彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

まちなか博物館:近江鉄道ミュージアム GW祭

2007年04月29日 | イベント
開放されたED144電気機関車運転席


先日ご紹介しました『近江鉄道ミュージアム GW祭』に行ってきました。
GW期間中にED144電気機関車運転席が開放されています。

近江鉄道の線路の上に車両が乗っていて、その向こう側には近江鉄道やJRが走っているのでリアリティもありワクワクします。


4月30日・5月4日・5日・6日
10時~13時、ED144電気機関車運転席開放が行われます。

また5月4日~6日
鉄道部品オークション入札があります。


そして、
駅弁・カステラ・近江鉄道グッズなど楽しみもいっぱいですよ。

まちなか博物館:近江鉄道ミュージアム

2007年04月26日 | イベント
展示されている電気機関車
 


彦根駅東口で行われている展示が、『近江鉄道ミュージアム』です。

英国製電気機関車や近江鉄道の車両が展示されている他に、路線図や切符などの近江鉄道の歴史を感じる事ができる場所です。

近江鉄道は、近江西郷と呼ばれた大東義徹が初代社長を務めた会社で、開業当時の社名をそのまま使っている全国でも珍しい私鉄の一つです。
そんな昔ながらの歴史を感じると共に、のんびりした空気を味わってください。

開館日は、400年祭期間中の金・土・日曜日と祝日
入館料は200円ですが、この時もらえるチケットが切符のようで面白いです。

また会場には井伊家の大名食を再現した駅弁や、オリジナルカステラ“ガチャテラ”などが売られて居ますので、楽しんでくださいね。


そして4月29日からイベントがあります。
『近江鉄道ミュージアム GW祭』

4月29日
「しまさこにゃん」がやってくる
11時~12時、写真撮影会
13時~、クイズ大会

4月27日~29日
5月4日~6日
タブレットなどの鉄道部品オークション入札

そして、
4月29日・30日
5月4日・5日・6日
10時~13時、ED144電気機関車運転席開放

鉄道好きの方、必見です!!

4月25日、近藤勇処刑される

2007年04月25日 | 何の日?
慶応4(1868)年4月25日、新選組局長・近藤勇が板橋で斬首されます。35歳でした。

近藤は、坂本龍馬を暗殺した罪で処刑されたのでした。
後の研究から照らしあわせれば、新選組が坂本暗殺を行なったとは考え難い状況なのですが、この時はそう信じられていたのです。
切腹を許さずに斬首にしたばかりか、刑場でもない馬捨て場で首を斬ったといいます。官軍のやり方は近藤勇を武士として扱わないだけではなく、人としても否定させるような信じられないものでした。

近藤は全てを承知して一身に責任を負って処刑されたのです、でも実はこの時に近藤と一緒に処刑された新選組隊士が居たのでした。
その隊士は名前も残っていなければ、なぜ処刑されたのかも分かっていません。
ただ分かっている事は近藤勇と一緒に処刑されて、近くに埋められたということだけだったのです。

余談ですが、大河ドラマ『新選組!』では、この人物の謎を解くために捨助という架空の人物を作り出して、脚本家・三谷幸喜さんなりの解釈を加えたのですよ。

近藤処刑後、その門弟と身内がそれぞれ刑場に入り込んで近藤の遺体を掘り起こし改葬しています。
しかし、近藤は一人しか居ないのに門弟と身内がどちら共に遺体を運んだ記録を残している事から、門弟が運んだ遺体はこの隊士の分を間違えて運んだのでは無いかという説が有力になっているんです。



さて、近藤勇の出身地は武蔵国多摩だし、処刑されたのは板橋だし、活躍したのは京都なので、全く彦根には関係ないのになぜここで紹介したのでしょうか?

近藤勇は流山という場所で“大久保大和”という変名を名乗っていたのですが、この大久保大和を近藤勇だと見破った人物が彦根藩士・渡辺九郎左衛門昌守でした。
当時、彦根藩は官軍として300の藩兵が薩摩藩士・有馬藤太と水戸藩士・香川敬三に従っていました(よりによって水戸藩士・汗)。
流山に籠もる近藤たちを囲った官軍に近藤が投降し、その時に「大久保大和」と名乗ったのです。
渡辺昌守は、京で近藤に会ったことがあったらしく、大久保大和が近藤勇であることを進言したのでした。

こんな所にも彦根藩が関わってくるんですね。

特別展『ワダエミの衣装展~森羅万象in彦根城~』

2007年04月25日 | イベント
天秤櫓と西ノ丸三重櫓で5月下旬まで行われているワダエミさんの衣装展。

ワダエミさんといえば、映画『乱』でアカデミー賞を受賞されて世界的な衣装デザイナーとして有名ですよね。
そんなワダエミさんの衣装が、普段入る事ができない2ヶ所の建物で見る事ができるんです。

ところで皆さん、ワダエミさんが演出家・和田勉さんの奥様だってご存知でしたか?
それもワダエミさんが大学在学中の20歳の時にご結婚されたそうで、今年で50年になるそうです。
在学中は西洋画を学んでおられたワダエミさんが和田勉さんの誘いで勉さんの舞台の衣装を作られた事が最初だったそうです。

そんなワダエミさんの衣装展を覗いてみると・・・
まず、案内の方が、ワダエミさんの衣装かな?
って感じの衣装を着ておられて、雰囲気を醸し出しています。

最初に見て欲しいのは天秤櫓入り口近くにある『市民』という衣装群。
顔もないマネキンに『エディプス王』の舞台で使われた市民の衣装を着せているのですが、これが怖い!
どんな物語のどんな場面で使われたのかは分かりませんが、悪政に苦しんで恨みや苦しみが籠もっているように感じられました。
「衣装が語るとはこの事か・・・」と改めて知らされる瞬間でしたね。

ドラマ『里見八犬伝』で使われた衣装も、キャラの特色を掴んでいました。


西ノ丸三重櫓で特に注目したいのは『利休』
まずは、戦国初期が舞台の『里見八犬伝』と戦国末期(安土桃山時代)が舞台の『利休』での同じ戦国時代でありながら違いすぎる衣装の差に注目。
そして『利休』では、皆さんが知っている日本史の有名人の衣装になる訳ですが、そのイメージがピッタリなんです。
管理人が特に大好きな戦国武将“豊臣秀長”も衣装のイメージに合います、素晴らしいです。


衣装展といえば、「服が並んでいるだけで面白くないんじゃない?」と思う方も居られるかも知れませんが、一度覘く価値はありますよ。


期間は
天秤櫓が5月27日まで
西ノ丸三重櫓が5月30日までです。

大名カルチャー講座『江戸時代彦根の社会』

2007年04月23日 | 講演
4月22日に彦根城博物館で400年祭記念特別講座として『江戸時代彦根の社会』が開かれました。

今回はそんな講座の中のお話の一部をご紹介しましょう。


まず、彦根藩の藩領は、近江国内に最大時で北は栃ノ木峠(福井県との県境)から南は日野町までの広大な地域でした。
近江は約77万石(だったはず・・・うる覚えです・汗)だったと言われていますが、その内の約28万石は彦根藩領でしたので現在の彦根市だけでは収まらないような地域の話と言う事になります。

ちなみに近江国内で約28万石と言うのは、
彦根藩は35万石と言われていますが、5万石(5万俵とも・・・)は幕府からの預かり米が現在梅林となっている場所に保管されていて、知行としては30万石でした。
その30万石の内、約2万石(1万7000石とも・・・)は飛び地である下野国佐野に、約4000石が世田谷にあったからなんです。
この佐野と世田谷の飛び地は、藩主の江戸滞在費用を捻出するための領地でした。
この制度は京で買い物をするための費用としても、遠隔地の有力大名が近江国内に「在京賄料」と言う形で飛び地を持っていたので、近江国内には信じられないほどの領主が点在していたんですよ(余談)。


さて、そんな近江で最大の知行地を有した井伊家は、まず彦根に城を築きます。
江戸時代というのは全国に地方都市ができた時でした。
今ではありえないような所でも発展する事があったのですが、それは城の影響が強かったといわれています。
城ができると、家臣の武士たちが住みます。
でも武士は非生産者ですので、生産物の調達が必要となり町人が住みます。すると城下町が形成されるようになるのです。
譜代大名筆頭・井伊家の城下町となるとその規模も大きく、江戸中期には城下町に4万人の人が住んでいたそうです。
同じ地域の現在の彦根市民の人口から考えても同じか、今の方が少ないくらいじゃないか?
というお話ですので、日本全体の人口がもっと少なかった当時と比較すれば大都市だったことが窺えますね。


また、近江国は室町時代には村の形成がしっかりとなされていて、村にまつわる古文書も残っているくらいに自治組織が発達した地域でもありました。
この自治の中には武力的な自治も含まれていますので実戦を経験しているような武装勢力も配備されていて、決して侮れないモノでした。
豊臣秀吉の刀狩令で武力解除はされたものの、その精神は強く残っていたのです。
ですから、井伊家の支配においても甘い考えではダメだった事が予想できます。
村を治めるには、“土地”と“人”の両方を上手に治めなければいけなかったんですよね。

井伊家では、こう言った支配を下級武士や上級町人にまかせ、しかもその任期は20年以上になる事も多く、世襲制に近い感じで引き継がれていったそうです。
つまり、知行地支配については、お偉いさんよりも現場の方がよく知っていたと言う事です。常にベテランが当たる訳ですから上手な治め方ですよね。
しかし、幕末になってこの事の弊害が表面化しました。
当時は、民衆が今よりも自己主張をした時代で、今より訴訟事が多かったのですが、その訴訟に対する判決が私的判断で行われるようになったのです。
直弼が藩主だった時には、これが問題視されたと言います。
だって、下級武士が賄賂とかでお偉いさんよりも羽振りがよくて良い暮らしをしていたのですから(苦笑)
直弼は藩政改革を行おうとしたのですが、上手くいかなかったようですよ。
いつの時代も、こんな問題はあるんですね~


最後に、彦根藩の苦悩について・・・
彦根藩は譜代大名筆頭として幕政に深く関わっていたために出費も多大な物がありました。
他の藩では新地開拓などで収入を増やしてこれにあてたりしたのですが、彦根藩領はその殆どが江戸期より前に開拓されていたために江戸期を通じて増収は殆どなかったのです。
こうした出費の拡大は家臣にも及び、借金が増えるようになります。
それは、商人による差し押さえを生み、武士の家計を商人や町人が管理しているという結果にもなったのでした。
武士って、私たちの想像以上に肩身が狭い想いをしていたようですよ。

4月21日、井伊弥千代の婚礼

2007年04月21日 | 何の日?
↓2月に“テーマ展『雛と雛道具』”
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/d5ccd039bcb451abdbea78a755171599
でも書きましたが、安政5(1858)年4月21日、井伊直弼の次女・弥千代が高松藩主の世子・松平聰に嫁ぎました。
聰25歳、弥千代13歳。

前回と少し違う視点からこのお話をもう一度復習してみましょう。

弥千代は、直弼の次女ですが、その上の子どもは早く亡くなっていたために実質的には長女のように育ったのです。
長女さんの宿命は、上に頼る人が居ない事・・・
「お姉ちゃんなんだから!」って言われたお姉ちゃんもたくさんおられるのではないですか?

そんな長女さんがちょっと年上の男性を「お兄ちゃん」と頼るのはごくごく自然の事ですよね、それが初恋になる事もありますね。
弥千代が初恋だったかどうかは解りませんが、年上の頼りになる男性が聰だったのでしょうね。

これは、女の子として甘えさせてくれる存在だったのかも知れません。

13歳で嫁いだ(ただし、数え年なので今の小学6年生くらい)弥千代は、きっと幸せだったでしょう。
でも、15歳の時に父・直弼が暗殺され、17歳で彦根に政変が起こり父の側近として自分に優しくしてくれた長野主膳や宇津木六之丞が斬首になります。
こうして多くの血が流れた彦根を思って弥千代が心を暗くした事が想像できますね。


そして、弟にあたる井伊家十四代藩主・井伊直憲はまだ少年のあどけなさが抜けないうちから井伊家の家格復帰のために奔走する姿も伝え聞いては心を痛めたのかも知れません。

そして18歳の時、高松藩重臣・松崎渋右衛門が聰に「これから朝廷と友好を結ぼうとするなら奥方様の存在ははばかられます」と詰め寄りました。
聰は「自分は大老のした事も正しいと思う、ましてや夫婦の絆を切る事は人倫に劣る、離縁はしない」と言い返します。
しかし、ついには離縁せざるを得なくなったのです、文久3(1863)年4月9日の事でした。
涙を流す事もなく作法に従って聰に深々と頭を下げて高松藩江戸屋敷を出る弥千代の姿が目に浮かぶようです。

彦根に戻った弥千代は男装して馬術や長刀の稽古に熱中したそうです。その姿は聰のことを忘れるためのようにも感じられて、周囲の涙を誘いました。

その6年後、松崎渋右衛門が14人の暴徒に惨殺されます。
“聰と弥千代を生木を裂くように離縁させ、その功で水戸藩から褒美を貰った事”がこの惨殺の一番の罪状だったようです。
この報せも弥千代の心を痛めた事でしょう。


離縁から9年後の明治5(1872)年、皇族の有栖川宮 熾仁親王は側近を呼んで「聞けば井伊弥千代さんは再嫁もせずに居るとか。また聰君も独り身で居るとか・・・明治になり最早勤皇も左幕も無いだろう、離婚の原因も消えたのだから、もう一度二人が幸せに過ごせるようにできないか?」と言ったのです。
こうして、聰は喜んで弥千代を迎えたのでした。
たぶん、自分にしか見せなかったであろう甘えん坊の弥千代を自分が守り続ける事を誓ったはずです。

この後、弥千代は昭和2年で82歳まで亡くなるまで、穏やかな日々を過ごしたようです。

大名カルチャー講座『井伊直政の政治手腕』

2007年04月16日 | 講演
4月15日に彦根城博物館で400年祭記念特別講座として『井伊直政の政治手腕』が開かれました。

資料から読み解かれた新事実をお話されてましたので少しだけご紹介します。

豊臣秀吉が亡くなった年の12月には、井伊直政は徳川家康の外務大臣のような事をしていて、黒田長政と盟約を結んでいました。
そんな黒田長政を含んだ七将が、前田利家が亡くなった時に石田三成を襲撃する事件を起こします。

この三成襲撃事件は、三成が伏見の家康の屋敷に逃げ込んで家康の庇護を受けたというのが通説になっていますが、実は三成は伏見の自分の屋敷に逃げ込んで、その周りを七将たちが囲んでいたのを、家康が仲裁を行ったそうです。
この時に七将の所に交渉に行ったのが直政だったのです。


また、関ヶ原の戦いで、外様は東海道を進み、譜代は中山道を進む事になり美濃で合流してから石田三成と戦う予定でした。
そして、外様の目付が直政・譜代の目付が榊原康政でした。
しかし、出発前に直政が病になったので急遽、本多忠勝が僅かな手勢を引き連れて(本多家本隊は中山道組の中に居ました)直政の代わりを務め、直政は少し遅れて東海道を進んで外様軍に合流しました。
関ヶ原の戦いで本多忠勝が家康本陣近くに居たのは、手勢の殆どが中山道に居たからだったんです。

そして、外様軍は家康の予想を越える速さで進んだために、勢いを止める事ができず、外様軍が譜代軍を待つ事なく関ヶ原の戦いへと突入したのでした。
譜代軍の切捨てを進言したのも直政だったそうです。

しかし、譜代が居なければ関ヶ原は徳川の戦にならないため、福島正則に決まっていた先陣を、正則が激怒しない程度の少数ですっぱ抜き、一番槍の名誉のみは徳川家にもたらしたのでした。

関ヶ原の戦い後の政治交渉は、西国が井伊直政・東国は榊原康政が窓口になっていて、康政は何度かちょいミスがあったそうですが、直政は完璧にこなしたとか・・・

そう言った功績を踏まえて、『寛政重修諸家譜』では井伊直政を「誠に開国(幕府を開く事)の元勲なり」と称えたそうです。
後に井伊直弼が“開国の元勲”と呼ばれるのは、この事を踏まえた上での事だそうですよ。


詳しく知りたい方は、彦根城博物館で販売されている『研究紀要』第18号に書かれているそうです。『研究紀要』は興味がある内容の時だけ買う様にしているのですが、とても役に立ちますのでお薦めですよ。

彦根城周辺史跡スポット:「普光廃寺の礎石」

2007年04月15日 | 史跡
廣濱神社の普光廃寺の塔心石



稲枝学区の普光寺町は、その町名の示す通り「普光寺」というお寺が建っていた場所だったと言われています。

普光寺が建立されたのは七世紀後半の白鳳時代(645~710年)の事で、周囲に残る字の地名から考えると、南向きに正門を構えて、東に金堂・西に塔を配置する古代寺院によく見られる“法隆寺式伽藍”だったのではないかと考えられています。

現在は、普光寺町の中にある廣濱神社の境内に塔の心柱に使われたと考えられている巨大な礎石が残っています。
この礎石の大きさは、『新修 彦根市史』によると2.75m×2.70mの不整形な方形(ほうけい)で高さは0.5mになるそうです。
その様な巨大な自然石を平らにして、中央に柱が入るように直径0.85m深さ0.11mの穴が空けられています。
また、ご丁寧にも穴の周囲には溝が作られていて排水の機能を果たしていたのだとか・・・

こういった現存資料から、この礎石は塔の最も重要な柱を支えていたと考えられ、この塔も相当の大きな建物だったようです。
 
今はそんな礎石しか残っていない普光寺ですが、古い記録を見てみると、鎌倉時代や室町時代には京都の御寺・泉涌寺(みてら・せんにゅうじ)の末寺(まつじ)として信仰を集めていた事が伺えます。
この頃の建物が、白鳳時代と同じ造りだったのかは分かりませんが、900年近くその場に大きな寺院があった事は間違いなさそうです。

しかし、織田信長が近江国内の寺社を焼き払った“元亀の兵火(がんきのへいか)”で焼失しその後、再建される事は無く、現在は菅原道真を祭る廣濱神社がその名残を静かに守っているのですよ。

この付近では軒丸瓦や軒平瓦も出土していて、礎石と共に近江の古代寺院を研究するための重要な手がかりともなっています。

特別展『彦根城を世界遺産に』

2007年04月09日 | イベント
太鼓門櫓で400年祭の期間中行われているのが、特別展『彦根城を世界遺産に』です。

世界文化遺産の暫定リストに登録されている彦根城ですが、なぜ世界遺産登録まで至っていないのでしょうか?
その理由を知る事で、世界遺産登録に一歩近付くかもしれません。

彦根城が世界遺産に登録されない大きな理由の一つに、既に姫路城が登録されているからだという話があります。実は世界遺産は一つの国で同一種類の登録を行う事ができない事になっています。
日本古来の風格を残したお城としての姫路城の規模や保存状態はまさしく日本を代表する建物で、彦根城より立派な事は自他ともに認めざるを得ないところです。
もちろん、彦根城は姫路城よりももっと魅力的なところは沢山ありますが、同じお城である限りは世界遺産にならないのです。

そこで、彦根城にあって姫路城にはないモノを合わせる事で彦根城の世界遺産登録が計画されているのです。
彦根城にあって姫路城にない物は何か?

その答えは城下町の現存具合です。
江戸時代は中山道の脇街道“彦根道”となっていた立花通り近辺は昔の建物が多く残っています。
他にも、善利組足軽屋敷が立ち並ぶ地域や、花しょうぶ通り商店街の地域など、多くの場所で古い建物が残っていますし、城内では西郷屋敷や木俣屋敷、馬屋などの貴重な建物も現存しています。
彦根城の世界遺産は、彦根城とその城下町全てを含めて行われるべきモノなのです。

しかし、古い建物よりも新しい建物の方が使い易いのも現状ですので、残念ながら昔ながらの建物は減りつつあります。

彦根城の世界遺産登録は、市民全体で協力して始めて実現されるモノなんですよ。この特別展からそんな事も知ってくださると幸いです。

また、太鼓門櫓櫓には、常設されている彦根城の模型があり、目を惹きます。
そして、以前に書きました弥千代の物語に因んで高松市との姉妹城都市の提携を行った時の提携書も展示してありますので、こちらも観ていって下さいね。

企画展『キャッスルロードに見る彦根かるた』

2007年04月01日 | イベント
キャッスルロードの『彦根かるた』


以前に紹介しましたお話の中で、「彦根かるたには~と詠われています」という文章を何度か書いた事がありますが、そんな『彦根かるた』は夢京橋キャッスルロードの歩道に埋め込まれて紹介されています。

そんな夢京橋キャッスルロードの彦根かるたを紹介するイベントが、夢京橋キャッスルロード ギャラリーいと~で行われているんですよ。

内容は彦根かるたの紹介と、そんな彦根かるたに詠われている場所の写真の展示です。

彦根かるたをご存知の方も、これから知る方も一度足を運んでみて下さいませ。
期間は4月4日までですのであと少しですが、彦根かるたの現場を知ることで違った見方ができるようになるかも知れませんしね。