彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『彦根少市民読本』

2009年04月29日 | イベント
『井伊直弼と開国150年祭』の事業の一環として4月29日から11月3日まで「ひこね名所スタンプラリー」が行われます。

これは、事前に彦根市内の小学4~6年生に向けて配布された『彦根少市民読本』の中に30ヶ所のスタンプラリーポイントと2回のイベントでのスタンプを押して回る事で、彦根の歴史について子どもの時から親しんでもらおうという企画になっています。

スタンプポイントの30ヵ所は彦根城や佐和山城という観光名所だけではなく、荒神山神社や長久寺などの市民でもなかなか訪れないような場所や、甲良神社・筑摩神社などの市街地域も含まれています。
この本を読みながらスタンプを押して、そこの場所の歴史を学ぶという大きなイベントになっています。

果たして、この『彦根少市民読本』から将来の彦根の歴史を育む子どもたちが育って行くのか?
未来に期待を残した取り組みですね。

彦根市長選挙

2009年04月27日 | イベント
2009年4月26日、彦根市長選挙の投開票が行われました。

『どんつき瓦版』編集部はこの選挙に際して彦根城内のスピーカー使用自粛のお願いを記した『どんつき瓦版』特別号を発行し各候補者の選挙事務所へお配りしました。

国政選挙では国民全てが有権者となるので、彦根城内での選挙活動の自粛をお願いする事は出来ないそうなのですが、市長選挙ですと彦根城にお越しの方のほとんどは有権者ではなく市外からお越しである可能性が高いために選挙活動の自粛のお願いは大丈夫との確認を得て、 春の観光シーズンに彦根城にお越しになれた方々が静かに楽しんで下される環境を作れたらという想いでした。

各候補者の皆さんが…
「そりゃ、彦根城内は市外からの観光客が殆どだから、選挙カーでスピーカー使用は自粛しないとね」って認識して頂いた事が良かったと…
候補者の誠意に彦根城を愛する者として 「ありがとう」と言いわせて頂きます。

しかし、最後の金曜日朝にスピーカー使用をした候補者がいた言う報告がありました。これは悲しい事です。
これを受けてもう一度だけ同じ瓦版を配布させていただきました。


ご協力いただきました皆様、本当にありがとうございました。

余談ですが…
投開票の結果は皆様のお耳にも届くと思いますので改めてここで記しませんが、投票用紙の中には「ひこにゃん」と書かれた物も9票あったそうです。
ひこにゃんの市長姿って微笑ましいかもしれませんね(笑)

お浜御殿特別公開

2009年04月25日 | イベント
4月20日から5月24日まで、国の名勝指定を受けている松原下屋敷(通称・お浜御殿)が特別公開されています。

彦根藩の藩領での下屋敷は、城内にある“槻御殿”が有名で観光名所にもなっていますが、それとはまた別の趣で造られたのがお浜御殿でした。
造ったのは井伊直弼の父親の直中だと言われています。

お浜御殿は琵琶湖沿いに造られていて、その庭園は、琵琶湖の水を引き込みその満ち引きによって庭園内の波打ち際も変わる“汐入方式”が工夫されていました。
これは、海沿いの庭では見る事ができる方式ですが、淡水ではお浜御殿のみが唯一の例として国の名勝指定を受けたのです。

今回の特別公開は、建物の中は観る事ができませんが、井伊直弼も楽しんだと言われる庭園を見る事ができます。直弼はこの庭園に4ヶ所の茶室を造ったそうですので、思い思いにその場所を探して空想してみるのも楽しいかもしれませんね。


庭園内は紅葉が葉を付けていましたので、秋が特に美しいと思いますし、秋にも特別公開を予定しているそうですが、新緑に萌える庭園を廻り、歴代藩主や歌人・井伊文子さんの頃に思いを寄せて自然に身を任せてもいいかもしれませんね。

野点も合いそうな場所ですよ。

管理人より謝罪

2009年04月14日 | 謝罪文
 この度、彦根市様、井伊直弼と開国150年祭実行委員会様、米沢市様、報道機関関係者様ならびに関係組織団体様に多大な迷惑をおかけしたことを謝罪しお詫び申し上げます。

 今回の問題は、どんつき瓦版編集部として取材を行った写真を「どんつき瓦版」「開国」掲載前に取材者個人のブログに載ったことが問題となりました。今回の取材制限が報道機関限定であったことから写真等の取り扱いには十分に注意を払い今後の取材、編集に活かしてまいります。

 今後の対策として、どんつき瓦版編集部は「どんつき瓦版」「開国」両紙以外に早期にホームページを立ち上げ、小さいながらも報道機関の1つとして多くの皆様に情報発信を行ってまいります。

  『どんつき瓦版』編集部  代表 正村圭史郎


 この度の事は本当に申し訳ありませんでした。ひこにゃん・かねたんファンの皆様、そしてこれらに関わる全ての皆様に対し、伏してお詫び申し上げ、同じ失敗が二度と起こらないように努めて参ります。申し訳ありません。

  『どんつき瓦版』編集部  記者 増田 由季

 

○問題の経緯

 4月11日に掲載いたしました、かねたんとひこにゃんの初対面の記事につきまして、同月13日に取材関係者から「報道機関として取材した写真を個人ホームページ(ブログ)に私的に利用する事は好ましくない」との指摘を受け、突然ではありましたが上記記事の写真を削除いたしました。

 「どんつき瓦版」「開国」は彦根市内にのみ発行されていて、なおかつ記事の速効性に欠けます。また報道としてのホームページ作成につきましては未だ立ち上げに至らない経緯もありました。
 この為、全国にひこにゃんとかねたんの対面を知っていただく機会がほぼ失われると危惧しての個人ネットワークの私的利用を行ってしまいました。

 いかなる理由があるにせよ、取材関係者からの指摘は当然のことであり、この度の失態を深く反省しております。
 また、ひこにゃんやかねたんを応援して下さっている方々にも、多大なるご迷惑をお掛けいたしましたことを伏してお詫び申し上げます。

  『どんつき瓦版』編集部

小和田哲男先生の講演 その2

2009年04月13日 | 講演
(続き)

以上三成を中心に話をしてきましたが、その三成と『天地人』の主人公である直江兼続の関わり。そんな直江兼続の方に話を移していきます。
 『天地人』では“愛”の兜の前立が一つの主になっていますが、その“愛”という字の由来はいろんな説があります。
 例えばよく言われるのが“愛染明王”、あるいは同じく愛という字の軍神に“愛宕勝軍地蔵”もあります。京都へ行きますと西北に京都市内では一番高い山だったと思いますが、明智光秀が愛宕百韻という連歌会を開いたあの愛宕山があります。そこで祀られているのが愛宕勝軍地蔵です。昔、学生を連れて愛宕山を登ってきましたが麓から1時間半は登り詰めで「明智光秀も苦労したんだな」と思って登りましたが、その愛宕勝軍地蔵は“愛”の字を使っています。
 つい最近学研から実戦兜の本が出まして、そこに前立にどういう物が推し立ているかが解るのですが、かなり軍神が置かれています。上杉謙信の場合には飯縄権現を置いていますし、他にも梵字で神を示している物もあります。しかも“愛”の字の下に雲が描かれています。その雲が描かれてるという事はそこには神が祀られているという事です。ですからNHKの会議の時に「この解釈どうしようか? 単なる“愛”の言葉が今使われている仁愛ではなく、愛染明王か愛宕勝軍地蔵だ」と主張はしているのですが、やはり百姓憐憫や愛民の想いもあるので「そういった物も入れたい」との事でした。入れ方はここで言ってしまうとこれから出た時に面白味が無くなるので、ここで留めておきますが、色んな解釈があるとご理解いただきたいと思います。
 
 直江兼続は上杉家の“執政”と言われています。“執権”という言葉は鎌倉時代によくご存じだと思いますが、言ってみれば同じ意味合いで執政と使っています。つまり「主君に代わって実際に政務を執る」という事です。これは単なる家老ではありません。戦国時代には領国や規模の大小によって多少違いますが、大体どこの大名でも家老クラスが20人くらいは居るのです。『武田二十四将』が代表的だと思いますが、当時の文書にも「北条家の家老20人」と出てきますし、家康の重臣も『徳川十六神将』『徳川二十将』という言い方をするように、大体どこの戦国大名でも家老は20人くら居ますが、その中のトップが直江兼続なのです。
 『天地人』を最初から見ておられる方は分かると思いますが、景勝が子どもの時に5歳であった樋口与六が近習として仕え始め、その二人の絆がそのまま成長してトップとナンバー2の図式が成り立つ訳です。この二人のコンビはある意味では上杉家を守り抜く、戦国大名から近世大名へ生き抜いていく大きなきっかけになると思います。
 
実際に直江兼続はどういう仕事をしていたのか?という事ですが、面白い資料が新潟県史の資料編に載っています。
古いタイプの呪術者という言い方をしますが、占い呪いに関係する占筮術、平安時代で言う陰陽師・安倍清明のような人と景勝の仲立ちをする、つまり占いによって軍をどうするか?を決めるようなやり取りをお坊さんと行った文書が残っています。そう言った意味でいきますと直江兼続は半分は古いタイプの呪術者的な事をやっていたのも伺えます。
それからドラマでも1話2話辺りで出ていました、坂戸城下(南魚沼市)の雲洞庵という禅寺で修行をしています。この禅の教えは戦国武将たちに受け入れられて行ったという側面があります。これは『戦国武将を育てた禅僧たち』という本を書きましたが、私の場合静岡生まれで、親戚の人に臨済宗のお寺の雪斎というお坊さんの話をよく聞かされていました。その雪斎に松平竹千代(後の徳川家康)が軍学を習ったという話をよく聞いていました。今川義元も雪斎が育てています。余談ですが小説家の宮城谷昌光さんと対談する機会があり「軍師として一番優れていたのは誰でしょうね?」という話になった時に奇しくも雪斎で一致しました。
そういう禅僧たちが自ら軍師を買って出る側面もありますし、禅僧が武将を育てるという事で直江兼続の場合には禅と切っても切れない縁にあります。幼い頃に習ったのは曹洞宗ですが、天正16年に上洛して妙心寺で南化玄興という当時の有名なお坊さんに教えを請います。
南化玄興は妙心寺の住職でありますし、一番有名な例では織田信長から依頼を受けて『安土山記』という安土城を讃えた文章を書いた人でもあります。信長は最初に天竜寺の住職だった策彦周良に依頼したのですが、策彦周良は「自分は高齢であるので」と弟子にあたる南化玄興を推薦したという有名なお坊さんなのです。
兼続は南化玄興に師事して、その時に『古文真宝集』という本を借りて書写し、これを返却しますが、その態度に感動した南化玄興が自分の持っていた蔵書の中の何冊かをプレゼントします、そこには『史記』『漢書』『後漢書』などを貰って米沢に戻ります。現在その3つは国宝になっています。中国でも宋代の3つは上海大学かどこかにあるだけの貴重な物です。
そういうのを見ると、如何に戦国時代に学問に触れた武将だったかがわかります。そんな中で世間を見る目が鍛えられていったのですが、世の中の豊臣大名が家康に靡いていく状況が禅の教えからしても納得いかない想いがあったのではないか?それが結果的に『直江状』に反映されて行ったのだと思います。
関ヶ原の戦いは、家康が会津討伐。これは五大老のひとりである上杉景勝が謀反を起こそうとしたのとはちょっと違うと思います、慶長3年(1598)に越後95万石から会津120万石に景勝が移ります。その理由は蒲生氏郷が亡くなった後に、北から徳川家康を監視し伊達政宗や最上義光という大きな大名を把握するという豊臣政権の東北出張所ともいえる重要拠点であった会津に上杉景勝を秀吉が入れました。
移ったのは慶長3年の1月ですが、8月に秀吉が亡くなります。ですから移ったばっかりで城や道路を直したり、武器を揃えたりしていたことが家康にすれば「自分に対する牽制だ」と分かっていて面白くないという事で、いろいろと難癖を付けて攻めて行ったという事になります。
それと同時に、この時の動きとして越後には堀秀政が入るのですが、慶長3年の年貢を上杉が半分持って行って、堀秀政が訴えた事も会津討伐の理由付けになっています。この時家康は秀頼にどのように言ったかは分かりませんが「五大老の一人として相応しくないから懲らしめに行かなければ」という事で秀頼から米と軍資金を貰い家康個人の軍ではなく“豊臣軍”として出掛けて行ったのです。ですから当然豊臣大名がたくさん入って来るので、豊臣政権の一環として五大老の一人として上杉景勝を討つというのが、当時の家康の名目になります。
そこでいろいろと非難をする訳です。そんな家康の非難(詰問)に対して明快な回答を出したのが『直江状』になります。この直江状は10年くらい前までは偽文書で後世に作られた物だと言われてきました。私も文章を読んだ限りではあまりにも過激だし、言葉使いも当時と違うんじゃないかな?と思っていましたが、最近「直江状に関しては当時の文書としていいんじゃないか」という意見で落ち着いてきたように思います。
その突破口を開いたのは吉川弘文館の戦争の日本史の中の『関ヶ原合戦と大坂の陣』という本の中で笠谷和比古さんが詳しく書かれています。結論だけ言いますと直江状の原本はありませんが当時の物としていいと思います。追手書きの部分は後の人が手を加えたかもしれませんが、文章その物は直江兼続が書いた物として良いだろうと思います。
その文章には明らかに家康に対する真っ向からの挑戦が漲っています、そういった意味では“義”を貫く直江兼続らしい文章がそこにはあったのだと思います。
よく質問を受けますが、兼続と三成の関ヶ原を前にしての密約があったのかどうか?ですが、これはちょっと分かりませんが、状況としては事前の連絡は無かったと私は思います。東西呼応してとよく言いますが、結果的に呼応する形になったのではないか?と思いますがこれはもう少し研究してみなければならないと思います。

その関ヶ原の後、会津120万石から米沢30万石に減らされます。その時の直江兼続の差配が、私はやはり直江兼続の真骨頂、素晴らしいところではないか?と思っております。
これはどういう事はと言いますと、所領は1/4になるのでそこで家臣の数を減らす筈です、所謂リストラです。しかしそれをしない関ヶ原合戦の西軍に付いた大名たちは、改易された場合には所領没収なので家臣は路頭に迷う訳ですが、今度は東軍側が加増されますのでそういう人たちはかなりが登用されて行きます。つまりは再就職が可能だったのです。
ですから兼続も家臣たちに「伝手があって仕える武将があるなら行っていいよ、行く当てが無い者は米沢に付いて来なさい」と自らは首を切っていないのです。これは戦国武将として凄い事だと私は思います。
もちろん石高は1/3なり1/4に減ります、その減った家臣をどうするか?といった時に、」例えば城下町の外れに下層家臣を配置して、その家臣の屋敷続きの畑を開放する、つまり一種の屯田兵のアイデアを打ち出す。そういった意味では人を愛する、つまり「誰も路頭に迷わないようにしよう」という想いがあったということと、この時有名な話ですが、普通は新しく入る米沢城を手狭だからと築城工事を最初に始めるのですが、直江兼続の場合は最上川(松川)の氾濫を警戒して石垣造りの土手を作りました。これが“直江石堤”として今も残っています。
そういう事をやっているというところに、やはり私は直江兼続の素晴らしさがあったと思います。


三成と兼続は偶然なんでしょうが、同じ永禄3年生まれという年の近さもあったでしょうし、片や秀吉の片腕、片や上杉景勝の片腕という置かれている共通項。
そして何よりもこれからのドラマでも出てきますが、お互い会う毎にお互いの良い所を摂取しようという事でお互いが高まっていた仲だったのではないかと思います。
ですから、三成だけで語ってもダメだし、兼続だけで語ってもダメというお互いの繋がりがあったというところが、二人が後世こう言う形で名前が残って行ったのだと思います。



《『どんつき瓦版』取材》
(管理人)
いきなり質問からでよろしいですか? 
直江兼続と石田三成は仲が良かった親友として有名ですが、先日『与板町史』を紐解きましたら、石田三成の名前が出てくる物がほとんどありませんでした。豊臣家からの命令状もほとんどが増田長盛の名前になっていたのです。その時にふっと思いましたのが、上杉家と豊臣家の間を取り持っていた一般的に“取次”と言われるのは、石田三成ではなく増田長盛の方なのかな?と思いどうなのかなとお聞きしたいのと、三成と兼続の友情関係は世間で言われますが、どの辺りのものなのかも疑問に思いました。
また別の資料で調べましたら、関ヶ原の合戦の前に石田三成が自分の次女を直江兼続への人質に送っていることが、その次女の旦那さんの岡半兵衛の記録にあると聞きまして、実際は二人の友情関係はどこまでが正しいのでしょうか?
(小和田先生)
 与板の資料は知らないですね。
(管理人)
 『与板町史』をパラパラと読みましたら、ほとんどが増田長盛の名前で、二つだけ長盛の名前の横に三成と書かれていて、あとの十数通(と聞いたのですが、そんなにもありませんでした…ただやはり三成単独の物はありません)は全て長盛だったんです。
 ですから、個人的な友情はあったとしても公的には長盛だったのかな?と…
(小和田先生)
 確かに落水の会見というのも、良質の資料には出てくる訳ではないからね。俗に秀吉と三成それから景勝と兼続の四人で会ったというのもどこまで本当か?というのは厳密には分からなしい、今の話も、増田の方が年齢も上だし取次中心にはなっていたでしょうけど、だたやはり色んなやり取りはさっきも言いましたけど、三成単独で出した物がどこまで残ったかは分からないですよね。
(管理人)
 もう一つ、三成の人間関係で疑問に思った事は、津軽藩に杉山家がありますが、その系図か何かに「津軽信枚の奥さんに三成の三女が嫁いだ時に、北政所が養女にして嫁がしたような記録が残っている」と聞きまして(これは、岡家に残る『岡家由緒書』と『津軽藩旧記伝類』でした)、先ほど先生のお話の淀殿と北政所はそれほど仲が悪くなかった。とお聞きして、先生の著書の中に「淀殿も、もう一人の秀吉の正室だったのではないか?」と書かれたいたと思いますので、そすると三成と淀が仲が良くて北政所とは良くなかったというのは…
(小和田先生)
 というのは嘘です。
(管理人)
 そうなりますと、三成の三女が北政所というのは?
(小和田先生)
 ありうる話ですね。
(管理人)
近江派と尾張派が分かれてて、仲が悪かったというのも…
(小和田先生)
 後になって作られた話だと思います。

(編集長)
 先生は今川家は相当強い軍団で、政治もしっかりしていたと書かれていますが、我々は遠江というと井伊家なのですが、井伊家というと来年(2010)の1月に千年なんです、1010年に…
(小和田先生)
 井戸から拾われたという。
(編集長)
 はい、少年時代に藤原共資の養子に入って、そこから井伊共保が井伊家を築くのですが、来年の2010年が1010年からちょうど千年なんです。そこで井伊家の勉強をしているのですが、彦根に居ますと初代直政ですが、直政は24代当主なんですよね、23代までは遠江なんですが、所謂南北朝の時代に南朝の皇子を匿った井伊家が居て、でも北朝が勝ったので遠江守護が今川家になったのですが、それ以前の1010年から約300年の間には井伊家の覇権がどれくらいの大きさがあったのでしょうか?
 そういうのが彦根に居ると全然見えてこないのですが?静岡に資料はありますか?
(小和田先生)
 いや、井伊家のその頃の資料は、私も色々調べたけどないですね。
(編集長)
 日蓮上人のお父さんが貫名という方が浜松の方の豪族ですが…
(小和田先生)
 井伊家から出たんだよね。
(編集長)
 ですから日蓮の寺紋は井桁の橘という様な物なのですが、井伊谷から浜松というと海の方までずっと広い覇権があったのかな?と思いました。
(小和田先生)
 その辺りは昨年、静岡県文化財団が発行している『しずおかの文化』という雑誌が出ていて、その中に私が“井の国 浜名湖北を照射する(第94号)”書いています。それを取り寄せて貰うといいですよ。
(編集長)
 わかりました、北朝が勝ったから今川家が入っちゃった。勝った方の歴史になると思うので…
(小和田先生)
 あっちに井伊荘(漢字?)という荘園があって、その辺が荘域だろうという事で、江戸時代の地名から追いかけて、だいたいの井伊氏が支配していたのはどの辺かがある程度分かります。それに書いてありますから。
(編集長)
 来年『井伊家千年紀』ですから『どんつき瓦版』で何かをやろうと思いまして、彦根の場合は直政から始まる歴史が多いですから、直政以前の歴史も辿らないと勿体ないと思っています。

(管理人)
 もう一つだけよろしいですか?
 全然話が変わってしまうのですが、戦国時代の彦根で私たちが今年のイベントとして肥田城というお城の水攻めが今年450年という事で、水攻めを調べているんです。
 三成が行った忍城や、紀州太田城・高松城などを見させていただいて、私たちがよく聞くのは高松城の堤防は全部造ったとか、その七倍くらいの堤防を忍で三成が造ったと聞きますが、地元の方の研究を読みますと、高松では300mくらいだったとか、忍でも元々堤防があって、そこに三成が少し手を加えただけではないか?と言われています。
 そうしましたら、安土城が2つくらい建つんじゃないか?と言われているような予算で高松城の堤防を造ったと言われていますので、その高松城よりも20年前に肥田の堤防を造るような力が六角氏にあったのでしょうか?
 私たちが聴いているのは当時の六角氏は「蒲生氏から借金していた」とか「家臣が裏切って城を追い出された」とか「京都の細川氏と応仁の乱以降は戦っていて、将軍から攻められた」などを見ましたら、お金があったのかな?と思いまして。
 そんな大名が6キロくらいの堤防を造ったと聞いていますが、それを造る事が出来たのでしょうか。
 ですから、元々造った外壁を再利用したのではないか?と思い、彦根市の方に聞きましたら、「お城の内側に堀った跡がありその分だけ盛ってある」と言われました。
 城の防備は外に濠がありそれを盛るイメージがありますが。手前から掘り上げる例というのはあるんでしょうか?
(小和田先生)
 あまりないですね。
(管理人)
 全くゼロという事は?
(小和田先生)
 ゼロではないと思う。中にも濠があるから。
(管理人)
 例としては少ないのですね…
 では他所の武将が攻めてきてそこを利用するような、例えば木曾三川の輪中を利用する方法を竹ヶ鼻城で聞いていますが、よく行われる方法だったのでしょうか。
(小和田先生)
 そこを研究した事はありませので…
(編集長)
 水攻めのイメージは、満々と水を入れて溺れさせるイメージがありますが、僕らが思ったのは「馬が早く走れないくらい水があれば、それで抑えた」という位置付けになると思うと1m位の深さの水を入れてしまえば…
(小和田先生)
 所謂“深田”ですね。
(編集長)
 そうすると溺れさせるまで水を入れなくても…
(小和田先生)
 だったら大丈夫です。もうアップアップです。
(編集長)
 じゃあ、簡単な堤防くらいでいいのかな?と思ったのですが。
 彦根はいろんな歴史がありまして面白い場所なんですよ。
(小和田先生)
そうですね。
(編集長・管理人)
 今日は本当にありがとうございました。

小和田哲男先生の講演 その1

2009年04月13日 | 講演
では2009年4月12日に佐和山のイベントで行われた小和田哲男先生の講演をご紹介します。
最後はとってもマニアックな質問までしてしまい、改めて聞くと赤面してしまいますが、石田三成と直江兼続ファンが一度は聞いてみたい『天地人』時代考証者の見る両者を感じてみて下さい。




『「義」と「愛」に生きた三成と兼続』
元静岡大学教授・文学博士:小和田哲男 先生

 佐和山城の麓で石田三成とその盟友であります直江兼続の話ができるのを私も楽しみにしておりました。
 『天地人』の時代考証をやっておりますと、結構いろいろとトラブルがあったりします。一ヶ月くらい前になりますか、上杉謙信が亡くなったシーンで「自分たちは厠で亡くなったと勉強してきたのに、なぜ厠じゃないんだ」とのお叱りもあったのですが、私どももそれを重々承知していながらディレクターたちと「やっぱり厠で死ぬと言うのも可哀想だな」との気持ちがあって、「歴史を変えちゃうけれども、普段籠っている毘沙門堂で倒れるというのもしょうがないね」という話をしています。多くの方が観ていただいて、詳しい方も居られますのでNHKにお電話や手紙で「これは違う」とのご指摘をいただいたりもします。でも、これまでの所はあまり大きく歴史を捻じ曲げるような事はしないで済んでいると思います。
 私も時代考証をやっている責任上、関係する場所についてはほとんど足を運びながら現場の空気や実情を頭の中に入れながら時代考証をしています。この間も上杉景虎が亡くなる鮫ヶ尾城(妙高市)に雪が残っていた時期に市役所の方に長靴を借りて行って、「ここで無念の死を遂げたのかな」と思うと涙が出てくるような感じでした。そういったものもドラマの中で活かせたらいいな。とやっております。
今回はそうした兼続と三成の交流を含めながら、特に前半では石田三成をお話しさせていただきたいと思います。

 今年(2009年)の5月6月くらいにかけてどこの歴史雑誌も石田三成特集をやる予定であります。これはなぜか?と言うと、今年は直江兼続の盟友という事で石田三成がテレビに度々登場してくるという理由も一つの背景ですが、やはり従来と人物評価の仕方の見方を変えてきているとの理由もあるのではないかな?と私は思っています。
 これも考えてみると、雑誌で人物を取り上げてくれる事と、後はテレビの影響が大きいと思います。
 余談ですが『功名が辻』でも従来タイプの「いずれは本能寺の変で信長に逆らう」という“いつか裏切る”という人物像の明智光秀を、「そうではなく、むしろ最後にああなっただけだ」という捉え方で少しずつ(イメージを)変えてきています。
 石田三成もそういった形で話題になると思いますが、私自身「なぜ三成と兼続なのか?」と考えた時に、『天地人』のチーフディレクターの内藤さんが仰っていますが、「今のどうしても「自分が」という自分さえ良ければいいという風潮の中で、“義”の心を持って一生を生き抜いた武将たちが居るんだという事を描きだしたい」との事でした。この考え方は私も一緒なんです。


ですから今回はまず「なぜ三成と兼続なのか?」というお話からします。

 まずは“歴史上の人物評価は必ずしも固定されていないんだ”という事を多くの方に知っていただきたいと思います。
 と言いますのは、日本人は昔から勧善懲悪(善を勧め悪を懲らしめる)という言葉に代表されるような“正義”と“悪”の図式で描く風潮があります。そうすると、誰かを善者にするならば誰かを悪者にしなければいけないと言う事です。そういった意味では単なるライバルではなく、良い人と悪い人を使い分けます。逆に言えば善人を出すからには誰かを悪人にしなければいけないのです。
 どうしても歴史上の人物は「勝者が書く勝者の歴史」つまり勝った側が都合が良いように書くのです。これは中国の歴史の影響なんです、中国では前の王朝が倒れたら次の王朝が前の王朝の歴史を書くと言う風習があるのですが、やはりそういう時に「前の王朝が倒れたのは、こういう所が悪かったからだったんだ」という書き方になれば、その時に天下を取っている王の正義を前面に押し出すという理論になります。
 これは徳川幕府の時代がそれに該当します。家康を持ち上げようとするなら、家康に敵対した人たちを悪者に描かなければいけなくなるのです。一番象徴的なのが私は三成だろうと思います。関ヶ原の戦いで、本当の総帥は毛利輝元ではあるのですが三成が家康の対抗馬として、勧善懲悪の家康が“善”と見るなら三成は“悪”に描かなければ成り立たないというところが非常にあります。
 そうしてきますと、徳川幕府の時代は約260年と長く家康は“神君”と呼ばれ東照大権現という形で神に祀られましたので、神君を持ち上げるためにはそれ以外の人物が悪者にされていくという事になります。
 中経の文庫という所から『悪人がつくった日本の歴史』という本を書きましたがそこで私は「従来悪人と言われてきたけれども、本当は彼らが居たから日本の歴史がつくられたきた」という側面を何人かの人物を取り上げながら描き出しています。そういった意味でいきますと従来石田三成について悪く悪く言われてきた事柄が、「本当はそうではない、江戸時代になって作られてきたんだ」ということを声を大にして言いたいと思います。
 “歴史上の人物評価が固定したものではない”と言いましたのはやはり光の当て方で歴史の人物は違ってくるのです。どうしても既成概念と言いますか、「教科書的な決まった見方というのをどこかで崩していかないと新しい人物像は見えてこない」と私はかねがね思います。そういった意味では有る資料でもちょっと読み方を変えてみる、あるいは違う角度から光を当ててみるという事が必要になってくると思います。
 こういう点で言いますと、最近戦国史では新しい傾向が出てきました。黒田日出男さんが従来偽書だと言われていた『甲陽軍鑑』を見直そうとの姿勢を示しておられて主張されています。また愛知県江南市の吉田家から見つかった『武功夜話』という本についても「近代になって書かれた偽書だ」という研究者も何人かいらっしゃいましたが、私は現物を見た限りでは「それは違う、近現代の著作ではない、やっぱり江戸時代に書かれたものだ」と思いました。『武功夜話』は前野将右衛門長康という人物を書いた資料で、前野家は豊臣秀次事件で連座して大名としてそこで止まってしまった敗者でした。私は『武功夜話』は敗者が残した貴重な資料だと考えております。2008年、『日本歴史』という雑誌で“家伝資料としての『武功夜話』の重要性”を指摘した事もあります。
 ですから、既成概念で凝り固まった歴史の見方ではなくどこかで突き崩すと違いが出てくるという風に思います。
 そうした意味でいきますと、石田三成も直江兼続も単なる忠義ではない百姓憐憫、百姓たちを撫民(民を撫でる、慈しむ)するという概念で人物を見ていくと、単に上に立って下を支配するのではなく石田三成の場合には『九ヶ条掟書』『十三ヶ条掟書』が彦根から北方の村々に結構残っていますが、その中には「代官が不正を起こさないように」との指示があったりと、百姓たちからの申し出も素直に受け止める姿勢を持っています。ですから民を愛する“愛”という言葉も一つのキーワードになってきます。後で触れます直江兼続の愛民思想も同じだと思います。

 神君として神に祀られた家康を悪くは言えない、これは私は歴史家として江戸時代の徳川御用歴史家たちの責任は重いと考えています。それを少しずつ突き崩しながら本当の家康像も描かなければなりませんし、敵対した石田三成の復権も図っていかなければならないと考えています。
 6月に吉川弘文館から『北政所と淀殿』という本が出版されます、そこで何が言いたかったかといえば、従来の定説では「北政所と淀殿は仲が悪く、その女の戦いというものが豊臣家を滅ぼしたんだ」という事になっていますね、でも私はそうじゃないんじゃないか?北政所と淀殿が仲良しとは言いませんがそんなにいがみ合っていた訳ではなく、むしろ普通に二人とも豊臣家を守ろうとしたのに家康の方が高等戦略を使って豊臣家を滅亡に追い込んで行ったのではないか?と思うのです。
 これはやはり「神君中心史観」で家康を悪く書けない、その責任をこの場合で言うと北政所と淀殿が仲違していたという論調があったのではないか?という事で、そういった歴史の見方を少し改めて見直すことによって従来の石田三成像や直江兼続像とは違う人物像が描き出されるだろうと思います。


では三成佞臣論、三成は媚びへつらう悪い家臣だ。というのはどこから生じたのでしょうか?
私が気が付いた事は、今度の『歴史読本』という雑誌に膨らんで載るとは思うのですが、三成を悪者にする仕掛けというのは江戸時代になってかなり始まってくるのです。江戸時代の人物でも家康の孫にあたる徳川光圀(水戸黄門)などは「三成はなかなかしっかりした男だ、敵ながら天晴れだ」というような言い方をして「義の心を持った男だ」とは言っていますが、やはり世間の風潮としては家康に盾突いた悪人としての佞臣論が出てくる訳です。その過程でルーツを考えましたら、豊臣政権末期に起こる暗黒事件、私は秀吉の晩年の不祥事との言い方をしているのですが、大河ドラマ『秀吉』の時代考証をした時にディレクターと「若い頃の秀吉は、明るくて持ち前の頭脳を発揮して凄い。しかし天下を取った後の秀吉はいただけませんね」とよく話しました。これはやはり権力を握ると人間は堕落するという一つの事例なのかな?と思います。
私も子どもの頃から秀吉は好きだったのですが、だんだん研究する中で「どうも晩年の秀吉は好きになれないな」との想いになってしまいます。その幾つかの暗黒事件。例えば天正19年(1591)には千利休を切腹させています。その後の秀次事件や他にも色々あります。
その全部に三成が絡んでいたという指摘や研究がなされてきました、例えば蒲生氏郷暗殺事件。
蒲生氏郷が天正18年の小田原攻め後の関東仕置きとして、会津に入ります。その氏郷が40歳という働き盛りで突然亡くなります。その伝記資料である『氏郷記』には、ある日三成が秀吉を訪ねて行きそこで秀吉に「蒲生氏郷は立派な武将ですが、このまま置いておくと殿の後釜を狙う恐れがある」と言い、秀吉が「じゃあ毒を使って殺せ」と命じ、三成が殺した。と記し、他の資料では鴆毒(ちんどく・亜砒酸)で殺したと具体的に書かれた資料もあります。そういった物から段々尾鰭が付いて「蒲生氏郷は三成が暗殺したんだ」という事になってしまうのです。
 また千利休の切腹の件も同じで、利休が大徳寺の山門に雪駄を履いた木像を置いたのを三成が密告し、木像は堀川の一条戻り橋で磔になり利休は切腹させられ、その頃の京都の公家の日記の中には噂として「三成が利休の妻女を蛇責めの刑にするらしい」と記し、それらを一括して「どうも利休を切腹に追い込んだのも三成だ」という論調になっていくのです。
 その他、加藤光泰暗殺や加藤清正を讒言によって朝鮮から呼び戻したのも三成の仕業となるのです。それが江戸時代の初めから増幅され、現在私たちが持っている「三成は悪だくみばかりしていたんじゃないか」とのイメージが作られていく訳です。
 私自身はその事柄については論破できる。例えば利休の切腹にしても密告したのは前田玄以である事は明らかですし、秀次事件の事についても他の資料によって三成1人が動いた訳では無く増田長盛・長束正家などの所謂五奉行のメンバーが動き、それらは全部秀吉の命令を実行したに過ぎないのです。ですから「本当の真犯人(悪人)は秀吉なんだ」という事は見ておく必要があるだろうと思います。
 江戸時代を通して秀吉人気があります、時代が徳川になったが故に豊臣回帰願望が江戸時代に起こってきます。今でもそうだと思うのですが、今自分たちが生きている時代が評価し辛く「前の時代の方が良かったのではないか?」と思いがちです、そういった批判は前の政権に夢があったような錯覚を持ちます。ですから江戸時代の一般庶民は、徳川時代の雁字搦めの封建社会に傷め付けられれば痛めつけられるほど「秀吉時代の方が良かった」という思いを抱きます。そうすると秀吉人気が高まり小瀬甫庵が書いた『太閤記』これは儒学っぽい難しい本で一般受けはしませんでしたが、その後の『絵本太閤記』『新書太閤記』
などがベストセラーとなったのは、やはり徳川に対する恨みを豊臣の世に求めたのです。これらの本では秀吉の事は悪く書かないので、秀吉の汚点は全部側にいた三成に被せられてきたという側面があるのではないか?と思います。
 それはイコール三成関係資料の隠蔽工作になります。つまり諸大名たちにとってみてば、徳川の世に「家康と仲良くやっていた」と強調するのです。その家康と対立した三成と没交渉(関係ありません)と言わなければなりません。つまり三成とも仲良くやっていたとばれると「何だお前は」と言い掛かりを付けられて改易になってしまいます。福島正則はいい例ですね。広島城を修築しただけで51万5千石が不意になってしまうのです。江戸時代の大名家はお家を守る為にガードを固め戦々恐々しています。お家を守るために『家譜(かふ)』という家の歴史を提出します、一番有名なのは『寛政重修諸家譜』という歴史研究の有難い資料です。その中を見れば一目瞭然なのですが三成と関係があったとはどこにも出てきません。幕府が命令して系図集を提出させて時に仮に三成と親しかった家でも、三成と関係があった事は故意に削除しています。これも証拠隠滅といっていいと思います。
 それだけではなく、それぞれの家でも三成の関係の文書はほとんどありません。三成文書が少ないのは、たぶん(証拠はありませんが)江戸時代に三成関係文書を焼くなり刻むなりして後世に残さなかったのではないか?と思います。
 今から20年ほど前に私が長野市(旧松城町)にある真田宝物館の学芸員の方から聞いた話では、「真田宝物館に何通も残っている三成文書は、大きな葛籠の一番底に置かれ、江戸時代を通して何人かの武士が寝ずの番をして守っていた」という言い伝えがあるという話がありました。
 真田家は真田昌幸の子の信之。弟は信繫、通称・幸村ですね、『天地人』でも幸村の名前で出るのですが私は最後まで「信繁じゃないですか」と言ったのですが、「みんな幸村で知っちゃてるから」という風になり信繁を主張する方には力不足で申し訳ないのですが幸村でいきます。その昌幸・幸村が西軍に付いて頑張ったという想いがあるので、やはり信之は三成が残した文書を捨てられなかったのです。だから幕府に気付かれないように底の方に忍ばせて盗まれないように寝ずの番で守らせたのではないか?と思って「真田家は三成の事を想っていたのだな」とほっとしました。
 たぶん証拠隠滅が行われたのではないか?だからこそ資料が少なく、少ないが上に先程でてきた『氏郷記』などの近世の伝記物が幅を利かせ、三成が悪者になってしまったのだろうと思います。

 では実際の三成はどういった人間だったのか?という事ですが、私は豊臣政権のキーマンという言い方をいたします。1997年に出したPHP新書の『石田三成』では「知の参謀」とうサブタイトルを付けましたし、そのまえがきでは「豊臣政権を今の内閣に例えれば官房長官にあたるという書き方」をしましたが、まさに官房長官的な役割をしている訳です。逆に言えば秀吉の汚点を官房長官が被るという役割を持っていると思います。
 そういう目で見て行きますと、実は豊臣政権がやったことのかなりの部分は三成の発案であり彼が推進しています。あの有名な太閤検地も正にそうです。
 検地は特に東国の方の戦国大名たちが率先して行っています、それを全国的に展開したのが太閤検地です。“太閤”は関白を退いた秀吉がこう呼ばれてから“太閤=秀吉”になってしまいますがそうではありません、例えば黄門はすぐ光圀になっちゃいますが、“黄門”は中納言を中国風に呼んだ名前ですから歴史上に中納言は何人も居ます、しかし“黄門=徳川光圀”になっています。大御所も将軍を退いた人の事を言いますので何人も居ますが“大御所=徳川家康”になっています。同じように秀吉の場合も“太閤=秀吉”です。
 その秀吉が太閤になる前、天正10年(1582)から検地を始めています。この年は6月2日に本能寺の変があり、山崎の戦い、清州会議があります。その清州会議で秀吉が山城国と丹波国を新たに貰い、そこで山城国で検地を始めたのが天正10年で、それが太閤検地の始まりです。その天正10年の検地に三成がどう関わったのかは資料的に明らかでありませんが、その2年後に近江で行われた検地の検地帳が残っていて、そこに奉行として“石田佐吉”の名前で出てきます。ですからたぶん天正10年の検地から三成がタッチしていただろうと思います。
 その後も堺奉行や博多復興に関係していますし、『天地人』ではどこまで出てくるのかまだ分かりませんが、賤ヶ岳の戦いの時に石田三成が上杉景勝の執政である直江兼続と連絡を取り合って背後から牽制させることをやっています。賤ヶ岳の戦いというとどうしても
七本槍を思い描いて、福島正則・加藤清正などの槍働きの連中を思い浮かべますが、本当の勝つ要因として三成の上杉との交渉、所謂縁の下の力持ちなのですが、それが大きかったと私は考えています。そういう実際に槍を振るうのではなく戦い全体を支える兵站奉行の仕事をしていたと言っていいと思います。
 
 三成を悪く言う時に必ず出てくるのが「関が原で負けると分かっていて何で戦ったのか? あれがあったから豊臣家は滅んだんだ、豊臣家を滅ぼした張本人は三成だ」という言われ方が世間ではされていますが、それは違うんじゃないでしょうか?負けると分かって戦ったんじゃない。これは実は勝った方の徳川家康も完全に勝てるとは思っていない「勝か負けるか分からない」というかなり均衡した状態であったのは間違いないのです。
 結果論で西軍が負けたので、その責任者である三成を悪く言う論調というのが生まれてくるのですが、よく言われるように関ヶ原の戦いの時に(数え方にもよりますが)通説では西軍7万4千、東軍7万4千で軍勢の数で言うと西軍の方が多いです、しかも歴史に「もしも」はあまり言えませんが関ヶ原の戦いがあと2日くらい伸びていたら、私は西軍の方が勝った可能性が強いと思っています。それは大津城攻めの立花宗茂や筑紫広門ら九州の大名が1万5千という兵で合流しますので完全に西軍有利になります、そうなれば小早川秀秋・毛利秀元・吉川広家らは簡単に東軍に靡かなかったと思います。そう考えるとこれは拮抗していたという事は間違いない訳です。
 偶々小早川秀秋と南宮山の所謂西軍と思っていた連中が徳川方に籠絡されていたのが決定的な要因で、そう言った意味で三成の方は「正義は我らにあり、義によって家康を討つ」との想いがあったので、あまり汚い手は使っていないのです。家康はもうがむしゃらに関ヶ原の戦いの前の1ヶ月くらい色んな大名に手紙を送りつけて寝返らせる工作をしています、三成はそれをしていないので、三成はあまりにも清廉潔白すぎたのかな?という感じは致します。これは「正義は我らにあり」との想いがあってそこで悪奪な手段には敢えて出なかったというのがあったという風に思います。

(続く)

義の旗のもとに 第三章『義から愛へ』

2009年04月12日 | イベント
4月12日彦根では、
・彦根城の近くでは、ひこにゃんの誕生祭
・佐和山城近くでは、義の旗のもとに 第三章『義から愛へ』
という彦根を代表する2つの城の麓で、同じく彦根を代表するゆるきゃらがそれぞれにイベントを行いました。

管理人は、佐和山での戦国歴史講座を目的に佐和山のイベントに参加しました。
このイベントのメインは、先ほどの歴史講座と、米沢からの“かねたん”来彦です。

“かねたん”は昨日、“ひこにゃん”に会い、今日は“いしだみつにゃん”“しまさこにゃん”“おおたににゃんぶ”の3キャラに会うというハードスケジュールを立派に勤め上げてくれました。

今日の彦根は晴天に恵まれ、桜は満開から葉桜へと変わりつつ春の最良の一日でした。
青い空と汗ばむくらいの陽気の下、時々通過するJRの車両が風を運び、来場者に時々涼を贈り、それと同時に花吹雪も舞っていたのです。

この中で4キャラのイベントが盛り上がったほか、小和田哲男先生を講師とした歴史講座で歴史ロマンに浸り、清凉寺では石田三成の肖像画の特別公開も行われたのでした。

小和田先生の講演の内容と取材の様子は次にお伝えします。

かねたん来彦

2009年04月11日 | イベント
2009年4月11日、米沢の『天地人』のキャラクターである“かねたん”が初めて彦根にやって来て、2日後に誕生日を迎える“ひこにゃん”にメッセージを贈り、“ひこにゃん”と“かねたん”の初対面の瞬間を迎えました。

その後、花しょうぶ通り商店街の“しまさこにゃん”を加えて、彦根・米沢両市の親睦会が開かれ、3キャラ達はこの会に立ち会いながら両市のますますの親睦を深める橋渡し役となりました。


米沢市から彦根市に、米沢藩の名君である上杉鷹山公が記した『伝国の辞』が書かれた額が進呈されました。
また“ひこにゃん”と“かねたん”の両キャラはお互いのグッズを交換してお互いの励みとしたのです。

『天地人』において直江兼続と石田三成という両市を代表するような人物が親密な関係を築いていたように、それぞれのキャラクターや市がますます交流できる事を願うばかりです。

ひこね芹川駅 完成

2009年04月08日 | イベント
2009年4月8日、近江鉄道の彦根駅と彦根口駅の間に“ひこね芹川駅”が完成開業しました。
ここは花しょうぶ通り商店街や、彦根総合高校が近い事から、多くの利用者が見込まれています。

さて、花しょうぶ通り商店街が近いという事で、この商店街のキャラクターである“しまさこにゃん”と“いしだみつにゃん”が描かれた記念乗車券が販売されています。
450円だそうです。お土産や記念にいかがですか?