彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:河合耆三郎切腹(2月12日)

2016年02月12日 | 何の日?
慶応2年(1866)2月12日、新選組会計方の河合耆三郎が切腹しました。

播州(兵庫県)高砂の米問屋の息子・河合耆三郎は、新選組がまだ壬生浪士隊と名乗っていた頃に参加した古株の一人です。商人の息子なので愛嬌もよく、時には隊士にポケットマネーからお金を貸し出したりもしていて、新選組の中でも人望があったと言われています。
芹沢鴨が暗殺されて、新選組の全権を握った土方歳三は、河合の人柄と商人出身らしいそろばん勘定の巧みさを信頼して新選組の金を直接扱う会計方第二席に任命し、幾度かの隊務変更改革の時も河合の仕事だけは絶対に変えなかったくらいだったのです。
耆三郎の父・信兵衛はそんな息子の出世に喜び、時々京都まで様子を見に来ていたといわれています。


慶応2年2月2日朝、河合が隊の金を数えてみると50両の金がなくなっている事に気がつきます。
この時、近藤勇は広島に出張していて、隊の事は土方がみているので、この事が発覚すれば只では済まないことは目に見えています。河合は、実家の信兵衛のもとへ早飛脚を出し50両の補填をしようと考えたのです。


タイミングが悪い時はあるモノで、河合耆三郎が父に宛てて早飛脚を出した日に、土方歳三が河合を呼び出し、隊の金が500両必要となったので金を出すように指示したのです。
この金が、なぜ必要な金だったのかは判っていません。一説には近藤勇が深雪太夫を身請けする為に必要だったとも言われているのですが、この時、近藤は広島に出張中なのでそれは考え難く、もしかしたら土方が河合に対して何らかの黒い疑惑を持っていたのかもしれません。

とにかく、隊の金は50両が無かった為に500両より足りなかったのです。


土方は会計方が金の管理を怠った事の責任を問い、河合に切腹の沙汰を下したのです。
河合は「5.6日の内には実家から50両が届く」と話し、金を補填する事で切腹を取り消して貰う特約を受けます。
土方としても河合を殺す気は無かったらしく(試しただけか?)、10日間の余裕を持たせたといわれています。
しかし、10日が過ぎた2月12日になっても金は届かず、同日、河合は切腹したのでした。
切腹の直前、河合は自分が切腹になるのか斬首になるのかを気にしていたとも伝わっています。



河合耆三郎が切腹して3日後、河合が待ち焦がれた飛脚が到着。
父・信兵衛が商いの為に他所へ出かけていたために手紙を読むのが遅た為だったらしい。
この辺りの予測が出来なかった事は河合の見識の甘さだったとも言えなくは無いですね。。
息子の切腹を知った信兵衛は親族を引き連れて京に上り近藤や土方に会いに西本願寺の屯所を何度も訪れたのだとか。
その度に門前で追い出されたのです。そして度々騒がれてどうにもならないのできつく脅すと来なくなったそうです。
しかし、屯所の周りには怪しい浪人がウロウロしたり、ボーと屯所の方を覗く信兵衛の姿が何度も目撃されたらしい(らしいとしか言えませんが)。
ちなみに、河合切腹の3日後に届いた金を土方歳三が受け取ったのか否かは調査不足で解からりませんが、土方の事だから受け取ったと思っています。