彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

閏4月30日、衣川の戦い

2011年04月30日 | 何の日?
文治5年(1189)閏4月30日、源義経の住む衣川館を藤原泰衡が襲撃、義経は自害します。



さて、義経の悲しい運命と非業の死は多くの人の涙を誘い、実は義経は生きていて大陸に渡りジンギスカンになったという伝説まで残したほどでした。
ジンギスカンになるならないはまた機会があれば書くとして、義経が生きて逃げ出し北に逃れたという義経北行説にはどこまで真実味があるのでしょうか?

北行説は「英雄不死伝説」の日本で最初の例で、以降は真田幸村や平賀源内、西郷隆盛など頻繁に使用されるようになります。
つまり義経北行説は元々は義経不死説の一つだったのです。

そもそも『義経北行説』がなぜ議論されるのか? という所から始めると一番に首が挙げられるのです。
義経が衣川で首を切られてから鎌倉で首実験が行われるまでに43日を要しています(すぐ後に頼朝は鎌倉~白河間を10日で行軍している)。
季節は夏、戦火で焼け爛れた首なのだから、たとえどんなに保存をしても首が原型をとどめているとは思えないですよね、しかもその首は首実検の後に海岸に捨てられます。
日本人は死体を恐れる民族でそれが非業の死を遂げた人物なら特に丁寧に祭ってきたのに、義経の首は捨てられた…これはこの首が偽物だった疑いをかける大きな要因となりますよね?
それに義経は衣川襲撃を事前に知っていた形跡があり、この辺りの事情から、「義経は藤原泰衡の攻撃を逃れ逃亡したために泰衡はあわてて偽首を仕立てて鎌倉に送ったが、頼朝は既に偽首である事を知っていた。しかし、奥州征伐の大義名分の為にその首を義経の首と認めさせた」と言う説が登場するのです。

この話は多くの人々の興味を惹き、色々議論されましたが、作家の高橋克彦さんがそんな義経伝説を地図上で記録していくと、北海道までは論理的におかしくない行程で進んでいったという事実がはっきりと浮かび上がってきたそうです。
これは普通の生存伝説にはありえない事なのです。

逆説的に考えるなら、歴史的に死んだ筈の義経が北に逃げたという事実があったからこそ、英雄不死伝説が生まれたのかも知れませんね。

そんな、資料を漁るだけのお話だった筈の義経北行説だったのですが、ある日友達からのメールにこんな文章が書いてありました。
「自分の先祖は鎌倉名門の御家人(鎌倉初期の豪族・三浦氏)の一族で、牛若丸を幼少の頃から知っていたために大人になった牛若丸(義経の事)討伐に出た。そして青森で義経を捕まえたけど彼の濡れ衣を知っていたから身代わりを立てて義経を逃がし、自分も逃亡して青森の近くで隠遁生活をした」
その友達は歴史には詳しくなく牛若丸と義経が同じ人である事も知らなくて、この話も先祖の三浦氏の話のついでに出てきた事だったんです。
でも、このメールを読んだ時は震えました…
当人が知らない所で、歴史家が知り得ない情報が出てきたのですから、ただ口伝なので証拠能力はありませんがね。
でも、驚きですよね。

さて、では義経が生きていたとしてその後どうなったのでしょうか?
勿論成文化された公式文書が有るはずがないのですが、こういう時に案外役に立つのが神社の社史なんです。社史は全てを鵜呑みに信じる訳にはいきませんが、その成立の仮定にたくさんの史実を含んでいるもので、近辺の社史を集め時代分けをする事で一つの新しい史実が浮かび上がる事もあるのです。
そうして調べると義経は衣川から宮古(ここに義経の家臣鈴木重家の墓がある)に移動、そして八戸から津軽半島を北上して三厩(ここで義経が三頭の馬を残して行ったのが地名の由来らしい)から海を渡り日高にたどり着きその地で一生を終えたらしいのです。

皆さんは義経北行説、どう思いますか?


そんな歴史ロマンを呼び起こす衣川には多くの著名人も訪れました。
その一人が松尾芭蕉であり『夏草や 兵どもが 夢のあと』の句を読んでいます。
この句には「国破れて山河あり」に似たような響きと共に、そんな地が夏草に覆われた物悲しさも著しています。

芭蕉に遅れること150年ほどで今度は頼三樹三郎もこの地を訪れました。

三樹三郎の父の頼山陽の『日本外史』には
「四月晦。泰衡遣兵襲衣川。弁慶経春等奮戦死。義経手刄妻子而自殺。」

と書かれています。
衣川を訪れた三樹三郎は、「600年経てば藤原四代の栄華は一睡の夢である。義経と頼朝の間柄、そして衣川と鎌倉の佇まいを比べると、いまだに義経に操立をして荒れ果てている衣川は侘びしく、鎌倉になびいた歴史の浮き沈みは儚い」といったような『平泉歌』を読んでいます。
これは、鎌倉を江戸幕府になぞらえた歌とも考えられ、鎌倉の浮き沈みがそのまま徳川家の浮き沈みに重ねたとするのなら、反鎌倉の象徴である義経最後の地を訪れた三樹三郎の決意が感じられる行為でもあります。
そして平泉歌を読んだ12年後に安政の大獄でその命を落とすのです。

八幡山城訪問記(『江~姫たちの戦国~』関連地)

2011年04月25日 | 史跡
今更ですが、まだ八幡山城に登ったことがないことに気が付いて、訪問してみることにしました。
八幡山城は天正13年(1585)に、豊臣秀次が築いた城で、城下町は安土からごっそりと移転させた場所でもあります。ですから安土城下の発展系の城下でもあるのです。

そして、天正18年には浅井三姉妹の次女・初が夫の京極高次と共に入城しました。本来ならばそのまま京極家の居城になる筈でしたが、文禄4年(1595)の秀次事件で廃城となり取り壊されてしまったのです。そして京極家は大津城へと移ったのです。
そんな10年の歴史が凝縮された八幡山の麓には日牟礼八幡宮があります。
信長が始めたといわれる左義長が行われる神社です。



神社に行くとき、絵馬に注目すると楽しいです。

ここからはロープウェイがあり、一気に山頂まで行けます。

でも、今回は山登りを選択しました。3月の雪の賤ヶ岳に比べれば標高283mは大した高さでは無い気がしました。

そんな山登りの前に、麓にある豊臣秀次館址を見学しました。

桜の絨毯のようになっている八幡公園を抜けると、

古い石垣が現れます

大手道から正面に見える石垣は、敵の侵入に対し大きな精神的な威圧になります。

正面の石垣の向こうに秀次の屋敷があるそうです。
過去の豪雨による崩壊で、まだ見学できる状態ではないとのこと…

そして、八幡山城登城。
城は石垣と、瑞龍寺(村雲御所)が建っています。











拝観料は300円だったのですが、お札しか持っていなかったので、両替してもらおうと声をかけたのですが誰も出てこられず…
涙を飲んで断念しました。

しかし、この城から見る琵琶湖は絶景です。天気が良ければもっときれいだったのでしょうね。

この風景も含めて、豊臣政権における近江支配の最重要拠点だったこともあり、位置・縄張りなど、当時をしのぶ代表的な遺構のひとつと言っていいと思います。


さて、秀次から1世紀ほど遡る頃には、八幡山の城はここではなく尾根沿いの岩崎山(北之庄)にある北之庄城でした。しかし、文献による記述はほとんどみられず佐々木氏綱の次男・八幡左馬頭義昌がここに住んで、その後に六角崇永が築城したとされています。
今では観音寺城の支城のひとつと考えられています。
ここまできたついでですし、案内板があったので、寄り道してみることにしました。

八幡山城から尾根沿いに30分ほど進むと、北之庄城址があるのですが、その道は急な降り坂を転げるように降りて行きます。

やがて看板が見つかり、そこからが城跡です。

はっきり土橋とわかる遺構の左右には深い堀があります。

本丸部分と思われる七ツ池は、目をむくほどの広さを持っていました。ぱっと見て60mほどでしょうか?


虎口も3つほど存在します正面から見ると壁です。

そして城を囲う土塁も5~6mくらいの高さはあったでしょうか?

六角氏の対織田信長戦略の一つとして大幅に改築されたのではないかと考えられているようです。そうするならば織豊期の織豊系ではない城郭という面白い立場にある城郭になりますね。

城の規模からいえば、昔、男鬼城(近江高取山城)を訪れた時以来の衝撃でした。
男鬼城については学研の歴史群像シリーズ『戦国の城』の最初に紹介されているのでこれを参照してください。
北之庄城址、そのままにしておくのはもったいない城の一つです。

4月24日、北ノ庄城落城

2011年04月24日 | 何の日?
天正11年(1583)4月24日、北ノ庄城が落城し、柴田勝家とお市の方が自害しました。





前年6月2日、本能寺の変が起こり、織田信長の死はそれまでの勢力図を塗り替えるような大事件となりました。
この隙に一番早く動いたのが羽柴秀吉で、信長の敵である明智光秀を討ったことで信長の後継者と言う立場を明確なモノにしたのです。
北ノ庄城城主だった柴田勝家は、織田家の筆頭家老という立場から、この時最大の敵だった上杉景勝の抑えとなっていて、明智光秀を討つ為に動く事ができず秀吉に先を越されてしまったのでした。
秀吉は政治家としてのセンスを持っていましたが、勝家は武人でしかなかったのです。

結局、この時逆転した立場が尾を引いて、織田家後継者選びでも秀吉に敗れる結果となったのでした。
反秀吉派は、勝家にお市の方を嫁がせる事で結束を固めますが、秀吉の動きは速く、勝家が冬の雪で越前から動けない間に関西を押さえ、春になってすぐ賤ヶ岳の戦いで勝家を破って、そのまま北ノ庄城を囲んだのでした。

当時の北ノ庄城は9層の天守で、信長の安土城の2倍の大きさがあったと言われています。主君信長の安土城よりも大きな天守は考えられませんので、たぶんこれは越前の人々の天守の大きさに対する驚きと、後に勝家たちを慰霊するために付作られた伝承だと思いますが、それでも大きなお城であったことは確かなようです。

そんな天守に火を放った勝家は、お市とお市が連れてきた三人の娘を逃がして助けようとしますが、お市はそれを拒み、三人の娘だけを秀吉に託して勝家と共に自害して亡くなったのでした。
勝家62歳、お市の方36歳

この後、秀吉は織田家の権力を奪って天下を統一します。歴史にもしはありませんが、勝家に秀吉と同じ位の政治センスがあれば、織田家の運命は変わっていたかもしれませんね。

さて、落城時に保護された三人の娘が茶々・初・江で、実父・浅井長政の小谷城以来2回目の落城経験となったのです。
秀吉の側室となった茶々が「私は生涯で2度城を失いました、ですので私の城を下さい」と話して淀城を与えられるのはこういった悲しい経験があったからなのですが、そんな茶々も大坂城落城時に息子・豊臣秀頼と共に生涯を閉じるのです。
1度目の落城で実父・浅井長政
2度目の落城で実母・お市の方
3度目の落城で息子・豊臣秀頼と自分自身
を亡くした淀の方は果たして歴史で伝わるような悪女だったのでしょうか?
どうしても歴史の被害者に思えてしまいます。

またこれとは違う人生になるのが妹二人です。
次女の初は3度目の落城は寸前のところで喰いとめることができ、家を大名として残すことになります。
三女の江は3度目の落城を経験しないまま、現在もその血筋を残しているのです。
この辺りが、浅井三姉妹の人生の不思議なところでもあります。結局三姉妹の中で現在に続く浅井家の血を残したのは江だけであり、その血は皇室にまで入るのですから大きな功績だと思います(三姉妹以外の形ならば浅井長政の子孫はおられます。また大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』にご出演の方にも子孫がおられます)。


余談ですが、北ノ庄城には、ひとつの怪談話が伝わっています。
落城した4月24日は地元では柴田忌という日として残っているのですが、旧暦4月24日の丑三つ時には北ノ庄城にあった九十九橋の上を首の無い武者が行列となって歩くというのです。

この行列を見た者や、語った者は必ず命を失うとの伝承までありました。
江戸中期の享保17年(1733)のこの日、表具師の佐兵衛という者が、興味を抑えきれずにこの行列を見てしまい、絵心があったので帰宅してから一気に行列の絵を描き上げて表具を頼まれていた箱に隠したといわれています。
翌日、佐兵衛は血を吐いて亡くなりました。そして箱は何も知らない依頼主の元に返されたのです。しかし依頼主の家で出火し燃え尽きてしまったのでした。この時に炎の中で首の無い鎧武者が姿を現したといわれています。

この話は、おそらく佐兵衛が享保17年4月24日に亡くなったのと、同じ頃に武家屋敷の出火があり、それが因縁めいた話として語られたのだと思いますが、北ノ庄城落城から150年過ぎてもこのような話になるくらいに、地元では語り継がれてきたものである証拠でもあるのです。

4月20日、賤ヶ岳の戦い

2011年04月20日 | 何の日?
天正11年(1583)4月20日、賤ヶ岳の戦いが大きく動き、合戦の決着がつきました。

現在、賤ヶ岳の古戦場として知られている場所は、賤ヶ岳砦という羽柴方の砦があった場所で、本来の古戦場はこの砦から尾根沿いに2キロほど進んだところ一帯です。

清州会議で柴田勝家に明け渡した長浜城を秀吉が奪ったことで始まった戦いでしたが、賤ヶ岳の戦いは二つの戦の組み合わせでした。
ひとつは余呉湖の周辺にお互いに陣城を作って相手を囲もうとする囲碁のような戦い。
もうひとつは、直接の戦いを避けた持久戦
だったのです。

陣城勝負については、お互いに長けていて引き分け。
そして持久戦勝負の矢先に、岐阜城の織田信孝が勝家のために動きだしたので、秀吉は賤ヶ岳を弟の秀長に任せて岐阜城を攻めに向かいました。4月17日のことでした。

【岐阜城】

この時、秀吉が岐阜城近くまで攻め込んでいたら歴史は全く違った形になっていたのかもしれませんが、 揖斐川が氾濫していたために秀吉は大垣城に入ることになったのです。


20日の夜、秀吉が留守をしている隙に、中川清秀が守る大岩山砦を柴田勝家の甥である佐久間盛政が襲い、清秀は戦死、持久戦を破った盛政のために柴田軍は勢いに乗り命令系統が乱れてしまったのです。
【大岩崎j砦跡の中川清秀の墓】

この報せを受けた秀吉は、大垣城から賤ヶ岳まで52キロを5時間で駆けて戻り、大岩山砦のすぐ近くに陣を敷いて盛政を攻め、逃げる佐久間勢に対して追い打ちをかけて手柄を挙げたのが加藤清正らの七本槍でした。
ここでよく言われるのは、秀吉軍の先陣を切って戦ったのは石田三成や大谷吉継であり、七本槍は逃げる佐久間勢の後ろを追っただけなので、本当の武功は三成や吉継にあるのではないか?との話です。これに関しては江戸時代という260年以上続いた時間の中で、三成らを褒めるものが残せなかった事情に繋がるのではないかと思います。

佐久間勢が敗れたことで、勝家は前田利家に協力を求めますが、利家が戦わずに兵を引いたために柴田勢は負け戦が決定、北ノ庄城まで逃げることとなるのです。

秀吉が出世をつかむ戦は、駆けることが多いです。
金ヶ崎退き口・中国大返し・そして賤ヶ岳
このすべてに言えるのは、事前の準備が万全に行われていたことです。
それを考えるなら、大垣城から賤ヶ岳までの準備を見抜けなかった柴田勝家の観察力の鈍さが敗因だったと言えるかもしれませんね。

御茶屋御殿を訪ねる(『江~姫たちの戦国~』関連地?)

2011年04月17日 | 史跡
気になっているけどなかなか行くチャンスがなかった史跡が伊庭御殿址でした。
今回、ちょっとした興味から寄ってみることにしました。

徳川家康・秀忠・家光が、伏見城で将軍宣下を受ける時などの上洛の道中で宿泊や休憩を行った御茶屋御殿のひとつなのだそうです。
御茶屋は『信長公記』にもたびたび登場しますが、簡単に言えば偉い人の休憩や宿泊の施設です。
信長の御茶屋として、武田征伐の帰りに最後に寄った場所が彦根の山崎山城で、そのためにここは石垣造りで礎石がある織豊系城郭の跡が残っているとの話を以前に聞きました。
【山崎山城の石垣】


伊庭御殿は、建築当初はお城に近いような構造だったそうですが、今は小さな公園と御旅所でした。将軍の上洛が無くなった江戸時代のうちに建物は焼き払われてしまったそうです。





伊庭御殿から京都に向かうと次の御茶屋御殿でもある永原御殿跡にも行ってみました。

永原御殿址は外郭の水濠の跡が半分以上その形がわかるように残っているそうです。

でも、中の部分は藪に覆われて、入ることもままなりません。せっかくの史跡なのにもったいないです。

「こんな扱いで残すくらいなら、さっさと発掘調査してその後は開発したらいいのに」と思ってしまいました。史跡は大切ですが、何の役にも立たないまま今を生きる人間を締め付けるなら、そんな史跡に価値があるのか?
歴史愛着家として許されないかもしれませんが、手付かずの保存は平地では疑問に想う時もあります。
大阪などでは、史跡を調査した後に戻してその上に建物を建てることもあるそうですが、そんな工夫も狭い日本の史跡活用としては求めら得るのかもしれませんね。
時には史跡を壊す勇気も必要なのだと思います。

そんな永原御殿の地域の案内地図に唯一ある遺構は石垣が見れることでした。

建物は移築されて残っている場所もあります。


また、同じような御茶屋御殿でも、城を大名に与えて藩庁となった場所に水口城がありますから、幕府はこれらに何らかの意図をもって区別したのかもしれません。
【水口城】








御茶屋御殿は、歴史のどのような位置に置くべき史跡なのでしょうかね?

でも、伊庭御殿も永原御殿も家康や秀忠・家光が関わるのですから、大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』関連史跡です。
2011年こそ利用価値があるのでしょうね。

4月12日、世界宇宙飛行の日

2011年04月12日 | 何の日?
1961年4月12日、ユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンが初の有人宇宙飛行を成し遂げました。2011年はちょうど50年になります。
半世紀前、世界は米ソ冷戦の時代でもあり、宇宙開発は両国の威信をかけた軍事的戦略でもありました。
しかし、宇宙開発の中で両国には決定的な差があり、それがアメリカを不利な立場に追い込んでもいたのです。
その差は宗教。

アメリカではキリスト教を信仰する民族が多く、キリスト教以外でも神を信仰する人々にとって神の領域に近づく行為は、バベルの塔にあるような神の怒りを受ける恐れがあったのです。
しかし、旧ソ連は基本的には社会主義の国であり、神の枷はありませんでした。逆説的に書けば、だからこそゴルバチョフ元書記長が「私はロシア正教を信仰している」と発言した途端に、欧米が援助を始めて、資本主義を知った人々によりペレストロイカが起こってソ連が崩壊する結末を迎えるのです。 そして人類が猿から進化していった過程をすぐに理解できたのもソ連が天地創造を信じていないからこそでした。

こう考えると、米ソ冷戦時代の宇宙開発競争でソ連が一歩リードしていた理由はおのずと見えてくると思います。


さて、そんな宇宙開発では、米ソともに動物を乗せて宇宙にロケットを発射させる実験は何度も行っていてそれなりの成果を挙げていましたが、いずれは行われるであろう有人ロケットには多くの課題が残り、それは実際に人を乗せて飛ばさなければわからない段階に差し掛かっていたのです。

こうして、ソ連は有人ロケットを作りました。
一説にはガガーリンの前に2件ほど有人ロケットの実験で失敗しているとも言われていますが、そのことは公には発表されておらず、噂の域を出ることはありません。

噂は別として、初の有人宇宙飛行に際して、ソ連ではパイロットの選定を戦略的に考えて行きました。
・コクピットの構造上身長170cm以下の者
つまりまずはロケットありきの選抜だったのです。
・労働者階級の者
・いつでも笑顔になれる者
ソ連は、この実験に成功すればそのパイロットは英雄になると考え、労働者階級の者の快挙という宣伝と、笑顔の好感度にこだわったのでした。
そんな選定に残った20人の中から厳しい訓練にも耐えたガガーリンが、宇宙に旅立つことになりました。


1961年4月12日、ガガーリンはポストーク1号に乗り宇宙へと飛び立ちます。そして地球周回軌道を2時間弱(約1時間50分)で1周してソ連領内に戻りました。


ガガーリンは、この宇宙飛行で有名な言葉を残しています。

○「地球は青かった」
この言葉は、短くそれでいて地球のすべてを伝えている文学的にも優れた言葉ですが、ガガーリン自身は「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」「地球は瑞々しい色調にあふれて美しく、薄青色の円光にかこまれていた」などの舞台の台詞に使われそうな言葉を使っています。これらが訳される段階で「地球は青かった」になったといわれているのですが、労働階級の出身にしては、言葉の選び方が美しく、僕自身はこの言葉に何らかの手が加わったような気がしています。

○「神はいなかった」
この言葉は、「私は周りを見渡したが、神は見当たらなかった」という、言葉の言い回しから後に回顧して語ったような言葉が元になっています。
これは、ロシア正教のアレクシー1世に宇宙で神を見たかを尋ねられた時に答えた言葉でもあり、アレクシー1世は「神が見えなかったとは他言しないように」と言い、こののちにニキータ・フルシチョフ書記長(当時)が同じ質問をした時には「見えた」と答えたガガーリンに対して、「神が見えたとは他言しないように」とフルシチョフは言っています。
冒頭で書いた、宗教の差がガガーリンを挟んで描かれたエピソードなのです。


こうして無事に帰還したガガーリンには、生い立ち・笑顔・言葉さえもソ連の広告塔として一挙一動が注目されるようになり、ガガーリンは精神を病み酒が増え、1961年内に自傷行為を行ってしまいます。その7年後(1968年3月27日)には飛行訓練の最中に墜落し34年の人生を閉じたのです。

ちなみに、4月12日は、1981年にスペースシャトルの初打ち上げが行われた日でもあります。
ソ連の有人ロケットからちょうど20年でアメリカはスペースシャトルの実用を成し遂げるのです。


さて、これらの話は彦根どころか、日本とも直接関係する話ではありません。
しかし、彦根近隣はさいわいにして夜空がきれいに観れる地域が多くあり、また多賀では宇宙が見れる施設があったりと、宇宙に興味が持てる風土に恵まれています。
こんな話をきっかけに、宇宙にもっと目を向けて見ると面白いかもしれませんし、長浜まで足を延ばせば江戸時代の天体観測の資料が見れるチャンスもあるかもしれませんよ。

4月6日、岐阜事件

2011年04月06日 | 何の日?
明治15年(1882)4月6日、東海地方を遊説し、岐阜城の麓の神道中教院で演説を行った板垣退助が、演説を終えて帰路に就こうとした所で突然暴漢・相原尚褧(あいはらなおぶみ)に襲われ左胸を短刀で刺されました。




『岐阜事件』や『板垣退助遭難事件』と呼ばれるこの出来事の時に板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとされ、歴史に残る名言となっています。
ちなみにこのとき、板垣は相原の短刀の刃の部分を押さえてしまったために、指に大きな怪我を負いました。板垣のような幕末を戦って生き抜いた武士でも、とっさのときには冷静な判断を欠くこともある一例でもあります。

「板垣しすとも…」の言葉については、あまりにもできすぎているために、実際に発せられた言葉なのかは議論されていますが、岐阜県御嵩警察署の岡本という人物が板垣のことを内密の命を受けて見張っていて、その岡本の報告書によって「板垣ハ東面シテ起チ其左面ヨリ出血スルトキ吾死スルトモ自由ハ死セジトノ言ヲ吐露スル中各介抱シテ門外ニ出ツ」と記されています。
板垣退助やその仲間内からの言葉であれば、脚色の可能性も高いのですが、板垣を見張っていたいわば敵方である警察サイドの報告書にでてくる言葉なのです。

この頃の板垣退助は常に命を狙われていて、刺客が5昼夜自宅の床下で隙を狙っていたとか、高知県まで追って命を狙った人物がいたなどの話があり、板垣自身も寝るときは枕元にピストルを常備していたほどでした。だからこそこの台詞は常に準備されていて、刺された瞬間には口にする訓練がされていたのかもしれません。

ここまで、自由党のために尽くした板垣退助でしたが、明治29年4月14日に第二次伊藤博文内閣で内務大臣に任命されると自由党党首を辞任してしまいます。誰もが驚くような行動は自由党弱体化に繋がり、あっというまに歴史から消えてしまうのです。
岐阜で、板垣がこの言葉だけを残して死んだ方が、自由党は長く続いたのではないか?との話も一部では語られることがあります。


実はこの2日後に彦根城楽々園で板垣を招いた彦根自由党による自由懇親会が予定されていた事はあまり知られていません。

地域通貨「彦」

2011年04月03日 | その他
今年も、地域通貨「彦」が配布される時期となりました。

前年度一年間に行った“美しいひこね創造活動”に対し、活動回数4回に対し100彦が支給され、これが地域通貨として彦根市内で使ったり団体に寄付したりできる制度です。

100彦=100円
として登録されたお店で使う事もできて、それで特典があるお店もあります。


さて、昨年も書きました通り地域通貨「彦」5枚(つまりは500彦)で、ひこにゃんのエコバックと交換できます。
「彦」自体もエコバックも、ひこにゃんグッズとして定着しつつありますね。


…というわけで、管理人もさっそく交換に行ってきました。
昨年の活動のほとんどは取材で歩き回った時のもの。しかしこれが41週分あり、なんと1025彦!!
端数切り捨てですが1000彦を頂き、その半分でエコバックと交換しました。

帰宅した後に改めて活動内容の基準を見ると、
D:低炭素社会づくり運動
の中に、“移動手段を自家用車から自転車や公共交通機関に変更する”という項目がありました。
それなら、毎日往復14キロを自転車通勤している管理人には、できる美しい彦根創造活動がが増えていることになりますね。自転車通勤も頑張ります。


地域通貨「彦」は、彦根市内のお店での買い物の他に団体への寄付や、お礼にも使われます。
すでに4回目の配布となり、そろそろ地域にも定着しつつある様子がありますが、ますます活発になるといいですね。