彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直虎命日法要

2017年08月26日 | イベント
昨年に引き続き、今年も直虎の命日法要に参加してきました。
朝一の新幹線で浜松駅に到着し、バス停でバス待ちをしていると、龍潭寺に行かれる方が何名かおられその方々に今日が直虎さんの命日であることをお話ししました。

龍潭寺に到着後、一緒のバスできたご夫婦に井伊家のお墓などの墓所、お庭の見方などをお話ししてから本堂に入りました。
すでに顔なじみの皆さんや、ネットでお話していた方とお会いしていると11時から法要が始まりました。





今回は、『おんな城主 直虎』の岡本プロデューサーも参加されていて、拙著をお渡しできました。
これからの虎松(井伊直政)に注目だそうですよ。

墓所でも焼香し、命日法要終了。


この後に、小野但馬守政次終焉の地に移動して、大河ドラマの政次磔のシーンを現地で観るというマニアックなイベントを行いました。
たった一時間弱の間に、たくさんの方(たぶん4.50人ほど)が手を合わしにこられました。



ここで合流したFacebookの友達と市内に戻り、徳川秀忠産湯の井戸を案内していただいたり、直虎の版画を観に行ったりと充実した時間になりました。



井伊谷を中心に浜松市内での熱い想いを受け取りました。

最後に浜松駅にて駅弁を購入して浜松から離れました。



8月11日、高瀬姫の命日

2017年08月11日 | 井伊家千年紀
寛永11年(1634)8月11日、井伊直政の姉高瀬姫が亡くなりました。
『おんな城主直虎』でいきなり登場し井伊直親の隠し子というショッキングな生い立ちを背負うことになる高瀬は、その放送の時まで実在を知らない人がほとんどだったと思います。
歴史的には余り知られていませんが、井伊直政には兄と姉が一人ずついる。兄は父直親が今川義元の追及を逃れて信濃国松源寺に逃れていた頃に現地の女性との間に生まれた子で、井伊谷から呼ばれた直親はこの母子に脇差を与えて、息子が無事成人すれば「井伊吉直」を名乗らせるように言って去ったとされている。この家は飯田井伊家として井伊姓と脇差を現在まで伝えているのです。
一方高瀬姫は、直親が井伊谷に戻って奥山朝利の娘を妻に迎えてから五年間は妊娠の兆しがなかったため、直親夫妻がたびたび龍潭寺に参詣したとの話があり、その結果六年目にして男児(虎松)が誕生。このことから高瀬姫は吉直と同じく信州で生まれた子どもだと考えられていました。しかし彦根に残る記録から高瀬姫が直政の二歳上だったとされていて、彦根藩の記録を信じるならば龍潭寺への参詣は子どもが生まれなかったからではなく男児を授かるための祈願となるか、もしくは直親にすでに側室やそれに準ずる女性がいたことになります。どちらにしても今まで伝えられてきた井伊谷に戻ってから子どもができずに苦悩していた若い夫婦というイメージが変わり、ドラマでかたられた「すけこまし」が直親生前からの評価だった可能性も出てくるのです。

今回は高瀬姫の年齢を直政の二歳年上として紹介。高瀬姫が生まれたとき井伊家当主は直盛。桶狭間の戦いで不幸があったものの高瀬姫にとって弟となる虎松の誕生が少しだけ井伊家に幸福をもたらします。直後に直親は殺されて虎松の命が狙われます。高瀬姫が井伊家受難の歳月をどのように過ごしたのかわかりませんが、女児ならば命の危険も少なく龍潭寺か母親の許で静かに暮らしていたのだとおもわれます。
 様々な出来事で逃げ続けた虎松は徳川家康に仕官して出世を重ね天正10年(1582)に元服し直政と名乗ります。ここから高瀬姫も急に記録に登場する人物になる。直政の重臣となった川手主水良則の妻となったのです。24歳で嫁いだ高瀬姫でしたが、当時としては婚期を大幅に逃している年齢であり初婚だったとは考えにくいですが、直虎も適齢期に婚礼していなかったですし、同じ頃に木俣守勝に嫁いだ新野左馬助の娘も婚期を逃しての結婚をしていますから井伊家の女性の一部になかなか婚姻が決まらない人物がいたことも不思議です。また良則もすでに元服した息子がいて年齢も51歳、高瀬姫より25歳以上も歳上という高齢だったのだのですが、いったん家が滅びかけた井伊家にとっては信頼がおける身内の家臣という存在が少なく、良則は直政にとって大切な身内となり良則も才能を充分に発揮するのでした。関ヶ原の戦いのとき、直政の居城高崎城の留守を任されたのも良則であり一説にはこの時に二人が結婚したとの話もありますが、高瀬姫には娘が誕生していますので関ヶ原の時期になると結婚が遅すぎるようにも思います。
 直政が佐和山城に入り、その死後彦根城が築城されると現在の玄宮園辺りに川手屋敷が建てられましたが、良則の後を継いだ良利が大坂夏の陣で討死、川手家は滅びてしまうのです。そんな川手家のすべてを見定めてなお高瀬姫は最低でも75歳以上の長命を保ち寛永11年(1634)に亡くなったのでいた。
弟と夫の縁を結び続けた女性の痕跡は南川瀬町の川手家墓所と長純寺の供養碑でわずかに知ることができます。

〇南川瀬町の川手主水親子の墓




〇長純寺の高瀬姫の供養墓

そして高瀬姫を演じた高橋ひかるさん

…と、ひこにゃん


川手家は江戸後期になり再興されますが、それまでも彦根では直政の姉のことは少し伝わっていたようで天保年間に作成された『近江古説』には
「川瀬村川手屋敷」
川手主水ハ四千石にて川瀬村に居住す墓今にやしき跡に大きなる五輪有之也妻ハ直政公姫君馬瀬姫と被下候而主水妻敵に渡さす不残家臣取締り京鳥辺野にもむるとなり

と記されています。馬瀬姫で直政の姫となっていますが江戸後期に井伊家の関係者が川手家に嫁いでいたことが知られていたことを示す例でもあります。

三成道「戦国無双×近江タクシー『タクシー出陣式』」

2017年08月06日 | イベント
映画『関ヶ原』に絡んで、滋賀県で行われている『三成道』のイベントの一環として、そして米原市と長浜市、彦根市が協力している『三成会議』として「戦国無双×近江タクシー『タクシー出陣式』」が行われました。


個人的に朝一で予定があり、昼前に会場である米原市の観音寺に行こうと思い長浜駅に到着したら、イベントが始まる前に観音寺に着くバスが無い!
ならばと長浜駅のレンタルサイクルを借りに行くと、「16:30までに帰って来なかったら、罰金あります」と言われ、戻る時間を16:30と書いたら「早めに戻って来ないと困ります」と言われちゃいました。
その上で、「ギアを変えるのは自転車停めてから」と言われたので、「えっ?動いてる時じゃないとアカンでしょ?」と言っちゃったので先方が凄く不機嫌に…
そんなレンタルサイクルのMさんのご機嫌が帰るまでに戻るか心配しながら出発。ブレーキの効きにくい自転車だったので注意しながら出発。

たぶん5キロ弱無いくらいの距離でしたが、猛暑で少し向かい風、そして滋賀県は琵琶湖から離れるのは登り坂。
つ、辛い…

何とか頑張って、観音寺に到着。
寄ると、彦根から参加する筈だった方の代理にと言われ来賓席の末席に座らせていただきました。
渡された袋の中には三成イベントで受取れた物もあり、ちょっと嬉しい気持ち。

さて、戦国無双とコラボした近江タクシーさんの車体は、すでに石田三成や島左近、大谷吉継が走っていますが、ここに近江に絡む織田信長、明智光秀、豊臣秀吉らが加わり、大河ドラマで話題の井伊家から直虎と直政も加わり10人で12台のタクシーが出陣したのです。







直政

そして直虎

今思えば、バスが無かったりレンタルサイクルで嫌な想いで気を使わないといけないくらいなら近江タクシーでくれば良かったです。
そんな時は、やっぱり武将タクシーを狙ってかな。
ちょっと遠目になりますが、乙訓戦国つつじのお二人も場を盛り上げておられました。



その後、本堂にてオンライン三成会の中井俊一郎先生の三成講演。
三成の残した文書からその人柄を分析していくお話で、文禄の役で日本軍が快進撃を続けている時から戦の危うさを指摘して戦をやめるように進言している姿や、忍城水攻めが三成の策ではなく秀吉からの命であったことの検証。
十三ヶ条の掟書から読み取る、細かいところまで決まりを作り公平な政を行う様子、そして自らを冷静に見つめること、決断力は遅く無いこと、秀吉没時は家康との仲が悪かったわけではなく、徳川、前田に続く三つ目の派閥を持っていた話がありました。
そして、田附清子先生も加わり、田附先生から真田信之と三成の友人としての交流や、長崎の26聖人殉教の時に三成が見せた秀吉の命を逆らった姿からローマ法皇が知る当時の日本の政治家が信長でも秀吉でもなく三成だったとの話がありました。

観音寺の本堂に百人近くが集まり、開放的に扉が開けられる様子はもしかしたら開山以来かもしれませんね。


ゆっくりできず、講演終了次第慌て自転車走らせましたが、帰り道は下りなので少し楽だったかな?
余裕持って帰れたからか、Mさんのご機嫌は収まってたみたいでした。