彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

明智光秀に仕えた彦根藩士(中編)

2020年11月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 徳川家康の祖父・松平清康は名将だったと伝わっている。混乱が絶えなかった西三河を統一し、今川氏輝(義元の兄)や織田信秀(信長の父)と対等に渡り合える人物だった。しかし二十五歳の若さで家臣の阿部正豊に暗殺される(守山崩れ)。余談ではあるが、清康を刺した刀は村正の一派である千子正重であり、この後も家康の周辺に関わる悲劇には村正が関わるため、妖刀村正の伝説が面白おかしく語られる。楠木正成の子孫が打つ千子正重が同じ南朝方の武将である新田義貞の子孫を称する徳川氏に祟るのは物語としても矛盾が生じると考えている。
 さて清康の子・仙千代はまだ十歳であり清康の叔父・松平信定に保護される。しかし織田信秀と好を通じて清康に反発していた信定を信用していなかった仙千代の傅役である阿部定吉(正豊の父)は、仙千代を連れて信定の元から脱出し、清康の妹婿吉良持広を頼った。吉良氏は伊勢国神戸(鈴鹿市)にも所領を持っていたため、仙千代と定吉ら主従を神戸の龍光寺に匿ったのだった。
 龍光寺は、近くの神戸城を居城としている神戸氏が、この時期より一世紀ほど前に称光天皇からの勅命で建立した格式高い寺院で、ここに匿われるということは、ある程度の安全だけではなくその人物の身許も保証されたのではないかと考えられる。そうならば神戸氏にとって仙千代は客分として遇する対象であったのではないだろうか。
 仙千代と神戸氏についてどのような交流があったのかを詳しく知ることはできないが、この時期に神戸氏に仕えていた木俣守時が仙千代に仕えるようになる。楠城主川俣氏の一族でありながら神戸氏に仕え、その上で身許が保証されているとはいえ国を追われた子どもを主とする決意をした守時の行動には疑問を感じざるを得ない。ただ仙千代を不憫に思っていた吉良持広は、吉良氏の同族である今川氏輝に声をかけて仙千代の後ろ盾とし、松平信定との戦いの準備を始めていた。仙千代は伊勢を出る前に元服し松平広忠と名乗る。大大名今川氏の支援を得て国入りする広忠に従って行けば、三河で木俣氏の家名を残せる可能性が低くないと守時が考えたのかもしれない。また守時がそう思えるほどに広忠の人柄に特筆すべきものがあった可能性はある、低く評価しても広忠は息子徳川家康よりも律儀者であったことは確実なのだ。
 さて、広忠は十一歳で元服し守時らを伴い伊勢国を出て駿河国に向かったが道中で氏輝の急死の報を聞く、やがて花倉の乱を経て今川義元が当主となると義元の庇護を受けて三河へと帰国した。以降、広忠はどんな無理難題を課せられようとも義元を裏切らず忠誠をつくし続ける。そして守時も広忠と共に岡崎城に入り城下に居を構え、広忠が暗殺され幼い家康を他の三河武士と共に支える。永録七年(一五六四)三河統一直前の家康に守時の子・守勝が九歳で出仕したのだ。

神戸城祉(かんべじょうし・三重県鈴鹿市)
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刀と虎徹

2020年11月16日 | その他
虎徹の井戸がある長曽根町の歴史を調べられている方々の前で、虎徹さんの話をする。という恐れ多いイベントをしてきました。



まずは、僕の14年近い彦根での活動を話してから刀の話を始めます。
中国の『三国志』などの豪傑が使う刀と日本の刀との違い。
銅剣は祭事用であった可能性が強く、隕鉄から採れる鉄が剣となったことで戦いに使われ弥生時代からは剣で斬られたとみられる骨もあること。

前九年の役までは上古刀と言われる直刀の刀
その後南北朝時代までに古刀と言われる刀が、相模、山城、大和、備前、美濃で打たれたこと、これは鉄が採れる場所の近くの森の木を使って鋼を作りそのまま作刀したため。その上で水に恵まれていたと思われます。
彦根藩には備前由来の刀も多く残り、たぶん備前刀が一番有能だったと思うのですが戦国時代にこの地域が何度も水害に見舞われ作刀集団が離散します。
そんな中、一番後進の美濃が発展して越前や伊勢などに広がりそのなかの一派が長曾根派だと思いますが、彼らは甲冑を作る一族でした。

南北朝時代の後辺りから腰から鎖でぶら下げて佩刀する太刀(語源は経つ)より、下級武士が帯に指して帯刀する打刀(打ち合いに使う刀)が抜きやすく主流になります。
虎徹は、そんな打刀を打つ人物でした。
甲冑職人として高名でありながらも、
江戸幕府開幕で平和になり甲冑の需要が減ったこと、
自分の兜を斬れる刀が作りたかったこと、
刀は作者の名が残ること、
官位や物語が付く可能性があること、
などの理由があったとも考えられます。そして古鉄を利用して作刀したことから古鉄、そして虎徹を名乗るようになりますが、入道しての名乗りなので人を殺す刀ではなく、守るための刀を打ち続けたと思います。

虎徹の刀に付く伝承は、新撰組の近藤勇が愛したことで、近藤は三振りの虎徹を所有したと言われていますが、一番有名な池田屋事件で使われたのは虎徹ではなく源清麿だったとも言われているのです。

ちなみに、虎徹のように近江や江戸など各地で刀鍛冶が活躍できたのは物流の発展が後押ししています。
昔は、鉄から作る鋼も薪も運ぶだけで大変だったのでその場の近くの水が合う場所で作刀しましたが、物流の発展で鋼と薪さえ来るならば、水合う場所を探して刀が打てたのです。


と、このような話などを中心に、長曽根を含む三ツ根のことなどの意見交換も行いました。
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『本陣職はつらいよ』

2020年11月12日 | イベント
草津宿本陣で行われている『本陣宿はつらいよ』の展示を観てきました。

これは、江戸時代後期の天保10年(1839)4月7日に起こった佐土原藩主島津忠徹急死事件に巻き込まれた草津宿本陣職・田中七左衛門貞文の記録と佐土原藩の記録から事件を読み解く内容でした。

江戸幕府は初期の頃から藩主死後に養子を決めて藩を継続させる末期養子を禁止していて江戸前期にはこの条項に触れて取り潰しになる藩も多々ありましたが、中期以降は藩が取り潰されることで浪人が増えることは治安悪化にも繋がるため、有力な大名や幕閣の協力を得る事で取り潰されないようにすることができました。
幕府も届出さえしっかり行われていれば(幕府が責任を負わないでよいのであれば)見て見ぬフリをしていたようです。
ふっと思い付くだけでも
・桜田門外の変の後の井伊家
・間違えて当主が刺殺された細川家
・南部利用の入れ替え
などがありますので、手続きさえ踏めば良かったのかもしれません。
この辺りは、今でも法律の不備があっても法を遵守する資料さえあれば(行政側が責任を負わない形ができていれば)、大概のことが認可される行政業務と何も変わっていないことがわかり、展示を見ている途中で笑いそうになってしまいました。

しかし、当事者は大変だったようで、藩主忠徹があっという間に亡くなってから、当時は偶々天候不順の年だったことを最大限に利用して参勤交代の到着が遅れる届出を幕府に提出。
草津を治める膳所藩にも協力を仰ぎ、医者を派遣してもらい薬の調合もして忠徹が存命しているように見せながらも棺桶を作る手配も行うなど、本陣、参勤交代に加わっている佐土原藩士、江戸藩邸、膳所藩、佐土原藩の本藩である薩摩藩、そして幕閣関係者も含んだ現代風に表現するなら「佐土原藩主急死事件対策プロジェクトチーム」が一気に仕事を仕上げた感じでした。

佐土原藩は、無事に次の代に引き継がれ、それまで別の場所を定宿としていたものを田中七左衛門の本陣を宿に指定、そして年に米10俵を佐土原藩から田中七左衛門家に贈ることを約束するなどの感謝の意を示したのですが、その感謝も段々薄れて行き、幕末になると財政難になった佐土原藩が本陣に全く非がない小さな無礼を過大解釈して米を贈るのを止むようとするなど、その後のエピソードまで紹介されていて面白かったです。

できれば、これの図録が欲しかったですが作っておられないとのことで残念ではありました。

でも、草津宿本陣の建物と展示が一緒に楽しめるのは有意義でした。













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お弁当

2020年11月02日 | テーマ日記
お弁当、仕事の日は毎日作って別ブログでアップしてます。

トップ写真は今日のお弁当、玉子焼きを厚めに焼くのを目指してます。

ハロウィンの日はかぼちゃを使って…


そして、この前デートで彼女の為に作ったお弁当。


料理が得意とは言いませんが、一緒になったら料理担当になるので勉強中です。
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圓光寺訪問

2020年11月02日 | 史跡
金福寺の本山である圓光寺は、歩いてすぐの場所にあります。




もともとは、関ケ原の戦いの翌年に徳川家康が足利学校の閑室元佶を招いて伏見城下に建立したお寺が圓光寺です。
ここでは日本でも早い段階の活版印刷が行われていて、それらが関係する資料も展示されています。

その後、相国寺内を経て現在の地に移りました。
明治時代になり、臨済宗南禅寺派唯一の尼僧道場になっていた時期もあるそうです。

境内は広く散策が楽しめます。







竹が美しく


紅葉になっても綺麗だろうなぁと感じました。




京都市内が見渡せる場所に、開基である家康を祀る東照宮と隣に家康の歯を埋めた(伏見から運んだのか、この地で埋めるまでは別に保管する形があったのか調べられていません)と言われている墓があります。






また、金福寺の時にも書きました村山たか女の墓もここにあります。


そして、もう一人サイド・オマールの墓の案内もありました。

オマールは、マレーシアからの留学生でしたが、18歳の時に広島で被爆、自身も怪我を負いながらも救護活動を行った人物です。
戦後に治療のために東京へ向かう途中、京都で入院してそのまま亡くなられました。
遺体は南禅寺に埋葬されましたが、のちに目印がわからなくなり、事情を知った園部英文という人物が、このままでは日本の恥と思い、この地にイスラム教の墓石を作り、武者小路実篤が碑文を書いたのです。

この様な様々な歴史が残る場所でした。

御朱印

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金福寺訪問

2020年11月01日 | 史跡
一乗寺下り松の辺りからたくさんの案内板がありますので迷わず到着できるお寺が金福寺です。

井伊家の歴史を調べていると幕末から明治期にかけて紹介されていることがあるお寺のひとつでもあります。



金福寺は、貞観6年(864)に円仁の遺志があり安恵が円仁の作った聖観音菩薩像を本尊として建てたお寺でした。
しかし荒廃が進み、江戸中期の元禄年間(1688〜1704)に鉄舟という僧が再興したのです。
鉄舟は近くの圓光寺の僧であったため金福寺は圓光寺の末寺となります。そして鉄舟と親交が深かった松尾芭蕉が京で滞在する庵も作られたのです。
(訪問したときは改修中でした)

芭蕉の滞在した庵は「芭蕉庵」と命名されましたが、また金福寺に荒廃の時期が続き70年ほど後に芭蕉を尊敬していた与謝蕪村とその一門により芭蕉庵などが再び整備されたのです。
この縁で蕪村一門は金福寺に墓を建立して眠っています。

与謝蕪村の墓

江森月居の墓


そして幕末。
『花の生涯』のヒロインで、若き日の井伊直弼、その兄直亮、そして直弼の懐刀の長野主膳との浮名を流したとも言われている村山たか女がここに関わってきます。
桜田門外の変で直弼が暗殺され、彦根の獄で主膳が斬首されると、息子多田帯刀と共に隠れるように過ごしていましたが、やがて勤王の志士たちに発見され、三条河原に晒されるのです。
文久2年(1862)11月14日のことでした。

翌15日には帯刀も発見されて斬首され、同じ三条河原に首が晒されました。

息子の死と並びながらも三日三晩耐え続けたたか女は、金福寺で出家し明治9年(1876)9月30日に亡くなるまで静かな余生を過ごしました。



その間に弁天堂を作り、今に伝わっています。








たか女の墓は本山の圓光寺にありますが、その墓土を埋めた拝み墓が金福寺に建立されています。


御朱印は芭蕉の「憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥」の俳句が押されたものでした。



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