彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

牧野富太郎の妻(中編)

2023年06月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 牧野富太郎の著書『植物記』で寿衛の実家について「東京飯田町の皇典講究所に後ちになった処がその邸宅で表は飯田町通り裏はお濠の土堤でその広い間をブッ通して占めていた」と記している。屋敷地はとても広大でその一部は現在は飯田橋六丁目通り(東西線飯田橋駅)近くの東京区政会館になっている。明治9年の地図を確認すると近くには陸軍省関連地もあり、一政が陸軍省で重要な地位にいた可能性を示唆している。一政は京都の芸者あいを身請けして屋敷に住まわしていることからも裕福な暮らしをしていたことは間違いない。そんな一政の次女であり末っ子として明治6年(1873)にあいが寿衛を生んだ。

 あいは、寿衛に踊りや唄を習わせていたようだが一政は陸軍を辞して程なくして亡くなったために家族は財産を失い屋敷も売却、一家は飯田橋で菓子屋を始め、成長した寿衛も店を手伝うようになったのだ。
 前稿でも記した通り、二人は出会い同棲を始めるがすぐに長女園子が誕生する。その直後、寿衛は夫や娘を置いて京都へ行き、兄の世話になっているようだが、東京に戻ってからのち寿衛の兄弟や母あいの記録が出ることがないため寿衛は実家との縁を切ったのではないか? と予測されている。唯一、彦根に住む従兄との交流があったようだ。
 こうして、富太郎も寿衛も裕福な家庭に育ちながら実家の援助が受けられない立場になっていた。しかし富太郎は小学校中退という学歴しか持っておらず関係が悪化していた松村任三が教授となっていた東大で助手として働くが給料は安かった。それでも高価な書籍購入や標本作成のための旅行を繰り返す。毎年のように子どもが生まれるため寿衛は借金取りとの交渉上手になって行ったらしい。また富太郎か地方で採取した植物を家族で協力して標本にもしていた。
 時々、富太郎を助ける人物も現れ、同郷の佐川出身の政治家田中光顕の紹介で岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が借金の肩代わりをしたこともある、貴重な標本を海外に売ることも考えたが国内で支援者が現れ回避している。
 貧しい生活の続くなか、牧野家は関東大震災を経験する。さいわい大きな被害はなかったが大切な資料や標本が焼ける可能性を恐れた寿衛は安全な自宅を所有することを目指すようになり、母の縁から待合を始める。
 この事業に成功し、翳りが見える前に他者に譲った資金で自然に囲まれた自宅を購入するのだがその直後に心労が祟った寿衛は55歳で亡くなってしまうのだった。

 富太郎は、新種の名前に私情を挟むことを嫌っていて、シーボルトが紫陽花に日本人妻の名前「オタクサ」と付けたことを非難していた。しかし寿衛が亡くなったときにこの意見を曲げてまで新たに見つけた植物に「スエコザサ」と命名した。そしてスエコザサは富太郎の墓の近くに植えられているのだ。


牧野富太郎の墓近くのスエコザサ(高知県高岡郡佐川町)撮影読者
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信長公忌

2023年06月02日 | イベント

6月2日は、本能寺の変の日なので京都の本能寺では信長公忌の法要が行われます。

しかし、コロナ禍の影響で令和元年以来中止になっていたのです。でも今年は信長公忌が行われましたので参加してしました。


当日限定の御朱印

と言いますか、法要の後のイベントMCを任されていました。


例年より早い梅雨入りに加えて、台風2号が梅雨前線を刺激した大雨に日本列島が襲われるなかでの法要となりましたが、本堂にはたくさんの方がお越しになられました。


13:30からは、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館の石川美咲先生によるご講演『本能寺の変と朝倉義景』

本能寺の変の時にはとっくに滅びている朝倉義景をどう繋ぐのか?

キーパーソンはやはり明智光秀であり光秀と朝倉氏の繋がり、そして義景と本能寺の縁、また幕府と義景のことも話て下さいました。

また、ご講演前にも少し話をさせていただき、彦根藩にも溝江氏などの朝倉家臣が仕えていることを教えていただきました。

30分でしたが、濃い内容でした。


14時から法要。

読経が響く中、参列者全員がご焼香をさせていただきました。

個人的な意見ですが、織田信長は雨に祝福されている人だと思っていますので大雨の法要は悪い兆しではないと感じました。


法要が終わり、僭越ながらMCとしてマイクを受け取ります。

15時からの『琵琶と墨絵のコラボライブペイント』を観るための注意事項をお話しして会場準備の時間待ち。

琵琶奏者の加藤敬徳さんの音楽は4年前にも同じ日に同じ場所で拝聴できていて空気感を作ってくれます。

墨絵師の御歌頭さんは、僕自身が10年のお付き合いがあり我が家にも原画を何枚も飾っている大好きなアーティストです。

この二人のコラボです!

琵琶の音をBGMに始まったライブペイントですが、お寺の本堂で雨の音すら雰囲気を醸し出します。






やがて、若々しく力強い信長が描きだされました。

演奏は、琵琶から尺八に移っていたのでが、演奏が終わるまで信長の絵を見つめている御歌頭さんが、本能寺の変の後に殺した主と語らう明智光秀のようにも見えて熱いものを感じました。

こうして、感動のうちにライブペイントは終了しました。



本来なら16時から次のスケジュールだったのですが、テンポ良く進んだのでステージ設営が終わり次第15分早く最後のイベントが始まりました。

吉本所属のダンスユニット『エグスプロージョン』によるライブです。



エグスプロージョンさんと言えば、踊る授業シリーズの『本能寺の変』で一世風靡しましたね。

その『本能寺の変』を、本能寺の変の日に本能寺本堂で踊られるという歴史的な時間となりました。

そして、みんなで踊れるように振付を指導して下さいました。

全員が『本能寺の変』を踊り。最後に記念撮影をして、イベントは終了しました。


やはり織田信長は雨に縁があるようで、こののち雨だからこそ動いたことがあります。

いづれその話をお伝えできれば良いのですがね。


僕としては、しがない歴史好きが本能寺の変の日に本能寺でMCができるという、大きな箔がついたことを喜んでいます。



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