彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

源頼朝の上洛

2022年01月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 治承・寿永の乱で平家を討ち破った源頼朝だが、実はこの戦いの間に頼朝が上洛したことは一度もない。それどころか、平治元年(1160)に起こった平治の乱で父・源義朝が平清盛に敗れ、頼朝自身が伊豆に流されたのちに頼朝が一番西進したのは富士川の戦いに進軍したまでであった。つまり頼朝は鎌倉を拠点とした限られた地域から動くことなく武家の頂点に立ったのである。

 そんな頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼした翌年の建久2年(1191)に伊豆へ流されてから30年ぶりに上洛する。『吾妻鏡』の記録では、10月4日に鎌倉を出発。29日には青波賀驛(大垣市青墓町)に到着。この月は小の月であったために11月1日に青波賀驛を出発したであろう頼朝上洛について次に記されているには11月5日に野路宿(草津市野路町)に到着した記録となる。大垣の西端に近い場所から南草津駅近辺まで5日も掛ったことになるのだ。時代は異なるが、織田信長は多くの饗応を受けながらも1日で岐阜城から安土城まで行軍し、江戸時代の参勤交代では彦根藩が最初の宿泊地にしていたのは大垣辺りであった。頼朝の行列はこののち、野路宿を七日午一剋(午前11時半頃)に出発し申剋(午後4時頃)に入京。つまり、例え大行列でも遅滞はないため、普通ならば1日、長くても1日半あれば進める青波賀と野路の間(帰路は12月14日に東近江市の小脇宿、翌日は旧近江町の箕浦宿、16日に小雪舞うなか青波賀)を、約3から5倍の時間をかけて進んだこととなる。

 『吾妻鏡』に記されていない5日間に何があったのか? この疑問に対しての小さな答えが彦根市大堀町の史跡が伝えてくれている。

 東山道(中山道)を小野宿から高宮宿に向かう途中、芹川の渡し辺りで急に体調を崩した頼朝は千本原の九我弥九郎宅で養生をした。

弥九郎は頼朝が回復するまで尽力し、当時流行していた地蔵信仰にも縋ろうと、多賀富之尾村の長福寺(現在の瑞光寺)の地蔵菩薩に祈願するために東山道沿いの石清水神社近くに壇を築いたとされている。この壇の跡には祠が建てられ現在では「大堀家の地蔵堂」として残っている。

 この話は、大堀家の地蔵堂に掲げられている案内板の概要を書いたものだが、案内板では頼朝に仕えたあと千本原で隠居していた弥九郎と紹介されているが、弥九郎が誰なのか? そもそも九我姓なのか久我姓ではないのか? 千本原が何処なのか? なぜ『吾妻鏡』がこのことを記さなかったのか? 謎が広がってしまう。しかし頼朝の発病については雨壺山麓の長久寺にも建久2年に彦根の風土病(マラリア)に罹患した頼朝が同寺の鎮守に祈り回復したことを喜び自ら紅梅を植樹したとの話も残っている。三日熱や四日熱とも言われるマラリアと謎の5日間、そして彦根の伝承が符合するのである。余談ではあるがこの行列には北条義時も加わっている。


大堀家の地蔵堂
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