彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城総構え400年(12)

2022年11月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本史においての貨幣の歴史は、近江朝で作成された無文銀銭、683年頃に鋳造された富本銭、その15年後の和同開珎などの鋳造が分かっているが、国内で大量に銭が使用されるのは中国からの輸入銭に頼ることとなる。特に平清盛や足利義満は銭を多く輸入した。

 戦国時代から安土桃山時代、西日本は貨幣経済が主流になっているが、関東より北では伊達領など特定の大名領以外では物々交換が行われていたが、豊臣秀吉の天下統一によって全国で貨幣が使用されるようになった。しかしその中でも統一した貨幣が使用された訳ではない。西日本では南蛮貿易が盛んで銀山も多かったため銀を中心とした銀本位制が採用されていて、金は大判の金貨が恩賞代わりに使われていた。逆に金山が多い関東を領していた徳川家康は小判を鋳造し東日本に金本位制を広げて行く。これが江戸時代に入っても継承され、日本は一つの統一国家でありながら江戸中心の「金(単位:両)」と大坂中心の「銀(単位:匁)」そして庶民が日常的に使用される「銭貨(単位:文)」の三種類の貨幣が同時に使用されていたのである(三貨制度)。この東西の金銀の交換を行っていたのが両替商であり両替の手数料が三割程度だったため三井などの両替商が豪商へと育ち財閥を築く基となる。江戸後期に田沼意次がこの三貨を統一しようとしたが田沼時代の終焉と共に失敗に終わっている。

 日本のみではなく世界においても貨幣は金でも銀でも銭でも貨幣そのものが額面通りの価値を持つ物質だった。この常識を打ち壊した象徴的な貨幣が紙札(紙幣)である。紙に印刷するだけで貨幣として通用する紙札制度を安定させるには発行元の信頼が高くないとならない。しかし江戸時代の日本では寺院や各藩によって紙札が発行されるという稀有な環境を生み出しているのだ。

 日本での紙札は室町時代に伊勢神宮の祈祷師が発行した山田羽書から始まると言われているが、確実に確認できるものは江戸初期のものとされている。その後、大坂商人が銀札(銀の価値を記した紙札)を使い始め、寛文元年(1661)に福井藩が紙札を発行するに至って「藩札」が誕生した。藩札は徐々に全国に広がるようになり各藩領内での通貨となって行く。場合によっては近隣藩でも使用できることもあった。

 彦根藩でも藩札は発行されている。領内では藩札の使用が推奨されていたとの話も耳にした。藩札は現在の地域通貨以上に価値があり流通していたと考えられる。彦根藩札をはじめとする藩札についての研究はまだ進んでいないため不明な点が多いが、城下町では現代の私たちが紙幣と小銭を使っているように藩札と銭貨が流通していた可能性もあるのだ。

また、藩札などは偽造防止のためデザイン性にも優れていて見ているだけでも楽しい物でもある。


左:彦根藩札 右:大徳院札(共に筆者蔵)
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