有名な話がある。
足利義昭の要請を受けて上洛し、義昭の征夷大将軍就任を支援した織田信長に義昭は副将軍か管領の役職を与えようとした。しかし信長はこれを辞し替わりに堺・大津・草津を領することを願い義昭は許可を与えた。
これは、信長が商業を重視していた経済感覚を示すものとして知られている。
京都が政治の中心であった時代、納税は現物納付が主であった。そのとき東日本からの物資は大津から逢坂の関を越えて京都に入る。大げさに記すなら日本の物流の半分が大津を通過していたこととなる。今の日本の税収が60兆円を超えていると考えると、現在の感覚ならば1年間で30兆円以上が大津を通ったのだ。その上で京都は消費都市であり生産・集約拠点ではないため大津に留まる物資も多く存在した。そして天智天皇が唐からの侵攻を恐れて大津京を置いたように防衛面でも優れた拠点ともされている。このように複数に重なった立地条件を背景に、豊臣秀吉政権下で大津城築城と城下町としての「大津百町」の町割りにより都市機能が充実し、徳川家康も重視し関ヶ原の戦いの後に大津城を廃城にして代官所を置き近くに膳所城を築城した。江戸幕府直轄地として大津の琵琶湖岸に十九藩の蔵屋敷が置かれ国許から運ばれた年貢米を貯蔵する蔵が並んでいたのである。
そんな蔵屋敷の中で特に目立つ存在だったのが彦根藩大津蔵屋敷(佐和山蔵・彦根蔵)だった。現在の京阪浜大津駅の近くNTT西日本滋賀支店周辺となる。近くの大津港辺りが江戸期の大津代官所(大津城本丸跡)となる大津の中心に配置されている。豊臣政権下で石田三成の蔵屋敷だった場所がそのまま井伊家に与えられたと言われている。現存している彦根藩大津蔵屋敷の絵図を見ると北が琵琶湖に接し西と東も船入れ地として琵琶湖の水が入り込んでいる南に少し進めば東海道という最高の物流拠点である。本来ならば大津では大津百町の米商人が取引を行い、荷の積み出しは「大津百艘船」が行う決まりとなっていたが彦根藩蔵屋敷では蔵の周囲の湖面に面した場所に「他屋」と呼ばれる松原三湊と繋がる井伊家御用商人が長屋を並べて9万俵ともいわれる彦根藩の米を独占的に取扱って問題となっていた。他屋の船が大津から客を乗せて彦根まで運ぶ出来事をきっかけに大津百艘船と他屋が利権をかけて争う訴訟にまでこじれた。その後も何度も両者の間では争い事が起こるがほとんどの場合は大津側の訴えが認められ井伊家が仲介に入ることで和解する。しかし享保2年(1717)に松原三湊が直接大津百艘船を訴え、松原三湊が彦根藩大津蔵屋敷と直接運航する権利を得ることとなり大きな利益が大津から彦根に移ってしまうのであった。
そんな彦根藩大津蔵屋敷の中に寛政12年(1800)勧請の稲荷社が建っていたことが絵図でも確認されている。現在は少しだけ場所を移したが蔵屋敷跡地に当たる場所で彦田稲荷神社として残され当時の面影を垣間見ることができる。
彦田稲荷神社(大津市浜大津一丁目)