彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊大老歌碑

2007年01月31日 | 彦根城
安政7(1860)年正月、井伊直弼はかねてから親交があり、彦根藩から5人扶持を宛がっていた京の狩野永岳に自らの肖像画を描かせました(2006年4月23日の写真参照)。

この時に描かれた直弼は、正四位上左近衛中将として正装をした姿をしています。
46歳の働き盛りで、世の中は急激に変わりつつある中、少しの余暇もなかった筈の直弼がどのような心境でこの肖像を描かせたのでしょうか?
そんな疑問の答えになるかも知れないもが、この肖像画に自らの心境を和歌に託して書き残しています。

それは、『あふみの海』と題されている和歌で、
“あふみの海 磯うつ波の幾く度か 御世にこころを くたきぬるかな”
と詠まれています。

意味は“近江の海(琵琶湖)の磯に打つ波は、何度も打っては引いてを繰り返しています、今の難しい時勢を全力で心をくだいて尽くしてきたので、悔いは残りません”とも訳せば良いでしょうか。
倒れかけの幕府を支えて、多くの人の反発を生んで、いつ命を狙われてもおかしくないだけに、自分の人生を振り返ったのかも知れませんね。

それはまるで自分の死を予感しているかのようでした。
そんな直弼の命を詰め込んだ肖像画は、『あふみの海』の和歌と共に彦根の菩提寺・清涼寺に納められたのです。

そしてこの肖像画が描かれた年の3月3日、井伊直弼は桜田門外で凶刃に倒れるのです。

こうして、『あふみの海』の和歌は直弼の辞世の句とも評され、埋木舎のそばに句碑が作られたのです。


彦根城周辺史跡スポット:「野田山金毘羅宮」

2007年01月28日 | 史跡
彦根市街地から、多賀に向かう途中を山の方へ向かうと、少し小高い所にあるのが野田山金毘羅宮です。

ここには元々、慈眼寺(じげんじ)という天台宗のお寺が建っていました。その歴史はとても古く、今から1200年以上前に行基が作ったとされる十一面観世音が奉られていて、その十一面観世音の前に行基が記念に植樹したとされる三本の杉が天高く伸びていて、周囲にお住まいの方からは“金毘羅さんの三本杉”として親しまれていて、滋賀県指定自然記念物となっています。

そんな貴重な歴史を持つお寺なのですが、戦国時代に織田信長が近江国内の寺院を焼き払った時に燃やされてしまったのです。
江戸時代中期の宝永元(1704)年に荒廃していた寺を堅央慧練が曹洞宗の寺院として復興させたのです。

延享元(1744)年この時の慈眼寺の和尚・夢庵徹聡は、済民救国の強い願いを持っていました。
ある日、白髪の老人のお告げがあって、讃岐象頭山金毘羅宮(現・金刀比羅宮)に参篭します。そして37日間の祈願を行った後に、霊験を受けることができて、金比羅大権現御尊像を慈眼寺に持ち帰ったのです。

“山の中でも野田金毘羅は病厄よけあらた神”とも詠われた由緒正しい金毘羅さんなのですが、病や厄除け以外にも航海の神様だったのです。
彦根かるたにも“野田山に 船の神あり 金毘羅宮”と詠われています。

地図で野田山金毘羅宮を探してみると、冒頭でもお話しました通り、市街地よりも山に向かうくらいで、船の神様が祀ってあるようには思えません。
しかし、実際に野田山金毘羅宮に登ってみると、今でこそ新幹線の高架がその視界を狭めていますが、昔なら綺麗に琵琶湖を見渡すことができたのだろうと予想されます。
讃岐国(香川県)の金毘羅宮は海の神様として信仰されていて、金毘羅参りをしたくてもできない人が、「こんぴら樽」と呼ばれる空き樽に初穂料を入れて海に流し、拾った人が代参するという習慣があったそうです。

琵琶湖を望む野田山の金毘羅さんは、近江の海を見守って下さっているんでしょうね。

また、彦根城近くの立花通りにも「金毘羅社」があり、この道は江戸時代に中山道から彦根城下を結ぶ脇街道で、琵琶湖から上がった物資を中山道に運ぶ役割もあった事を考えると、琵琶湖を結ぶ重要な交通の神様としての位置付けがされていたのかも知れませんね。

二季咲桜

2007年01月22日 | 彦根城
二季咲桜(2007年1月中旬撮影)


井伊直弼の像がある金亀児童公園には、二季咲桜と呼ばれる桜が3本植えられています。
現地の案内板によると

昭和47年4月に友好都市・水戸市から寄贈されたもので、冬(11~1月)と春(4~5月)の年2回開花する。

との事です。

春の開花は、他の桜の時期とは少しずれるものの綺麗な姿で訪れた人の目を楽しませてくれます。
また、冬の開花の時は場合によっては雪の中に強く耐える姿に勇気付ける桜です。

その種類は枝垂れ桜の変種という事で、1ヶ所に3つの花が付くのも面白いですね。


また、天守近くには同じく水戸市からの『水戸の梅』も植えられています。

これらは彦根と水戸が、桜田門外の変という大きな事件でできた確執を懸命に修繕していった大切な生き証人なのかもしれませんね。

1月19日、江戸城天守閣焼失

2007年01月19日 | 何の日?
江戸城天守閣


明暦3(1657)年1月18日、振袖大火が起こり三日二晩の間、江戸の町を焼き続けて19日には江戸城天守閣も焼失します。


さてここで問題、日本史の中で一番大虐殺を行ったのは誰でしょうか?

長島攻めの織田信長ですか?
それとも延暦寺の時?
実は違います・・・

織田信長以上に大虐殺を行ったのは江戸幕府八代将軍・徳川吉宗です。
でも吉宗は自分の欲の為に多くの民衆を後世まで殺し続けましたが、故意ではありませんでした。
もし、故意に大量虐殺を行った人間を挙げるなら、振袖大火の話をしなければならない事になります。


○まずは、火事が起こった原因から・・・

“承応4(1655)年に梅野という女性が恋の病で1月16日に亡くなります(享年17歳)。寺は梅野と一緒に収められた振袖(梅野が恋しい男の着物を真似て作った物)を古着屋に売ったのです(当時の常識なので問題はありません)。
翌明暦2(1656)年の1月16日におきの(17歳)が亡くなった時にもその振袖収められました、そして寺はまた売ったのです。
次の明暦3(1657)年1月16日おいく(17歳)の時にもその振袖が来たので、驚いた本妙寺の住職は三人の娘の遺族を呼んで大施餓鬼を行う事にしたのでした、それが1月18日だったのです。
三家の遺族の集まる中で火の中に投じられた振袖はおりからの北西の空っ風に煽られて火が付いたまま本堂の高所に飛んで行き建物全体に広がった…”
というのです、しかしこれは実際の話ではないのです。

後の天和2(1682)年12月28日に『八百屋お七火事』で3500人が犠牲になった時に、「この火事でお七のような物語があるのだから、三日二晩燃え続け10万人を犠牲にし江戸城天守閣を失わせた火事には何か云われがあるだろう」と江戸庶民が考え出した話なのでした。

ではなぜ本妙寺から出火したのか?ですが、これは作為的な放火だと言われています。
『加賀藩資料』と『徳川実紀』の中で有賀藤十(五)郎という不審者が居たことを伝えているのです。
また、別の資料には、本堂に火が付いて燃えていくのを「運命だから」と言って住職が放置したという話も残っています、しかも火元の本妙寺は何の罰も受けず10年後には寺格を上げているくらいなんです。
いくらなんでも寺が燃えるのを達観的に見つめる住職や、失火を行った寺の格を上げる権力者って常識では考えられませんよね。

ここから浮かび上がる結論は何かと言えば、本妙寺は権力者の指示で燃えたということです。
その権力者は?といえばこの時期には二人しかいないと考えられます。その二人とは保科正之(三代将軍・家光の異母弟)と松平信綱でしょう。
でも保科正之はその人柄や後の動きからも無関係ではないかと考えれますが、松平信綱は怪しいのです。
信綱は、19日に新たに出火して江戸市中が燃えている時に江戸城天守閣の二階の窓を開けさせるように命じているのです。そこから火が入り天守閣も燃え落ちたのでした。


○では、動機は?

慶安4(1651)年7月29日一つの事件が起きます、『慶安の変(由比正雪の乱)』と呼ばれる浪人の反乱未遂事件でした。
この時多くの浪人達が処刑されましたが、まだ江戸には沢山の浪人達がうろうろしていて、いつ第二第三の由比正雪が現れるか解らない状態でした、その上、慶安の変の生き残りも居たと考えられるのです、そんな浪人達は幕府の頭痛の種だったのでした…

加えてこの頃から幕府は財政難に陥り始めました。三代将軍・家光の浪費が原因だったのです。特に戦争の役にも立たない江戸城の天守閣の維持費は馬鹿にならなかったのです。

また、海辺の片田舎だった江戸の町は発展はしたのですが計画性のない広がりだったので大都市に発展するためには大きく区画をやり直す必要が出てきたのでした…

この問題を一度に解決するにはどうするか?
答えは簡単ですね全部燃やせば良いんです。
そして18日に火が付いた。ただこの日は肝心な物が焼けなかったのです。江戸城天守閣…
そのために19日も火が付きました、そして天守閣は二階の窓が開いていた為に中に火が入りあっという間に燃えたのです。そこを開けさせたのは松平信綱でした。
こうして江戸は彼の指示の下で大都市へと発展していくのです。

ちなみにこの事件が切っ掛けとなり火付盗賊改方が創設されたのでした。


○その後

結局江戸城天守閣はその後再建される事はなかったのでした。
これは松平信綱よりも保科正之の手腕だったのです。振袖大火の後すぐに開かれた老中会議で信綱は都市計画案を次々と発案します、しかし他の老中達の一番の感心は江戸城天守閣再建計画だったのでした。
これを聞いた保科正之は老中達を怒鳴りつけたと言います、普段は温和な人として知られる正之の一括で天守閣再建は永遠に無くなったのです、そしてこの後は今日に至るまで江戸城天守閣は再建されていません。
正之は、信綱の都市計画に修正を加え火除け地の設置や町火消し制度の確定(これが世界で最初の整備された消防隊)。また目安箱の設置をして町人の声を聞くようにもしました。
こうして松平信綱の思惑にそりながら、保科正之がより安全な都市として出来た江戸は人口が急増しながらも振袖大火を超える犠牲者をだす火事は起きなかったのです。

しかし、このために亡くなった江戸市民は10万人にもおよんでいます。これは信長の長島での大量虐殺の5倍の数なのです。
故意に大量虐殺を行った最大の人間は、『知恵伊豆』として有能な官吏のイメージを歴史に残す松平信綱なんです。


さて、こういった大事件を取り上げる時、ではこの事件と彦根藩の関連は?
と言うことになりますね。
この時の藩主は2代・井伊直孝でした、そして嫡子・直滋が後継ぎとして大いに活躍していた時期だったのです。
明暦大火の時、江戸に居た直孝は将軍・徳川家綱へ拝謁するため江戸城に向かいました。この時、備後三次藩(3万5千石)藩主・浅野長治の行列と鉢合わせになったのです。
周囲には火の粉が舞い、両家の行列の供侍は木綿羽織を着ていたために服に付く火の粉を払うのに手一杯で騒然となっていたのでしたが、直孝と長治は皮羽織を着ていた為に火の粉で服が焼ける心配が無かったのでした。
この話が始まりとなって、火事の時に皮羽織を着るようになり、これが火事装束となったのです。

こんな所にも井伊家は関係してくるんですね。

余談:『彦根と俳句』

2007年01月15日 | 彦根城
天秤櫓手前の与謝蕪村句碑


中央商店街を一筋琵琶湖側に入った細い道沿いに、少しレトロな「俳遊館」という建物が建っています。
これは大正時代の彦根信用金庫跡を改装した建物ですが、中に入ると気軽に見学できる俳句と彦根の資料館になっているのです。

彦根と俳句って一体どんな共通点があるのでしょうか?

「古い城下町だから、取り合えず俳句なんじゃないの?」なんて言葉も聞こえてきそうですが、とんでもない。
彦根は、れっきとした俳句の町なんです。


俳句と聞いて、最初に思い浮かぶのは松尾芭蕉ではないでしょうか?
一度訊いたら忘れない“古池や かわず飛び込む 水の音”という句を読んだ人で、『奥の細道』という紀行記録と俳句を残した事でも有名ですよね。
そんな芭蕉には優れた10人の弟子が居ました、その弟子の一人が彦根藩士・森川許六です。
許六は彦根のあっちこっちでその業績を残している人ですが、この奇妙な名前の由来は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六つの芸に通じていたそうで、芭蕉から許六と言う名前を与えられたと伝わっています。

もちろん芭蕉自身も彦根を訪れていて、以前に明照寺の項で書きましたが、“行く春を 近江の人と 惜しみける”という句を残したほどの近江好きでした。
また芭蕉以外にも他にも与謝蕪村など多くの俳人が彦根を訪問し句を残していったのです。
そして、与謝蕪村が残した句が写真に紹介している句碑として伝えられています。
“鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる”
彦根と鮒ずしは切っても切れない縁なんですね。

ほら、彦根に俳句の資料館ができた理由が見えてきたでしょ?


俳遊館は、入館無料で中に入ると彦根の歴史や観光スポット・句碑などの紹介もしています。

知らなかった彦根を気軽に知るスポットとして訪れてみてはいかがですか?
また、館内では句の投稿も受け付けていますので、一句ひねって文化も満喫してみましょう。

彦根城周辺史跡スポット:「北野神社」

2007年01月11日 | 史跡
毎年1月10日は十日ゑびすが行なわれます。

この日の前後5日間は各地のゑびす神社で色々な催しが行なわれますね。
全国的に有名なのは西宮ゑびす神社の福男の競争や、京都ゑびす神社の宝恵駕籠ではないでしょうか?

では、何故1月10日が十日ゑびすとしてお祭りになっているのかといえば、この日はゑびすさん(ゑべっさん)の誕生日だからなのです。
そして、ゑびすさんはこの日を新しい年の出発(多分、仕事始め?)の日と定めているのです。
ゑびすさんは商売の神様として信仰されています。
ですから盛り上がるんですね~

彦根でそんなゑびすさんのお参りができるのが北野神社です。

北野神社は、学問の神様である菅原道真を祭った神社なのですが、その境内にゑびす社があり、十日ゑびすを盛り上げます。

学問と商売・・・
私たちが気になる重要な問題にヒントを与えてくれるかもしれませんよ。
ちなみに、北野神社の隣りには6月にご紹介した北野寺が建っています。

彦根城周辺史跡スポット:「千代神社」

2007年01月08日 | 史跡
お正月気分もそろそろ終り、仕事始めという方も多いとは思いますが、今年の初詣はどこに行かれましたか?

彦根市内には彦根藩の保護を受けていた寺社がいくつかありますが、千代神社もそんな中の一つです

千代神社は、元々は多賀大社の末社だった神社で、天宇受売命(あまの・うづめの・みこと)を祀っています。


日本の神話の中で、有名なお話に『天の岩戸』というお話があります。
日本を創造した神・イザナギは、黄泉の国に亡くなった妻・イザナミを迎えに行きましたが、結局連れて帰る事ができず黄泉の国で穢れた体を禊ぎによって清めました。
この禊ぎでとても尊い三人の神を産んで多賀に隠居したのです。

この尊い神とは、アマテラスオオミカミ・スサノヲノミコト・ツクヨミノミコトでした。
三神はそれぞれ支配地を与えられますが、それに不服を唱えたスサノヲはアマテラスの所に相談に行きます。
しかし、その途中で自分の事を制止した多くの神を殺してしまいます。
それに怒ったアマテラスは、スサノヲと神を産む勝負をしました、この時に産まれた神の一人が天津彦根命(または活津日子根命・活津彦根命)、そう彦根の地名の由来となった神です。
彦根の由来についてはまたの機会に回すとして、この神産み勝負はスサノヲの勝ちとなり、スサノヲはアマテラスの国で暴れてしまい、アマテラスは天の岩戸と呼ばれる洞窟に隠れ、入り口を大岩で閉ざしてしまったのです。
アマテラスは、太陽に神でもあった為に世の中は真っ暗となりました。
そんなアマテラスに天の岩戸から出て来てもらうために神々は大岩の前で宴会を開いて興味を持ったアマテラスが岩を動かした所を強引に引きずり出す計画を立てました。

その宴会の華を添えるために、神々の前で踊ったのが天宇受売命でした。
そしてそんな賑やかな宴会の声に不審に思ったアマテラスが岩を動かした為に世の中は再び日が照るようになったのです。

この事から、天宇受売命は芸能の神様として今でも信仰を集めています。
天宇受売命を主祭神として祭っているのは千代神社だけなんですよ。
また、本堂は国の重要文化財にも指定されている安土桃山時代の様式を残す建物としても有名です。

現在、彦根城博物館には多くの能衣装が展示されていますが、彦根藩は何人もの能役者を抱えていました。
当然、領内にある芸能の神様は彦根藩の保護を受けたのです。

芸事・習い事をもっともっと向上させたい方に、市内で一番お奨めの神様かもしれませんね?

彦根城の存在意義

2007年01月01日 | 彦根城
彦根という土地は、とても重要な戦略拠点だったというお話は今までも何度かしてきました、また彦根城が堅固な城だった事も色々なところからお聞きになった事があるとは思いますが、実は彦根城はただ堅固な城というだけではなく、絶対に落城する事が許されないお城だったのです。

もともとお城そのものは落城する事を目的には作られていませんが、設計者の腕によっては攻め落とし易い城が出来上がる事もあったのです、そんな難しい築城にも名人と言われる人が居ました。

まずは熊本城を築いた加藤清正、そして彦根市のお隣り甲良町出身で日光東照宮の築造にも関わった藤堂高虎などが挙げられますが、そう言った人達よりも評価されているのが大河ドラマ『風林火山』の主人公・山本勘助でした。
彦根城は、この山本勘助が伝えた甲州流築城術の第一人者で彦根藩の重臣・早川幸豊が設計したモノだったのです。

では、なぜ彦根城が落城する事が許されない城だったのか?といえば、江戸幕府から帝を匿う城としての命を受けていたからでした。
そのために彦根藩には30万石の石高以外に5万石の御用米が幕府から与えられていて、現在は梅林になっている場所に保管されていたのです。また彦根藩主は代々京都守護の仕事も請け負っていたのです。
江戸時代は、長州藩以外の藩主が天皇と接触する事を根本的に禁止されていました。
つまり、彦根藩主は他のどの大名よりも天皇に近い立場に居て、幕末史に詳しい方ならご存知の水戸藩や長州藩よりも勤皇の精神が強い藩だったのです。それは井伊直弼も同じでした。
そんな直弼が朝敵のように責められて桜田門外で暗殺された後、この京都守護の仕事が剥奪されたので、その後見として会津藩主・松平容保が京都守護職に任命され、その事が戊辰戦争での会津藩の悲劇へと繋がっていくのです。
ちなみに、彦根城が天皇を匿う城だという事は公然の事だったようで、幕末に佐久間象山が危険な京都から彦根に孝明天皇を行幸させるという計画を発案した為に、象山は勤皇の志士の怒りに触れて暗殺されたと言われています(大河ドラマ『新選組!』にも石坂浩二さんが演じる象山がそう献策するシーンがありましたね)。

話は大幅にずれてしまいましたが、天皇を匿う為には絶対に落城する事が許されないのは解かっていただけたと思います、何度も取り上げている『彦根かるた』には「西に湖 東に鈴鹿の 金亀城」と詠われています。

彦根城が軍事拠点という役目以外にも天皇を守るという役目があったのならば、琵琶湖と鈴鹿に挟まれた地の利を生かした築城も絶対必要だったことが窺えますね。