彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

12月28日、南都焼討

2011年12月28日 | 何の日?
2012年の大河ドラマ『平清盛』に関わるお話


治承4年(1180)12月28日、平重衡が奈良の寺院を焼き討ちにしました。

この年の10月23日、平家は富士川の戦いで鳥の羽音に驚いて戦わずに逃げ帰るという醜態を晒します。この少し前には、近江では近江源氏による反平家活動に寺社勢力が加担し寺社勢力の代表とも目されていた園城寺(三井寺)は5月27日に平家によって焼き討ちされますが、その近江での動きに奈良の興福寺も同調していたのです。

興福寺の活動は、富士川の戦いに敗れた平家にとっては脅威に映りました。そして和平の使者も受け入れようとせず、大きな毬打ちの玉を平相国(清盛)の頭と呼んで打ったり蹴ったりしていました。
それでも清盛はもう一度使者をつかわし、その使者に「相手がどのような態度に出ても武装するな」と命じて行かせます。興福寺方はこの使者一行を捕えて首を刎ね、猿沢池の畔に並べたのです。

清盛は怒って、五男の重衡に4万の兵を与えて奈良に攻め入りました。
興福寺勢力7000は歩兵であるのに対し、平家は騎兵だったために、平家が有利に進めました。卯の刻(午前6時頃)に始まった戦いでは奈良坂と般若寺の2か所を城塞化していた興福寺勢力に平家が攻めかかる形でしたが、1日で決着がついてしまったのです。

夜になって般若寺の門前に立った重衡が火を付けるように命じます。
その火が風に乗って類焼し、千人近い民衆が逃げ込んでいた東大寺大仏殿まで焼いてしまったのです。大仏は身体が溶けて首が下に落ちたのでした。

そして興福寺も火に包まれたのです。
この時に犠牲になった人は4500人余りであったといわれています。


翌日、重衡が帰京し清盛は喜び、後白河法皇や高倉上皇などは「たとえ悪僧でも、寺院を破壊していい物ではない」と嘆いたのです。


これが『平家物語』に記されている南都焼討の概要です。
元々は大仏殿まで焼く予定ではなく、あくまで武装した僧たちが籠る場所のみを焼く予定だったようですが、乾燥した時期だったこともあり、予想以上の被害になったと考えられるのです。
こののち、一ノ谷の戦いで源氏に捕えられた重衡は、鎌倉に送られ平家滅亡後に南都勢力によって引き渡しが要求され、拒みきれなかった源頼朝は引き渡しに応じたために、不破の関で首を斬られるのです。

東京訪問記7:南極観測船 宗谷

2011年12月18日 | 史跡
東京タワーと並んで、戦後日本の大きな事業といえば南極観測です。日本は敗戦国でありながら南極元年といわれる昭和31年には南極観測で世界と一緒に動き出したのです。

この詳しい内容についてはTVドラマ『南極大陸』や映画『南極物語』でも語られていますね。
そんな南極観測の為に選ばれた観測船が“宗谷”でした。そして南極観測船宗谷は今もお台場の海に係留されています。
外観はもちろんのこと、中も観ることができるのです。

あまり細かい説明よりも写真をたくさんアップしておきます。


  

 



 



   

 

 

 

  

 

 


昭和31年は、国際南極観測年に制定されていて、日本から初めて南極観測隊が出発する事になったのです。この為には南極観測船が必要となりました。
しかし、当時の日本に南極観測船を新改造するほどの経済力はなく、既に使用されている船の中から条件を絞りながら観測船を決定するしかなかったのです。

宗谷は元々昭和11年にソビエト連邦の依頼で建造された対氷型貨物船でした。昭和13年に進水が行われましたが、第二次世界大戦を前に国際情勢が混乱し、日本とソビエトとの関係が微妙な情勢であった為に引き渡しがなかなか進まず、昭和15年に帝国海軍が買い取ってしまったのです。
この段階まで民間貨物船だった船が、帝国海軍の軍籍船となり、石川島造船所で戦前の技術を使った改装が行われ、ここでやっと「宗谷」という名前が付けられたのです。
今でもお台場で見学できる宗谷は日本帝国海軍に所属した船の貴重な現存資料とも言えるのです。

第二次大戦中は、ミッドウェー海戦などの海戦を転戦し、奇跡的に沈まず(というか。沈まなかったから残ってるとも言えますが…)、敵の潜水艦を沈めた事もあったそうです。
厳しい戦争に生き抜いたからこそ、まだ戦争を経験した隊員も多かったであろう南極観測隊の隊員にとっては戦友との再会と再び戦いに行くような覚悟があったように思います。

こうして、宗谷は第一次南極観測隊を乗せて南極の氷を砕きながら進み、昭和基地建造に至る南極観測の最初の功績を助けたのです。
タロ・ジロの二匹の犬が生存した時のエピソードでもよく耳にします。

宗谷は、昭和53年まで各方面で活躍し続けた船なのです。


ちなみに、第一次越冬隊隊長となった西堀榮三郎の記念館が滋賀県東近江市にあります。
榮三郎の祖父が近江商人で、この地の出身だった縁です。

建物は船を模っていて、タロとジロの像もあります。

西堀榮三郎という人物は、南極だけではなく、チョモランマなどにも行きますし、経営にも大きな影響を残した人物でした。

今は南極で注目されていますが、もっともっと面白さを感じて欲しい人物です。
でも南極の展示もよく行われていますので、滋賀にお越しの折は寄って欲しいです。


  

草津宮前遺跡の八稜鏡

2011年12月18日 | 史跡
奈良からそのまま草津まで戻って、平安末期の遺構である宮前遺跡で発見された八稜鏡の説明を聞きました。

ただの鑑ならそれほど珍しい物ではないのですが、柱穴の中から出土したということで注目されています。
柱を抜いた後に、柱穴を埋める過程で敢て置かれた鏡なのだそうです。それは土地の浄化などの祭事的、宗教的な意味があるのか?これからの研究課題なのだそうです。

また、鏡が埋められたとほぼ同時期の木棺の埋葬跡も見つかっていて、副葬品には当時では珍しい中国からの器があったそうです。

この地域にいた権力者なのか?その人物の埋葬と八稜鏡が関係あるのか?

歴史のロマンがここにもありました。

磐余池の堤跡 現地見学会

2011年12月17日 | 史跡
『日本書紀』に記された人工池“磐余池(いわれいけ)”に使われたと思われる堤防の跡が発見されたとのことでしたので、現地見学に行くことにしました。

場所は、天香具山の麓になります。
天香具山といえば、すぐ近くには藤原京跡もありますので、ちょっと寄り道しました。





史跡を残すために広い敷地が使われているのも、歴史が奥深い奈良県ならではかもしれません。

そして藤原京から天香具山を越えたところが、今回の見学場所である磐余池です。
今は田畑が広がっていますが、飛鳥時代にはここに大きな人工池がありました。

人口池は、堤防を造って水を堰き止める必要があります、そしてその磐余池の堤防に所に聖徳太子の父親である用明天皇が宮殿を設けた記述もあるのです。

今回の発掘では、堤防の跡と掘立柱の塀に囲まれた大きな壁の建物跡も見つかっています。
・深さ3.2mの堤防跡

・掘立柱の跡(杭は、観た人がわかり易いように立てておられたもの)

・大壁建物跡


磐余池は、大津皇子の辞世の句「ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ」にも登場する場所ですので、今回の発見は、聖徳太子以前の歴史と太子よりあとの『万葉集』の時代を垣間見る大きな手掛かりになるようです。

今回は。現地説明ではなく見学会だったので、専門的なお話を聞くことはありませんでしたが、今後の成果も楽しみですよね。

12月17日、三十三間堂落慶

2011年12月17日 | 何の日?
長寛2年(1164)12月17日、蓮華王院(三十三間堂)が完成し落慶法要が行われました。



ここには、もともと後白河法皇が院政を行っていた法住寺殿がありましたが、ここに法皇の権力を示すための寺院として建立されたのが蓮華王院だったのです。

このころはお互いに協力し合う仲だった平清盛が建立の一切を差配し、後白河法皇に献上したのです。
建立当時は五重塔もあったそうですが残念ながら鎌倉時代に火災で焼失して、17年後に再建された本堂のみが現在に伝わっています。

さて、三十三間堂を、なぜ後白河法皇は自らの力で建立せずに清盛に造らせたのでしょうか?
実は、摂関政治の時代からの悪癖があったからなのです。
これは、管理人の自説ではなく、井沢元彦さんの説を支持している話ですが、藤原氏は三世一身法・墾田永年私財法を短い間隔で発布することによって自らの荘園を広げることに成功します。そして荘園で収める物を公田よりも安い割合にすることで荘園は拡大し、荘園には“不輸の権”“不入の権”が認められたために、公田は荒れてしまい荒れた土地を開墾すれば墾田永年私財法によって私財となり荘園化するという仕組みで、どんどんと天皇の収入である公田が減って、藤原氏の私的財産である荘園が拡大したのです。
その象徴として、黒澤明監督の『羅城門』に登場する門は都の正門であり、10円玉に描かれた平等院鳳凰堂は藤原氏の別荘であり、それが同じ時代の建物になるのです。
つまり、国家の正門は荒れ果てて家がない人が住む場所になっていて盗賊が出る場所であり、私的な別荘がこの世の極楽を表した場所になるのです。


平清盛の父である忠盛も、そんな制度と地方に赴任する制度を利用して主に西国を中心に材と基盤を築いた人物で、清盛はそれを受け継いでいたのです。
そしてそこで得た利益を朝廷に還元して、その分だけ出世を重ねました。

だからこそ、蓮華王院も清盛が建立し、後白河法皇に献上されるという構図ができあがったのです。

東京訪問記6:本所界隈

2011年12月14日 | 史跡
東京タワーを観た。
次に観なくてはいけないのは、そう東京スカイツリー

完全におのぼりさん状態でスカイツリーの下まで行きました。
移動中のタクシーの運転手さん曰く「スカイツリーも確かに凄いけど、敗戦で東京がまだ焼け野原だった時に、東京タワーを作ろうと考えて、昭和33年のあの時に作ったのが凄いんだ。エッフェル塔の真似だとかいわれるけど、時代的にも経済的にも意味がまったく違う」と力説しておられて、「さもありなん」と納得してしまいました。

そしてスカイツリー

曇りだと、先まで見えません。さすが634m
麓のそば処“かみむら”さんでの名物タワー丼。お土産にタワー丼ストラップも売っているほどに大盛況。

海老はすぐに倒れるから、写真撮るなら早くにね。って言われたので慌てて撮影して、美味しく頂きました♪


最新の歴史と言いますか、まだ未来の話を垣間見たようなあとは、近辺の歴史散策。
回向院に向かいました。

近くに両国国技館があるように、ここは相撲関係の地でもあります。ですから相撲関係者の碑も多くあります。

それと同時に、江戸歌舞伎発祥の地でもあり、猿若(中村)勧三郎の墓

竹本義太夫の墓もあります。


そして歌舞伎でも演目になような有名人が鼠小僧次郎吉です。そのお墓もここです。

勝負事に勝てるそうで、墓石を削る習慣があり、今は墓の前に削るようの墓石が据えられています。
不思議なのは、鼠の横に猫の墓があることです。

招き猫発祥の地といえば、井伊家の菩提寺である世田谷の豪徳寺が有名ですが、ここも主人の為に二両を盗んで殺されてしまった猫を葬っていて、招き猫発祥の地になっているそうです。


そんな回向院をでて周辺を散策すると、ここは芥川龍之介が育った町になるそうです。

龍之介の文学碑もありました。

文学碑の横には、日露戦争で戦ったという駆逐艦「不知火」の碇が置いてありました。

龍之介が海軍の学校で教師をしていたこととは…関係なさそうですね。
でも、日露戦争で日本が勝てたのは、海軍の力は大きく関係します。その海軍を日本に作った人物の一人と言っていいのは勝海舟ですが、勝海舟が生まれたのもこの近くだったようです。



これだけでも充分歴史が濃い場所なのですが、本所松坂町といえばもう一つ大きな歴史的事件の舞台になった場所です。今日(正確には15日ですが…)12月14日にあった大きな事件吉良邸討ち入りの現場です。
今はその一角が保存されています。

首洗い井戸の再現

吉良上野介の像

などがあります。

ここに訪問した時に、どこかの観光客の集団がきていて、吉良さんが炭小屋に逃れて、探すのに時間がかかった。とガイドのような方が説明しておられたのが悲しくなりました。
もっと吉良上野介さんをちゃんと顕彰して欲しいと思いました。


さて、次は東京タワーと並ぶ戦後日本を復興に導いた大きなプロジェクトの象徴を訪れます。

東京訪問記5:増上寺(江の墓所)

2011年12月13日 | 史跡
少し間が空いてしまいましたが、11月東京訪問報告の続きです。


江戸城訪問を終えて、外桜田門を出た辺りでタクシーを拾って増上寺へ向かいました。

増上寺は、寛永寺と共に徳川将軍家の菩提寺だったお寺です。そして『江~姫たちの戦国~』放送に伴って、徳川家墓所の一般公開が行われていました。
普段ならば年に一度しか公開されない場所ですから、とても貴重です。

これと同時に山門も公開されていましたが、まだまだ行く場所があったので今回はパスしました。

山門を抜け、本堂へ向かいます。向かって右手に東京タワーが見えます。

そして、本堂の裏に徳川家の墓所があります。

普段なら閉ざされたままの門の脇から入ります。

さすが、徳川家の墓所の門です、裏も細工が細かいです。

中は、大河ドラマ人気もあって、お客さんが多くで入りされていました。

行ってみると狭いように感じますが、もともとはもっと広い場所でした。東京大空襲までは、それぞれに立派な霊廟があったのですが、空襲で焼けてしまいます。
そして昭和33年に開業した東京タワーに敷地を譲ったために、墓所は大きく削られてしまったのです。
この時に、墓所の発掘調査が行われて、多くのことがわかりましたが、それは別の話。

今回は、江の墓所が目的なのでまずは覗いてみます。

江は、夫の秀忠と合祀されていました。この石塔の元々の主は江だったのですが、秀忠の墓所は墓地削減になってしまったので合祀されました。
発掘調査では、秀忠は位牌くらいの大きさの木片を持っていて、棺を開けた途端に木片は屑になってしまったといわれています。これは何だったのか?歴史の謎です。

ここには、戦火で焼ける前の江の霊廟の写真も飾られていましたので、行ける方は行って確認してみてください。本当に立派だったようです。


そして、この墓所には、何人かの徳川将軍の墓もあります。
・黒船来航時の将軍12代家慶

・能力の発達に難があったという9代家重

・若くして亡くなった徳川宗家最後の将軍7代家継

・その父親の6代家宣


また、幕末の公武合体で知られる14代家茂

その正室皇女和宮

の2基も並んで立っています。和宮も束帯姿の男性の写真を持ったまま葬られていましたが、その写真は1晩にして消え去ったという話がありますし、左手首より先が無かったのもこの時にわかった話です。

これ以外の関係者はひとつに合祀されていました。

ですから、江と和宮がどれだけ特別な女性だったのかがわかりますね。


さて、最初にも書いた通り、ここは東京タワーの麓です。

この姿を観たならば比較の為に次に向かう場所は一か所しかありませんね。

『平清盛』関連地巡り(一部『江~姫たちの戦国~』関連地)

2011年12月11日 | 史跡
西三条第現地説明会に行った帰りに、来年の大河ドラマ先取りで『平清盛』関連地を少し巡ってみました。

まずは、清盛が自家の財力で建立して後白河法皇に寄進した蓮華王院(三十三間堂)です。

ここの裏側は、通し矢で有名ですが、壁を観ると幾つもの矢の跡があり、失敗という上達には欠かせない試練の歴史が刻まれています。

南側には豊臣秀吉が方広寺を建立する時にここも境内とする証として作った塀と門が残されています。
“太閤塀”

“南大門”

今が盛りと紅葉が美しく、敷地の紅葉が映えていました。

手水鉢も、季節を賄ってくれています。


さて、豊臣政権下では方広寺の境内に組み込まれましたが、清盛の時代は後白河法皇が院政を行っていた法住寺殿の中に建立されたものでした。

しかし、源平騒乱で木曽義仲が火矢を射て炎上します。これは後白河院政の終焉をも意味しました。今は敷地の一角に源頼朝が再建した法住寺が建立されています。



ここで一旦『平清盛』を離れて2011年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』の関連地。
法住寺のお隣に建つのは養源院。茶々が浅井長政の21回忌に建立し、火災で焼失した後に江が再建したお寺です。

この再建時に、伏見城の木材を天井に使いました。そこには関ヶ原の戦いの前哨戦として行われた伏見城の戦いで自害した鳥居元忠らの自害の痕跡が残っています。
そして境内には茶々の墓がありますが、近くまで行くことはできませんでした。

続いては、三十三間堂を境内に組み込んだ方広寺に行きました。
この寺は、秀吉が刀狩で集めた資材を利用して大仏を鋳造しようとした場所です。その大仏殿の為に巨石が運ばれました。

結局、金属の大仏は難しく木像になったのですが、大地震で倒壊します。倒壊した報せを聞いた秀吉は急いで駆け付けて、大仏を役立たずと罵った後に額に矢を打ち込みました。
大地震の被害を秀吉自身の政治力不足に責任を負うのではなく、大仏に瞬時に転嫁した政治力とパフォーマンスの賜物のエピソードだと思います。
そんな方広寺は、秀吉の死後に豊臣家を滅亡させる原因を作ることでも有名です。それがここの鐘です。

“国家安康”“君臣豊楽”
この鐘が現存していることこそが、このエピソードが家康の言いがかりだった証ですよね。
またお寺の近くには豊国神社があり、朝鮮の役で秀吉が運ばせた耳や鼻を埋めた耳塚も近くにあります。



ここからはまた『平清盛』のお話。
清盛邸があったのは六波羅といわれていて、今は六波羅密寺が建っている辺りです。
鎌倉時代には六波羅探題も置かれていました。

この近くにある六道珍皇寺は、清盛を荼毘に付した地とされています。

それと同時に有名なのは小野篁の伝承かもしれません。篁は昼は朝廷に仕え、夜は地獄で閻魔大王に仕えた人物で、その時に地獄との行き来をした井戸が残っています。

ちなみに小野小町は篁の子孫といわれていますし、伝承では篁の死より100年ほど後に『源氏物語』を書いて人々に嘘を伝えた紫式部が地獄に落ちたのを閻魔大王にとりなして救ったのが篁だと言われています。

ここで陽が落ち始めて、そろそろ訪問も終わりの時間です。
あとは、建仁寺の勅使門に行ってみました。

六波羅邸から移築した、平家遺構の一つとの伝承があります。

そんな建仁寺の末寺の一つが摩支利天を祀っています。
戦国武将には勝負の神として信仰を集めていた神様です。

猪が多くあり、猪のおみくじがありました。

引いてみると、小吉。
あせらず静かに身を守って進みましょう。とのことでした。

西三条第発掘現地説明会

2011年12月10日 | 史跡
藤原良房の弟で、応天門炎上事件で素早く兵を動かした人物でもある藤原良相の邸宅“西三条邸(西京第)”が特定されたというニュースが飛び込んできました。
それも、推測での話ではなく、ちゃんとした文字史料まで出てきたそうですから、行かねばなりません。現地説明会に参加しました。

場所は、JR二条駅西口すぐです。
発掘現場の向こうに見える丸い屋根が駅です、駅から駅前ロータリーを挟んだ場所が現地でした。

今回は仏教大学のキャンパス建築による調査だったために、広大な場所が掘られていました。

そんな発掘でとくに注目されたのが、池の部分です。

この時代に大きな池を屋敷内に構えていることも珍しいのですが、池の中に2石の礎石が見つかります。

池の上に建物が建っていたことを示す礎石、それはここに釣殿があったことを予測させたそうですが、この周辺から池に投げ捨てられたと見られる遺物が多く出土します。

それは、小さな器だったり(携帯は、大きさを示すための比較対象です)

中国からの青磁や白磁だったり、水晶を使った碁石だったそうです。


そして、今回の大きな発見につながったのが、“三条院釣殿高杯”と書かれた土器片です。

また“政所”と書かれた物も見つかりました。

現地で確認したところ、この屋敷には、良相の姉で仁明天皇の皇后だった藤原順子が一年ほど滞在していたことがあり、そのために屋敷の人々は誇りを持って“院”を使っていたのだと思うとのことでした。(そうでなければ、院号を家臣が使うのは不敬にあたります)。
しかし、周囲から見れば藤原良相の屋敷でしかないので西三条第と“第”の呼び方が歴史上に残ったようです。

西三条第は、藤原良相が亡くなった後の消息は不明だったのですが、これらの遺物が釣殿辺りの池の中から多く見つかったことと、良相の子孫がこののちは下級役人にしかなっていないこと考慮すると、良相没後に一族は屋敷を追われて、その時に持って行けない物をゴミとして池の中に投棄したとも考えられるそうです。
そうなれば、院の字が付いている物を捨てるのは不敬ではないのか?と、また不敬の疑問がよぎったのですが、これを聞くと、「その家の者は院でも、他の人にはそうではないので」との答えでした。
そう考えると、池に投棄したのは藤原良相の関係者ではなく他の人(たとえば政敵だった)のでしょうかね?
疑問はますます深まります。

しかし、これによって歴史の謎の一つが解明したことになります。

『江・浅井三姉妹博覧会』最終日と周辺史跡訪問

2011年12月04日 | イベント
大河ドラマの所縁の地イベントとなる『江・浅井三姉妹博覧会』も最終日を迎えることになったので、前売りチケットを買ったまま行かず終いでは申し訳ないと思い訪問しました。

今年は一度も行かなかったわけではなく、このイベントのオープニングセレモニーは見学に行っていて、最前列で時任三郎さんを観ていたのですが、この時はお昼から別の予定があったので展示の見学はせず、そのままずるずると…

まさか、最初と最後の日に見学するとは思いませんでした。
最初に、小谷城戦国歴史資料館を訪問、ここは何度か来ているのですが、今日から浅井亮政にゆかりがある弥勒寺旧本尊が石山寺から里帰り展示がされているとのことでそこは興味深かったです。
撮影禁止ですので、せめてカラーの資料か絵葉書くらいの販売があると資料として嬉しかったのですが、ちょっと残念です。でも珍しいことなので、11日までの短い期間ではありますが見学の価値はありますよ。

その後は小谷・江ふるさと館に移動。
外側の囲いは戦国風にしてるんですね。

ジオラマに大河撮影場所が記録しているのが面白いです。

本当はこのまま小谷城に登城するといいケースなのでしょうが、それは今回の予定ではないのでパスしました。

この近くには小谷寺があるので寄ることにしました。
実は、小谷城は登ったことはあっても小谷寺に行くのは初めてです。

聖武天皇の御代に小谷山に開山し、浅井亮政がここに移築、小谷の戦火で焼けて(小谷城が燃えていないのになぜ?)、羽柴秀吉が長浜城主時代に再建、現在に至るそうです。
本堂の裏を登ると、浅井長政の供養塔があります。

こういう時には、刻まれた言葉を確認したくなるのですが、そこには天正元年9月1日に亡くなったことと、明治44年に建立されたことが刻まれていました。

今では、小和田先生の説が認められて9月1日に長政が亡くなった説が主流になりつつありますが、それまでは8月28日が主流でした。僕も『信長公記』の記載から8月28日に歴史話で浅井家滅亡を書いています(小和田先生に反対意見ではなく、昔の主流に準じて書きました)。
それが、明治44年の段階で9月1日となっていたことが驚きでした。管理人にとっては大きな収穫です。

続いては、浅井・江ドラマ館に行きました。
ここは凄く混んでいたのですが、中に入るとドラマ衣装や小道具の展示でした。
長浜城や曳山博物館は、別の時にあった展示を観たいがために使ったので、これでチケットは使えました。
見学できてよかったです。

こののちは史跡見学。

近くの実宰院に行きます。以前訪問した時に本堂の中に入らなかったので、今回は声をかけて入れさせていただきました。



ここは、浅井長政の姉である昌安見久尼が復興させたお寺で、小谷落城の折にお市や三姉妹がここに逃れ保護されたといわれています。
昌安見久尼は身長170センチ体重105キロとも言われた当時としては大女で、三姉妹を袈裟の中に隠して織田の兵から守ったとの伝承もあるのです。
そんな風に浅井家との縁が深く、後に茶々が秀吉の側室になったこともあり豊臣家からの知行も受けていました。
そして昌安見久尼の像の横には徳川家の位牌もあります。

本堂の裏には墓もあり、この地での浅井家の姫たちの行方を見守ったのでしょうね。

ここで、ご住職にお話を聞いていて、お市や三姉妹と共に城を脱出した侍女盛秀の墓が近くにあると聞き、移動しました。

その場所は五先賢の館の向かいとのことでした。

お墓に「盛」「秀」「天正元年四月」と刻まれているそうですが、小谷城落城が9月なので4月では時期が合いませんから、まだまだ研究の余地はあるみたいですね。

ここにこられていたお客さんが歴史好きな方で、小堀遠州や片桐且元について話せてたにもいい時間になりました。