彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家の名

2023年03月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根藩祖は井伊直政。これは誰もが認める史実である。では長く続いた江戸時代において最も重視された当主が直政であったのか? と問われると答えは難しい。

 大河ドラマ『おんな城主直虎』が放送されていた頃、ある研究者が著書の中で「井伊家は備中次郎を名乗ってきたために、直虎は次郎法師を名乗ったと言われているが、彦根藩主に備中守や次郎を名乗った者は居ないため、この話は信用できない」(筆者意訳)との旨を記している。しかしこれはあまりにも狭い考え方である。まず彦根藩井伊家は井伊直虎の子孫ではない。系図上は直虎の父・直盛の従弟である直親の子が直政であり、彦根藩井伊家は直親に注目している。それでも直親の幼名「亀之丞」や官職名「肥後守」を井伊家は継いでいない。なぜならば直政が徳川家康に仕官したときに平安時代から続く井伊谷を治めていた井伊家が滅びていたからである。家康に仕官した直政は自らの力で井伊家を大名にまで押し上げた。その直政が家康から拝領した名前が「万千代」であり官職名は「兵部少輔」であった。

 前稿で井伊直孝が幕府内で要職を得た遠因について記した。直孝は元老の任を全うし、これにより彦根藩は直政の嫡流である直継ではなく、庶流である直孝が担うこととなるが直政の名や官職名は直継の子孫が継承した。さらに直継の系譜は四代直朝が心の病で藩主の座から退き血流が断たれ、彦根藩から新しい当主を迎えたために実質的に直政の嫡流は断絶している。直孝の子孫は、井伊家庶流でありながら嫡流すら飲み込んだのだ。

 では、彦根藩で直孝の名や官職名はどうなったのであろうか? 直孝は「弁之介(助)」との名が知られているが、歴代彦根藩主の中でこの名を名乗った人物は井伊直亮のみである。直亮は直弼の兄であり大老も務めた人物ではあるが、他の彦根藩主とは違った特別な存在だった。それは直孝以降の彦根藩主の中で唯一母親が正室だったことである。他に弁之介を名乗った人物が直孝の嫡男で廃嫡となった直滋であったことを考えると、彦根藩では直孝の名前が継承される伝統は存在したが正室の子として誕生した男子がほとんど居なかったために堂々と名前を引継ぎ実際に藩主になった者が直亮の例しかなかったのだ。これに対して直孝の官職名である「掃部頭」は歴代彦根藩主が任官してゆき、位階としては従五位下である兵部少輔や掃部守よりも高い「左近衛中将」も直孝を含めた彦根藩主が任官されることがあった。また直政が豊臣秀吉から与えられた「侍従」は直継ではなく直孝に引継がれたために彦根藩主が称することとなる。

 私は直孝こそが彦根藩において最も重視された人物であったと確信している。その証拠に直亮が建立した井伊神社には、井伊家初代共保や藩祖直政と共に直孝も祀られているのだ。


井伊神社(彦根市古沢町)2021年3月下旬撮影
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