彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

揺れる近江(5)

2024年02月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 嵯峨・淳和天皇を失意のどん底に落とした日本各地の大災害は両天皇の御代で終焉を迎えたわけではない。皇位を甥・仁明天皇に譲り、自らの薄葬まで指示して為政者としての不徳の罪を償おうとした淳和上皇崩御の翌年には信濃国(長野県)と北伊豆でも大地震が発生している。仁明天皇も「神霊の咎は悪政によるもので恥じ入る」との詔を出すことになる。
 この頃から地震の揺れ以上に政局も揺れ始め、他氏排斥を計画的に行い政局の波を乗り越えた藤原氏が台頭するようになる。嘉祥3年(850)、仁明天皇崩御。藤原北家・藤原良房の妹が生んだ文徳天皇が即位しのちに(次の清和天皇の御代)良房が皇族以外で初めての摂政に任じられたことで藤原北家が朝廷の要職を独占する摂関政治の時代となる。
 文徳天皇の御代は東北三陸地震発生。三陸では短いサイクルで大地震が発生するようになり16年後(貞観11年)の貞観三陸地震では沖合で発生したM8を超える揺れにより沿岸を大津波が襲ったと伝えられていて東日本大震災発生後に注目された。貞観三陸地震の前年には播磨国(兵庫県西部)、7年前には越中国(富山県)辺りでも巨大地震が発生していて、阪神淡路大震災や新潟中越地震・能登半島地震と重なってしまうのは考えすぎであろうか?

 時間が進みすぎてしまったので、文徳天皇即位の頃に話を戻す。即位から5年後、京都周辺で群発地震と疫病が猛威を振るい、地震の影響で東大寺大仏の仏頭が落ちる。3年後文徳天皇崩御、良房の外孫である清和天皇が即位。貞観6年(864)富士山が噴火して2年以上活動する。
 元慶2年(878)関東地方を直下型地震が襲い5~6日ほど群発した揺れにより地面は陥没し倒壊家屋・死傷者とも数が多すぎて記しきれなかったと伝えられている。2年後は出雲国(島根県)も大地震に襲われ余震が8日間続いている。
 そして仁和3年7月30日申刻(887年8月26日午後4時頃)平安時代前期の象徴とも言える群発地震の最後になる仁和地震発生。発生終日前から京都ではたびたび地震が観測されていて建物を倒壊させる規模の揺れもあった。仁和地震はM8クラスとされていて、当日の記録では数刻に渡って日本全国が揺れたような記録が見受けられる。特に酷かったのは摂津国(大阪府北部)で大津波が寄せた。津波は讃岐国(香川県)でも記録が残っている。これらの記録から仁和地震は東海・東南海・南海連動型地震であったのではないかと推測されている。

 こうして818年から始まった災害は約70年間日本を苦しめ続けた。この時期と現在の類似性を指摘する意見を尊重するならば、1990年代から始まる災害はまだ終焉が見えないのかもしれない。


群発地震が起こると富士山が噴火するかも?(2022年1月撮影)
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