彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

「江戸の『幸福力』にまなぶ」

2009年09月27日 | 講演
文化プラザではひこね市民大学講座の第4講として、環境ジャーナリストの枝廣淳子さんの講演「江戸の『幸福力』にまなぶ」がありました。

地球温暖化に取り組んでおられる枝廣淳子さんは、最初にこのままの状態で温暖化がどうなるのか?というシュミレーションを1950年から2100年の温度の変化を流されました。
この結果では、2100年には地球は全ての地域で温暖化という言葉だけでは片付けられないような危険な状況になる事が示されました。

(ここからお話を纏めてみました)

今までは科学者だけが気にしていた温暖化を政治や民間レベルでも知られてきましたが、今でも温暖化は進んでいるそうです。
しかし地球の危機は温暖化だけではなく、
・生物の絶滅のスピードは通常の1000倍
・エネルギー問題
・食料問題
などなど…
エネルギーで一番重要なのは石油ですが、今は需要が伸びるのに対し供給が減っている形になっているそうです。ピークは2006年から減っている。
そうなると石油の価格が増えて行きます、そうすると食糧問題も起こします、1kcalの食料を作るのに10kcalを使っているのが現状です。
石油の値段が上がると食料のコストもあがるのです。
こういった問題がいっぺんにやって来ているのが今なのです。

これらの問題が一度にやって来た理由は、地球の大きさが決まっていて地球は全てが助け合って出来ているというと言う事です。
花からミツバチが蜜を集めるのと一緒に花粉の運び屋をしていますが、ミツバチが大量に死んでいる現状から、受粉ができなくなり人の手で受粉をしなければならない現状となっています。
そこで地球の一生の中で最近登場した人間が、最初はほとんど地球に影響が無かったのに、科学技術が発達した辺りから地球の許容範囲以上の影響を人間が及ぼし始めました。
「今の人間の生活を支えるのに地球は何個必要か?」というデータでは1.4個という計算結果がでました。この0.4個オーバーが可能なのは、「過去の遺産を食いつぶし未来の前借りをしているから」なのがそうですが、これは長続きしませんよね。
温暖化を防ぐためには、地球の許容範囲に戻してやることが大切なのだそうですが、その為にはCO2を60~70%削減する必要があります。

今の金融危機の理由も、資源・エネルギー・環境などの限界を市場が下っ為に、次をどう正すか?と施策し始めた結果で、以前のように戻る事は無いそうです。


ここから江戸の話。
○食料自給率
 ・現在40%
 ・江戸時代100%
○エネルギー自給率
 ・現在4%
 ・江戸時代100%
○経済成長率
 ・現在3~5%
 ・江戸時代0.3~0.4%
江戸時代の方は、自分の生きてる間に経済成長をしている実感は無かったと思います。

江戸時代は、人口がほとんど変わらず大体3000万人で変更はありませんでした。一人当たりのGDPはあまり変わりませんが、エネルギー排出量は多かったと思います、しかしこれは自然燃料でCO2はあまり排出されない理想的な社会でした。
江戸時代は、前の年に生えた草や食物などでエネルギーを賄え、これを植物国家という人も居ます。そしてこの植物は太陽エネルギーという自然エネルギーだったのです。
米を作っている農家は藁も大きな収穫で、20%は生活用品、50%は畑の堆肥、30%は燃やして使いその灰はまた対比にしました。また藁は納豆に使ったり家畜の肥糧にもなりました。そして建物にも使われたのです。稲作だけで「衣・食・住」が賄えてリサイクルもされていました。
森は人間が手入れをする事で里山となり、薪や木材を手に入れていました。これらは太陽エネルギーを利用しています。

江戸時代はリサイクルが発達していたことでも知られています、世界の人々は「自分たちが探す世界が既にあったのではないか」と言っています。
江戸時代は物が少ないので何度もリサイクルして使うしかなくモチベージョンが違います、そしてその為の商売もたくさんありました。古着屋さんは江戸だけでも4000建あそうです。傘も破れて後に張り替えて使われ、その破れた紙もまた使われました。下肥を集めて利用する仕事もありますし、蝋燭の滴を集めてもう一度溶かして蝋燭にする仕事もあったのです。
寺子屋の教科書は、学校の所有物で子どもは借りているだけでした、ある教科書は100年以上使われてういたそうです。今の日本では個人の物なので1年で使わなくなってしまいます、ただこうすると紙屋も印刷屋も書店も儲かりません、そうすると経済成長率が低くなってしまうのです、ですから江戸時代はこれが0.4%などになるのです。
しかし、確かに江戸時代はGDPがあまり成長しませんでしたが、物を大事にしない今の経済の方がおかしいのではないでしょうか?
太陽エネルギーの中で上手に暮らして行った江戸時代というのは、持続可能な素晴らしい見本だと思います。

CO2排出は自然エネルギーの方が少ないのですが、そのような現状ではありません。また原子力発電も有効といわれていますが安全性が重視され、日本では柏崎原発が止まったまま10年以上使われていない現状を考ると、原子力に頼るには地震大国の日本では難しい所もあるのです。

スェーデンの例を挙げますと、昔は殆ど石油に頼っていました。しかしこれを大きく変えたのです首相が「2020年までに石油を一滴も使わない国になる」と宣言し、そうする為にはどうしたらいいか?を決めて大きく変化し、石油からバイオ燃料(森の木)をエネルギー源にしたのです。
スェーデンでなぜこれができたのか?と言えば意識が高いわけでもなく、国民の思いは日本とあまり変わりません、国は人々の誘導が上手で様々な税金を石油に上乗せしバイオ燃料には課税しませんでした。これで国民は値段が安くなったバイオ燃料を買うようになったのです。
「バイオ燃料にしないと地球が危ないですよ」のような「~ねばならない」で国民を説得したのではなく、こうした方が得だ、と悪い方に下駄を履かせたのです。これは日本も真似ができますね。

また、私たちの意識を変えないといけないのは私たちはどれくらいのGDP必要なの?という事です。
これまでは倖わせになる為にはお給料が増えないと、その為にはGDPが増えないといけない。という事でした。それによってGDPを増やすには生産を増やし、その為にCO2をたくさん排出してきました。
広告代理店の電通が作った“戦略十訓”には
・もっと使わせろ
・捨てさせろ
・無駄使いさせろ
・季節を忘れさせろ
・贈り物をさせろ
・組み合わせて買わせろ
・きっかけを投じろ
・流行遅れにさせろ
・気安く買わせろ
・混乱を作れ
どうやって人が物を買うか?そうすればGDPも増えて皆さんも幸せでしょう?という前提で、いかに物を買わせるか?という戦略でした。
それが今は行き詰まってきたのです。

これを切る為にば「ダブル・デカップル」が必要だと思います。
カップルは結びつく事で、これにデが付くと反対の意味になります。つまり2つ別れさせるのがダブル・デカップルです。
幸せ=GDP=CO2
の図式をまずGDPとCO2を離します、これは企業によるCO2削減の取り組みが始まっています。でももう一つのデカップルも必要です。例えばエコカーに乗ってCO2が削減されてもそれでどんどんドライブに行けば、また増えるかもしれない。相対的に削減されるのと絶対的削減では異なります。企業は相対的に減らす事は出来ています。
もう一つのデカップルを考える時に、本当にGDPが増えたら幸せなのか?という事です。アメリカに面白いデータがあります。GDPはお金が動けば増えます、ですから交通事故が増えてお医者さんの治療費が増えたり、犯罪で警官の残業代が増えてもGDPに加算されます。
ですから新しい指標GPIという物が作られています、これはGDPから幸せに繋がらない物を引いて、家事育児ボランティアなどの倖わせに繋がる物を足します。
すると1960年代くらいまではGDPとGPIは同じように増えますが、このあとはGDPは増えてもGPIはほぼ横ばいか減っている傾向があるのです。またGDPは増えているのに今の生活に満足している人の割合はどんどん減っています。GDPが増えたのに幸せになっていない人が増加しています。
日本は「足るを知る」などの自分の身の丈で生きる事を教えてくれる知恵があります。江戸時代はこういった効率よりも足るを知るを大事にしていたのでしょう。

また日本では「生かされている」という言葉があります。これを英語にすると必ずBy○○と後ろに付きます、聖書でもby God が付きます。でも私たちは神様に生かされているというよりも、あらゆるものの中で支えられているという意味の生かされているですね。この発想は欧米にはありません。

環境関係の国際会議で通訳をすると「もったいない」という言葉の通訳に困ります。これは英語にありません。
調べてみると、日本には“もったいない”の方言がたくさんあります、そして魚津市では「あったらもんな」と言うそうです。これは古語で惜しむという意味の“可惜物(あたらもの)”が富山県風の方言となったようです。
そしてアジアには、もったいないという言葉がたくさんあります。「もったいない」は「もったい」が無いという意味ですが、これは“その物の値打ちや命や本質が最後まで生かされないこと”です。
まだ使える物が最後まで生かされないままに使われなくなってしまわれる時に私たちは「もったいない」と思うのです。これはただリサイクルというだけではないもっと深い物なのです。
私たちにもそれぞれ「もったい」がある、なぜこの時代に生まれたのか?仏教の経典には「山川草木悉有佛性」という言葉で示されています。
これまでGDPの効率の為に、ちょっと変わってる人や物や効率の悪い人や物はすべて外されました、でもそん中にも「もったい」がある。それを生かしていくのが持続可能な社会ではないか?と思います。
持続可能の社会、もったいないと言うとすぐ物の話になりますが、それは一面ではなく人間の「もったい」を大切にする世界が、江戸時代にヒントがあるのではないか?と思います。物は活かしきる所まで活かした訳ですから、人も活かしきる社会だったのでしょう。


英語にはあって日本語にはできない言葉があります。例えば英語にはプロとつく言葉が多いです。プロは「前へ前へ前へ」という発想です。常に前へという発想の方に、日本での因果往行・輪廻転生・「風が吹けば桶屋が儲かる」のような循環思想はネガティブと受け止められます。
今、世界にとって大切なのは私たちの感じている循環の発想を知っていただくことだと思います。

同じようなことでは「永遠」の発想も違います。
海外で永遠の建物を造ろうとすれば岩やレンガなどの固い物で造られます、しかし日本の永遠な建物の代表である伊勢神宮は20年ごとに建て直されます。
前へ前へというのが永遠の発想だと思いがちですがそうではなさそうです。その発想になったのがブータンです。
ブータンはGNPを伸ばすのではなく、GNH宣言しましたこのHは“happiness”国民が倖わせでなければ国の政策として失敗という考え方です。ブータンは憲法にもGNHを唱っています。9/14にフランスのサルコジ大統領が「フランスはこれからGDPだけではなくGNHも計算して考えて行く」と言いました。
何か大きな動きが起こりつつあるようです。

このGNHに刺激を受けた日本の企業があります、向山塗料株式会社という甲府市の中小企業は売り上げを伸ばすために社員にノルマを課して社員が走り回って倒れて止めて行きました。
社長も倒れ色々悩んでいた時にブータンの事を知り、これを考えるようになり実践しました。
身の丈以上に大きくなった会社を、社員の倖わせを考えて身の丈に合うまで小さくしようと考え1995年からこの会社の売上目標は前年度のマイナス成長になりました。
“来年度の売り上げ計画、今年度の-8%”と書かれていました。数年後に社長に訊ねました「マイナス成長上手くいっていますか?」と、すると社長は難しいんですと答えられました。「売り上げを小さくするためにノルマを小さくしました。すると社員は笑顔でゆっくりお客さんと接するので売り上げが上がるんです」とのお話でした。
私たちは何の為に働いているのか?それは日本のGDPを上げるためですか?それとも自分が倖わせになる為でしょうか?

このままじゃダメだと言う事はみんな解っています、ですからこれからどうするのか?大事な事を探し地球の許容範囲内で変化していければ今はチャンスなのだと思います。
日本の中だけで食料もエネルギーも自給自足し、戦争も無く文化発展させた江戸時代の人々に学ぶ事はたくさんあると思っています。



(最後に「思い込みをほぐす」という面白いお話がありました)

思い込みをほぐすのが大切な事です、例えば電気は電力会社が作る物という思い込み…
これは今、太陽光発電でほぐれてきてます。
「これまではそうだったけど、必ずしもその必要はないかもね」というのが思い込みを外す事です。

高松市ではMy箸を持ってきたお客さんに色んなサービスを行っていて、そんなマップがあります。
割引だったり、ドリンクをサービスしてくれたり…
面白いのは「普段ほとんど具の入っていない味噌汁にワカメをたっぷり入れる」や「店員が想いを込めて“愛”を叫びます」だそうです。
こんな風に「何をしなければならない」ではなく楽しく「こんなやり方でもいいよね」をやってみるのです。

お弁当でも、使い捨ての器に入っているのが多く「この器がもったいない」と言う話会社のスタッフが言ったので「お皿を持って行ったら?」と言うと、スタッフは器を持って買いに行くようになり、お弁当屋さんも入れてくれました。牛丼屋さんもOKでした。
マクドナルドににコーヒーを買いに行って、マグカップを持っていったら入れてくれました。後で訊いたらマックに持って行ったのがスタバのマグカップだったようです(笑)

そんな形で、これまでの思い込みをほぐす事が大きく変えられるチャンスなので、みんなで楽しく緩めて行けたらいいのではないかと思います。

伊勢湾台風50年

2009年09月26日 | 何の日?
2009年9月26日、伊勢湾台風上陸から50年の日となりました。
伊勢湾台風はその被害が三重県・愛知県を中心に死者行方不明者が約5千人となる大惨事となり、50年前を知らない世代にも名前が知られる台風となりました。


あまりにも大きな被害と、伊勢湾台風という命名から三重・愛知・岐阜で大きな被害が出たようなイメージがありますが、伊勢湾台風は風台風であった為に降雨による水の被害が少なく、風による高波とそれに伴う堤防の決壊という伊勢湾台風本来の被害と、この少し前に全国に被害をもたらした大きな台風の復興がなされないままに風のあおりを受けて二次災害という両面の被害をもたらしたのです。

前者が三重・愛知で、後者が山梨を中心に被害が出ました。


災害が起こると、その一つを徹底的に調査して、被害の原因を探り対策を講じる方法が取られがちですが、伊勢湾台風にはその前段階での台風被害を抜きには語れません。
また海抜0もしくは海抜マイナス地域として三重・愛知は堤防決壊と水がいつまでも引かないという被害が多く出て死者行方不明者の数も増えましたが、同条件の岐阜では少なからず被害は出た物の先の2県ほどにはなっていません。この原因を探すと江戸時代の宝暦治水に始まる明治から現代まで続く木曾三川治水工事に関わってくるようです。

治水という点
前段階の災害による点
伊勢湾台風その物が原因による点

これらの点を結んで線となった時に、本当の伊勢湾台風の姿が浮かび上がり、そして対策が生まれるのではないでしょうか?



ちなみに『どんつき瓦版』では伊勢湾台風50周年に合わせて、彦根から見る木曾三川にスポットを当てた紙面を発行していますので、お手に取られた際は見てやって下さい。

国宝四城「犬山城」訪問記

2009年09月20日 | 国宝五城
国宝四城として彦根城などともに語られる犬山城に行ってみました。


犬山城は2004年までは国宝の城として唯一個人所有の城としても知られていましたが、その割には他の三城ほどには有名でない感がありますね。
そこで、今回は犬山城とその城主・成瀬家(個人所有はこの子孫が行っていた)の歴史を少し書いてみます。


犬山城は天文6年(1537)に織田信長の叔父・織田信康が美濃(岐阜)と尾張(愛知)の国境の木曽川の畔に立つ天然の丘に注目して築城した城で、木曽川沿いの最も断崖になっている場所を後方の守りとして天守を置き(1番北側)、その反対側に人工の櫓や塀を建造する事で守りを固めた自然を利用した堅城でした。
兵法では“後堅固之城(うしろけんごのしろ)”と呼ばれる形式で、小高い丘に作る“平山城”という築城方法では最も理想的な城とされていた形式だったのです。

“後堅固之城”は「敵が後ろから攻められない」という考えの元に出来ている城で、実際に犬山城の場合も攻め落とすには南側からの攻撃しかないと想定されていた。
永禄8年(1565)、城主が織田信康の子・信清だった時の事。信清は信長と敵対する道を選び犬山城は信長に攻められる事となるのです。
この時、信長軍が城の南側に陣を構えると思っていた信清の予想を裏切り、信長は犬山城天守と木曽川を挟んで対岸になる伊木山に仮城を築城して川と断崖に阻まれた北側から攻め込んだのでした。後堅固が逆に油断となってしまう実例だったのです、その例は(史実性は疑われますが)一ノ谷の戦いでも教訓として挙げられますね。
信長の支配下に置かれた犬山城は、信長の重臣だった丹羽長秀の所領に加えられ池田恒興・織田勝長(信長の子)などが城主を務めました。

本能寺の変で信長が没した時、犬山城主だった織田勝長も明智軍と戦って二条城で戦死します。
こうして主を失った織田家は幾つかの分裂をし、犬山城は信長の次男・信雄の支配下に置かれる事となったのです。
本能寺の変から2年後、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が戦った“小牧・長久手の戦い”では重要拠点として注目され、羽柴軍の池田恒興が以前に城主を務めていた強みで犬山城攻略に成功し、秀吉の本陣として戦の全てを見届けたのです。
小牧・長久手の戦いが終わった後に織田家に返された犬山城は何人かの城主を迎えた後関ヶ原の戦いまで無事に残ります。でも関ヶ原の戦いの時に城主だった石川貞清が西軍に味方した為に追放されたのです。
その後、家康の子・松平忠吉(四男・井伊直政の娘婿)の付家老・小笠原吉次が3万5千石で入城し犬山藩が誕生するのです。

慶長12年(1607)、家康の九男・徳川義直が名古屋城主に指名され尾張藩を誕生させると、その傅役(後見人)だった平岩親吉が12万石で犬山城主となり犬山藩の全盛期を迎えるのですが親吉が没してしまうと犬山藩は取り潰しとなってしまうのです。
藩は無くなっても城そのものは残っていて、幕府は義直の付家老・成瀬正成を犬山城主に任命。
まだ幕府の力が安定していない関ヶ原の戦い直後では、付家老でも藩の設立は認められたのですが、幕府の力がが落ち着き始めていたこの時は成瀬家が犬山藩を作る事は認められず正成は犬山藩としての尾張藩からの独立を夢見るようになるのです。
その後、9代城主・成瀬正肥の時まで藩としての独立は叶えられなかったのですが(尾張藩からの邪魔が度々入ったらしい)、慶応4年(1868)に幕末動乱のゴタゴタの中でやっと藩として認められる事となったでした。
幕府は前年の10月に“大政奉還”で政権を朝廷に返上していたので実権はありませんでしたが、明治新政府からの公認も得られ犬山藩の体制を整える事が出来たのです。
4年後の明治4年7月、廃藩置県。
犬山藩は解体され、犬山県となりますが11月には名古屋県と合併し旧・尾張藩に戻される事となったのでした。
廃藩置県の時、多くの城は明治政府の管轄となり、その維持費の大変さから取り壊される運命が待っていました。
しかし、犬山城はそのまま保存される事となり犬山県(後に愛知県)かその管理を行なっていたのです。

明治24年(1891)10月28日、日本内陸部で起こった最大規模の地震・濃尾地震(M8.0)が中部地方を襲い犬山城も損壊、その修理にかかる経費に頭を痛めた愛知県は4年後の明治28年に損壊部分の修理及び保存管理を条件として犬山城天守とその周囲の土地を成瀬正肥に譲渡したのです。
この時から犬山城は4代に渡って個人所有の城として知られる事になるのです。
正肥の後を継いだ10代目当主・正雄は奇妙な運命に流された旧犬山藩士達の親睦に力を尽した事で知られています。
11代・正勝は舟橋聖一・堀辰雄・井伏鱒二らと『新興芸術派倶楽部』を結成した文人なのです。


犬山城の面白い所はいろいろあります。やはり古い天守であるという趣は感じられますし、内装の武骨さも戦国期から拠点となった城ならではかもしれません。
最上階では廻縁に出て外を眺める事もできますが、江戸期に禁止されたり多くの城が飾りの効果しか無かった廻縁の上を、犬山城では実用化されていて実際に歩けるのはびっくりでした。

『火天の城』と日本100名城「安土城」訪問記

2009年09月13日 | 日本100名城と続100名城
2009年9月12日より『火天の城』が公開となりました。

この映画は、安土城築城の責任を任された番匠・岡部又右衛門を主人公に家族の絆や、理不尽な施主織田信長に対して毅然と挑む強さ、そして匠だからこそ感じ合える友情などを描いています。
小説を読んで管理人が一番震えて「どのように映像化されるのか?」と期待したシーンがクライマックスに入り大きなスケールで描かれました。本当に大満足の映画です。
しかし、映画を見てから小説を読まれるともっと奥深くなりますよ。


さて「これを見ると安土城に行きたくなった」と安土城登城を実行しました。
管理人が前に安土城に登ったのは23年前でした。その時には無かった真っ直ぐな大手道に迎えられたりと随分様変わりしました。

先日の童門冬二先生の講演で安土城は居館建築というお話がありましたが、それを示すように大手道を挟んで家臣の屋敷跡があります。

そして発掘された金箔付きの瓦も見る事ができました。

こんな金や財宝を狙って、安土城炎上の後から安土山には盗賊がやって来たのですが、盗賊たちは織田信長と家臣団の霊によって凄惨な死を迎えたと言われています。その信長の霊を弔う為に、羽柴秀吉が二ノ丸にお墓を作ったそうです。

そして、映画で運ばれる途中に大惨事を招いた蛇石もありました。

ただし、最近まで蛇石は行方不明というのが定説でしたので、この石が本当に蛇石なのかは分かりません。
ここから本丸を越えるといよいよ天主です。

実は石垣は昭和15年に積み直されていて、当時の形をそのまま残している訳ではありません。
しかし天主台の礎石はそのままだそうです。ここに大きな大黒柱が建ったのですね…

天主台の外側には炎上時に赤化したと思われる物もありました。


また山の中腹には信長時代から残ったと思われるお寺の建物もあります。



『火天の城』を見て安土城を訪ねると、本当にここにあのような城が建っていたのか?と思いたくなると同時に1000年の夢も一時のいざこざによって失われてしまう無常の念も感じずにはいられません。

越前大野訪問記

2009年09月08日 | 史跡
越前大野藩4万石の居城・大野城を訪問しました。

大野藩は土井家が藩主を務めていますが、これは江戸時代初期の大老であった土井利勝(徳川家康の隠し子との噂がある人物)の四男利房の家系です。

寛政3年(1791)そんな大野土井家に婿養子に入ったのが、井伊直幸(彦根藩10代藩主・大老)の十男・利義(としのり)でした。
利義は、土井利貞の四女と婚約をしますが6年後にこの正室が亡くなってしまうので岡部長備(岸和田藩主)の娘を後妻に迎えます。

この事により、大野藩は土井家の血から井伊家の血に引き継がれるのです。

利義は文化2年(1805)11月に利貞の隠居によって土井家の家督を相続したのです28歳でした。
3年後、藩内で大きな飢饉があった為にお救い小屋を設置したとの記録があります。利義の兄である井伊直富にも彦根城下での大火災の際に彦根城の修築より民への救済を優先し金蔵・米蔵を開いたとの話がありますので、この業績は井伊家で培われた物なのでしょうか?

大野で訊ねると、利義は記録としてあまり研究されていないそうですが文武両道であったとの事です。特に漢詩が得意だったとも言われています。
利義が井伊家より来た事によって後の土井利忠(利義の嫡男)による藩政改革が行われる地盤ができ、この藩政改革は諸藩の見本となる物で北陸の各藩から大野藩に学びにくる藩士が多く居たとの事です。
また、明治に廃れてしまったが、江戸期の大野藩は茶道が盛んでこれも利義が彦根藩から来た事による影響ではないか?との事でした。

そんな利義ですが、在任6年で関宿藩久世家より迎えた養子・利器に藩主の座を譲って隠居したのです。
隠居後に利忠が誕生し、文政元年(1818)年5月17日に利器が亡くなったので11月に利忠が藩主となります。
ちなみに利義は、利器が亡くなってから半月ほど後の6月4日に、嫡男が藩主になる姿を見ずに没します。

この関係を見ると
彦根藩は、
井伊直幸―直中―直弼 
大野藩は
(井伊直幸)―利義―利忠
との関わりがあり、井伊直弼と土井利忠は血の繋がった従兄弟同士(利忠が4年年上)になりますが、直弼が幕政に参加している頃の利忠は大野藩の藩政改革と蝦夷地開拓事業に従事していて、蘭学にも力を入れたいた利忠が従兄弟の幕政に協力した形跡は見られないのです。


大野城は、明治に廃城となっていて昭和43年に復興されましたが、その形は絵図面とは違う物となっています。


利義の嫡男の土井利忠は名君として祀られていますし、大野城には像もあります。


そして越前大野で他に有名な歴史遺構として朝倉義景の墓があります。
マンガ『センゴク』第13巻117ページにも描かれている墓です。

『直江兼続と石田三成』

2009年09月05日 | 講演
『ひこね市民大学講座』で今回は、童門冬二先生の講演『直江兼続と石田三成』が行われました。
今回は『どんつき瓦版』で文章起こしをする予定がありませんので、管理人が書きとめた内容をご紹介します。




直江兼続と石田三成の出会いはお互いが26歳の時にそれぞれの主君の代理としてでした。
その時に何の話をしたかと言えば、石田三成は羽柴秀吉の“天下人”の仕事、直江兼続は“地方自治”の話をしました。
秀吉は織田信長の遺志を継いだ天下人ですが、その仕事は何かと言えば…

今回の聴講された方は、
1.彦根市民
2.滋賀県民
そして
3.日本国民
です。

この内で1と2は地方自治ですが、3として「ああして欲しい」「こうして欲しい」というのを、今回の政権交代で民主党の鳩山さんに要望します。石田三成はその3の話をしました。

「上杉さまは立派に地方自治を行われましたが、越後の民は天下の民でもあるのではないか?
天下の民となると貨幣や経済・教育・大規模開発・外交など要望する内容が変わるでしょう。これは上杉さまでは出来ない仕事ですが、民は要望する。それを羽柴がやるのだ」と…


織田信長は、近江に進出する前に羽柴秀吉に近江の気質を調査させたと思います。
尾張には古い時代から“あゆち”思想がありました。これは【倖福の風が海から吹いて来て日本の四ツ辻にあたる尾張の国に吹き寄せる】という伝説です。『万葉集』の時代から“あゆちの風”は歌に出てきますが、これはユートピア思想でした。
あゆちの風によって地域が倖せになる。信長の思想は天下にこのあゆちの風を吹かせるのが理念だったと思います。

ですから信長は稲葉山城を取った時に山の上から麓に降りて、民の声が聴き易い場所に行ったのです。そして周の故事にちなんで岐山から、山を低くした丘という意味の阜に変えて“岐阜”としたのです。
そして、近江では家臣の館が集まる居館都市としての安土城を創り上げたのです。
これはおそらく越前一乗谷の居館都市の立体化ではないか?と思っています。安土は信長の命名で、学者さんが議論して「平安楽土の略であろう」という説で落ち着きました。平安楽土も一種のユートピアですので、やはりあゆちの風を示したのではないか?と思います。
私は“あゆち”と“あづち”と語感が似てるな?と思っています。

そんなあゆち思想のポリシーを秀吉が引き継ぎ、三成から直江兼続、上杉景勝に伝わったのです。
秀吉は、天皇の名によって日本国内での私戦を禁止しました。しかしこれに従わない地方大名が居ました。秀吉はこれらを征伐として天皇の命として軍を出しました。この軍は天皇の軍=官軍であるという構成をしたのです。

秀吉もまたこの国を平和にしたいというあゆちの風を日本全国に吹かせる理想をもったのです。
直江兼続は目から鱗でこの話を聞き、地方自治と天下人の考え方を考えさせられたのです。ですから三成は上下関係を求めたのではなく地方自治と天下人の役割を求めたのだと思われます。
しかし、秀吉の考え方が変わり、大名の鉢植えを行うようになりました。大名の領地替えは自分の権限という思い上がりが出て来たのです。
その植物も極力は名門名家となり上杉家も越後から会津に移されました、ここで上杉家は120万石を与えられますが内の30万石は直江兼続の知行でした。
周りは敵になるかも知れない大名が多く、兼続は軍備拡大をします。
そこで上杉に謀反の兆しありという噂が流れ徳川家康の耳にも入るので兼続と親しい西笑承兌が「早い機会に上洛して誤解を解いた方がいいですよ」という好意溢れる丁寧な手紙を送ります。これに対して直江兼続が書いた手紙は“直江状”として知られますが、これは「来るなら来い」という挑戦的な手紙です。
現在では「直江状は直江兼続が書いた物ではない」という説を学者さんが出して居られますが、これが偽書なら『天地人』はこれ以上進まなくなっちゃいます。直江状が関ヶ原の原因となります。
この直江状を見て家康が上杉征伐に出向いて、その時に石田三成が挙兵するのです。小山でUターンした家康が関ヶ原で石田三成との激戦を行います。

石田三成は関ヶ原を脱して再起を図ろうとしますが、盟友の田中吉政の所に出て捕えられ、大津城に晒されます。
石田三成は五奉行の一人です、五奉行には他に長束正家・増田長盛という近江出身者がいて、3/5が近江人となります後に近江商人を生む経営感覚が戦国武士として既に備わってるのが秀吉の狙い目立ったのでしょう。大名は戦だけではなく一国経営の才覚を発揮する人物を秀吉が登用し、近江人の才覚を長浜時代に秀吉が見抜いていたのではないか?という気がします。

三成には三献茶によって秀吉に登用されました。
登用された後では、大坂城に行っても有名な話がありますね。
淀川の葦の利権に関する逸話や淀川の堤防が切れそうな時に米俵を投げ込んだ逸話です。これらの功績を三成は全て秀吉の功として譲ったのです。
関ヶ原の戦いの後に佐和山に乗り込んだ東軍の兵は、経済観念の強い三成ならさぞ財産があるだろうとなだれ込むと、何もありませんでした。
三成は貯蓄ではなく清貧の潔さに生きたのです。
捕えられた三成が護送途中に柿を身体の毒として断った話があります。大津城の前に筵で座らせられていた時も、東軍諸将が次々に嘲りながら通る中で「お前たちは戦には勝ったが心根は卑しい」と言い返しました。黒田長政は馬から降りて自分の陣羽織を三成の方に懸けました。また藤堂高虎は三成の前に座って、西軍の将として藤堂軍の戦いぶりで気になった点を問い、高虎は三成の助言を聞いたのです。

これらの話は、三成は最後の最後まで生きている限り緊張感を解かない、生命を完全燃焼しようとう三成の生き方を表しています。

これは上杉謙信から教えられた「義」の一字を貫いた直江兼続にも繋がります。
しかし敗れる。上杉はこの後1年間戦闘態勢にありましたが、榊原康政や本多信正などの呼びかけで1601年7月に上杉景勝も伏見城に赴きました。
ここで上杉120万石は没収されますが、直江兼続は「120万石の内30万石は私が太閤殿下から頂いた物です、これは返しますが改めて主人景勝にお与えください」と願い許されます。
上杉家は収入が1/4になりますが、兼続は6000人の家臣の内1人たりとも首を切らないでいただきたいと願いました。この家臣と家族は米沢で引き受けましたがどういう風に食わしていくか?は大きな問題でした。
その為にこの先日本がどうなるか?という情報を収集して判断しなければなりません。これを千坂という重臣を京に置いて常に情報を送らせたのです。

ここで、家康に対して朝鮮から国交回復の打診があった情報が兼続の元に入ります。その条件は秀吉の朝鮮侵略で連れ去った3000人の朝鮮人を返す事でした。
徳富蘇峰の『近世日本国民史』では2820人まで返されたが180人はそのまま日本に残留したが、それが本人の意志なのか連れてきた大名の強制なのかは今はもう解らないが、萩焼・唐津焼・有田焼・薩摩焼の始祖は彼らから始まっている。と記されています。
これで日鮮の国交が回復し日本でおめでたい事がある時には朝鮮から賑やかな使節が江戸城にやって来てお祝いをするという通信使という習慣ができました。
明治になってこの制度は絶えますが今はまた復活しています。今は通信使が来るのは皇居ではなく成田空港です。どんな人が来るかと言えばヨン様・チェジウとかですね。日鮮の友好が手を結ぶのは市民外交から始まりますね、これはいい事です。

この様子を見ていた直江兼続は経営理念を農業として武士の意識を変えて行くのです。しかしそのまま給与は払えませんから石田三成の理念に沿った減給を考えます。それは上役ほど多く減俸し下役の減俸率を極力減らし、兼続も自分の知行を6万石から5千石という1/12にしました。
また農業立国には指導書(テキスト)が必要なのでこれを記します。『四季農戒書』を書きました。
内容は面白く1月から12月まで仕事を追っていますが、例えば4月には“田植え”と書かれています。
「田植えの時期には男は朝から田に入って苗を植えろ。女は家に残って美味しい弁当を作れ。そして近隣で相談して弁当を作って届ける者を組織せよ。届ける時には美しく化粧をして一番良い着物を着てその下には赤い腰巻を履きなさい。用意ができたら田の畔道に行き近くに亭主が居ても通り過ぎて畔道の奥まで行きまた戻って来なさい、それを2.3回繰り返し赤い腰巻が少し見えるくらいに裾を捲ってあげあさい、そうすると男のやる気が上がるでしょう」との面白い事が書かれています。
辛い仕事もやりようによってはやる気が出るでしょう。との事なのです。

しかし、当時の兼続の立場は「お前のお陰でこうなったんだ」という戦犯扱いで四面楚歌でした。こんな時にも石田三成を思い浮かべ義を貫いた姿を手本にしたのです。責任を負って腹を切るのは易いが、三成の強い精神力を習い生きながらえて上杉の基盤を作ったのです。
ですから佐和山と米沢の遠く離れていても二人の絆は深かったのです。

100年ほど後に上杉鷹山が家臣に兼続の法要をしているか尋ねると家臣が否と答えたので「兼続は参謀として献策したのであり、それを決定するのは将だ。関ヶ原の合戦で三成に味方したのは将として決定した上杉景勝の責任であり直江兼続は軍師として案を提示したのみだ、法要を復活しなさい」と命じたのです。
上杉鷹山の経営改革のほとんどは直江兼続の政策が基盤となり『四季農戒書』をテキストとしたのです。
鷹山は火種運動を起こしました、この時に「成せば成る、成さねば成らぬ何事も。成らぬは人の成さぬなりけり」との言葉を残しました。これがケネディの大統領就任あいさつの言葉「松明は新しい世帯に引き継がれた」。またオバマ大統領の就任あいさつ「Yes We Can」は「成せば成る」ですね。
こういう形で日本人の改革者お言葉がアメリカの改革者の中に生きているのかな?と私はこう思いたいです。

また、こういう形で佐和山が見直されるのも嬉しい思いです。今は歴史ブームです、あやかり煎餅・あやかり饅頭のような一過性な物ではなく引き継いでいって欲しいと思います。

9月1日、関東大震災

2009年09月01日 | 何の日?
大正12年(1923)9月1日関東大震災が起こる。

細かい記述は敢えて避けますが、死者約22万余人という大惨事であり恐怖心からくる流言が新たな犠牲者も生む悲しい災害にもなりました。
天災なので大きな被害が起きようとも避けようが無いように思われますが、実は18年も前から予測されている事態だったのです。

東京帝国大学の今村明恒教授が明治38年(1905)に『太陽』という雑誌に「過去に江戸では100年に1回の割合で大地震が発生しており、安政の大地震(1859年)からすでに50年が経過しているので、今後50年以内に大地震(都市部は全焼し死者は10万~20万に達すると予測)に襲われる事は必至と覚悟すべき」との論文を掲載していたのです。
これに対して同大学の2年先輩の大森房吉教授は「根拠が無い」と徹底的に否定をしたと言われています。
大森教授としては不確定な予想で人民の不安を煽るのを危惧したようなのですが、結果的に今村教授の予想が的中してしまい、何の準備も出来ていなかった多くの人々が犠牲になってしまったのです。

現在、東海地震についての警告がなされていて様々な準備が行われています。
また滋賀県でも周期的に起こる筈の地震が起きていない事から、警戒を示している人もいます。
災害はいつ起きるか解らないですが、こういった情報には耳を傾けて警戒を怠らないようにしなければいけませんね。


さて、関東大震災をはじめとしてこの先の東京では何度かの大火に見舞われるような事態に遭遇しました。
井伊家では東京にある屋敷に多くの資料を残していた為に、これらの火災で貴重な
品々を焼いてしまう結果となったのです。そんな大火で燃えた物の代表は、当時の当主・井伊直忠が好んだ能面や能衣装と言った能道具でした。
この後に直忠はもう一度コレクションを始めますので、井伊家に残る能道具のほとんどは江戸時代から彦根藩に残る物より近現代で集められた物が多いのです。

そんな多くの文化物が燃える中で、守り抜かれたのが『彦根屏風』でした。それほどに人々を魅了する力を持つのが彦根屏風なのです。