安政7(1860)年正月、井伊直弼はかねてから親交があり、彦根藩から5人扶持を宛がっていた京の狩野永岳に自らの肖像画を描かせました(2006年4月23日の写真参照)。
この時に描かれた直弼は、正四位上左近衛中将として正装をした姿をしています。
46歳の働き盛りで、世の中は急激に変わりつつある中、少しの余暇もなかった筈の直弼がどのような心境でこの肖像を描かせたのでしょうか?
そんな疑問の答えになるかも知れないもが、この肖像画に自らの心境を和歌に託して書き残しています。
それは、『あふみの海』と題されている和歌で、
“あふみの海 磯うつ波の幾く度か 御世にこころを くたきぬるかな”
と詠まれています。
意味は“近江の海(琵琶湖)の磯に打つ波は、何度も打っては引いてを繰り返しています、今の難しい時勢を全力で心をくだいて尽くしてきたので、悔いは残りません”とも訳せば良いでしょうか。
倒れかけの幕府を支えて、多くの人の反発を生んで、いつ命を狙われてもおかしくないだけに、自分の人生を振り返ったのかも知れませんね。
それはまるで自分の死を予感しているかのようでした。
そんな直弼の命を詰め込んだ肖像画は、『あふみの海』の和歌と共に彦根の菩提寺・清涼寺に納められたのです。
そしてこの肖像画が描かれた年の3月3日、井伊直弼は桜田門外で凶刃に倒れるのです。
こうして、『あふみの海』の和歌は直弼の辞世の句とも評され、埋木舎のそばに句碑が作られたのです。
この時に描かれた直弼は、正四位上左近衛中将として正装をした姿をしています。
46歳の働き盛りで、世の中は急激に変わりつつある中、少しの余暇もなかった筈の直弼がどのような心境でこの肖像を描かせたのでしょうか?
そんな疑問の答えになるかも知れないもが、この肖像画に自らの心境を和歌に託して書き残しています。
それは、『あふみの海』と題されている和歌で、
“あふみの海 磯うつ波の幾く度か 御世にこころを くたきぬるかな”
と詠まれています。
意味は“近江の海(琵琶湖)の磯に打つ波は、何度も打っては引いてを繰り返しています、今の難しい時勢を全力で心をくだいて尽くしてきたので、悔いは残りません”とも訳せば良いでしょうか。
倒れかけの幕府を支えて、多くの人の反発を生んで、いつ命を狙われてもおかしくないだけに、自分の人生を振り返ったのかも知れませんね。
それはまるで自分の死を予感しているかのようでした。
そんな直弼の命を詰め込んだ肖像画は、『あふみの海』の和歌と共に彦根の菩提寺・清涼寺に納められたのです。
そしてこの肖像画が描かれた年の3月3日、井伊直弼は桜田門外で凶刃に倒れるのです。
こうして、『あふみの海』の和歌は直弼の辞世の句とも評され、埋木舎のそばに句碑が作られたのです。