彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

明治維新の彦根藩

2018年12月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 第二次長州征伐は彦根藩にとって大敗を喫する戦だったが幕府にとっても将軍徳川家茂の死で停戦せざるを得なくなる汚点となった。歴史は大きく動き1年後には大政奉還が行われるが、その間に彦根藩も大きく動いた。
 まずは井伊直弼存命中には、直弼との意見の違いから江戸藩邸で軟禁状態に置かれていた勤皇派の岡本半介(後の黄石)が藩政を握る。そして一気に軍制改革を進め井伊の赤備えは消滅した。半介は藩医の谷鉄臣を重く用いて藩政改革を進めて行くが、同じ勤皇派でも半介が徳川慶喜の意向に沿った勤皇を主張するのに対し、鉄臣は岩倉具視らが考える倒幕を支持するようになり岡本と谷はすれ違うようになる。
 これは幕末から維新にかけて各地で起こった対立と同じ構図ではあるが、彦根藩では粛清ではなく話し合いによって谷が率いる下級藩士のグループ「至誠組」が中心となるようになった。王政復古の大号令ののち、彦根藩の藩論が勤皇でまとまったことを知った岩倉具視が大久保利通に報せ、大久保はすぐに鹿児島に伝えていて、その政治的影響の強さを物語っている。
 慶応4年1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いでは彦根藩は新政府の命で大津警護の任に就いた。直前まで徳川軍の中核を担っていた井伊家を新政府が完全に信用できずに用心して主戦場から遠ざけたとも考えられるが新政府軍の勝利に貢献したことは間違いなく、そのまま桑名まで兵を進め桑名城開城に立ち会っている。
 同じ時期、金剛輪寺では相楽総三らが赤報隊を結成する。のちに偽官軍と呼ばれて処刑される運命にある赤報隊も結成時は官軍として遇されていたため彦根藩でも領内通行を許可しており、赤報隊が偽官軍と呼ばれ処刑される原因となる年貢半減の高札が最初に掲げられたのは中山道高宮宿となる。
 鳥羽伏見の戦い以降、彦根藩の活躍は目覚ましい。この頃江戸で作られた瓦版には明治天皇を奉じて新政府軍となった大名に薩摩・長州・土佐に続いて彦根と阿波(蜂須賀家)が記されている。のちに薩長土肥と呼ばれる肥前(鍋島家)よりも早くに新政府に味方した大名として井伊家が認識されていたのだ。戊辰戦争での彦根藩は関東から東北まで転戦し、流山では新撰組局長近藤勇を捕え、会津戦争では板垣退助隊で戦った。また分家である与板藩(井伊直勝系)も周囲を敵に囲まれながら北越戦争を戦い抜いた。
 彦根では「直弼が嫌われていたため明治維新後の旧彦根藩士は冷遇された」と言われる事が多いが、大久保利通や大隈重信との繋がりが強く、大久保の尽力で日下部鳴鶴が明治天皇の前で書を書き、大隈によって彦根城取壊しが中止される。
 また西村捨三や大東義徹・石黒務など現在にも功績が残っている政治家も排出しているのだ。明治維新から150年が過ぎた今だからこそ、桜田門外以降の彦根藩を見直せるチャンスなのかもしれない。

桑名城開城時に焼かれた辰巳櫓址

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150年前:蝦夷共和国建国(12月15日)

2018年12月15日 | 何の日?
明治元年(1868)12月15日、蝦夷共和国での新しい政府が誕生しました。

江戸時代が終わろうとするその瞬間。将軍である徳川慶喜は大きな抵抗もせずに新政府に恭順しましたが、それではなっとくできない人々が関東から東北までを転戦し、最後にたどりついたのが蝦夷(北海道)だったのです。

ここで、旧幕府軍の残党は、榎本武揚を中心に結束して、箱館五稜郭を政庁として新しい独立政府を樹立したようなイメージが持たれています。
そして、列強に独立国家として認めてもらうために、日本最初の入札(選挙)を行ったという話もよく聞かれます。


しかし、実際には旧幕府軍は榎本の元で結束していたわけではなく、榎本の行動力に周囲が引っ張られていただけで、実際には藩や幕府内での所属、そして彰義隊の生き残りなどのグループに分かれていたのです。
入札は、列強に対するパフォーマンスではなく、本当に誰をリーダーに立てるのかを切羽詰まった状態で真剣に選んだのでした。
それまでの日本では、そこまでをしてトップを選ぶ必要がなかったので、入札がなかっただけで、逆説的に考えれば入札にしか頼れないくらいまで分裂していたのが旧幕府軍の実状だったのです。

そして、この時にできた蝦夷の政府を、一時的にでも独立国として諸外国が認めていたという話もよく語られますが、榎本たちが、日本から独立した新国家を樹立しようとした形跡はなく、あくまでも徳川政権の権利を主張しただけの内紛に近いものでした。
ですので、正式に蝦夷共和国と名乗ったこともなかったのです。

さまざまな誤報に満ちた蝦夷共和国ですが、明治元年12月15日の入札と同時に政府機能が樹立し、入札の結果で榎本が総裁に選ばれて組閣され、5ヶ月の短さながらも中央に影響されない地方行政が運営されたのです。
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松原下屋敷の紅葉

2018年12月02日 | イベント
今年は、公開期間ギリギリに寄りました。

写真をたくさんアップしますので、雰囲気を感じて下さい。













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