彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直弼の像について

2008年01月27日 | 井伊家関連
井伊直弼が亡くなる年の1月に自ら正四位左近衛中将の正装をして狩野永岳に描かせたという肖像画が彦根に残って居ます。

この肖像画は、描かれた本人の生前に書かれた物としても珍しく、また直弼自身による『あうみの海』の和歌が書かれているのも歴史的価値をあげています。


さて、この肖像画が公家風の正装だった事から、直弼の銅像などが束帯の姿をしていても何も疑問に感じない方が多いですが、実は直弼の像は束帯である事が偶然ではなくて必然として考えて作られているのです。


井伊直弼といえば、無勅許で日米修好通商条約の調印を行い反対派の尊皇攘夷派を安政の大獄で処罰した“朝敵”という歴史的評価がなされてきました。
しかし、彦根藩はどこよりも厚い勤皇の藩であり藩主はその先導に立っていましたので、朝敵の汚名は冤罪とも言えたのです。

明治になって横浜や彦根に直弼の像が作られる時、旧彦根藩士たちはそんな直弼の評価を変えるために敢えて裃ではなく束帯の直弼像が作られたのでした。
束帯の直弼像は旧彦根藩士たちの直弼に対する想いが詰っているんですよ。

1月20日、『生類憐みの令』廃止

2008年01月20日 | 何の日?
今から約300年前の宝永6年(1709)1月20日、10日前に五代将軍徳川綱吉が亡くなった事を受けて新将軍徳川家宣が22年間続いた『生類憐みの令』廃止を発表しました。



そこで、今回は『生類憐みの令』の話。

『生類憐れみの令』は歴史上でも名高い悪法として知られていますが、実際の内容は殆ど理解されていないのが実情であり、その法令が幕府終焉まで効力があったという事実は歴史上から忘れ去られています(あっ、出だしと内容が違う・・・)。


まずは『生類憐れみの令』の本筋は何であったかと言う事ですが、これは犬を始めとする動物の保護などではなく本当の憐れみは捨て子にかけれれたモノでした。
つまり本筋は「捨て子保護政策」であり、動物保護はその“おまけ”でしかなかったのです。
六代将軍家宣が将軍職を引き継いだ時に廃止をしたのはこの“おまけ”の方であり本筋の「捨て子保護」は継続され続けたんですよ。


では「お犬様」はどこから来たのでしょうか?
その答えは当時の庶民の食文化にありました。

実は、江戸時代初期の一番の鍋料理というのは実は“犬鍋”でした。
江戸では冬になると犬鍋として食われてしまうので野良犬が減少したのです。

よく「江戸期には獣は食べなかった」と思われていますが、そんな事はありません。彦根藩は牛肉の味噌漬けを将軍家に献上していましたし15代将軍慶喜は豚が大好物で将軍になる前は「豚一公」と言うあだ名だったくらいです。
また「ウサギは美味いがそのまま食べると周りが五月蝿いから」と言う理由で「ウ(鵜)」と「サギ(鷺)」だから鳥であり獣では無いと理由をつけてお坊さん(鳥は食べれたが獣はタブーだった)はウサギを食べたのです(だから今でもウサギは何羽と数える)。

しかし公家の世界では犬食は野蛮だと言われてきて犬を食べる習慣がなくなっていたのです。
五代将軍綱吉の周りの女性はそんな公家出身が多かったので犬を食べるのを嫌悪していたのでした、こうして犬を保護する項目を『生類憐れみの令』に加える事にしたのです。


でも犬鍋は庶民のささやかな楽しみでした。
しかし綱吉の禁令のために食べれなくなってしまい、庶民は綱吉を世紀の悪者へと仕立て上げたのです。
逆にそこまでされて黙っている将軍でも無かった綱吉…
今度は庶民に仕返しをする形で法令が段々厳しくなっていったです。
こうして22年に渡る動物愛護という世にも奇妙な現象が加速していくのでした。

しかし、動物愛護としての『生類憐れみの令』が全然無駄であった訳ではありませんでした。
この時より人々から戦国期のような猛々しさがなくなり、「江戸期全体で起こった事件の数より今の東京で一年間に起こる事件の方が断然多い」と史家に言わせる超安全国家が出来上がったのです。


『生類憐みの令』の残酷さを伝えるこの頃の逸話の中に、“子どもが動物を殺したり怪我を負わせたりしたために親子共々死罪になった”と言う話が犬・燕・鯉等色々な動物のパターンで残っているのですが、これは事実無根だったといわれています。
同じように綱吉が将軍だった天和3年(1683)に“八百屋お七火事”が起こっているのですが、この時の南町奉行甲斐庄喜右衛門正親はお七を15歳以下という事にして死刑を回避しようとしたと言う話が残っています。これは今で言う『少年法』の適用があったという事なのです。

つまりこの時期には既に少年法の原型が成立しており子供の過ちで死罪になる事はなかったのです。


こうして、多くの誤解を生んだ『生類憐みの令』と共に綱吉は“犬将軍”として悪名を残しました。

そして『生類憐みの令』の動物に関する法令が廃止された時、多くの犬が惨殺されたのですが、庶民がこれを食べたという記録は残っていないのです。


ちなみにこの時の彦根藩主は、
『生類憐みの令』発布時は四代藩主井伊直興
『生類憐みの令』廃止時は五代藩主井伊直通

この二人は直接『生類憐みの令』に関わったという記録はありません。
しかし、直興が大老の時(1697年から1700年)に『生類憐みの令』の追加項目が発布されていますし、『生類憐みの令』廃止後にまた直興が大老に就任している事例から見て、この法令がもし今に伝えられている悪法なら、それを止められなかった井伊直興を再び大老に据える事は考えにくいですから、幕閣としては『生類憐みの令』を悪法とは考えていなかった。との説が出てくるのです。

彦根藩主の動向が、歴史の常識を覆す事もあるのかも知れませんね。

井伊家が舞台の小説『獅子の系譜』

2008年01月15日 | 書籍紹介
井伊直政を主人公にした歴史小説です。

直政以前の井伊家の歴史から始まって、幼い頃の直政の境遇がその性格を作っていく様子が所々に出てきて、千年と言われる名家井伊家の歴史がよく分かり、その上で井伊家の生まれたからこそ受ける直政の茨の人生が深く丁寧に描かれていますよ。


関ケ原前の武断派七将三成襲撃事件で、石田三成が徳川家康の伏見屋敷に逃げたのではなく、自らの屋敷に逃げた話などの新しい解釈も入っていますが、根本資料を井伊達夫さんの『井伊軍誌』から引っ張っていて、ここから引用した旨の記述が何度も出て来ることから『井伊軍誌』を小説化した様にも見えていました。

でも、この本がなかなか手に入らない事を考えるとこれから井伊直政を極めたい方には手軽に入る資料となるのではないでしょうか?

大河ドラマ『篤姫』と井伊直弼

2008年01月03日 | イベント
(今回の記事は『どんつき瓦版』号外 より加筆)


彦根城築城から400年目に合わせるかのように、彦根城の縄張の基準となった甲州流軍学の祖・山本勘助が主人公だった『風林火山』が放送された2007年に続き、NHK大河ドラマはまた2008年の彦根のイベント“井伊直弼と開国150年祭”に合った人物を大河ドラマの主人公に抜擢してくれました。

天璋院篤姫は、薩摩藩主・島津斉彬の従妹で斉彬の養女として江戸幕府十三代将軍・徳川家定の御台所になった人物。
原作では、家定の後の十四代将軍を決める将軍継嗣問題で、篤姫の養父である島津斉彬が推している一橋慶喜の人間性に疑問を感じ、井伊直弼が推す徳川慶福を後継ぎに据える為に御台所の権限で彦根藩主だった井伊直弼を大老に就任させる幕府人事を暗に示した事になっています。

また、直弼が同母兄の直元の正室・俊操院に迫り懐妊させ、俊操院が3月3日に自害した話なども紹介されています。


そんな直弼と篤姫は、直弼大老就任後に想いが喰い違う事になるのですがそれは原作やドラマを観てのお楽しみ・・・

この大河ドラマ『篤姫』の物語の前半クライマックスには、直弼大老就任から日米修好通商条約締結そして桜田門外の変が準備されています。


そして劇中で井伊直弼を演じるのは中村梅雀さん。
過去の大河ドラマでは、
『天と地と』武田勝頼
『八代将軍吉宗』徳川家重
『葵~徳川三代~』徳川光圀
『功名が辻』徳川秀忠
などそのドラマの中で重要な脇役を演じてこられました。この配役を見るだけでも『篤姫』における井伊直弼の存在の大きさを知る事ができますね。

“井伊直弼と開国150年祭”と『篤姫』

大河ドラマにリンクした彦根という事で、6月からのイベントも大河ドラマ『篤姫』を通じてより深く、より解り易く楽しむ事ができるのではないでしょうか?