彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「荒神山」

2006年09月24日 | 史跡
前回書きました宇曽川の河口付近にある大きな山が荒神山です、標高は263m、山としてはそれ程高い場所ではありませんが、近江平野の中では低い方ではなく、山頂に登って北を眺めると彦根市内を越えて湖北まで望む事ができます。

この様な条件があるからでしょうか? NHKをはじめ、複数のメディアが中継アンテナを設置しているのです。

さて、そんな荒神山の歴史は古く、平成14年に彦根市史編さん室と滋賀県立大学考古学研究室によって測量調査によって全長114m以上の大規模な前方後円墳である事が解かった荒神山古墳の存在が、それまで湖東地域には大きな古墳が存在しないと言われていた為に、この辺りに巨大な力を持つ権力者が居なかったとされていた湖東古代史を変える貴重な資料となっています。こう考えると、少なくとも古墳時代後期・4世紀後半にはこの辺りを大きな権力者が治めていたことになるのです。
この荒神山古墳は、琵琶湖のほうに向かって作られています。実は、琵琶湖周辺には同じ様に琵琶湖に向かって作られた古墳が存在する為、こう言った古墳に埋葬されている権力者は琵琶湖を媒介にお互いのネットワークを行っていたのではないかとも考えられていて、大和朝廷に匹敵する文化があったとしてもおかしくないのです。

そんな荒神山古墳の近く、山の山頂付近にある荒神山神社は山の名前の由来にもなっている場所ですが、そもそも「荒神」とは、神様の名前で、荒神様は「かまど」の神様として知られ同時に「火」の神様でもあります。
今でこそ「かまど」は無くなり、電磁調理器の登場で家庭によっては台所で火を使わない所もあると耳にした事がありますが、だからと言って荒神様とご縁が無い訳ではありません。
「かまど」は一家の中心となる物ですから、「かまど」が賑わっていれば家庭も豊ですし、会社が破産したりする事を“「かまど」を破る”と言った表現をしたりもしました。
ですから、荒神様は日本全国で色々な形で祀られています、例えば京都の愛宕山や、面白い顔のお面“ひょっとこ”がそれに当ります。

荒神山神社もその起原は2200年前まで遡ると社史は伝えています、実際に、天智天皇の御世には、はっきりとした記録も残っていますし、奈良時代になると行基が奥山寺を開山し、三宝大荒神像を祭っています。
古い歴史を持つ神社なんですが、戦国時代は、この地域を見渡せる山として六角氏の拠点となり、六角氏の身内で重臣でもある日夏安芸守によって荒神山城が築かれました、この城跡は神社の境内と重なっているので、境内が城郭の中に含まれていたのではないかとも考えられるのです。
その為でしょうか? 織田信長の比叡山焼き討ちと同時期に焼き払われますが、豊臣秀吉には保護を受け、秀吉が寄進した石燈篭が残っています。

山の上と言う事で、参拝は少し大変ですし場合によっては落石の危険もありますが、登っただけの価値がある風景と、家を豊にしてくれる神様が出迎えてくれます。
古代からの先人も魅了された絶景を楽しんでみてはいかがですか?

彦根城周辺史跡スポット:「宇曽川」

2006年09月19日 | 史跡
昔から彦根市近辺に住んでおられる方にとっては、幼い頃から聞き覚えがある川の名前の一つが“宇曽川”。

市内では中南部に位置して、荒神山の麓をのんびりと流れていますが、この名前を聴いた皆さんはこんな事を疑問に思った事はありませんか?

「宇曽川って、何でそんな名前なん? 『うそ』って、まるで嘘つきみたいやん…」

実はそうなんです。

戦国時代、織田信長が小谷城の浅井長政と戦っていた頃、浅井・朝倉の兵を匿っていたという事で比叡山延暦寺を焼き討ちにしましたが、同じ頃、信長に反発する近江国内の寺社勢力も次々と焼き討ちにされたのです。
彦根の近くにある湖東三山もその対象となっていました、信長は湖東三山に近い川付近に陣を張って、山を囲んでいたのです。
寺の危機に接した金剛輪寺の住職は、本堂近くの高台で火を燃やさせました。この様子を見た信長は、寺が燃えていると勘違いして兵を引き上げさせたのでした。
この時、信長が陣を張っていた場所を、『嘘つきの川』として“宇曽川”と命名されたのです。
また、別の説もあって、急に干上がったり、雨が少し降ると洪水になったりする嘘つきのように油断できない川だからとも言われています。
どちらにしても、嘘つきなんですね。

さて、宇曽川は、荒神山の北側に位置する事から、荒神山に築城された荒神山城・日夏城・山崎山城などの天然の堀として使われていたと考えられます。
以前に書きました肥田城の水攻めの時にも、宇曽川の水を堰き止めたと言いましたが、この時は大雨で堤防が決壊したのですから、やっぱり油断ならない川だったんでしょうね。
また、江戸時代には彦根藩の年貢米を運ぶ運河の一つとして使われていたんですよ。

宇曽川は、荒神山の影響で河口に近付くほど川幅が狭く蛇行するので雨が降ると大きな被害をもたらしていたようです。昭和58年の豪雨を契機に翌年から5年間にわたる大規模な改川工事が行われて、今は恵み豊かで穏やかな流れを私たちに提供してくれています。

9月18日、佐和山城落城

2006年09月18日 | 何の日?
平田山中腹より、佐和山方面を望む


9月15日に関ヶ原の戦いのお話をしましたが、戦いの後に徳川家康が行ったのが石田三成の居城・佐和山城の攻略でした。

関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋は家康に佐和山城攻めの先陣を願い出ています。家康はこれを認めて、秀秋の動き(“裏切り”ではなく“英断”としているので敢えてこういう書き方をしました)に呼応して三成を裏切った(以下の人物は正真正銘の裏切りです)、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の内脇坂・小川・朽木を付けて、井伊直政を監軍で軍師として同行させたのです。

佐和山城の麓・鳥居本で軍議が行われた後、17日から城攻めが始まりました。
秀秋と三将は大手から、井伊直政と田中吉政が搦手から攻め込んだのです。

この時、攻め手は1万5千人、守り手は2800人余でした。

佐和山城を守っていたのは三成の父・石田正継と兄・正澄だったのです。正継は、秀吉の官吏として大坂や伏見に詰めたままの三成に代わって領内を治めた人物で、関ヶ原の戦いで三成が領内に潜んでいた時に領民が三成を匿い続けようとしたくらいに素晴らしい治世を行っていたのです。

そんな正継の人徳だったからか、1日で落ちると思われていた城は夕方でも持ちこたえていたのです。
この時、家康は平田山城(今の雨壺山)から戦いの様子を眺めていましたが、夕刻に兵を退かせたのです。その後、正継と家康の間で「石田一族の切腹を条件に、城兵と女性たちの助命を認める」という講和が模索され、これが決定したのでした。

しかし翌18日早朝、田中吉政が急に城に攻め上がります。
前日に戦いが終ったと油断していた城方は次々に討ち取られ、正継・正澄親子は自害して果てたのです。
三成の側近だった土田桃雲は、三成の妻を刺し殺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付けて切腹しました。また三成の岳父(妻の父)宇多頼忠と子・頼重も自刃。佐和山城に残る石田家は悲劇的な最後を迎え、城内のあちらこちらで同じ様な光景が続いたのでした。

また、逃げられなかった女性たちが本丸近くの谷に身を投げた話とその後の物語は『清涼寺』の項に書いているので参考にして下さい。

こうして多くの命が失われますが、奇跡的に生き残った城兵や女性たちは家康によって助命されたのでした。

家康は、この戦いの後に平田山の麓にある長久寺(お菊の皿があるお寺)で戦勝の宴を開いています。


さて、佐和山城落城後、「秀吉の寵愛を受けて、政事を私していた石田三成が、どれ程の財産を残してるか?」という事が人々の注目の的となりました。
実際に見て見ると、建物の城壁は上塗りもしていない土塀で、屋内もほとんど板張りのまま、庭には樹木すら植えられておらず、手水鉢もそのまま石だったそうです。
建物がこの状態なら財産も殆んど無かったと伝わっています。
そう言った私利私欲があった人ではなかったのですね。

最後に、三成の子孫について少し書いてみると。
娘・辰子(長姫)は弘前藩2代藩主・津軽信牧の側室となって、3代藩主・信義を産みます。この血は江戸時代後期の8代藩主・信明まで続きます。
嫡男・家重は出家して104歳の長寿を全うします。
次男・重成は津軽信牧の兄・信建(弘前藩初代藩主)に匿われて杉山八兵衛と改名します、この杉山家は代々弘前藩の重臣を歴任しました。

9月15日、関ヶ原の戦い

2006年09月15日 | 何の日?
9月15日は、関ケ原の戦いの日です。今から400年以上前に起こった歴史の転換事件。
そこで、今回は歴史を知らない人でも名前くらいは聞いた事があると言われるくらい有名なこの戦いのお話をしてみましょう。
とは言っても、両軍合わせて20万人近くが直接参加した一大事件を普通に書くだけでも小説1冊くらい必要になりますので、彦根に関わりのある人物を含みながら簡単に纏めていくことにします。

実際に戦いが起こる2年前、日本史史上最も出世した男・豊臣秀吉が幼い息子・秀頼を残してこの世を去りました。
この時、秀吉は秀頼の将来を心配して、有力な大名を五大老、有能な官吏を五奉行に任命し、それぞれを監視させながら安定した政治を行なう制度を確立したのでした。
この中で、特に重要な地位に居たのが、五大老筆頭の徳川家康と、次席の前田利家。
家康は、秀吉の君主にあたる織田信長が生きている時から大名として信長と対等に付き合える立場にあり、秀吉ともある程度対等な立場を保っていて、もし豊臣家を滅ぼしても誰からも文句は言われない状況と、天下を取る野心を持って居ました。
前田利家は、秀吉と共に信長の下で働いていた同僚であり、住んでいる所が隣同士でもあった親友で、同じ日に祝言を挙げたという伝説まで残っています。
利家が生きている時は、家康も一人の政治家として力を尽しましたが、秀吉の死の約半年後に前田利家も病で亡くなってしまうのです。
利家が亡くなった日の夜、当時の政治の中心地・大坂では一つの事件が起きます。

石田三成襲撃事件
豊臣家の武断派7名が軍を引き連れて三成の屋敷を包囲したのです。
この時、三成は五奉行次席の地位にいて、豊臣家を守ろうとする前田利家に協力していましたが、政治家として有能な分、政治に必要ない人物を斬り捨てる傾向があり武断派には嫌われていたのです、三成襲撃事件はそんな武断派武将を徳川家康がそそのかして起きたものでした。
この情報を掴んだ三成は、なんと家康の屋敷に逃げ込んで保護を求めました。
この結果、武断派の襲撃は収まりますが、三成は失脚して居城・佐和山城に引き篭もる事になったのです。

三成が失脚した後の家康は、豊臣家を無視した専横が目に付くようになりますが、誰もそれに逆らう事が出来なくなっていたのでした。
ですが、家康に逆らいもせず従いもしなかった大名がいました。
家康と同じ五大老で米沢に領地を持っている上杉景勝で、家康は何度も米沢から大坂に出向くように命令しますが、それに従わなかった為に殆んどの大名を従えて上杉討伐の為に米沢に向かったのです。
これは、大坂を空にする事で石田三成が反乱を起こしやすくするためのデモンストレーションだったと言われています、そして三成はそうと知りながら兵を挙げました。

余談ですが、関ケ原の戦いでの西軍(石田三成軍)の大将は石田三成だと思われていますが、実はこれは間違いです。
西軍の大将は五大老の一人で中国地方全土を支配する毛利輝元で、副将は同じく五大老の一人で秀吉の養子でもあった宇喜多秀家だったのです、関ケ原の戦い当日には毛利輝元は大坂城に居たので直接参戦していませんが、毛利軍は参加しています。

もう一つ余談をするならば、三成挙兵の報告を最初に家康に届けたのは山内一豊の妻・千代でした、そう、大河ドラマ『功名ヶ辻』の主人公のあの人です。
この報告と一緒に千代が一豊に送った指示が山内家を土佐一国の大大名にのし上げる切っ掛けとなり『黄金十枚の馬』と並んで千代の“内助の功”の逸話になるのですが、それに静々と従った一豊の姿を想像すると“内助”と言うより“かかあ天下”ぶりが目に浮びますよね。

さて話を戻して、米沢の寸前まで到着していた家康は、まずは豊臣家に仕えている武断派に三成を憎む気持ちを大きくさせて味方につけ大坂へ向かわせました、そして自分は江戸城に入って準備を整えたのでした。
この時、家康の三男・秀忠に徳川家譜代の家臣を与えて別働隊として中山道から大坂に向かわせています、秀忠に従った家臣に家康の軍師・本多正信や徳川四天王の一人・榊原康政が居た事からこの軍が徳川本隊とする考え方もあります。
そして家康が江戸城に滞在する間に三成は大垣城を支配下に置いて軍事拠点とします。
こうして、両軍の戦いが大垣近辺で行なわれる状況が出来上がったのでした。

関ヶ原の戦いは「天下分け目の戦い」とも呼ばれていますが、この時点より900年以上前にも「天下分け目の戦い」が行なわれました、それが壬申の乱です。今でも地図を見ると分りますが、この狭い地域に名神や国道・東海道新幹線などなど滋賀県から岐阜県に向かう交通網の全てが集まっていて、それは同時に西と東の区切りの地点となっています。この段階で、関ヶ原は戦いの舞台として当然の場所だったのです。
戦いの前日9月14日に徳川家康がやっと大垣に到着。大垣城に居る石田三成を無視して大坂へ攻め上るという噂を流します、慌てた三成は夜になって大垣城を側近・福原長尭に任せて関ヶ原に移動し陣を構えますが、一晩中動き回った為に兵は疲労しました。そして明け方になって家康も関ヶ原に移動し両軍の準備が整います。
こうして、両軍合わせて約20万人、今の彦根市民の倍に近い武者達が終結したのでした。

9月15日、朝の関ヶ原は霧が出ていたと伝わっています。
明治18年、陸軍大学の軍事教諭としてドイツから招かれたクレメンス・メッケル少佐は関ヶ原の戦いの布陣図を見て「西軍が勝ち」と答えたという話が伝わっていますが、この時メッケル少佐には知らされていなかった情報が幾つかあります。
まずは、すぐ近くの大垣城では徳川家譜代の猛将・水野勝成が城攻めを行っていて、いつでも関ヶ原に軍を送れた事、そして西軍は秀忠が中山道をどこまで進んでいるか知らなかった事です。
つまり、西軍は「もっと敵軍が増えるかもしれない」という疑心暗鬼に襲われていたのです。
さて、当日に徳川軍から戦端を切るのは、家康に従っている豊臣家武断派武将・福島正則に決まっていました、しかし、家康の家臣・井伊直政は「重要な戦いの魁を他家の者にやらせるのは、徳川家臣団の恥」として、午前8時、家康の四男で直政の娘婿だった松平忠吉を連れて勝手に宇喜多秀家軍に対して鉄砲を撃ち込んで戦いを始めてしまいます、慌てた福島正則が井伊直政に続く形で突撃し戦いは一気に激戦となります。

井伊直政がこう言った勝手な行動に出たのは、この時点で秀忠軍が関ヶ原に到着しておらず、家康の主な家臣が井伊直政と本多忠勝しか居なかった為でした。
「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭(からのかしら)に本多平八」という言葉がありますが、この唐の頭は旄牛(からうし)と呼ばれる、ヤクという動物の尻尾の毛で飾った兜の呼称で ヤクの尾毛自体は普通“シャクマ”と呼ばれていて、白・黒・赤があり、それぞれ白熊(はぐま)・黒熊(こぐま)・赤熊(しゃくぐま)と呼ばれた貴重品だったのですが、徳川軍に七人も所有者が居てその一人が直政だったそうです。
また本多平八は本多平八郎忠勝を略した言葉でした。
つまり、譜代の家臣は居ないものの、関ヶ原の徳川軍には「家康に過ぎたる者」の二人が揃っていたのです。ここで徳川軍が戦端を切らなければ後で他家の者に大きな顔をされる事を恐れたのでした。

戦況は、大方の予想を裏切って石田軍有利で進みます、石田三成の重臣・島左近が獅子奮迅の働きを見せたためで、戦いに生き残った徳川軍の将兵の中には「眠っている時に島左近の号令を思い出して何度も飛び起きた」と話す者が多く居たそうです。
そんな戦況をひっくり返したのが小早川秀秋の裏切りでした。この為、秀秋は今でも裏切り者の汚名受けていますし、今も便宜上「裏切り」という言葉を使いましたが、実は秀秋は三成からも家康からも「動かないで欲しい」との要請しか受けていなかったので、石田軍に攻め込んだのは自らの意思でした、この決断、本当は裏切りにはならないんですよ。

とにかく、秀秋の動きで戦況は一転し徳川軍は夕方までに勝利を治めます。
しかし、石田軍撤退後も関ヶ原に残る一軍があったのです。それは、鹿児島を治める島津義弘軍1600人でした。
この島津軍はとんでもない撤退戦を展開します、なんと1600人で10万人の徳川軍に正面突入したのです、逃げるために敵に向かって行った例は世界戦史史上でも他に類を見ません。
鉄砲を持つものは座り込んで撃てる限り討ち尽し、将は全て島津義弘を名乗って混乱させました、最後に生き残っていた島津軍は60人余りだったそうです。そしてこれを追った井伊直政は鉄砲をまともに受けてその傷が原因で1年半後に亡くなってしまいます。

島津軍の怒涛の撤退で徳川軍の勝利が決まります。家康は勝利が決まった後に初めて兜を身に付けて言いました「勝って兜の緒を締めよ」と。
こうして、関ヶ原の戦いは終わり、石田三成は捕まって処刑され、やがては豊臣家も滅ぼされて太平の江戸時代がやってくるのです。

関ヶ原の戦いの参加者達はこれが天下分け目の戦いになるとはこの時点で思っていなかった事でしょう。
戦いの前はあくまでも、豊臣家の家臣である徳川家康と石田三成の権力争いでしかなかったからです、つまりどちらが勝っても豊臣家の地位が揺らぐとは思わなかったのです。
だから、加藤清正や福島正則といった秀吉大好き武将も家康に味方したのでした。

しかし、家康はこの機会を100%利用して石田方の武将の領地を没収します、ここには豊臣家が家臣に預けていた土地も含まれていて、この結果、豊臣家は一大名に成り下がってしまったのです。

彦根城周辺史跡スポット:「柳川港」

2006年09月08日 | 史跡
田附新助の子孫が寄進した柳川港の常夜灯


彦根や滋賀県を語る上で欠かせない物の一つに「近江商人」があります。近江商人の名前が全国に知れ渡っている事でもわかりますが、その活動範囲は日本国内の殆んどに広がっていたのです。

しかし、そんな中でも特に活躍していた地域が蝦夷地(今の北海道)だったのです。俗に蝦夷交易と呼ばれる蝦夷地との取引は、こちらから米や身の回りの品を持って行き、蝦夷地から鮭や鰊・鱒といった海産物を持って帰ってきて、下関・大坂などで売るという方法だったのでした。
この蝦夷交易の九割が近江商人によって行われていたのです。

近江商人と蝦夷地との交易の始まりは今から400年以上前の1589年、時代は豊臣秀吉が天下統一を行う直前の頃、柳川村の建部七郎右衛門と田付新助が松前に渡って行商を行ったのが最初でした。
やがて建部七郎右衛門は松前の殿様の相談役となり、その縁で柳川村や薩摩村そして八幡町から松前をはじめとする蝦夷地に商売の手を伸ばしていったのでした。
そんな商人達が使ったのが柳川港だったのです。柳川港を出た荷物は琵琶湖を船で横断し、塩津や海津で陸揚げされ、山を越えて若狭湾に到着し、日本海を越えて松前へ運ばれたのです。
ちなみに、この頃の商人達を、八幡町の人々が使った両浜という港の名前を取って『両浜組』と呼びます(厳密には、薩摩村と柳川村の人々は“小中組”、八幡町の人々は“松前組”と呼んで、この2つの総称が“両浜組”だそうです)。

江戸時代後期、愛知川宿の近く(今の豊郷町)で小さな商人をしていた藤野喜兵衛という人物は、蝦夷交易で莫大な富を築きました。喜兵衛が松前藩に収めた運上金は、松前藩の総収入金額の1/4だったと伝えられています。こうして大成功を修めた藤野喜兵衛は屋号を『柏屋』、商標を『又十』としました。中山道を彦根市内から南に進むと、豊郷町に『又十屋敷』という建物がありますが、この建物こそ藤野家の遺構なのです。
又十の台頭は近江商人が両浜組から湖東商人へと移動した事を示したモノだったのです。

余談ですが、藤野喜兵衛の後を継いだ四郎兵衛は1846年にそれまで使われていた念仏踊りを、親しみやすい音頭に作り変えました。これが今に伝わる『江州音頭』です。

彦根城周辺史跡スポット:「肥田城」

2006年09月04日 | 史跡
宇曽川沿いにある肥田城水攻め堤の跡


有史以来、日本各地で多くのお城が築城されました、彦根市内だけでも彦根城や佐和山城以外にも、市指定重要文化財に指定されている山崎山城や今の高宮小学校にあった高宮城など歴史の影に消えていった城は沢山あったのです。

そんな中で、小さいながらも戦国合戦史に名前を残しているのが肥田城です。
戦国時代初期、近江は南近江守護・六角氏と北近江守護・京極氏が激しい領地争いを行っていました。
しかし、1523年、当時の京極家当主だった京極高清は、国人・浅井亮政(長政の祖父)によって尾張に追われ、近江北部は浅井氏の支配下となったのでした。
翌年には小谷城が完成して、亮政は京極高清と高延親子を客人として迎え入れ住まわせたのです、この場所が小谷城内の京極丸です。
余談ですが、浅井亮政の孫・マリア(宣教師・オルガンチノの洗礼を受けたキリシタン)は京極高清の次男・高吉に嫁ぎ、その息子・高次は浅井長政(マリアの弟)の次女・初を正室に迎えています。

さて、浅井氏が京極氏に代わり六角氏との争いを継承していた頃、今の彦根市肥田町辺りを治めていた肥田城主・高野瀬秀隆は、六角氏に仕えて最前線を守っていたのですが、六角氏を裏切って勢いに乗っている浅井長政に臣従したのです。
これに怒った六角義賢・義弼親子は、自ら軍を率いて肥田城を攻めたのでした。
この時、城攻めの為に採られた戦略が水攻めだったのです。水攻めと言えば羽柴秀吉が備中高松城攻めの時に思いついた、秀吉のオリジナル戦略のようなイメージがありますが、中国では紀元前から使われている戦略で、春秋時代の最後の戦い「晋陽の戦い」で使われたり、後漢末期には曹操もこの策略を採用しているんです。

そして、日本での水攻めの最初がこの肥田城の戦いだと言われています。
1559年、六角軍は、肥田城から200mほどしか離れていない宇曽川と約1㎞離れた愛知川を堰き止めて、肥田城に水を流し込みました。
城に籠もっている高野瀬軍は、浅井軍が援けに来ると信じながらも段々水に浸かっていく城を守ります、しかし精神的に追い詰められていったのです。
もう落城寸前かと思われたのですが、5月28日に大雨によって肥田城を囲んでいた堤防が決壊し、六角氏の城攻めは失敗に終ったのです。
この堤防が切れた場所は今でも廿八という地名が残っています。

明治9(1876)年、この城址らしき場所から壺に入った銭が発見されました。もしかしたら軍資金だったのかも知れませんね。 

ちなみに戦国時代の水攻めは、高松城や肥田城以外にも幾つか例があります。
秀吉の子飼いの官僚・石田三成が秀吉の北条攻めの時に小田原城の支城・忍城を水攻めにしていますが、城主不在の忍城を落とす事ができませんでした。
この件から三成の戦下手の証明とする声もありますが、水攻めは攻める側の大将の卓越した慧眼がないと成功する事がなく、六角親子も石田三成も決して戦下手だった訳ではないのですよ。