彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

1月28日、『古事記』完成

2012年01月28日 | 何の日?
和銅5年(712)1月28日、『古事記』が完成して元明天皇に献上されました。

つまり2012年1月28日は『古事記』完成1300年の記念日なのです。
滋賀県湖東地域では、多賀大社という『古事記』とは切っても切れない縁がある神社もありますし、神話の批准地も多く存在しますので、今回は『古事記』のお話です。


『古事記』は神話時代の日本の誕生から推古天皇が没するまでを書いた歴史書で、稗田阿礼が誦して太安万侶が文字に書き上げた歴史書でした。
しかし、この『古事記』には歴史的に不思議な点がいくつかあると言われています。

まずは、後にこの時代の正史となる『続日本紀』の中に『古事記』に関する記述が無いのを始め殆どの記録書に触れられていない事。
次に、8年後に完成する『日本書紀』で国家事業としての歴史書を編纂している最中に同じような意味合いの『古事記』も天皇の命令で作らせている事。
そして『日本書紀』が漢文体なのに対し『古事記』が万葉仮名で書かれていた事。
などが挙げられています。
この事から『古事記』は『日本書紀』を手本にして作られた後世の作品という説もあるんですよ、また稗田阿礼という人物も一切謎につつまれているんです。

その半面、『古事記』と720年に完成した『日本書紀』を合わせて『記紀』といういい方をしますので、両方とも同じようなことを書いたあるように誤解を受けます。

もちろん重なったような話もありますが『古事記』はまずは成立した後に元明天皇に献上されたため、その内容には天皇家の意にそぐわないようなことも書かれていますし、口伝で伝わった物を大安万侶が成文化するという過程で成立していますので、歴史書でありながら昔話を見ているような趣があります。

対する『日本書紀』は、天武天皇の皇子である舎人親王が編集総括を行った勅撰の歴史書だったのです。ですので天皇家に都合のいい解釈も含まれていますし、歴史の専門書のような趣があるのです。
ただし、『古事記』も『日本書紀』もそれぞれに資料としているモノを忠実に分析した形跡も見られ、それぞれに解釈が違う部分もあるのでまだまだ研究の余地がありそうな分野なのです。

ただ、似た時代に、正史とも言える勅撰歴史書『日本書紀』と、私家本とも言える歴史書『古事記』ができあがり、現代まで伝わっていることは、ある意味では奇跡とも言えるのです。

150年前:坂下門外の変(1月15日)

2012年01月15日 | 何の日?
文久2年(1862)1月15日、江戸城坂下門外で老中首座の安藤信正が六人の水戸浪士に襲われて負傷しました。
俗に“坂下門外の変”と呼ばれる事件です。

2年前、桜田門外で井伊直弼を暗殺したのは水戸藩内の天狗党一派でした。この成功から天狗党内ではテロ行為によって自らの意見を押し通そうとする考え方が大きくなっていったのです。
安藤信正は、桜田門外の変の後に井伊政権をそのまま受け継いで、直弼が進めていた政治を継続させて行ったのでした。そのもっとも大きな事業は、孝明天皇の妹である和宮を将軍家茂の御台所として降嫁させる「公武合体」政策だったのです。

水戸を始めとする尊皇攘夷思想の人々は、井伊直弼が死ぬことで幕政改革が行われる筈だったのにTOPの名前が変わっただけで何も変わらない世の中に不信感すら感じるようになりました。
ましてや信正は、桜田門外の変の後に彦根藩下屋敷に監禁されていた彦根藩家老の岡本半介を呼び出して、井伊直弼の存命工作と息子の元服及び跡目相続の願いを提出させ、その手続きが終わった後に直弼の死を発表することで彦根藩を丸々安泰としたのでした。

「赤鬼(井伊)の手先」として信正を狙う計画を立てたのは水戸天狗党と宇都宮の儒学者・大橋訥庵一派、そして長州藩士で長州藩の窓口は桂小五郎だったのです。しかし決行前に長州藩では永井雅楽の台頭と小五郎を支援した周布政之助の失脚し、水戸藩士との企てから外れざるをえなくなったのでした。
こうした紆余曲折に中で天狗党と宇都宮一派は襲撃日を文久2年1月15日上元の嘉例の式日で大名が総登城となる日としたのです。

しかし、大橋の付き人が幕府に密告し、宇都宮一派の要人だった大橋や児島強介たちが1月12日に捕縛されてしまいます。


そして1月15日、五つ(午前8時ごろ)に上屋敷を出発した安藤信正が率いた平藩士の数は45名。事前に襲撃の情報が伝えられていたために駕籠の周りの警護は厳重でした。
行列が坂下門手前まで進んだ時、直訴の様にして行列の前に出た河本杜太郎(越後の医者の子)が行列の駕籠に向かって短筒を発射します。しかし弾は駕籠を反れて横の徒歩の足に当たったのです。
銃声を合図に天狗党の平山兵介・小田彦三郎・黒沢五郎・高畑総次郎そして宇都宮一派で医師の河野顕三が一斉に襲い掛かったのです。
桜田門外の変では、雪・弾の直弼命中・襲撃人数18名など襲撃側に幸運がありましたが、今回はそのような運にも恵まれませんでした。
それでも襲撃直後に一瞬混乱した行列の隙をついて平山兵介が駕籠を突き刺し安藤信正の背中に手傷を負わせたのです。信正は江戸城内に逃げ延びたのです。

襲撃者6名は全てその場で討ち取られ事件は終わったように思えたのですが、時間を間違えた天狗党の河辺佐治右衛門が、長州藩邸に逃げ込んで桂小五郎に後を託して自害したので、この日は7名の死者となったり、信正はしばらく傷の養生をすることとなったのです。
4月11日、幕政に復帰した信正に対し幕府内ではすでに反安藤派の勢力が出来上がっていて、薩摩藩主の後見役である島津久光らが坂下門外での責任を追及し信正は老中を罷免されたのです。

8月には、桜田門外の変での虚偽が問題となり平藩は2万石減封、信正は隠居謹慎。
彦根藩にも10万石減封、代々の役目であった京都守護罷免、藩主の井伊直憲は謹慎。
他に西尾藩や鯖江藩など井伊直弼に協力した藩は一斉に処罰を受けたのです。

こうして井伊直弼の政策は本当の意味で終焉を迎えたのでした。

ひこね丼祭

2012年01月14日 | イベント
彦根市の新名物として募集された「ひこね丼」
その販売が、1月14日から始まります。そして3月31日まではキャンペーンも行われています(4月1日以降も販売があるのか?ですが…)

そんな販売開始初日に合わせて、ひこね丼祭が行われました。
会場では、ひこね丼の旗が立っていて、

やちにゃん

ひこにゃん

が頑張ってアピールしていました。


ひこね丼という特定の基準があるわけではなく、地元の食材を使った丼を募集してその中から選ばれたレシピを総合しているようです。
ですので全部で10種類あり、その中で3種類が優秀賞を貰ったそうです。
そんな優秀賞3種を味わってみました。

“ひことろ丼”

“ひこね赤鬼どん”

“ひこねの赤どん”


彦根と言えば、赤であり近江牛なのですが、近江牛は簡単に食べるにはお値段が…
そう言う意味では、赤こんにゃくをお肉のように使ってカツにしたひこね赤鬼どんはなかなか面白かったです。
ひことろ丼の赤い糸こんにゃくには縁結びの意味を付けたそうですよ。
そしてひこね赤どんのひつまぶしも面白い。

基本的な食材は、赤こんにゃくと牛のすじ肉が共通する物だったように思えます。

彦根市内のお店でひこね丼を食べて、ひこにゃんが持っている幟と同じデザインの箸袋を3枚集めると先着3000名にひこにゃんグッズがもらえるそうです。

1月14日、タロとジロの日

2012年01月14日 | 何の日?
昭和34年(1959)1月14日、南極でタロ・ジロの二匹の犬の生存が確認されました。
テレビドラマ『南極大陸』放送時に、このドラマと湖東との関わりを書きましたので、今回はこの話を紹介しておきます。


昭和31年に第一次南極観測隊と一緒に南極へ向かった15頭のカラフト犬は、そのまま南極に越冬する隊と共に、建造されたばかりの昭和基地に残って、南極での越冬に成功します。
翌年に、第二次観測隊との交代と共に、カラフト犬たちの世話も引き継がれるはずだったのです。

しかし、天候などの悪条件から、ひとまずは第一次越冬隊が昭和基地を離れることになり、犬たちは鎖に繋がれたまま置いて行かれることになるのです。
この行為が後に非人道的な措置と責められるのですが、犬と共に生きた日本人にとっては非人道的に思えても、今まで犬がいなかった南極にいきなり外来種である犬を解き放つのは下手をすれば生態系を崩しかねない危険性もあったわけですので、現在の視点で考えるなら、この措置は(たとえ残った犬がオスだけだったとしても)正しかったという説もあります。
いずれにしても、昭和基地から第一次越冬隊が離れたあと、第二次観測隊が昭和基地に入ることはありませんでした、そして犬たちを置き去りにしたまま日本へと帰国することになるのです。

そして、第三次南極観測隊が昭和基地へ向かうのです。
昭和34年1月14日、無人のまま放置されていた昭和基地の様子を探るために、南極観測船「宗谷」からヘリコプターが飛び立ちます。
上空から昭和基地を見下ろすと、2頭の犬が生存していることがわかり、ヘリを着陸させると寄って来たのですが、あまりにも風貌が変わっていたので、ヘリの操縦士はどの犬なのかがわからず、一旦宗谷に戻って、第一次越冬隊に参加していた北村泰一氏を連れて再び昭和基地に向かいます。
そして、北村氏が、犬の名前を読み上げると「タロ」と「ジロ」で反応があったので、この2頭であることが確認されました。

こうして、奇蹟が日本に伝えられたのです。こののち、ジロは昭和35年7月9日に南極で亡くなりますが、タロはジロの亡骸と共に昭和36年5月4日に帰国します、その後9年間日本で過ごすのです。


余談ですが、『南極物語』や『南極大陸』では、第一次越冬隊のなかで重きをなした人物がタロとジロの生存を確認しますが、この人物のモデルである菊池徹氏は第三次南極観測隊には同行していません。
ですので、高倉健さん(『南極物語』潮田暁)や木村拓哉さん(『南極大陸』倉持岳志)が、2頭と再会するのはフィクションです。
実際に再会した北村泰一氏は、『南極大陸』で山本裕典さんが演じていた犬塚夏男のモデルですので、あの若い犬かかりの青年が、2頭との再会を果たしたことになるのです。

『どんつき瓦版』第29号発行

2012年01月11日 | その他
2010年末に、井伊直政生誕450年を記念した第28号を発行して以来、約1年の期間が空きましたが、第29号を発行いたしました。

基本的には不定期発行ですので、あまり期間は考えずに発行してはいますが、2011年の東日本大震災発生を受け、編集長は被災地に向かいその地にて支援ボランティア活動を行っております。
今号は、大地震の特集です。

編集長自身が記す被災地

管理人がまとめた、滋賀県に関わる地震の歴史

そして編集長が、気仙沼市本吉町でミニコミ紙『すきまかぜ』を発刊して、月に2回全戸訪問配布しているという活動の経緯も掲載しています。

目にできるチャンスは少ないかもしれませんが、何かの折に触れられた方は是非ご一読ください。




二年越しの彦根城

2012年01月01日 | 彦根城
大晦日には、時報鐘で除夜の鐘が打てますので彦根城に向かいました。
23時に鐘の音が響き始めます。
夜ですので、大手門橋は、暗くなっていて、

博物館の前には、お正月飾りがされていました。

時報鐘には多くの人が集まっていました。

しばらく並ぶと、鐘に近付きます…

時報鐘は、2代藩主井伊直孝の時に、嫡男の直滋が鐘の音が城下に響くようにと、彦根城の天守に近い高い場所に設置しました。ですので天守がよく見えます。

直滋の設置した後、12代藩主直亮(井伊直弼の兄)が鐘の音をきれいに響かせるために鋳造時に黄金を大量に溶かした鐘を作らせます。こうして鐘の音は評判になり、現代でも日本の音風景百選に選ばれるくらいの鐘になったのです。

前の人の突く姿をちょっと撮影。いい感じの動きですね…

彦根市民が集まるイベントの一つでもありますので、普通は除夜の鐘は108回ですが、ここでは集まった市民が全員打てるようにして下さっていて、108を越えても響き続けます。
そしてこぶ茶をふるまってもくれましたよ。

そのまま本丸まで登ると、目の前に天守が観えます。

そんなことをしているうちに年明け。

彦根城天守の麓で二年越しとは、彦根の歴史を伝える者として身が引き締まる思いです。


ご存知の方もおられるでしょうが、『どんつき瓦版』は、特別な事情により数年の間紙面発行が極端に減っております。
1月中には、29号を発行予定ですが、その後はまた紙面発行が少なくなるとは思いますが、このブログなどでの活動は続いておりますので、2012年もよろしくお願いいたします。