。

六波羅探題の跡地の一部に建てられている六波羅蜜寺。
平清盛や空也上人の木像を観ることができることで有名ですが、それらと並んで井伊直政の木像も観ることができます。

六波羅蜜寺は戦国時代に荒れ果てていたのを、豊臣秀吉が再建した寺社の一つですが、井伊直政はここの住職秀誉に帰依しまた。
直政の死後、元和元年(1615)に、直孝が鐘楼を寄進し、彦根城築城が完成した翌年の元和9年(1623)に六波羅蜜寺本堂の南側に祥寿院と言う堂を建立して、ここに直政像と衣冠装束を安置しました。そして明治2年までは井伊家の保護は続いたとされています。
直政の戒名は「祥壽院殿清凉泰安大居士」なので、この堂が直政の為に建立された物であることは間違いありません。
ここに安置された木像は、直政の死後すぐの像であることから一番直政の様子を伝える物ではないか?とも言われています。それが現在に伝えられているのです。

そして今も、祥寿院は弁財天堂として本殿の南に残っていて「祥寿院」の扁額や橘紋の瓦を見ることができます。



深読みすると、彦根藩主にとって六波羅は大切な場所であり、北条仲時に対しても畏敬の念があったかもしれないとも考えられるかもしれません。
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5月9日、北条仲時自害

2020年05月09日 | 史跡
元弘三年(1333)5月9日、北条仲時ら432名が近江国番場の蓮華寺で自害しました。
仲時は、13代執権北条基時の子で六波羅探題北方を勤めていましたが、足利高氏の挙兵で六波羅探題が攻められ敗れたのです。
東山道を鎌倉に向かって逃れますが、野党などにも襲われ兵たちは散り散りになります。
そして、柏原に拠点を持つ佐々木道誉に阻まれ蓮華寺本堂前で自害したのです。


仲時ら432名のお墓は蓮華寺にありますが、彦根藩主が馬で墓参りに来たために、その藩主の夢枕に仲時が立ち「我を馬上から見下ろすとは何事ぞ」と怒ったために、仲時の墓は蓮華寺向かいの山の上に移されました。

そして、蓮華寺には新たな墓石が作られました。
(新型コロナのため、蓮華寺にお参りに行けませんでした)
仲時の墓が置かれた山は「六はら山」と呼ばれています。

は蓮華寺と向かい合うようにあります。

そして近くから蓮華寺が見えます。


これは享保年間とも言われていますので、その話が正しければ、彦根藩主は井伊直定になります。
直定は、残された甲冑に武骨さがあり積極的に狩などを行う人物でもあったので、馬から降りないまま蓮華寺の参道を進んだ可能性はあるかもしれないと思えてなりません。
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直孝神社

2020年05月08日 | 史跡
昨日、六はら山に移された北条仲時の墓について書きましたが、この墓石の麓に直孝神社があります。

祀られているのは、稜威直孝彦命。つまり彦根藩二代藩主井伊直孝です。
稜威(いつ)は、厳に通じ「神聖で威力を持つ」にも通じてる意味なので、直孝を神格化したしたことには間違いありません。
しかし、寛永20年(1643)に勧請されたとも言われていて万治2年(1659)に直孝が亡くなる16年も前から祀られていたとも考えられず、謎が深まります。
ちなみに、古くは「溝尻神社」直孝神社と称されるようになったのは滋賀県神社庁のHPでは正和49年からとされていますが、「正和」と言う元号は鎌倉末期に6年間だけあった元号(執権が北条仲時の父基時から高時の頃)で、正和49年は存在せず、正和は昭和の間違いです。
しかし、溝尻神社と称される頃から稜威直孝彦命を祀つていたのは間違いなく、本殿には橘紋も刻まれています。


さて、そこで不思議なのはこの直孝神社の鳥居からまっすぐ正面の参道は六はら山を進んでいて、山に登る直前で直角に曲がって本殿となることです。
そのまま山を登ることは山が険しくてできませんが、位置としては北条仲時の墓にまっすぐ向いているようにも感じます。



直孝神社と仲時の墓に因果関係を示す資料は何も見つけていませんが、彦根藩主に馬上の無礼を咎めた仲時の墓の直下に彦根藩井伊家の祖とも言える直孝(直政は彦根藩よりも直勝・直孝の両家の祖)を祀る神社があることに不思議さを感じます。

もしかすると、最初は寛永20年に直孝が神社を勧請して、直定が仲時の墓を移動させたときに直孝を神として祀り、仲時を見張らせたのかもしれませんね。
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