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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『べらぼう』の話(13)鱗形屋孫兵衛

2025年03月30日 | その他

鱗形屋は、田沼時代には三代目を数える江戸の地本問屋でした。

もともとは京都の八文字屋の江戸店を引き継いで開いた店であるために上方の版元との繋がりが強く、出版後進地域であった江戸において出版を牽引した版元でもあったのです。

また、地本問屋であり書物問屋でもある大店でした。


しかし、安永4年(1775) 、『新増説用集』という本が『早引説用集』(上方の柏原屋与左衛門・村上伊兵衛が版権を持っている)を盗作したものであるとの訴えがあり、鱗形屋の板木などは没収されました。

そして同年末には『新増説用集』の責任を追っていた手代である徳兵衛が家財欠所及び江戸から十里四方追放、主人の孫兵衛が急度叱及び過料鳥目廿貫文などの処罰が下されたのです。

ちなみに『説用集』とは、単語の最初の読み方で「いろは」順に分類し、それを部門毎に分けて漢字や読み方を紹介した今の国語辞典の元祖になるような物です。

また上方では半世紀以上前から盗作については問題視されていて、書物問屋たちが京都や大坂の町奉行に禁令を依頼して何度も禁令が発布されていますが、守られていないのが実情でした。

このことからも、わざわざ江戸の鱗形屋を上方の版元が訴えることについての疑問も感じざるを得ません。


しかし、同年に鱗形屋から恋川春町の『金々先生栄華夢』も刊行され、黄表紙という新ジャンルの開拓(ただし当時の人々は黄表紙との認識はなく青本の一種としている)した鱗形屋は家業を保たせていました。

そんな中、旗本某家の用人が遊ぶ金欲しさに主の物を盗んで売るという事件が起こり、この用人と盗品購入業者の仲介を行った罪で孫兵衛は江戸所払いの罰を受けました。

安永10年には江戸に戻り、寛政年間まで家業は続けたようですが、再び登り目になることはなく廃業し、その後の記録は残っていません。


ただ、孫兵衛の次男は西村屋与八の養子となり、二代目西村屋与八として活躍、戯作者としての名も残していますし、二代目の跡を継いだ三代目西村屋与八は葛飾北斎『富嶽三十六景』の版元にもなっています。

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べらぼうの時代(4)

2025年03月23日 | ふることふみ(DADAjournal)

 田沼意次が失脚直前に力を入れていた政策に蝦夷地開拓がある。蝦夷地と呼ばれた当時の北海道は松前藩が全土を監視していたが松前藩は開墾などを許さずアイヌの人々に無理を強いて非人道的な支配が行われていたとも言われている。仙台藩医・工藤平助はそんな蝦夷地の現状とその北にいるロシア人のことを『赤蝦夷風説考』という書物に記して田沼家用人・三浦庄司を通じて意次に進言した。意次はこれを読み勘定奉行・松本秀持に銘じて蝦夷地に向けて調査隊を派遣する。この調査隊は意次の失脚でその任を全うすることができなかったが、メンバーのなかでは一番身分が低かった最上徳内がのちに北方探索の最重要人物となる。徳内の活動は伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』作図や間宮林蔵による間宮海峡発見に繋がり幕末から現代にまで流れる北方問題の始まりが田沼時代なのである。

 さて、そんな蝦夷地調査のきっかけとなった工藤平助には綾子という娘がいた。綾子は16歳で仙台藩に仕え、21歳のときに仙台藩の詮子姫が井伊直幸の嫡男・直富へ輿入れしたことに付き従って彦根藩邸に出仕した。田沼意次は伊達家とも井伊家とも縁があったためこの婚姻にも政治的な背景を強く感じ次世代への布石であったとも考えられる。
 井伊直富は直幸と入れ違うように国許と江戸を行き来していて有能さを認められた人物でもある。直幸が大老となり江戸に留まると国許で藩政を取り仕切っていたが彦根で病に倒れてしまう。病はだんだん重篤化するため重臣たちが京から名医を呼ぼうとするが直富は「それでは彦根に良い医者がいないと誤解されることとなる」として許さなかった。江戸に移された直富は藩邸でも治癒することはなく、綾子の縁で工藤平助が呼ばれた。しかし平助が診察と調薬を行ってすぐに直富が亡くなってしまう。オランダ史料を研究している秦新二さんと竹之下誠一さんは「一橋治済が政敵やその関係者を暗殺していったのではないか?」との考えを示している。私もその意見に賛成していて犠牲者の中に井伊直富も含まれていたのではないだろうか? 直富は幻の彦根藩主とも言われその死は惜しまれている。

 直富の命を救えなかった医者の娘である責任から彦根藩を辞して26歳で実家に戻った綾子は35歳で仙台藩士只野行義の継室となり仙台へ移住した。のちに「只野真葛」と名乗ることとなり、江戸に住んでいた妹(萩尼・福井藩邸で老女格を務めた人物)を仲介として曲亭馬琴の門人となり文通を行っていた。馬琴より「古の紫清(紫式部と清少納言)二女に勝る才女」「男魂を持った老女(真葛は馬琴より4歳上)」とも称され江戸後期の女流文化人として名前を残すことになるのであるがその作品の多くは関東大震災で失われてしまった。抄録の写しが残る『独考』は儒教を疑問視した現代的な思考であり、焼失が残念である。

工藤平助の墓(江東区深川2丁目 心行寺)
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『べらぼう』の話(12)吉原俄

2025年03月23日 | その他

安永4年(1775)吉原では8月に九郎助稲荷の俄(にわか)が行われるようになりました。


俄は正式には「俄狂言」と呼ばれるイベント

路上や宴席で素人が急に歌舞伎や狂言を始める即興芝居を言います。

ですので「茶番」とも呼ばれたりして、予定なしににわかに始まることから「にわか」と呼ばれるようになったとの説があります。


吉原や京都の島原などの遊郭では遊女や芸者もしくは客や幇間(太鼓持ち)などが俄を行っていました、吉原ではそれを大々的なイベントに昇華させ、8月の30日間で晴天の日に芸者などの関係者が役者などに仮装して芸を披露したのです。

この時は吉原が女性や子どもも含めて一般開放され、普段以上の賑わいとなりました。


安永5年に耕書堂から出版された『明月余情』は、朋誠堂喜三二が序文を書いていて、蔦屋重三郎と朋誠堂喜三二が共同で行った最初の出版物として注目されています。


九郎助稲荷の案内板


俄は吉原だけではなく全国的に盛り上がったイベントでしたが、吉原俄は関東大震災によって資料が失われてしまいます。

しかし、大阪俄の系譜は今の吉本新喜劇になどに引き継がれるのです。

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大阪城 豊臣石垣館

2025年03月22日 | 史跡
4月1日から開館となる大阪城 豊臣石垣館の事前内覧に行ってきました

これは、大阪城の「太閤なにわの夢募金」で一万円以上の募金を行った人に案内が来ていたもので、恥ずかしながら管理人も2012年くらいに募金を行い天守前の広場にずっと名前が掲載されていました

…と言う訳で、年に何度か報告の郵便も届いていて公開を楽しみにしていました

豊臣石垣というのは、大坂城を築いた豊臣秀吉の時代に積まれた石垣のことです。
大坂城は大坂夏の陣で焼け落ちますが、その後は徳川幕府により再建されています。
この時、豊臣政権期の石垣を改修して建物が建てられたと考えられていたのですが、昭和になってから現在の城址地下に古い石垣が発見されました。
そして、昭和59年(1984)に発掘された石垣から地中の古い石垣が豊臣政権期の物と判明。
これにより、徳川幕府は豊臣政権期の石垣を全て埋めた上に改めて石垣を積み直して現在の城郭を築いたことがわかったのです。
豊臣色を消そうとした徳川幕府の執念ですが、だからこそ貴重な豊臣期の石垣が残ったとも言えます。
ちなみに、現在見る事ができる徳川期の石垣は他の追従を許さないほどの高石垣です。

これは豊臣期の石垣が、「下ノ段」「中ノ段」「詰ノ丸」と三段構えだった場所を一気に埋めたからでした(写真はパンフレットより)

そんな詰ノ丸南東部の石垣を見ることができます。
天守脇の金蔵裏へ

施設に入り、大坂夏の陣の様子を見てから奥へ

地下に入ると豊臣期らしい野面積み

そこに残る大坂夏の陣で焼けた痕跡

そして、高石垣には欠かせない算木積みの初期の形式

など、石垣のいろいろが学べばました
映像もあり、学習施設としての活用が期待できますね
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『べらぼう』の話(11)エレキテル

2025年03月16日 | 史跡

安永5年(1776)、平賀源内は深川でエレキテルの復元に成功しています。


エレキテルは平賀源内の発明であるとの誤解がありますが、本来はオランダで発明されたもので源内の復元より四半世紀前にはオランダから江戸幕府に贈られてもいたのです。

源内も存在は知っていて、長崎留学時に壊れたエレキテルに興味を持ち、江戸に持って帰ったとされています。


エレキテルは、静電気を発生させそれが人体の中を通ることで体の中の病原などを取り除くとの考えで作られた医療器具でした。

ガラス瓶の中に金属を入れ、ハンドルで回すことで電気が蓄電されて電気を発する構造(本来はもっと複雑)です。

帯電と放電という電気の性質は科学ですが、源内自身もここまでの知識は持ち合わせず、陰陽道や仏教の理屈で説明しようとしたため、だんだんとエレキテルは見せ物の扱いになってしまったのです。


ちなみに、ベンジャミン・フランクリが雷雲に向けて凧を上げた実験が1751年ですが、源内が電気の存在について知っていた可能性は低く、何かわからないものを復元するということは、未知の発明と同じくらいの挑戦であったと考えられるので、ただの復元ではない意味があり源内がもって深掘りできていたら江戸文化に別の一面ができていたのではないか?とも感じてしまいます。


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『べらぼう』の話(10)一橋治済

2025年03月09日 | 史跡
御三卿の一家である田安家唯一の男性であった田安賢丸(定信)が、田安家から奥州白河藩松平家に養子に出されました。

この時期、将軍徳川家治には家基という鷹狩りを好むくらい健康な世子がいて御三卿から将軍候補を迎える可能性は考えられていなかったため、定信が御三卿として部屋住同然の無意味な人生を送るくらいならば、譜代大名になり幕政にすら参画できる資格を得る方が温情であったと言えます。
『べらぼう』のなかでは、御三卿に十万石を与える無駄を嫌った田沼意次が描かれ、田沼意次も定信を白河藩に向かわせることを賛成し、むしろ積極的に進めた感がありますが、実際にこれを推進したのは一橋治済であったとされています。

史の中で黒幕と目される人物は数人挙げられますが、その中でも最大級の黒幕は本当の意味ではほとんど歴史に顔を出さない人物です。
そんな最大級の黒幕と言っていい人物の一人が一橋治済です。

治済の身分としては、御三卿の一家である一橋家の2代当主で、後に11代将軍徳川家斉の父親になります。
一橋家の初代である宗尹の四男として生まれながら、兄が他家へ養子に出たために一橋家当主となったのです。
当時、御三卿は実質的に江戸城に寄生するような存在で、幕府から見れば厄介者であり目に見えるところで将軍職を巡って争うような状態だったので、ここの子どもたちは何かと理由をつけて養子に出されてしまうのが当たり前でした。治済の兄たちが養子に行くのも珍しいことではなかったのです。
そして運命の巡り会わせで一橋家の当主になった治済は相当な野心家だったのです。

田沼意次の弟の意誠を一橋家家老に迎え入れ、意誠の死後はその子意致に続けて家老を任せ、そのパイプを活用して行くのです。この工作のひとつが定信の白河藩行きだったと考えられています。
このために、意次はギリギリまで治済を味方だと信じていた様子すら感じられます。
治済自身、定信を田安家から追い出したのは意次であると定信に信じ込ませたようで、のちに定信は田安家に治済の子を養子として迎え、田安家は一橋家に乗っ取られる形となるのです。

一橋徳川家屋敷跡
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『べらぼう』の話(9)五代目瀬川

2025年03月02日 | その他
『べらぼう』の話では、蔦屋重三郎と幼馴染で淡い恋心の相手として描かれている花の井が五代目瀬川を襲名し、鳥山検校に身請けされることになる。

身請けとは、遊女の借金やその後に受けるであろう収入プラスご祝儀を客が見世に支払って遊女を自由にする(ほとんどは、自らの妾にする)ことです。

吉原の松葉屋においての「瀬川」の名前は、享保年間(1716〜36)から天保年間(1781〜89)までの長くても73年の間に9人が名乗っていて、ドラマでも触れられている四代目は宝暦年間(1751〜64)に美貌と教養の高さで知名度を一気に上げたと言われています。
ドラマでは、四代目が自害したために遠慮される名前とされていますが、歴史的には御用商人江市屋宗助に身請けされたとも、江市屋を表に立ててある藩の家老が身請けしたとも伝わっていてその死が28歳であったこと以外は死因ははっきりしていません。
その後、五代目瀬川まで約20年の空白があったことは史実でした。

そんな五代目を見染めたのが、盲人である島山検校でした。
江戸幕府は、目が見えない人に対する優遇措置のひとつとして高利貸しを認めていて、盲人は按摩などの仕事で得たお金を高利で貸付けて身分を金で買っていたのです。「検校」は盲人の最高位で約千両で買えたとも言われています。
盲人の取り立ては激しく、しかも借り手が取り立てのキツさなどを幕府に訴え出てもほぼ盲人勝利の判決が下されたのです。
鳥山検校は、盲人たちのトップにいた人物ですのでお金には有り余っていたと考えられます。

安永4年(1775)、鳥山検校が五代目瀬川を身請けした時の金額は1400両とされています。現在の価値で1億から1億5千万円くらいでしょうか。

しかし、瀬川が身請けされてから3年後にある旗本が厳しい取立てに負けて出奔する事件が起こり、幕府により盲人一斉摘発が行われ鳥山検校も罪に問われ遠島となります。

瀬川は、飯沼という武家の妻になったあと夫の仕事大工の妻となり、尼になって生涯を終えたとの話もありますが、真相は不明です。

鳥居清長筆《雛形若菜の初模様・松葉屋瀬川 さゝの 竹の》
国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/
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