彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

揺れる近江(2)

2023年11月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前稿で允恭天皇5年に初めて地震の記録が『日本書紀』に書かれていることを紹介した。しかしそれ以前に日本で地震が起こらなかったわけではない。日本神話で乱暴者として扱われる素戔嗚尊は災害や疫病を表していると考えられ、素戔嗚尊と戦った八岐大蛇こそが自然災害だったのではないか?との考えもあり、荒ぶる神々の記録は古い日本人が口伝した恐怖と考えることもできる。
 允恭天皇5年の地震以降も『日本書紀』に置いて地震発生については残されているが、実質的な被害を知ることができるのは推古天皇7年まで待たねばならない。この年の4月27日(599年5月26日)に「地動。舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神(句読点筆者)」とあり、地震により家屋が倒壊したため推古天皇が地震神を祀るように命じたことがわかる。地震の被害が尋常ではなかったのではないだろうか? このときに祀られたとされるのは「なゐの神」とされていて、三重県名張市に名居神社ではないかとされていて地震の恐怖を神に重ねる手法が神話から脈々と引き継がれている証ともいえる。

 ここから聖徳太子が活躍する時代を経て、太子の死により蘇我氏の独裁政治が始まる七世紀中期になると地震をはじめとする天変地異が多くなり、意図的に政治の乱れと自然災害を重ねたような悪意も感じざるを得ないが、皇極天皇元年(642)冬には地震と雨と雷が頻繁に発生し、季候が春の様に暖かくなった日もあり、翌年4月には近江で一寸(約3センチ)もある大きな雹が降った。
 こんな異常気象に劣らないような政治的混乱によって聖徳太子の息子・山背大兄王は蘇我入鹿に殺され、入鹿も中大兄皇子に暗殺される(乙巳の変)クーデターを経て大化の改新が行われるのである。
『日本書紀』に記された天変地異がすべて事実なのか、著者により盛られているのかを確認する術はないが一部の研究者によれば推古天皇以降の記録について信ぴょう性は高いと言われている。そうならば「自然の脅威と政治の乱れは無視できない関連性を持っているのではないか?」と考えたくなる。

 この頃までに記録された災害のほとんどは当時の都である大和盆地か難波辺りで起こったものであり、近江からの視点で考えるならば「奈良県や大阪府で記録に残る地震なら、滋賀県も揺れたに違いない」との想像を膨らませたものであることは否めない。しかし、天智天皇が白村江の戦いに敗れ大津京へ遷都したため、壬申の乱までの短い期間ではあるが大津中心の記録が残されることとなった。さいわいにもこの間に大きな災害は見られない。大津京は、日本史を変えるくらいの大乱に挟まれた時期でありながら自然災害史の視点では穏やかであった。その反面、壬申の乱ののちに即位した天武天皇は日本史上最も古くに記録される南海トラフ地震の報を受けることとなる。


名居神社(三重県名張市)
コメント
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