彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城周辺史跡スポット:「井伊の腰掛石」

2006年07月30日 | 史跡
江戸時代、現在の彦根市平田町大沢の近辺は、その名前が示している通りの場所でした。

その為、藩主の鷹狩の場となっていたのです。
そんな藩主達が狩りの時に休息をするために腰を降ろした大石が「井伊の腰掛石」です。

ベルロードを進んでいると平田町内に「鳴宮天満宮」という本当に小さな神社があります。
この鳴宮天満宮は正式には“大沢鳴宮天満宮”といい、天保15(1844)年に雨壺山(平田山)の平田鳴宮天満宮から分身され祀られています。

境内と言うにも小さい敷地に中に置かれた大石は、その敷地内に大沢会館が建っている事もあり、子ども達の遊び場にもなっているんですよ(と言いますか、管理人は子どもの頃に何度も腰掛石に乗って遊んでました・汗)。

彦根城周辺史跡スポット:「明照寺」

2006年07月28日 | 史跡
明照寺の笠塚


俳人・松尾芭蕉は『奥の細道』の影響で東北や北陸の句を多く詠んだイメージがありますが、一番愛した国は私達の住む近江でした。
その芭蕉が詠んだ句に「行く春を 近江の人と 惜しみける」というモノがあります。
この句は、その近江好きを表した代表作で、それを目にした司馬遼太郎に影響を与え、司馬遼太郎すら近江ファンにしてしまったと言うエピソードが残っています。
そして、ライフワークとなる『街道をゆく』が執筆されたのです。

そんな芭蕉が愛しただけあり、近江には多くの門人が居ました、代表的な人物は芭蕉の優れた弟子・芭蕉十哲の一人に挙げられる彦根藩士・森川許六です。
許六は彦根のあっちこっちでその業績を残している人ですが、この奇妙な名前の由来は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六つの芸に通じていて、芭蕉から許六と言う名前を与えられたと伝わっています。
また許六以外にも、市内平田町の明照寺・14代目住職・李由も有名です。

芭蕉は1591年秋に大津から江戸に向かう途中で明照寺に立ち寄りました。
この時、近くの農家を眺めて芭蕉が詠んだのが
「稲こきの 姥(うば)もめでたし 菊の花」
という句です、菊は長寿の象徴として用いられ、老婆の健康で元気な姿を微笑ましく感じる事が出来ますね。
また、明照寺は庭園も有名で、その庭園を見て
「百歳(ももとせ)の 気色(けしき)を庭の 落葉かな」
という句も残っていて、この歌は句碑として残っています。
この句碑は、“笠塚”という名前で紹介されています。これは、芭蕉没後に李由が形見分けとして芭蕉の渋笠を貰いうけ、これを埋めた事を示す物なのですよ。

明照寺は、古い歴史のわりには意外なほど新しい建物を構えたお寺で、広い空間の中で時間が止まった様にも感じられます。
俳人・松尾芭蕉や李由に思いを馳せて一句ひねってみるのもいいかも知れませんね。

彦根城周辺史跡スポット:「覚勝寺」

2006年07月23日 | 史跡
長く続く雨、そこでふっと思い出した彦根の昔話とその舞台をご紹介しましょう。


『絵から抜け出した仏様』

むかしむかしの事、犬上川は、大雨が降る度に堤防が切れて、近くの家だけではなく田んぼや畑の作物も被害を受けて、人々は大変困っていました。

村人は、なんとか大水から村を守ろうと、
「堤防がきれないように」
「大雨が降らないように」
と、仏様に一心に祈りました。

そして、今の開出今町にある覚勝寺(かくしょうじ)のお坊様の永尊(えいそん)や、庄屋の西空(さいくう)が中心になって、頑丈な堤防を作る事になったのです。
工事が始ると、永尊や西空は村人の先頭に立って、一生懸命働きました。そのお蔭で工事は順調に進み、堤防が完成したのです。
「これで大雨が降っても、大丈夫」
と、村人達は安心しました。

ところが、ある年、幾日も幾日も大雨が続き、犬上川の水は、どんどん増えていきました。今にも堤防が切れそうです。
村人は、慌てて大雨の中を、蓑や笠を被って、土嚢や大きな石を積んで、村を守るために頑張りました。
するとその時、どこから現れたのか見慣れないお坊様が二人、雨の中をずぶ濡れになりながら一生懸命働いていらっしゃいました。
しかし、村人達は、堤防をま守る事に夢中で、二人の存在をあまり心に止めませんでした。

日が明ける頃、ひどかった大雨も、段々と小降りになりました。そして、堤防は切れずに済みました。
「よかった。よかった」
と、村人達は喜び合いました。
やがて、一人の村人が、不思議な光景を目にしました。
覚勝寺の縁側に草鞋の跡が点々と続いていたのです。
「これは、一体どうした事だ?」
草鞋の跡を辿って行くと、それは、
二人の仏様の絵の所まで続いていました。
そして不思議な事に、その絵はしっとりと濡れていました。
「夕べの雨の中、自分達を助けて働いて下さったお坊様は、この絵から抜け出したお二人だったんだ」
「ありがたいことだ」
と、村人は、お二人の絵の前に膝を着き、手を合わせて深く祈りお礼を言いました。
それからも、犬上川は何度も堤防が切れるような被害を出す事がありましたが、この辺りは、あまり酷い被害を受けずに済みました。
人々は、その度に、絵から抜け出た仏様のお蔭だと言って、心からの感謝を忘れませんでした。

彦根の市街地から巡礼街道を南に向かい、犬上川の橋を越えて一つ目の信号を琵琶湖方面に向かってすぐに覚勝寺があります。境内はこんな昔話を残しているとは思えないほど清閑な空間に、親鸞上人の像が参拝者を迎えてくれます。
本当に静かなお寺ですが、地元の人が心の拠り所にしてきた歴史を感じられるかもしれません、また境内に昔使われていたと思える大きな鬼瓦が置かれているのですが、普段屋根に乗って大きさが分からない物なだけに、目の前にあるとその大きさに驚きます
彦根市内のでも犬上川は特に水害の多かった川だったらしく、少し上流の甘呂町でも『お丸』という女性が人柱になった話が残り、江州音頭の一節にもなっているので、またここに書いてみたいと思います。

彦根屏風

2006年07月12日 | 博物館展示
彦根屏風は正式名称を『紙本金地著色風俗図(しほん・きんじ・ちゃくしょく・ふうぞくず)』といい6面の屏風で構成されています。

寛永年間と言いますから、江戸幕府三代将軍・徳川家光の時代に描かれた当時の風俗を知る文化資料ともなっています。作者は狩野派の画家と言われていますが誰の作品なのかは確定されていません。

しかし、向かって左側は室内の様子が描かれ、右側が室外の様子を描かれる構図や、登場する人物達の生き生きとした表情・三味線や双六を楽しむ様子・恋文を書く女性などの個々にしつこすぎず、全てを含めて一服の絵となっているんですよ。
そして、じっくり見るとタバコや西洋犬も登場していて、鎖国政策の下でも外来品が生活の一部だった事実までを教えてくれるんですよ。

ちなみに、彦根屏風と言う俗称が付いている事から、彦根の風景だと思われがちですが、これは代々井伊家に伝わった事からこの呼び名が付いただけで、京都の遊里・六条三筋町の様子だという説が有力視されています。

また、この作品一枚で、少女が持つかしわ椿が春・着物の芭蕉の柄が夏・若い侍の着物の桔梗が秋・犬を連れた女性の着物の雪模様が冬と四季も表しているんです。

彦根屏風と呼ばれながらも、実は今は屏風から外されているんです、そこで、2006年から本来の屏風の姿に戻し修復する作業が行われ国宝彦根城築城400年祭で公開されるんです。

ちなみに、彦根屏風も国宝なんですよ。

埋木舎

2006年07月07日 | 彦根城
今では埋木舎といえば、井伊直弼とすぐに連想されるくらいに有名な建物ですね。

元々は控屋敷と呼ばれていて、以前築城時の人柱の話を書いた時に菊という女性が保護されていたのも控屋敷でしたよね。

藩主の子どもが住むにしては狭すぎる建物に小さな庭、そしてお城の旧中堀の外にあると言う条件が、嫌が上でも城から隔離された気分をかもし出しています。
直弼は、父・直中が亡くなった17歳から兄・直亮に後継ぎに任命される32歳までの青年時代を300俵という捨扶持を与えられてここで過ごしました。

井伊家では無用な跡目争いで藩内が揉めないように、嫡子以外の子どもは家臣や他家に養子に出す制度がとられていた為に、養子の先が無かった直弼は父が亡くなった後、ここに住むこととなったのです。
その頃は控屋敷と呼ばれて居たのですが、わが身を振り返った直弼が
「世の中を よそに見つつも うもれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」と詠み、この詩から“埋木舎”と呼ばれるようになったのです。

直弼がここで過ごした15年間に、居合術や茶道では一派を立てる腕となり、禅も名人の域に達します。また国学は長野主膳・蘭学は中川漁村に学び、後に大老に就任した時に大いに役に立ったのです。

さてさて、300俵の捨扶持を与えられた直弼ですが、それはどれくらいだったんでしょうか?
まずこの300俵は年収です。
2.5俵が1石です、1石は1人が1年に食べる米の量で、時代によって変わりますが金1両に相当するそうです。
ですから300俵÷2.5=120石
1両は今のお金で4万円から16万円とバラバラですが、平均10万とするのが普通なので、120石=120両×10万=1200万円
結構多いですよね~
でも、ここから家臣や使用人への給料を払わないといけませんし、藩主の親族としての権威も保たなければいけませんので、実はギリギリの生活だったんですよ

今の私たちは、転職や引っ越しの自由も許されていますが、それも許されない時代に先の事も解からずただ虚しく毎日を過ごす辛さが埋木舎には籠もっているんです。

彦根城周辺史跡スポット:「寺子屋 力石」

2006年07月01日 | 史跡
今回は、江戸時代の勉強についてご紹介しましょう。
寺子屋という言葉を知っていますか? 何か昔、テストに出るかもしれないと思って覚えた記憶がある単語ですよね、これは江戸時代の庶民の教育機関でした。

寺子屋には、男の子で7~8歳、女の子で6歳くらいから通い始め、5~9年で卒業(って言うのかな?)するそうです。授業のメインは読み・書き・ソロバン。女の子には裁縫なども教えていました。
先生となるのは、町人が殆んどでしたが、武士や僧侶・医者などの特別な職業の人も居たそうですよ。

先ほど、授業の内容は読み・書き・ソロバンと書きましたが、当時の印刷作業は全てが手作業だったため、本はとっても貴重な物で、大名屋敷では火事になった時に最初に持ち出すのが家宝よりも先に本だった程です。
そんな本を読む技能が、庶民の子どもになぜ必要だったんでしょうか?
実は、日本人ほど本が好きな民族は他に例を見ないからなんです、今でも、儒教の影響が強い一部の国を除くと日本以外の国で作家を名乗り、自分の出版した本を見せたならば、それだけで尊敬の眼差しを受けることとなります。
しかし、日本ではプロ・アマを問わず作家やそのタマゴの方は案外多く、メインの仕事の片手間に本をかかれる方も居るくらい身近なモノなのです(実際、管理人も他の事をしながら小説を書いたりしていますし…)。

江戸時代でも、堅いばかりの専門書だけではなく、例えば『南総里見八犬伝』や『東海道中膝栗毛』のような娯楽本が沢山書かれました。
そんな娯楽本でも貴重な本である事には変わりありませんが、一般の人たちは簡単に読む事が出来たのです。
それは、貸本屋というシステムでした。貸本屋は本の宅配業者で、風呂屋や床屋など人が集まる場所に本を置いて、時々交換していたのです。
本があれば、それを読みたいのが人情。こうして庶民は読む事を学び、読めれば書けるので習字も寺小屋で教えたのでした。

寺小屋精度は結果的にその後の日本の歴史に大きな足跡を残す事になります。
幕末、ペリーが来航した後、アメリカ政府は領事官としてタウンゼント・ハリスという人物を日本に派遣します。ハリスはニューヨーク市教育委員長としてアメリカ初の授業料免除大学である現在のニューヨーク大学の創始者でした。
その教育理念は「教育に民族・宗教・貧富の差があってはならない」というもの、日本という未開の後進国に高等教育を施すのがハリスの目指す所だったのです。
しかし、日本では寺小屋のお蔭で開国当時で識字率80%という世界最高基準をマークしていました、80%は今のヨーロッパの識字率であり、当時では精々30%程だったと言われています。
この事実はハリスを驚かせ、教育への介入を諦めさせました、もしハリスの思う通りの教育に変わっていたら今の日本人は英語を話していたでしょうが、今では99.9%以上の人が字が読めるという日本人の識字率は下がっていたかもしれません。

…とまぁ、難しい話ばかりしてきましたが、寺子屋は子ども達の遊び場でもありました。
教科書に載っている有名な絵の中には、先生から離れた所に居る子ども達が遊び回っている姿も生き生きと描かれています。
ただし、いたずらが過ぎると破門を言い渡される事もあったようです、こんな時、親が出向いてお詫びを入れるのではなく、「謝り屋」と呼ばれる赤の他人が破門を言い渡された子どもと一緒に頭を下げたそうです。
できるだけ穏便に事を済ませようとする知恵だったのかもしれませんし、親以外の他人を巻き込んだ事で、子どもの方が反省するのかも知れませんね。


さて、長々と寺子屋の話を書きましたが、彦根市内に昔の寺子屋の建物を利用した施設があります。
花しょうぶ通り商店街の中に残っていた旧寺子屋・力石を利用した「街の駅」で、彦根の歴史や文化を紹介するのは勿論の事、数々の催しや教室も開かれています。
畳の上には昔の道具が展示されていたり、ギャラリーとして作品を観る事ができたりします。
決して広い空間ではありませんが、その中には多くの彦根が詰まっていますよ。
また喫茶コーナーもあります、気軽に入れる空間ですから、肩を張る事なく商店街を歩き回って疲れた時などにひょこっと顔を出してみて、昔ながらの建物でちょっとした一服なんていかがですか?