彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『歴史資料でたどる大津事件』

2021年05月21日 | 博物館展示

令和3年(2021)5月11日に事件発生から130年を迎えた大津事件。

この資料が6月6日まで展示されているとのことでしたので、大津市歴史博物館に行ってきました。


ここは、以前からニンテンドーDSを使った常設展示ガイドがあるので面白いのですが、今回DSを持って行くのを忘れてしまいました(大津事件は特別展なのでDSガイドはないです)。ちょっと残念、また行かねば。


さて、大津事件については以前に書いているので、そちらを参照してもらうとして、今回は展示についてです。

展示用に漫画も用意さていて、事件の概要がわかるようになっています。

主に、加害者である津田三蔵の資料が多いのは、やはり事件として司法が関わっていることの証拠ですし、130年といえば歴史の話になりますが、やはり明治は近代化された政治だったのだと改めて感じました。


展示では、

津田三蔵の志願書


三蔵の履歴書


や、事件のときに三蔵がニコライに斬りかかったサーベル




そして、ニコライの血を拭ったハンカチ



手当のときにニコライが座った座布団



サーベルを落とし、取り押さえられた三蔵の傷の報告書(サーベルの写真の矢印にある刃毀れは三蔵が斬られてついた物)



三蔵を取り押さえ時の人となった車夫のブロマイド



事件を聞いた旧彦根藩士青木平輔の短冊



などをじっくり観れます。

漫画の最後に、治療のために事件後にニコライが休息した店がロシア人の聖地になったとの話があり、今も昔も文化を問わずに聖地巡礼があったのは血生臭い事件のなかでちょっとクスッと笑うオチでした。






白玉とゴボウの味噌汁

2020年09月17日 | 博物館展示
文久3年(1863)10月7日に彦根藩主井伊直憲が朝食で食べた「白玉とゴボウの味噌汁」を作ってみました。

2005年に彦根市のイベントで大名の食事を再現していたことがあり、そのときに試食した朧げな記憶はあるのですが今回別件で醒ヶ井餅が話題になり、前の投稿をみて作ってみようと思いました。

参考資料は、彦根城博物館の図録




とは言っても、普通に白玉とゴボウを具にしただけの味噌汁です。
彦根なら白味噌の可能性もありますが、井伊家はたぶん赤味噌かな?

イベントを報告した以前の記事

『光秀と京〜入京から本能寺の変〜』

2020年09月16日 | 博物館展示
京都御所に高御座を見学したあと、今出川通を西陣まで移動して、京都市考古資料館に向かいました。
大河ドラマ『麒麟がくる』に合わせて明智光秀や本能寺に関する出土物が展示されています。

本能寺の瓦などや










光秀が足利義昭を守った本圀寺からの出土物など







ここは、京都市の発掘物が早い段階で展示されるので注目している場所のひとつですが、人骨も当たり前のように置いているときもあり驚きます(今回もありました)。

また、光秀展示とは別に古代の疫病退治に使われたと思われる顔が描かれたユニークな土器も展示していました。






『コレクター大名 井伊直亮』

2016年10月29日 | 博物館展示
彦根城博物館で10月28日〜11月27日の期間で行われる特別展『コレクター大名井伊直亮-知られざる大コレクションの全貌-』を観て来ました。

井伊直亮は、直弼の兄で先代藩主でもあります。
彦根藩主随一の数寄者と言ってもよい人物で、たくさんの美術品を収集しました。
その中の最高傑作が今日「彦根屏風」と呼ばれる、京都三条柳町の色街を描いた風俗画です。

(↑この写真は、別の時に展示されたものです、今回の展示では撮影できません)
多くの貯蔵品は、関東大震災や東京の空襲で失われましたが、その不幸すら乗り越えて残った物の数々なのです。
そして、直亮だけではなく同じようにコレクター大名だった松浦静山、松平不昧、細川斉茲、徳川治宝の集めた物もあり、芸術品のオンパレードです。
彦根屏風と並び称される風俗画の傑作「松浦屏風」も観ることができます。

そして、別の展示として、大坂夏の陣に関わる物も展示されていて、
井伊直孝の甲冑



若江合戦の絵

彦根藩士八田金十郎の備前長船の脇差

といった『真田丸』を彷彿させる物も観れます。

『よみがえる関ヶ原合戦』

2010年11月21日 | 博物館展示
「そうだ久々に、彦根城博物館の展示を見学に行こう!」と思い彦根城へ向かいました。
今の展示は『よみがえる関ヶ原合戦-関ヶ原合戦図を読む-』と題されたもので、関ヶ原の合戦図や関係する資料が展示されていました。

管理人は今まで、どちらかといえば文章に惹かれる性格だったので、合戦図屏風などは参考程度に眺めても、じっくり見る事は稀だったのですが、最近刊行されている『絵で知る日本史』の影響で、合戦図の見方も変わってきて案外じっくり見るようになりました。

思った以上に、様々な場面を一度に表現しようとしているのだと思うと、その描き手が何を主張したいのかが見えてくるのかもしれませんね。

井伊家の合戦図屏風ではやはり赤備えの活躍がよく目立ちます

その代りに西軍は散々です。
嶋左近は怪我を負っていますし

大谷吉継も自害の場面です。


そんななか気になったのは、本多忠勝(写真なし)井伊家の関ヶ原合戦屏風では本多忠勝の落馬のシーンをわざわざ描いたのでしょうね?


また井伊家伝来の物以外にも、旗印が多く描かれた物や、嶋左近の肖像画などの展示品もありました。
先日、伊賀上野に行った時に見た藤堂高虎の兜も展示されていました。

(この写真は伊賀上野城で撮影した物です)

関ヶ原の戦い410年の記念年ですから、方々で関ヶ原資料は取り合いになって展示されているかもしれませんが、彦根らしい展示も見モノですね。
展示は2010年11月30日までです。


【注意】
写真は他の展示の時に撮影した、今回の展示物です。今回は撮影を禁止されていました。




長浜曳山祭、天保八年瓦版の展示

2010年03月06日 | 博物館展示
1か月ほど前に記事を書きました『長濱神事曳山小児狂言見立觔』が、今、長浜市曳山博物館で展示されています。

期間は3月31日まで、曳山評価の資料や大正時代の狂言出演者の写真なども同時に展示されています。

地方祭りでの狂言の瓦版である『長濱神事曳山小児狂言見立觔』と比較する形で、管理人が所有する都市部での歌舞伎の瓦版(演目案内のような物か?)も展示されています

ので、この機会に観て下さるとさいわいです。

新発見『長浜曳山祭子ども歌舞伎役者見立番付表』

2010年02月02日 | 博物館展示
2010年2月2日、長浜市曳山博物館において新発見資料『長濱神事曳山小児狂言見立觔』の所有者から博物館への寄贈式と記者発表が行われました。

…と言いますか、管理人が寄贈者です。

(発見時の記事はここをクリックして下さい)



内容は、少し読みにくくなりますが、写真右から順にこう書かれています。
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次第不同御免 版元 長濱 鍛冶屋甚八郎

長濱神事曳山小児狂言見立觔

大関 呉 関 女  前頭 呉 徳 女
関脇 魚 矢 間  同  御 お 谷
小結 神 小金吾  同  宮 長 吉
前頭 大 三 浦  同  セ 林左エ門
前頭 神 権 太  同  北 次 助
前頭 舟 長 六  同  呉 泉三郎
前頭 御 内 記  同  田 平 次
前頭 大 玉 笹  同  田 次良造
前頭 北 茂 平  同  北 久 七
          同  神 大之進
          同  北 と み

行司 瀬田町 笠原   頭取 呉服町 後藤

大関 舟 お 才  前頭 神 内 侍
関脇 瀬 宮 本  同  舟 仙太郎
小結 魚 里 ゑ  同  魚 喜 内
前頭 御 唐 木  同  宮 源 平
前頭 宮 小 梅  同  伊 宦 女
前頭 大 佐 の  同  大 軍 八
前頭 伊 仕 丁  同  セ 糸 萩
前頭 伊 小 桜  同  大 勇 助
前頭 御 桜 田  同  御 孫 八
          同  御 関 内
          同  御 太 市

勧進元 伊部町 蔵人  総後見 宮町 由平

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以下、『どんつき瓦版』19号の記事を中心に内容をご紹介します。

【資料】
・『長濱神事曳山小児狂言見立觔』(ながはましんじひきやましょうにきょうげんみたてすもう)
・大きさ:縦約35.5cm×横約49.0cm
・印刷方法:木版印刷による黒墨刷
・制作年:天保八年(1837)
・内容は上記参照

 この番付は、曳山子ども歌舞伎で演じられる歌舞伎役者の役名を使ってその優れた者を相撲番付表のようにランクを付けて紹介する物で、俗に云われる瓦版として配布された物だと考えられます。この内で行司・頭取・勧進元・後見人も役者が書かれていて番付に書かれる役者より別格に上手い者と考えられています。この一枚の中で役者以外の名前が登場するのは版元の鍛冶屋甚八郎ですが、現段階ではその詳細は不明のままです。

○演目
 演目を見るといつの時代でも喜ばれるような『義経千本桜』や『源平布引滝』というヒーロー物に近い芸題も見られます。その反面で男女の揉め事から刃傷事件にまで及ぶ『岩井風呂』、横恋慕・贋金など人間の内面をさらけ出すような『梅の由兵衛』など子ども歌舞伎として演じるにはどう表現されたのか?と考えさせられる演目もあるのです。
 また仇討物として庶民から人気がありながらも何度も上演禁止の憂き目に遭った『忠臣蔵』や同じく仇討物の『伊賀越道中双六』が演じられ、豊臣家滅亡を鎌倉時代に置き換えられた『鎌倉三代記』が彦根藩の御膝元で演じられた事に驚きを隠せません。

○評価考
 この瓦版には11の町組から44人の役者が記されています。その内容から当時の様子を勝手に推測してみましょう。
 御堂山組の諫皷山では最高の7名が書かれていますが全員前頭です。同じくらいの実力を持った役者さんが揃っていて纏まった歌舞伎が演じられていたのかもしれません。同様に大手町組の壽山は前頭5名、北町組の青海山では前頭4名が書かれています。
 行司の笠原は、宮本武蔵に剣を教えたという笠原新三郎を演じたのだと思いますが、別格扱いである他の三役(後藤・蔵人・由平)が主役であるのに対して、脇役である筈の笠原に上手い役者を選び主役である宮本が関脇だった瀬田町組の萬歳楼が演じた『駒獄武術究(巌流島)』は、まさしく舞台の上で剣ならぬ演技の指導が行われたのでしょうか?
 頭取の後藤と大関の関女という二人の看板役者(?)を、出演させている呉服町組の常盤山で子ども歌舞伎が演じられた時の見物人の目には、どれほど素晴らしい演技が映ったのでしょうか。

○時代背景
制作された年は、書かれた役者たちが出演する芸題とそれが演じられた山を照合する事によって天保八年と断定されました。
 天保八年は、一部の歴史家には幕末の始まりとも幕府安定期の終焉とも記される“大塩平八郎の乱”が2月19日に勃発し大坂の1/5を灰にしました。大塩平八郎の高弟であった宇津木矩之允は最後まで大塩の挙兵に反対したために大塩屋敷の厠で惨殺されるという悲劇的な最後を迎えます。殺害された矩之允の弟が桜田門外の変の後に彦根藩の家老として活躍する岡本半介(黄石)である事を考えると、宇津木矩之允も将来の彦根藩を担う貴重な人材の一人だったと考えられるのです。
 また、大坂だけではなく世情も大いに乱れていた時期でした。大塩平八郎の乱は最近の研究では「幕府内の不正を告発しようとしていた」とも言われていますが、この時に幕閣を動かしていたのは大老・井伊直亮と老中・水野忠邦で、二人は対立関係にあったのです。
 天保年間(1830~44)は半世紀ぶりの飢饉である“天保の大飢饉”が天保元年頃から起こり東日本を中心に飢餓が蔓延し各地で一揆が起きた時代でもあり、天保五年にはハレー彗星が天空を進み庶民は言い知れぬ不安に怯えた時期でもあったのです。近江国内では天保十三年に水口藩・三上藩領で近江天保一揆という大規模な農民蜂起が起こり、幕府検地10万日の日延べを認めさせました。
これらの不安定な要素は急に起こった物ではなく天保年間より四半世紀前には文政(文化文政年間の略)文化という影を含んだ町人主体の文化が花を咲かせた時期でもあったのです。

○『どんつき瓦版』が関わった新資料
資料はパズルと一緒かもしれません。一つひとつは時として重要であり時として何が書かれているのかいまいち解らないままの物もあります。
 そんなパーツが幾つも手元にある事で、もっと大きな組み合わせが広がり、絵が見えてきます。今回見つかった資料はまさしくそんなパズルの1ピースでした。たった一枚の瓦版の発見が長浜曳山まつりという400年以上の伝統に彩られた伝統の記録資料の一つになっただけではなく、町衆中心で、世の不安を一時でも忘れようとするかのような迫力、多種多様な演目から浮かび上がるその時代、そしてどこまでも楽しもうとした人々の心意気が伝わってきます。

 また、今までは個人の記録として残る曳山子ども歌舞伎の演目や役者の評価が、初めて瓦版という公にも配られた物に書かれていたという意味は大きな事とお聞きしました。今まで解っていた数々の出来事(例えば春日山が数年間人形山であったこと)の立証される裏付け資料にもなったそうです。
 しかし、判明した事がある分だけ新しい謎も浮かび上がってきます。この『長濱神事曳山小児狂言見立觔』が祭りの前に配られたのか? 最中に配られたのか? それとも祭りが終わった後のメモリアル的な物だったのか?
 無料なのか?有料なのか? 有料だったらその値段は幾らなのか?
 そして、この評価は鍛冶屋甚八郎の見解なのか? それとも鍛冶屋に情報を教えるアドバイザーが居たのか? そもそも鍛冶屋甚八郎とは何者なのか?
 これらの謎を解くような資料がこれからも出てくる事を期待しています。

○管理人のコメント

「寄贈者として」『どんつき瓦版』編集部 増田由季

 『どんつき瓦版』第15号が発行されてから約半年の時間が経過しました。この期間はそのまま今回ご紹介しました新資料『長濱神事曳山小児狂言見立觔』の調査に要した時間となります。
 それほどまでに時間をかけて調査された結果は、これまでのページで書きました内容ではまだ足りないくらいの大きな成果でした。
 長浜曳山祭りは、日本三大山車祭の一つに挙げられるくらいに、歴史や伝統に彩られた屈指のお祭りで春の訪れとともに待ち遠しく思っている方は少なくない筈です。
 幕末の足音が聞こえる時代の人々もその想いは一緒だったのでしょう。それが当時の最先端の流行とも言える相撲番付に見立てる方法での一種の遊びとして楽しまれたのだと勝手に推測しています。たった一枚の瓦版という紙の中に、当時の人々の笑顔や活き活きとして期待に満ちた目が入りこんだようにも感じられるのです。
 
 今回、運命の歯車に操られたようにして手に入った物でしたが、それを長浜市曳山博物館さまに持ち込み特別展示にまで至った経緯は、この『長濱神事曳山小児狂言見立觔』と題された瓦版その物の意思だったのではないか? 『どんつき瓦版』編集部はただ手伝いをさせて貰っただけだったのではないか?
とすら感じます。それならば、一番よい場所に置かれる事こそが必要なのではないか? との想いに至り無償での寄贈との選択をいたしました。
 同じような資料は、長浜を中心とする旧家のどこかにまだ眠っていると思います。今回の展示と寄贈を機に「うちにも有った」「個人的に楽しむつもりで持ってたけど、地元の為に研究に役立てて欲しい」などの多くの有志の善意によって、長浜曳山まつりが三大山車祭から“日本一伝統と歴史を重んじ、地元の意識も高い山車祭り”にレベルアップするように願っています。




さて、コメントでも書いています通り、今回の瓦版を寄贈という形をとったのは、同じ物がまだ眠っているだろうという期待を込めてのことです。
違う年のものは勿論のこと、同じ年でも版元が違うとか、評価が違うとか、まったく同じ内容があるとか、いろんなケースがあり、そんな物がたくさん長浜市曳山博物館に集まって研究されることを望んでいます。

版元ひとつ注目しても、鍛治屋が子ども歌舞伎の目利きだった可能性もありますし、嘉永六年に個人的な評価をされた西川家の資料が残っていますが、この嘉永六年の同じような見立が出た時に、西川評価と版元評価が同じなら版元のアドバイザーに西川家が入っていた可能性がありますし、別ならば評価にも個々の方法があったと考えることができるのです。

何にしても、この一枚ですべてが終わりではなく、これが差スタートとなって曳山資料がますます発掘されることを期待したいます。

『井伊直弼の茶の湯―好みの道具―』

2009年10月03日 | 博物館展示
彦根城博物館では、2009年10月1日から26日まで『井伊直弼の茶の湯―好みの道具―』という展示が行われています。
10月3日はそのギャラリートークがありましたので、聴講に行きました。

井伊直弼と茶の湯をテーマにした展示は今までに何度も行われていますので、その度々に直弼の茶の湯感に触れる機会がありますし、管理人の手許には直弼が著した『茶湯一会集』の陰影を纏めた本もありますから、学ぼうと思えばいつでも学べる物の筈なのですが、茶の精神は一言では表せないだけに難しいもですね。


「そもそも各流派の違いはなんやねん!」とそこから頭を抱えています。今回一つ分かった事は石州流は一派を立ち上げるのには結構寛大に許可をしていた。との事でした(大名茶ですから、お殿様のレベルに合わせたのかもしれませんが…)。
そう考えると、井伊直弼の宗観流は思った以上に簡単にできた物だったのか、ならば直弼の茶の湯の腕はどのくらい?との疑問も浮かんできました。


さて、そんな?がたくさん飛ぶ茶道具の展示は、井伊直弼が自らの手で作った道具や、作らせた道具、自分の和歌や思想と合わせた道具、そして見立ての道具など多分野に渡って展示されていました。
この展示の中で、「直弼の茶の湯の腕」の疑問に答えが出せるような展示が『月次茶器』と言われる12の棗でした。これは藤原定家の鳥と花を歌った12か月の和歌を各月ごとにデザインされた物なのですが、それを直弼が注文して作ったのが8代目中村宗哲という名工なのだそうです。
デザインは一般的によく使われた物で直弼のオリジナリティは無いそうなのですが、塗や色・形などの細かい注文を直弼が行っていて、「名工にそこまでの注文をして作らせるだけの見識を直弼が持っていた証拠となる」そうで、特に塗りは注目すると違いが分かる物が数点あります。

また、日光の栗山桶を使った見立て道具をたくさん作って所縁の人に渡していたそうです。多くの人に配ることで、受け取った人との美意識が共有し、それは流派の美意識を広げ伝える結果にも繋がるのだとか…


自ら作成する事で茶人に思いを馳せるのも大切な茶人の心得であり、道具を組み合わせる事でもまた想いを伝える事になる。
たかが茶道具、されど茶道具…
茶道の長い歴史を知るスタートが始まったのかもしれません。
その最初は、自ら手を加えた茶道具を手にとって眺める直弼を想像することであり、展示の中から直弼と想いが重ねられるような見学者好みの道具を見つける事のようです。


写真は『月次茶器』から10月の物をアップしました。

『井伊直弼の書と古典研究』

2009年07月25日 | 博物館展示
2009年7月25日から9月1日まで、彦根城博物館では『井伊直弼の書と古典研究』と題したテーマ展が行われます。
7月25日に学芸員さんによるギャラリートークが行われました。


今回も様々な展示がありましたが、テーマが書や古典研究でしたので、形として見せる物よりは資料的価値が大きな物がほとんどでした。

例えば伊勢物語の写しには直弼の細かい注釈が書きこまれていたり、長野義言の古典研究に対する注釈図(『勝見不利新図』写真)を作ったりと、凝って極めて行く性格だった事が伺えるそうです。

また、直弼は和歌は嗜んでいても漢詩には暗かった。との資料もあるそうです。

資料のほとんどが書籍か短冊・掛け軸なだけに、展示物を見て文字や雰囲気からその息遣いを感じていただくのが一番良い鑑賞方法だと思います。
大老や彦根藩主ではなく、文化人としての井伊直弼がどのように文化と向き合ったのかを肌で受け止める展示です。