彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

450年の記念日(肥田城水攻め)

2009年05月28日 | 何の日?
数年前にも書きましたが、5月28日は肥田城水攻めが終わった日です。
今年(2009年)はその450年目の記念の年になります。

あれから様々な調査をして、管理人や『どんつき瓦版』独自の見解を、新しい瓦版に発表しました。
これは、「肥田城水攻め450年」の言い出しっぺである管理人の責任だと感じています。
このイベントについて動いたのですが、結局実を結ぶことは無く、某大学(ここにも1年前に声を掛けに行きました)でも授業として計画されていた話がありましたがインフルエンザで中止となり、唯一『どんつき瓦版』のみが今日に間に合った肥田城水攻め450年になります。

昨年の弥千代姫婚礼150年も、結局今年になって幾つかの弥千代姫イベントがありましたし…
彦根のイベント事情に幾分かの事前調査を要望したい時もあります(ちょっと苦言です・汗)



では、『どんつき瓦版』として管理人が示した水攻め記事をご紹介します。

~~以下、記事加筆~~

 溢れんばかりに満々と水を湛え、建物の大部分がその水の中に沈む―
 高い場所に逃れた人々は、足場を失いつつ狭い場所に集まり、絶望のどん底で周囲に造られた土塁を見つめ、自分たちを苦しめている巨大土木工事を行った敵に怨嗟の声を上げ、不甲斐ない領主を恨む。雨が降れば水嵩が増し、その度に人々の声無き声は悲鳴となった…
 戦国史を少しでも齧った事がある方々が“水攻め”と聞いて思い浮かべるのはこの様な光景ではないでしょうか?
 時代劇などで目にするのは天正10年(1582)に羽柴秀吉によって行われた備中高松城の水攻めですが、この時もやはり水に沈むお城の姿が印象的に浮かんできます。

今(2009年)から450年前の永禄2年(1559)、それまで仕えていた六角義賢の元を去り、浅井長政へ仕える事となった高野瀬隆秀は宇曽川沿いの肥田城に立て籠もる。
 これに怒った六角義賢は息子の義弼と1万5千の兵を率いて肥田城に向けて出兵、4月3日に肥田城を囲む形で幅12間(約23m)長さ58町(約6.3㎞)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(当時は今よりも北に流れていた)から水を引き込んで水攻めにしたのです。しかし5月28日に豪雨によって堤防の2ヶ所が決壊し水攻めは失敗に終わる。寛政4年(1792)に彦根藩士・源義陳がまとめた『近江小間攫』には“本朝(この国)水攻ノ最初ハ此時ナリ”と記されるように日本最初の水攻めとして戦国史に事績を残す攻城戦となったのです。
 実際には日本最初の水攻めは文明15年(1483)の若江城水攻めまで遡ってしまいますが、それでも備中高松城水攻めよりは20年以上前の出来事として価値があるものだったのです。
 では実際にどのような戦いが行われたのでしょうか?残念ながらそれを示す一級資料は皆無と言っても過言ではない状態です。そこで『どんつき瓦版』編集部では他の水攻めとの比較によって肥田城水攻めを多方面から検証してきたのです。

まず目を付けたのが、肥田城を攻めた六角氏にそれほどの経済力があったのか?との疑問でした。
 よく出される記録によると天正10年の秀吉による備中高松城水攻めでは、底の幅12間(約23m)・上部の幅6間(約11m)・高さ2丈余(約6m)・長さ30余町(約3.3㎞)の土塁を造る為に約70万貫文(約1千億円)の費用が掛ったと言われています。70万貫文という数字を現代の価値に直すのは難しいですが、永禄11年(1568)に織田信長が禁裏修繕の為に出した費用が1万貫文と言われていますのでその70倍、俗説では「安土城を2つ築城してもまだお釣りが出るくらい」とも言われているのです。
 高松城の費用から単純に計算して58町の土塁を築くとなると約135万貫文(約1930億円)の費用が必要となるのです。しかも最近では「秀吉が高松城で実際に造った土塁は300mほどの長さで残りは元々地元で利用されていた堤防を使った物だった」との説も出ているのです。同じ説は秀吉の他の水攻め(紀州太田城・竹ヶ鼻城)や石田三成が行った忍城水攻めでも検証されつつあり、肥田城でも同様の可能性が考えられるのです。
 また戦費についても多額に計上されます、翌年に起こった桶狭間の戦いの時の戦費から単純に割合で計算しても水攻め期間中約60日で米だけで3億円の費用が掛るのです。これに副菜・馬の餌代・軍備の費用などを含めると1万5千人の兵を動かすだけでどれ程の戦費が掛ったのか想像もできなくなります。
 そして、通説では宇曽川の水を堰き止めて肥田城に流し込んだかのように言われてきましたが、もし宇曽川を堰き止めるとなれば地方との貿易の為の運送川だった宇曽川を通る船から“川銭”と呼ばれる通行税を徴収していた豪族たちに六角氏は損害金を支払わなければならなくなってしまいます。
 応仁の乱で六角氏と敵対した細川氏が京で勢力を握ると、京から何度も六角征伐軍が派遣され、戦費に苦しんでいました。この為に重臣の蒲生定秀に借金があったくらいだったのです。

 続いて、土塁は本当に六角氏が築いたのか?という疑問も浮かび上がってきます。
 肥田城の遺跡としてよく知られている、町中に残る土塁の数々は1988年に滋賀県教育委員会から発行された『肥田城遺跡発掘調査報告書』によって江戸時代以降に造られた物である事が明らかになっています。肥田城を守る為の戦略的土塁ではなく、水害から肥田の地域を守る為の防災的土塁だったと考えると戦国時代に肥田城を守る為の戦略的土塁が別に存在したとも考えられるのです。
 肥田は、中世でも早い時期に城下町として形成された城でした。城の周りに町ができると主は領民の安全保護という責任を負う事となり、城が攻められると領民も城に入れて守る義務も生じるのです。
 城攻めは、それによる城下の経済封鎖が一番の効果となっていて、城主が城を囲まれ領民や家臣からの信頼を失った時点で結果がでるものです。つまり籠城されて領民が経済的損失を被った時点で「領主の負け」と判断される事が多い為に城下町に危険が及ばない範囲で防御壁を築くことが最適でした。
 そして江戸時代以降の肥田で防災用の土塁が必要だったという事は、中世の肥田でも防災土塁が必要だった筈です。
 こう考えると、肥田城には高野瀬氏によって元々防災と防御の機能を併せ持った土塁が築かれていたと考える方が自然です。


●編集部が考える肥田城水攻めは…
 1万5千の兵で肥田城に向かって六角義賢の軍が居城・観音寺城を発したのを知った高野瀬秀隆は、あまりの大軍に驚き城下町の領民を肥田城に入れて保護し、同時に自軍も浅井長政の援軍が来るまで城の防御に徹する覚悟を決めたのです。
 もしかしたら、この時に自ら城の周りに水を入れて濠のようにしたのかもしれません。肥田に到着した六角軍が肥田城を囲む土塁を占領、そこから城までに水が入っている事から逆に利用して水攻めを決意します。この時に防波堤として利用したのが占拠した土塁でした。
 城を囲った六角軍の大半はこの後に観音寺城に戻り少しでも経費を抑えようとしたのかもしれません。しかし、川の流れを守る為の堤防と水を堰き止めるダムとでは強度が違うために残った兵は土塁の強化に追われたのです。
 土のダムでは水が徐々に染み込むために、水圧と長時間の二重苦に耐えられるものではないので、肥田城周辺に溜まった水は精々人の膝から腰が沈む程度だったと予想されます。だからこそ約60日弱の水攻めに土塁が耐えられたのです、そうでなければ途中で決壊したことでしょう。
 5月28日に土塁が2ヶ所決壊したとの話があります。旧暦に置き換えれば梅雨の真っ最中ですから、雨によって土塁の許容範囲を超える水が溜まったのでしょう。この後に高野瀬軍と六角軍との戦いが行われた記録がない事を考えると、肥田城周辺には既に六角軍が殆ど居なかったとしか思えず、戦費節約の為に必要最低限の人数以外は撤兵していたのではないでしょうか?

 あまり水に浸からない建物、少しだけの土木工事、少ない攻城軍。知れば知るほどイメージから遠ざかっていく肥田城水攻めは450年を経てもまだまだ謎に満ちているのではないでしょうか?

以上、知りうる限りでの疑問や比較から独自の意見を展開しましたが、素人の域を超えるものではなく確実とは言えません。今後、河川や地層・土木工学などの専門知識を持った方々の研究を期待していきたい。



●肥田城主の高野瀬氏について
 肥田城水攻め450年を記念して紹介していますが城があるということはそこには攻める者と守る者という人間の存在が大きく関わってきますので、守る立場であった高野瀬一族についてご紹介しましょう。

 高野瀬氏の始まりについては二つの話があります。
・近江守護佐々木氏の分家が高野瀬村を与えられて住んだという説。
・『三上山の大ムカデ退治』や平将門の乱を平定した事で有名な藤原秀郷の子孫が源平合戦の時に源頼朝に従い、高野瀬に住むようになったという説です。
 どちらにしても高野瀬氏が鎌倉時代末期までに高野瀬村(豊郷町)に落ち着いて、この地名を氏とし城を築城した事はほぼ間違いないとされています。この城は現在その形を留めていませんが、近くには高野瀬氏が信仰していた天稚彦神社が鎮座しています。この御祭神である天稚彦命が肥田城近くにある勝鳥神社の御祭神である事も興味深いかもしれませんね。
 
 鎌倉幕府滅亡の折、六波羅探題であった北条仲時を番場宿で自害に追い込んだ事件に高野瀬隆重という人物に功があったと伝わっています。

 古いうちから高野瀬村に土着した高野瀬一族は、そのまま勢力を広げてゆきます。14世紀後半から15世紀頃に佐々木六角氏の命で肥田城を築城したとされていますが、肥田町内にある金毘羅神社には養和元年(1181)に肥田城主・高野瀬備前守が宇曽川の安全のために城内に金毘羅宮を勧進したとの案内があるので、もしかしたら高野瀬城と同時期に肥田城が築城された可能性もあるのです。また平流城(現在の稲里公民館辺り)も高野瀬氏が治めた城であったと言う説もあり最大時には600~700石の支配地があったのではないか?と言われています。鎌倉時代から戦国時代まで高野瀬村周辺を治めた間に、明(中国)との貿易も行いました。城跡からはそれを示す資料として明銭が大量に出土しています。また紙の生産や瓜の取引も行っていて、佐々木(六角)氏を通して皇室に瓜が献上されていたのです。そして東山道(中山道)には下枝の関を設け関銭五十文(通行税:500円程度)を徴収していることから、小さな小豪族ではなく豊富な財源を持っていた有力者のイメージが浮かび上げってきます。

 しかし、高野瀬一族の繁栄に陰りが見えるのが応仁元年(1467)から始まった応仁の乱でした。近江守護だった佐々木一族もこの大乱で北の京極氏(東軍)と南の六角氏(西軍)に分かれて戦うようになり、現在の彦根市が両家の勢力の境目として何度も戦乱に巻き込まれるようになったのです。この間、高野瀬氏は六角氏に従い戦い抜きました。
やがて応仁の乱は終わりますが全国的に戦国の時代となり戦が止む事は無かったのです。西軍に味方していた六角氏は都で権力を握った東軍の細川氏との戦乱に明け暮れ一時期は足利将軍の出兵も受けて、居城・観音寺城から逃れる事態も起こったのでした。それはそのまま京極氏の侵略を意味するもので、16世紀初頭に高野瀬備中守(頼定か?)が川瀬氏などの近隣の豪族と共に六角氏に反乱を起こしたのです。この反乱は六角氏の肥田城攻めで鎮圧され備前守は陳謝し再び六角氏に従属したのです。

 天文22年(1553)、京極氏を追い出して湖北の実権を握った浅井久政に対し六角義賢が兵を進めました。地頭山で行われた合戦で六角氏は大勝利を収めますが、高野瀬備前守は討ち死にしてしまうのです。
詳しい事は分かりませんが、備中守の後を継いで肥田城主になったのが高野瀬秀隆であったと考えられます。もしそれが正しいのならば先代の仇とも言える浅井氏に秀隆が従うには、浅井有利の確信が余程大きくなければできないと思えてきます。

 永禄2年の肥田城水攻めと翌年の野良田表の戦いで浅井長政が勝利した事から、以降の高野瀬氏は浅井氏が滅びるまで従ったように思えますが、この後にも六角氏が佐和山城攻めを行っている事実を考えると、浅井氏と六角氏の間を何度も行き着した豪族のしたたかさを持ちながら戦国期の近江を生きていったのではないでしょうか。その最後の君主が織田信長だったのです。
 信長の家老・柴田勝家に属した高野瀬秀隆と隆景親子の最後は遠く離れた越前で突然訪れ、高野瀬一族嫡流は歴史の表舞台から消えてしまいますが、足跡は確実に近江に刻まれたのです。

 ちなみに残った一族は彦根藩にも仕えていたと子孫の方がおっしゃっていました。

ブログタイトルを変更しました

2009年05月27日 | その他
管理人からのお知らせです。

このブログは、開設時には『国宝彦根城築城400年祭』を市民として応援する為に同祭の応援ブログとしてのタイトルを付けていました。

『井伊直弼と開国150年祭』開催後も、同祭を応援する意味を込めてそのようなタイトルを明記し、管理人の所属する市民ボランティア組織である『どんつき瓦版』編集部の名前はタイトルに明記していませんでした。

しかし、どちらかと言いますと彦根やその周辺の関わり紹介の割合が多くなり、150年祭の応援だけに留まらなくなりましたので、『彦根の歴史ブログ』を正式なブログタイトルとし、『どんつき瓦版』記者のブログである事も明記いたします。

内容は従来と変わらずに様々な事項を紹介していきますので、今まで同様よろしくお願いいたします。

申請書公開

2009年05月21日 | 大河ドラマ誘致活動
先日は、井伊直弼と開国150年祭実行委員会の速報として文章を挙げさせていただきました。事業として行う事が出来ていれば事業を行う彦根市との協力関係から申請書の公開は控えさせていただきますが、今回はボツとなったことで、平成21年度1回目事業に応募した申請書を公開させていただきます。

結構力作だったんですけどね(笑)

「皆で呼ぼう!」大河ドラマ誘致市民会議事務局
 『どんつき瓦版』編集部 代表 正村圭史郎



~~ここから、申請書~~

『市民創造事業提案書』

事業名 

“花の生涯”を再び!究極の井伊直弼顕彰 「みんなで呼ぼう」大河ドラマ誘致市民会議

提案内容(事業のねらい、執行方法、対象者、開催場所、開催時期等)

2013年は大河ドラマ50周年という歴史的な年です。毎年放送予定の大河ドラマは放送2年前の春頃に発表されます。2013年放送分は2011年春に発表されます。大河ドラマ誘致市民会議は短期決戦で50周年の枠に入る為に、今回の「井伊直弼と開国150年祭」を最大限に活かし、イベントのテーマでもある「井伊直弼」を主人公として描かれた“花の生涯”のリメイク版を求めて行きたいと考えます。直弼が文化人として大成した「茶の湯」は利休(千利休)の茶を学んだ利休七哲の一人、古田織部が弟子である小堀遠州らと興した数奇屋から発展し、江戸時代には大名の茶道として流派を立てた石州流を汲むものです。しかし「直弼の茶」は豪華絢爛な大名の茶から原点回帰し数奇屋を唱えた古田織部をも超えた利休の茶に近い所まで回帰させた事が天性の文化人たる所以と言えます。大河ドラマ50周年には第一回目に放送された“花の生涯”に原点回帰させテレビ放送60年の歴史を綴る大河ドラマ50周年の歴史を振り返るものとなるでしょう。

 2011年には地上デジタル放送に完全移行します。現在の放送はハイ・ビジョンで美しい映像で放送されています。昨年放送された「篤姫」は現在、北京語に翻訳され台湾で放送が始まり高視聴率をマークしています。鹿児島や宮崎では台湾からの観光客を受け入れる考えだと鹿児島の南日本新聞が伝えています。

 昭和38年に放送された“花の生涯”では、翌39年に「直弼ブーム」「彦根城ブーム」が全国的に巻き起こり50年近い現在でも記録が更新されていない120万人もの彦根城入場者の金字塔を立てました。当時のテレビ(カラーテレビが発売前で白黒テレビしか無い時代)普及率が88%の時代にブームになりました。因みに現在のテレビ(カラーテレビ)普及率は100%です。

 大河ドラマ誘致市民会議では“花の生涯”の主人公である井伊直弼だけでなく、原作者であり彦根市第一号名誉市民の 故 舟橋聖一先生の偉業も合わせて市内で学習会等を開催、大河ドラマによる井伊直弼顕彰の意義を市民共有の意識とし市民一丸とした盛り上げに繋げて行きたいと考えます。

 開催場所は、各種公民館や各種イベント会場等でのパネル展示、学習会の開催、「井伊直弼と開国150年祭」に絡む全国関連都市や地域等へのイベント参加等を通じて開催して行きます。
 

開催時期は、2013年に目標を設定することから2011年春まで、また、2015年に「井伊直弼生誕200年」となることから2013年までを大河ドラマ誘致市民会議と定めて行きたいと考えます。
今回のイベントは来年3月24日に閉幕しますが、この大河ドラマ誘致市民会議はイベント終了までに一気に力を付け来年2月か3月頃(イベント期間内)に大々的な大河ドラマ陳情団を結成したいと考えます。この大河ドラマ誘致市民会議は、ポスト150年祭を最大限に意識した事業ともいえます。

 大河ドラマの経済波及効果では前回放送(昭和38年)翌年(昭和39年)の120万人を彦根城入場者数を目標にすることとして、先日発表された「井伊直弼と開国150年祭」の20年度の計算から単純に弾いてみた。66万人が彦根城に入場して331億円の経済波及効果があったことから、120万では約倍弱とみると、660億円もの経済波及効果が期待される。「築城400年祭」が約90万人弱で507億円だったことから妥当性がある数字といえる。「彦根」「彦根城」「井伊直弼」の知名度や宣伝は計り知れない効果が期待される。大河ドラマに係わるイベントが開催されれば一層の効果が得られ彦根の地域活性化の一翼を担う事業形成が期待される。


事業を効果的に実施するための条件(実行委員会の協力)

今回の大河ドラマ誘致市民会議は先ず市民が旗を振り各種団体・組織に広く参集を求めて、何処の団体が頭だとかでなく、市民を応援する団体・組織というカタチを作りたいと考えています。市民や地域力という言葉が主流といえる昨今では、このカタチが最も美しく見えるものだと考えます。参集していただく団体・組織は「井伊直弼と開国150年祭」実行委員会に参加されている委員の皆さんに参加していただきたく考えています。来年の2月か3月に予定している大河ドラマ誘致の陳情団には是非「ひこにゃん」を先頭にして対応者(NHK関係者)へ陳情書を渡す大役を要請したいと考えています。

 想像して下さい!

 ひこにゃんが大河ドラマ誘致市民会議代表として陳情書を手渡す姿を・・・
当日の民放ニュースや翌日の朝や昼のワイドショー、新聞、スポーツ新聞、雑誌、インターネット等々、当事者のNHKも含んで全国に「彦根が2013年の大河ドラマ50周年に“花の生涯”リメイク版の名乗りを上げたんだ」と強く印象つける結果になるでしょう。

 彦根城を撮影用オープンスタジオとして条例で定まる使用料を値下げすれば、大河ドラマでの現地撮影が殆ど既存施設(浜御殿庭園、楽々園書院や地震間、博物館の木造棟、城内梅林等)で行われ、放送後の集客効果を高めることが期待される。また、定住自立圏構想(1市4町)、びわ湖・近江路観光圏(4市13町)のエリア内を撮影用オープンスタジオとすれば様々な場面がこれらの地で撮影されます。その後の集客効果は絶大なものとなります。条例改正や他市町との調整をお願いしたいです。


●総事業費    279,000円  


●学習会等費用  64,000円
(内訳)8,000円×8回

●イベント参加等費用 165,000円
(内訳)市内イベント(150年祭関連イベント、既存イベント等)
5,000円×5回

県内イベント(定住自立圏構想市町、びわ湖・近江路観光圏市町等)
10,000円×2回

県外イベント(開港イベント都市等)
40,000円×3回


●広報活動等運営費  50,000円
(内訳)HP作成、ネット使用料等
20,000円
(内訳)配布資料等作成、配布等費用
30,000円

「皆で呼ぼう!」大河ドラマ誘致市民会議

2009年05月18日 | 大河ドラマ誘致活動
2013年、大河ドラマ50周年に向けて先ずは市民から旗を振り、市民から行政や関係団体に働きかけて行こうと思い付いた事業でしたが…「井伊直弼と開国150年祭」市民創造事業の枠に登録されませんでした。理由はモノがモノだけに「市民が行うレベルでは無い」「もっと大きく行政や関係団体と継続審議が必要ではないか?」と言う事業判定委員会からのお話しでした。
行政サイドは平成16年から大河ドラマ誘致(目標は築城400年祭だったとか)を滋賀県のビジターズビューロが主体で行なってきているそうです。平成16年、17年の動きはあったのですが、死に体だと思い今回の事業を創造したのですが、解散していないので継続審議という話になりました。

現在、滋賀県のビジターズビューロは「浅井三姉妹」を押しているそうです。今年から彦根市が旗振りとして「びわ湖・近江路観光圏」として浅井地区にも係わっているので、今後の展開は未知数です。


大河ドラマ誘致市民会議は、この150年祭期間中に、ひこにゃんを代表に就任戴き、NHKの関係者へ陳情に行けば、NHKだけでなく、民放、新聞、雑誌と広く全国へ発信できるのではないか?と考えましたが、叶わぬ夢となりました。
ひこにゃんの代表姿が見たかったですね(笑)


しかし、彦根市は12月の市議会までに来年度(平成22年度)事業として「ポスト150年祭」を計画中だと聞きました。2013年の大河ドラマは2011年春に発表されます。

継続審議となったことはポスト150年祭に絡むのではと考えます。

2013年(大河ドラマ50周年)、2015年(井伊直弼生誕200年)、2017年(国宝彦根城築城410年)、2018年(明治維新・戊辰戦争150年)のいづれかに大河ドラマが誘致されると願います。

今回、どんつき瓦版編集部は大河ドラマ誘致市民会議の事業費として279,000円を計上させていただきました。平成16年からの誘致では200万円の予算であったことから是非頑張っていただきたく感じましたね。


大河ドラマを待ち望む市内外の皆さん、力及ばず残念な結果となりました。

しかし、今後の展開によっては動き出すかも知れません、動けば皆さんにお伝えしたいと考えます。


「皆で呼ぼう!」大河ドラマ誘致市民会議事務局
『どんつき瓦版』編集部 代表 正村圭史郎

長浜曳山の瓦版

2009年05月16日 | その他
『どんつき瓦版』編集部は、先日長浜の曳山小児狂言に関する瓦版を手に入れました。
内容もさることながら、“版元 長濱 鍛冶屋甚八郎”という明記に、彦根藩内での出版に注目する資料として『どんつき瓦版』編集部では興味を持ったのです。
そこで長浜の曳山博物館に詳細について教えてもらいに訪問したのです。

予想では、このような資料はたくさん保管されていて、詳細や版元についてもすぐに判明すると思ったのですが、曳山博物館では「このような物は初めて見ました」との事で、長浜城博物館の方を紹介されました。
そこで長浜城城博物館を訪問して尋ねますと、「噂には聞いた事があるけど、本物を見るのは初めて、博物館に置いていただければ曳山の時に展示できる物です」とのお話になられました。


詳しい内容は調査して下さるとの事で、両博物館でお伺いした事をまとめた今解る範囲での話は…
・何度か出された曳山の番付のような物で、当時の庶民の遊び心が伺える。
・“次第不同御免”という断り書きがあるのが面白い。
・左横に“勧進元 蔵人”とスポンサーが書かれている。
・“総後見 由平”ともある。
・これ一枚ではなく和本として綴じられていた形跡がある。
などでした。

これからどのような調査結果が出るかが楽しみになると共に、彦根藩と曳山の関わりを調べる大きなチャンスになりそうです。

5月13日、桓武平氏誕生

2009年05月13日 | 何の日?
今回のお話は、最後まで読んでも彦根は全く関係ありませんが、武士の世界を語る上での一般常識を含んだお話を書きます。
これで、ちょっとでも「なるほど」と思っていただければ嬉しいです。



寛平元年(889)5月13日、桓武天皇の孫(もしくは曾孫)の高望王が宇多天皇の勅命で“平姓”を授かり臣籍降下しました。
同時に上総介にも任じられています。

当時の皇族は天皇にたくさんの側室が居た関係もあって子どもが増える一方でした。しかし有力貴族は私有地を持って収入を得て資産を築いていたのに対し国庫の財政となる土地は荒れ果てていた為に、皇室ではこう言った一族を養う事ができず、天皇から何代か離れた子孫は姓を与えて家臣とする臣籍降下が行われていたのです。

この時に与えられる姓のほとんどは“源”だったのですが、桓武天皇の子孫は桓武天皇が築いた「平安京」にちなんで“平”の姓が与えられたのでした。
そして高望王が平氏を名乗った子孫を“桓武平氏”と呼びます。


この高望王の三男(もしくは四男)良将の子が平将門で、将門が高望王の長男の国香(つまり将門の伯父)を殺害した事が“平将門の乱”の勃発となったのです。
この平将門の乱で将門が鎮圧される事により桓武平氏の勢力は急速に衰えるのです。

やがて、平国香の子である平貞盛(将門討伐に功を挙げる)の四男の平維衡は領国を伊勢に定めて“伊勢平氏”の祖となるのです。
余談ですが、貞盛の次男・平維将の子孫が鎌倉時代の執権職を世襲する北条氏です(ただし信憑性には疑問が残ります)。


さて、伊勢平氏はこの後に栄華を極める事となります。
平維衡の長男・平正度の五男(もしくは六男)の平正衡の曾孫が平清盛です。
平清盛といえば、平安時代末期に武士では初めて太政大臣に任ぜられて、『平家物語』には「平氏にあらずんば人にあらず」という傲慢な言葉が残されるくらいの繁栄を極めた人物で、その死後に激化する源平合戦の片翼を担う一族の棟梁ですよね。

こう言ったイメージから平清盛は桓武平氏の直系という感覚がありますが、実は伊勢平氏が既に桓武平氏の傍流で、清盛の曽祖父である正衡が五男(六男?)であった様に、伊勢平氏でも傍流の家系だったのです。


一般的に源平合戦は“源氏”と“平家”の戦いと言われていて、“源家”と“平氏”とは現されません。
その理由は源頼朝は清和源氏の正当な後継ぎである源一族の棟梁たる“源氏”なのですが、平清盛は平氏から分家して分家した平氏の中の一つの家でしかありませんので“平家”となるのです。
つまり、源氏と平家では家の身分がまったく違う事になるんですね。


歴史用語にはこんな細かいところにまでチェックが入っている物もあるんですよ。最近はそう言った細かい歴史用語の粋のような物を否定する学者さんも増えてきていて、意味のない教科書改訂が行われて居るのが悲しいですがね。

情報求む!“彦根書林”

2009年05月08日 | 書籍紹介
『どんつき瓦版』編集部が最近気になっている事に、出版に関する動向があります。

きっかけは、長浜の曳山の番組瓦版を見つけた事。
ここに「版本 長濱 鍛冶屋甚八郎」と記されていたのです。
この鍛冶屋という存在も謎を深めますが、同時に当時の彦根城下での出版事情がいかなるものであったのかがを知りたくなりました。

その結果、“彦根書林”という存在が浮かび上がって来たのです。
書林は、届け出を出して許可される書店の事で、製本から販売まで行っていたのだとか…
江戸時代後期には全国にあったようですが、どのような人々がどの辺りの時代からどのようにいつ事まで行った事なのか見当が付きません。

もし情報をお持ちの方はお教えいただくと嬉しいです。

写真は明治五年の『日本外史訓蒙』に書かれていた彦根書林の明記。

ひこねプレミアム商品券

2009年05月01日 | イベント
定額給付金に便乗する形で、地域活性化の為のプレミアム商品券の販売が各地域で活性化しています。

彦根でも、「ひこねプレミアム商品券」が5月1日に販売されました。
中小加盟店で使用できる1000円券6枚と加盟店全部で使える1000円券5枚と500円券1枚の計11500円分が10000円で購入できたのです。
用意されたのは1万セット。

デザインは、150年祭で頑張ってくれている“ひこにゃん”なんですよ。