彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

初期伏見城(指月城)跡発掘調査現地説明会

2015年06月21日 | 史跡
伏見城というお城は全部で4つの時期に分けられます。

1.豊臣秀吉が最初に築城した城(指月城)
2.秀吉の隠居城(木幡城)
3.関ヶ原の戦いで焼失した後に徳川幕府が木幡城に再建した城(伏見城)
4.現在の城(伏見桃山城)

この内で、2は関ヶ原の戦いの前哨戦で焼失、3は徳川家が三代に渡って将軍宣下を受ける場となった(このため江戸幕府の初期を「伏見幕府」と呼ぶ人も居ます)が四代目以降は幕末まで将軍上洛が無かったために解体されその遺構はあちらこちらの「伏見櫓」などの「伏見〇○」という名と共に全国に散らばりました。
また、先日彦根城の石垣の中に「伏見城と同じ系統の瓦が見つかり佐和山城で使われていた物だ」との話がありましたが、石田三成が伏見城から佐和山城に運ばせた資材は2の時期の物です。
これらのことから、2の木幡城以降の伏見城が存在しいた物的証拠は確実にあったのですが、1の指月城の実在を示すものは皆無に近く(らしい物はあった)実在性を疑問視する説もありました。
しかし、今回指月城の遺構が見つかり、歴史的な発見となったのです。


…という訳で観に行ってきました。
説明会の前に少し外から覗いたりして待てない自分が居ました。


まずは遺物の数々。
瓦の上に赤い漆で接着剤のようなものを塗り金箔を貼ります。
金は薄い物なので下の色に影響されやすく、下地が赤色の金はよく映えるとのことで赤い漆が塗られたそうです。
 

 

 

さて遺構…
今回は本丸に最も近い西側の内堀遺構が見つかったようです。ですのでこれより外側にも曲輪がだんだん広がっていくようです。
その堀は幅が5~7m深さも推定で5mあった場所もあると考えられるようです。
発掘では2m以上掘ったとのことでした。

その堀に沿って(狭いですが)犬走があり、織豊期によく見られる野面積みをメインとした穴太積に通じる石垣が見つかりました。
 

 

 

豊臣秀吉は当初、この地を城ではなく屋敷の一つとして建築しましたが急に城郭としての機能を付けました。このために近くの淀城の資材なども運んだのですが、その築城は突貫工事になったであろうことは想像できます。
この城を築城する際、名護屋にいた秀吉は京都所司代で普請を担当した前田玄以に対し「ふしみのふしんなまつ大事にて候」(伏見の普請鯰大事にて候)と地震を鯰に重ねて築城に地震対策が大切なことを説いていますが、突貫工事と耐震が同時に行われたとは考え難いです。
文禄5年(1596)閏7月13日子の刻(午前0時頃)、伏見に戻っていた秀吉もゆっくり休んでいたような時間に急に大きな揺れが近畿地方を襲います。
推定M7とも言われている都市直下型の伏見大地震(慶長伏見地震)です。この地震で指月城は倒壊しました。余談ですが阪神淡路大震災はこの地震のすべり残しが起こしたものだとの説もあります。
何にしても、地震によって城が倒壊したために秀吉は怒り、その資材などを堀に埋めてしまい城としての機能を完全に壊したようで、この結果貴重な金瓦などの遺物が今回出てきたのです。

菩提山城址訪問

2015年06月14日 | 史跡
竹中半兵衛の居城として知られている菩提山城に登ってきました。

まずは江戸時代に竹中氏陣屋が置かれた麓の櫓門から訪問

石垣もよく残しています






そして目的の菩提寺山に…


竹中氏の菩提寺である禅幡寺から登ります。

半月ほど前に熊が出たとのこと、そういう山だということをしっかり認識して登城せねばなりません。

しばらく登ると面白い場所が…

「イノシシのお風呂」とのことでした、混浴と明記されているのがユーモアあります。

そんな物に癒やされながら、ゆっくり山を登ります。


休憩を入れながら出発から1時間半程度でついに菩提山城の入り口となる土橋と堀切に到着しました。

本丸に向かって進む道の横には、明らかに人の手で削平された跡も見受けられます。

そして大堀切と切岸、これだけでももう山城としていい物を観させてもらった気分です。

この堀切を越えると大きな曲輪に出逢います。たぶん普通の山城なら主郭となる規模の曲輪です。

その奥にもまた大堀切が出てきます。

そしてまた堀切の奥に広い曲輪があり横に腰曲輪を備えています。

はっきり言えば、これだけで中世山城としては最大級と言ってもいいくらいです、しかしこの城はそんな物でありません、奥の曲輪には端に土塁を積み、そこから下る場所にも複雑に掘り積みされた備えがあるのです。

この段階でまだ城の1/3程度しか見ていません。
本丸(主郭)に向かうまでにある台所郭

ここにある岩は夜な夜な泣く岩なんだそうです。そういう怪談話は大好物ですが、そういう伝承が無くても趣を残す岩でした。


そして主郭へ…

まず驚くのは主郭と同規模の副郭があり喰い違い虎口であり馬出でもある装備で間が区切られていることです。
 



そして主郭からの展望は素晴らしいです。

逆説的に考えて、この城を任されるということは余程の信頼が無ければだめなのではないかと思います。竹中半兵衛は斎藤家中でさまざまないじめを受けたとの話がありますが、信頼を受けられないならウツケに徹しないと言い掛かりをつけられて攻められる可能性は大いにあります。

続いて西の丸へ

ここにも堅堀とか大きな曲輪がありました。





相対的に考えて、この城は竹中半兵衛の時代にすべて完成していたとは考えられません、せいぜい主郭と副郭を中心にあればいい方だったと思います。
平野部を見渡せて、なおかつ堅固な山城を築いたとしたら、斎藤龍興は謀反の言い掛かりをつけてすぐにこの城を攻めたと思います。稲葉山城乗っ取りの後で城を龍興に返した半兵衛が近江で隠居したのは、少しでも謀反の様子を見せたら竹中家が滅んでしまうことを危惧したからだとも考えられます。
それならば、稲葉山城を少人数で乗っ取ったような人物は、こんな斎藤家にとって危険な山城から出て行くというパフォーマンスをして家を残し拠点も残す策の方が有利だと思います。
もし半兵衛の時期にこの規模の城だったなら、龍興は半兵衛が城から出たとしても禍根を断つ挙兵をしたと思うのです。

案内して下さった先生方の話では、関ヶ原の戦いの時に、もし家康が負けたとしても逃げ込めるために城の構えを強固にしたらしい。との話もあるそうです。
佐和山と大垣に挟まれたこの地でそれがどこまで可能だったのかも再検証が必要だとは思いますが、竹中半兵衛ではなく重門の時代に堅固な城にしたというのは納得できました。