彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『藁の盾』ロケ地

2013年04月28日 | ロケ地
なんだかんだで話題の映画になっている『藁の盾』を観ました。

物語は、とても悲しい事件から幕を開けます。
7歳の女の子が遺体で発見される。女の子はとても無残な姿で排水溝に捨てられるようにして見つかったのです。
8年前に同じ事件を起し出所したばかりの清丸国秀が容疑者として浮上するものの逮捕されないままだったある日、大手新聞の広告に清丸の写真と名前が掲載され「この男を殺してください。御礼として十億円お支払いします。」と掲載されたのです。
これを掲載したのは被害者の祖父で日本の経済界を動かしている蜷川隆興。
こうして、全日本国民が清丸の命を狙うという狂気が幕を開けたのです。

そんななか、自分を匿っていたはずの男が金に目がくらみ殺されかけたため清丸は福岡県警に自首。清丸を警視庁へ輸送するために2人のSPと2人の警視庁の刑事、そして福岡県警のベテランの5人が清丸特別輸送チームとして選ばれたのでした。
同じ頃、蜷川は清丸を襲った男に一億円を支払うことを発表。殺さなくても一億貰えるという事実に国民はますます清丸の命を狙い始めるのです。

出頭から送検までのタイムリミットは48時間。すべての国民に狙われ、そして救いようのいない人間のクズである清丸を命がけで送り届けなければならない5人のチーム。身内の警察官ですら清丸の命を狙う事態になる中で、命を懸けてまで清丸を救う必要性があるのか?
ネット上では清丸の位置を示す情報が常に公開されているなかで、殉職者もでるのです。


はっきり言って、人間というものをいろいろ考えてしまう作品です。
人間の汚さと言うのか、人間らしさというのか、人間が人間であり続けるための価値観というのでしょうか、そういうものを考えてしまいます。
清丸がまだ同情すべきところがある人間ならばいいのですが、自分勝手で自分の命は何よりも惜しい人間、しかもこの事態に至ってもまだ同じような犯罪を犯そうとする本当のクズとなると、守る意味すら分からなくなります。
そして、この騒動で守る側に居なければならない警察すらも頼れない事実も恐ろしい現実なのではないでしょうか?


ちなみに、この作品のロケも滋賀で行われた部分があります。
そのロケ地が旧愛知川警察署です。福岡県警という設定で使われました。
今は使われていないとはいえ本物の警察署を使っての警察の撮影と言うのは、とても珍しいそうですよ。




150年前:姉小路公知大坂湾視察(4月24日)

2013年04月25日 | 何の日?
文久3年(1863)4月25日、姉小路公知が大坂湾を巡察しました。

同じく大坂湾の視察を行って江戸に向かうといわれていた将軍徳川家茂の動向を探るために、京都からやってきた姉小路公知は国事参政という地位にあり三条実美と並ぶ攘夷派の公家の筆頭格でした。
はっきり言えば将軍は頼りない、外国人憎しのみの感情で動く若い公家だったのですが、この時に大坂湾で幕府が所有する順動丸と言う蒸気船に初めて乗ったのです。
そして勝海舟の付き添いのもとで大坂から兵庫までの船旅を楽しみました。
この航海で異国船の性能と日本がどれほど後進国になっているかを目の当たりにした公知は、攘夷思想が薄らぎつつあったのです。

これが5月20日の猿ヶ辻の変に繋がるのです。

150年前:家里次郎切腹(4月24日)

2013年04月24日 | 何の日?
文久3年(1863)4月24日、家里次郎が切腹しました。享年24歳。

誰やねん!
って思われる方が多い反面、なんか聞いたことがあるという方もおられるとは思います。
家里次郎は、元壬生浪士組隊士です。

清河八郎が江戸から浪士組を上洛させた後で京都に残った芹沢鴨・近藤勇とは別に殿内義雄のグループがいて、その殿内が3月25日に四条大橋で暗殺されたというお話は書きましたが、この殿内のグループで殿内と共に壬生の浪士たちを監督していたのが家里次郎だったのです。

殿内が暗殺された直後に多くの仲間たちが逃れる中で、なぜかそのまま浪士組に残っていたのです。
そして将軍徳川家茂の警護で大坂に行く集団にも入っていました。

4月24日夜、家里は芹沢鴨・山南敬助・平山五郎らとともに酒宴をしていました。そこに近藤勇もやってきて、酒宴が終わってから近藤を常安橋会所まで送りそこで切腹させられたのです。
この時、家里の切腹傷が浅かったことが記録されています。

家里切腹の理由は分かっておらず、また実は殿内が暗殺されてすぐに浪士組を脱していて、大坂で偶然浪士組の面々に出会ってしまい切腹させられたのだという説もあります。

150年前:徳川家茂離京(4月21日)

2013年04月21日 | 何の日?
文久3年(1863)4月21日、徳川家茂と一橋慶喜が京を離れました。
慶喜の離京申請に対し、攘夷期限の確定という条件をあげた朝廷。これに5月10日との上奏を行った慶喜の答えに満足した朝廷が家茂と慶喜の離京を許したのが前日の4月20日だったのです。

4月21日、家茂と慶喜は竹田街道・鳥羽・淀城を経て石清水八幡宮に参拝しました。この後、石清水八幡宮で家茂が大坂に向かって出発するのを見送った慶喜は御所に参内して孝明天皇に拝謁して天杯や太刀を受けました。この時には攘夷の約束はしたが実現できなかったとの言葉と共に幕府の要職を辞職する決意を胸に秘めていたとされています。慶喜は翌22日に京を離れます。

一方石清水八幡宮から大坂へ向かった家茂は橋本から船に乗って淀川を下って大坂城に入りました。
この時、将軍警護として壬生浪士組が加わっています。もともと将軍警護の役割を担っていた浪士組が、やっとその任に就くことができたのです。
会津藩の記録では「浪士時ニ一様ノ外套ヲ製シ、長刀地ニ曳キ、或ハ大髪頭ヲ掩ヘ、形貌甚偉シク、烈ヲナシテ行ク。逢フ者皆目ヲ傾テ之ヲ畏ル」とあります。一様ノ外套はだんだら羽織の事だとされていますので、浪士組にとってはこの上ない晴れの日となったのです。

150年前:攘夷期限上奏(4月20日)

2013年04月20日 | 何の日?
文久3年(1863)4月20日、一橋慶喜は攘夷期限を5月10日と上奏しました。

2日前に自身の東帰と将軍家茂の大坂視察を申請し、その条件として攘夷期限を明確にすることを課せられた一橋慶喜は、5月10日を攘夷期限とする旨を上奏しました。
しかし、すでに列強との修好通商条約が締結され、諸外国の脅威も各藩に広がっている中で、実際に攘夷を行う大名はいないだろうという目算を立てての上奏でもあったのです。

これを受け取った朝廷は慶喜の江戸帰還と家茂の大坂行きを認めるのです。

150年前:一橋慶喜、東帰を申請(4月18日)

2013年04月18日 | 何の日?
文久3年(1863)4月18日、一橋慶喜が朝廷に対して自らの江戸帰参を申請しました。

1月5日に慶喜、3月4日に徳川家茂が上洛し、幕府機能が京都に移動した形になっていたのですが、その間に江戸近くでは生麦事件という大きな事件が起こってしまいました。
この賠償についての交渉は主に江戸で行われていましたが、最終決定機関が京都にある状態では迅速に話が進まなかったのです。
これを問題視した一橋慶喜は自らの江戸帰還を朝廷に申請しました。これと同時に、イギリス艦隊が兵庫に入るという噂を基に将軍家茂の兵庫視察も申請したのです。

しかし朝廷は攘夷決行にこだわっていて、攘夷を行う相手に賠償金を支払う必要性はないとの考えを示したのです。
その一方で、一両日中に攘夷決行を約束し諸藩に伝えるのなら申請を許可するという条件も提示しました。

ここから幕府は大きな選択を迫られることになったのです。

150年前:新徴組編成(4月15日)

2013年04月15日 | 何の日?
文久3年(1863)4月15日、江戸幕府はを新徴組編成しました。

2日前に佐々木只三郎が清河八郎を暗殺しましたが、この清河が尊皇攘夷を目的とした浪士組を幕府の力で集めて、江戸から京に上り、京では芹沢鴨や近藤勇の反発にあって浪士組のほとんどはそのまま江戸に戻ってきたのです。
この戻ってきた人々を編成したのが新徴組でした。
ここには沖田総司の義兄にあたる沖田林太郎も加わっています。

そんな新徴組の仕事は江戸の警護だったのです。そして同年11月20日には庄内藩酒井家のお預かりとなったのです。

京都での新選組
江戸での新徴組
と、似た立場であり、預かったにも東北の藩だったという共通点もあったことから両者の交流はあったようです。

あまり歴史上に登場しない新徴組ですが、江戸の警護という仕事から薩摩藩邸焼き討ち事件にも関わり、戊辰戦争では庄内藩の下で戦い、維新後は庄内の開墾に従事するのです

『剣と紅』

2013年04月14日 | 書籍紹介
小説『剣と紅』を読みました。

主人公は井伊次郎法師直虎です。
最近では女地頭として戦国史の中でも知られてくる存在になりましたが、われらが彦根市民としては、井伊直政の前の井伊家当主であり、直政を徳川家康に引き合わせるように演出した女性としても忘れてはならない存在です。


井伊直盛の娘として誕生し“香”という名を与えられたのですが、生まれた頃からただならぬ力を持ち、見えざるものが見えたためにと呼ばれて井伊谷の領民の信仰の対象にもなりつつあったのです。
そして従兄弟である亀乃丞(後の直親)を婿に迎えて井伊家の家督を継がせるように決まっていたのです。
しかし直盛の3代前直氏の時に家老として井伊谷に迎えた小野政直はこれをよしとせず、今川義元に訴えて、亀乃丞の父である直満とその弟直義が駿府に呼び出されて殺害されたのでした。
義元は亀乃丞殺害も命じ、香の機転で亀乃丞は井伊谷を脱出。そして政直嫡男政次が香を嫁にしようとするのを遮って出家してしまうのでした。
ここから井伊家の崩壊は始まり、直盛は桶狭間で討ち死に、その間に井伊谷に戻って元服し直親と名乗っていた亀乃丞も義元の息子氏真によって殺害されたのです。
跡継ぎが居なくなった井伊家は香の曽祖父直平(直平―直宗―直盛―香)が、預かり直親の嫡子が成長するまで見守ろうとするのだが、小野政次の策によって毒殺され、その後の井伊家を支えていた新野左馬助と中野直由も戦死してしまうのです。
そのような状況から、香は井伊家の当主の証である次郎を受け継ぎ、直虎という男性の名を使って、井伊次郎法師直虎として井伊家の名跡を継ぐのでした。



井伊家千年紀として調べた、直政以前の井伊家の姿が次郎法師を主人公にして描かれています。
「あぁ、この人調べたなぁ」とか井伊家の関係者として登場する、中野・新野・奥山・貫名などの姓を懐かしく見てしまいました。

直虎は、見えざるものが見えるのにその力が何にも役立てない苦悩する人物としても描かれています。滅びゆく井伊家とそれを何とかして守ろうとした人々、策を弄じて井伊家を乗っ取ろうとした小野親子など、彦根藩主井伊家の根柢の部分を読める小説でした。

150年前:清河八郎暗殺事件(4月13日)

2013年04月13日 | 何の日?
文久3年(1863)4月13日、清河八郎が暗殺されました。享年34歳。

清河八郎は、幕末の早い時期から勤皇派として活動していた武士でした。一時期は幕府から命を狙われたこともあった当時の指名手配犯だったはずなのに、いつの間にか幕府の役人を通じて浪士隊を集め、今日に上洛させる離れ業をやってのけた人物です。
上洛してから清河に反発した芹沢鴨や近藤勇が新撰組の母体となるので、新撰組関連の歴史の中で早い段階で清河八郎の名が登場するために、名前がよく知れ渡っています。


幕府を騙すような形で上洛し、京で浪士隊の目的が幕府のために働くのではなく尊王のために働くことを宣言したために、幕府は慌てて清河たちを江戸に呼び戻します。
江戸に戻った清河は、常に幕府に監視され命を狙われますが、北辰一刀流の達人で、抜き差し際に町人の首を刎ね上げたという腕を持つ清河に、剣が強い警護役が5人ほど常に付き添っている状態で、なかなか幕府の思うようには行かなかったのです。
そこで、旗本の中でも特に腕が立つ佐々木只三郎が刺客に選ばれました。

文久3年4月13日、妻の兄である山岡鉄舟の屋敷を訪れた清河は、麻布一の橋を通ろうとしました。すると清河の少し前に立っていた武士が、「清河先生ではありませんか」と声をかけて被っていた笠を外して頭を下げたのです。
清河は、武士の礼儀として同じように笠を脱ごうとして笠の緒に手をかけた瞬間に背後からきた佐々木に斬られたのです。剣の達人でも刀から離れた場所に手を持って行けば反応が鈍くなると計算したうえでの行動でした。
こうして大きな抵抗もなく清河八郎は殺害されたのでした。


清河八郎の人生は、普通に考えれば意味がわからない行動に満ち溢れていますが、その行動が幕末史に大きな印を付けたことは間違いないのです。