彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『なぜ戦国大名は戦うのか』講演受講記録

2012年06月27日 | 講演
ひこね歴史手習塾セミナー12『小和田&本郷 謎解き戦国塾』
1回目は『なぜ戦国大名は戦うのか』というお話でした。
講師は、静岡大学名誉教授の小和田哲男さん。
今回は小和田先生と本郷先生の講義が聴けるというスペシャルな戦国話のシリーズです、




まずは、戦国時代という日本では珍しい名称の時代の定義から始まります。

小和田先生のお考えでは、戦国時代は北条早雲(伊勢宗瑞)が堀越公方の足利茶々丸を討った事件から、豊臣秀吉が小田原城の後北条氏を滅ぼして天下統一を果たした時までとのことでした。

そして、織田信長が稲葉山城を落として「天下布武」の韻文を使い始めた時から、戦国の様相が変わるそうです。



守護大名と戦国大名の違いを、荘園制の容認か検知による一円統治と分国法の制定などによる支配とのことでした。そんな戦国大名と家臣の関係の事例も話していただきましたよ、そして戦国大名は領内を守るために他国へ侵攻し、「刈田」「放火」「乱取り(人や物を奪う行為)」が行われていたとのことでした。こうして家を守り地域領主になった大名たちが天下を統一する野望を持っていたという訳ではなく、領国と家という“国家”を繁栄させることを考えた地方分権であったそうです。

織田信長の天下布武の天下も最初は京都という意味で、京都を抑えた後に、権門体制論による三権門(公家・寺家・武家)の統一を図るために、まずは寺家を潰す叡山焼き討ちや石山戦争があり、公家を潰そうとした時に本能寺の変が起こったと考えれるようですね。

6月23日、平重衡斬首

2012年06月23日 | 何の日?
今回は二日前の記事にも繋がるお話です。



元暦2年(1185)6月23日、平重衡が不破の関(写真)で南都の僧兵に斬首され首が般若寺門前に釘付けにされます。


平清盛の五男・重衡はユーモアセンス溢れる美青年で平家全盛期は多くの浮名を欲しいままにしていました。
しかし、源氏の勢力拡大によって起こった一ノ谷の合戦で馬を射られた上に乳母子の後藤盛長に裏切られて戦場に置き去りにされて源氏に生け捕りとなるのです。
その後、鎌倉に送られた重衡は手越で幽閉されて、その時に長者の娘・千手(ちひら)と出会うのでした。千手は心の苦しみをもらす重衡に耳を傾け返事をする替わりに重衡の心の訴えを和歌や音楽で的確に慰めたそうです。
このやり取りはたった一夜のものでしたが、重衡は都人では感じ得なかった本当の安らぎを見つけていたのでした。


やがて平家が壇ノ浦で滅びた後、重衡の身は南都(奈良の寺社勢力)に引き渡されるのです、平家全盛期に東大寺を焼いた事で南都勢力に重衡は恨まれていて、源頼朝はこの要請を拒みきれなかったのです。
≪東大寺の大仏≫

≪大仏≫


頼朝は重衡の武人としての潔さを愛し、ギリギリまで助命の道を探したと言われています。
その努力は空しく終わり、重衡は僧兵に首を切られて刑死したので、首は般若寺の門前に釘打ちのされて晒されました。享年29歳


千手は善光寺で出家したとも、後を追って自害したとも言われています(『吾妻鏡』では恋心が募って四年後に亡くなったと書かれています)。
なお、重衡が鎌倉から奈良に向けて出発する前日の様子が『千手』という謡曲として語られ、二人のはかなさを現在にまで伝えているのです。

6月21日、平家終焉

2012年06月21日 | 何の日?
今回は東山道の鏡の宿近くの話


元暦2年(1185)6月21日、壇ノ浦の戦いに敗れ、捕虜となっていた平宗盛が源義経によって処刑されました(38歳)

宗盛は清盛の三男。
本当は嫡男の重盛が後を継ぐ筈でしたが、重盛が清盛よりも先に亡くなってしまったために平家を継ぐこととなったのです。
はっきり言えば愛情深い凡将だった宗盛に源氏の脅威に晒されて滅び行く平家を支えるのは無理でした。

壇ノ浦の戦いでついに敗北と決まり、平家一門が海に身を投じる中、宗盛は入水してもすぐに浮き上がり沈めないままに源氏に捕獲されてしまったのです。

この時、息子の清宗も生け捕られました。

義経の看視下に置かれ、鎌倉まで護送される途中、腰越で止められた義経と共に無為の日々を過ごし、義経が京に帰る途中の近江国篠原で斬首されたのです。

義経は、宗盛親子の処刑を哀れに感じていたのですが、このまま京に連れて行くと平家残党に新たな動きを起こさせる可能性もあったためにその命を奪う必要がどうしても生じたのです。

それが、京まで一日で入れてしまうこの地域でした。
しかし、東山道のこの場所は鏡の宿という義経が元服を行った場所に近かったのです。
この為、義経は東山道を進み、鏡の宿を超えてからしばらく進んだ場所で宗盛と清宗の首を斬ったのでした。

元服地を血で汚したくないという想いだったのかもしれません。
斬った首は胴と一緒に埋められたのです。

江戸時代の観光ガイドブックである『近江名所図会』にはここの紹介が載っています。


今では、この時の絵よりもうっそうとした藪の奥に進み

ひっそりとした場所に親子は眠っています



宗盛は亡くなる直前まで息子や部下の心配をしたそうです。

『平家物語』に代表されるような源平合戦を描いた物語で、後半の平家の件では涙を誘うシーンが多く記されています。これは滅びの悲しさもありますが、清盛全盛の時代に恋の歌を詠み、音楽を奏で、芸術を愛した公家として生きて来た若者たちが、馬に乗り、弓を引き、兵を指揮しながら鍛えられていない白い肌を血で染める姿に憐みを覚え、そして武士の覚悟を持って死んでいく様子に生き様を感じたからでしょう。

平宗盛も、世が世なら平家滅亡の激しい歴史に名前を残す事も無く、静かに人生を終えたんでしょうし、このような死に方は20代の時には想像もしていなかったのでしょうね。

150年前:高杉晋作ピストル購入(6月8日)

2012年06月08日 | 何の日?
文久2年(1862)6月8日、高杉晋作がオランダ商人からピストル(スミス&ウェッソン)を1挺購入しました。

1月に長州藩から外国の情勢を検分するように命じられた晋作は、4月29日に貿易船として幕府が運用していた千歳丸に乗って長崎を出航しました。この時に薩摩藩の五代友厚が水夫として乗船していて、二人が知己を得たことがよく知られています。
千歳丸は5月6日に上海に寄港し、晋作たちはオランダ領事館を訊ねたのです。こののち、列強に対して反乱を続ける清人の姿や、西洋人に奴隷のように扱われる清人の姿を何度も目撃することになります。これが晋作の心に「日本国土を植民地にさせてはならない」という想いを植え付けることになり、長州藩は列強の先進的な技術を取り入れながらも、列強に屈しない難しい外交を行い続けることになるのです。

オランダ領事館の後は、フランス・イギリス・アメリカ・プロシア・ロシアの領事館を訊ね、書店で本を購入したり現地に根付いた宣教師から西洋人の植民地化の方法を聞くなどの多くの収穫を得た晋作が、6月8日にオランダ商人から購入したのがピストルだったのです。
こののち16日にはアメリカ商人からも1挺購入していて、どちらかが後に坂本龍馬に贈られることになり、寺田屋事件で紛失するまで龍馬の身を守ることになるのです。


そして7月14日に長崎へ帰国上陸した晋作は、目の当たりにした危機感から、歴史に残るような放れ牛ぶりを発揮することになるのです。

金星の太陽面通過

2012年06月06日 | イベント
先日の金環日食に並ぶ天文ショーが、金星の太陽面通過です。

この現象は、周期があり、8年・105年・8年・105年と繰り返し行われ、8年前に起きたことから今日見逃すと105年後まで見ることができないのだそうです。

そして、これは同じ時間帯に太陽が昇っている地域すべてで観測できる天文ショーでもあります。
朝7時10分頃から太陽と金星が重なり始めます。進むのはゆっくりなので最初はどこに金星があるのか解りませんが、だんだんと丸い物が太陽に浮かんできます。

しずくのように太陽面の端と金星が繋がる瞬間が、この天体ショーのメインです。

ここから、6時間に及ぶ長い旅のスタート

このあと、管理人も一時間おきに観察しました。
8時

9時

10時

11時

12時

13時

完全に金星が出るのは13時47分予定だったので、13時40分頃からは外に出るイベントになります。

こうして長時間に及ぶ天体ショーは無事に終わったのです。

さすがに105年後まで生きていませんから、記録が残せてよかったです。

映画『一遍上人』

2012年06月02日 | イベント
ついに彦根で『一遍上人』が公開初日を迎えました。
関西ではどこよりも早い上映です。

一遍上人といえば踊念仏ということは、歴史の教科書にも出てくる話です。
踊ることで無我の境地になりながら、仏の教えを受け入れていくようなイメージを管理人は持っています。
よくいうのは北野武監督の『座頭市』で登場した集団でタップダンスを踊るシーンは踊念仏のイメージに合うと思います。

彦根では高宮城主が一遍を招いて、自らの菩提寺を改宗させたという話があり、このお寺が高宮寺と言われています。
そして映画に登場する超一という女性が亡くなったのが彦根から大津のあいだのどこかと言われています。
また、戦国期に一向宗が台頭するまで、国内で一番信者が多かった宗教は時宗でした。この信者の中に多い名前は“○阿弥”という名前です。正式には“○阿弥陀仏”という名前なのを略して“○阿弥”としているそうです。
ですので、羽柴秀吉の義理の父である竹阿弥は、時宗の信者だった可能でいが高くなるのです。
しかし、一遍がどんな人生を送った方なのかを問われるとほとんど解らない人でもあります、それは現在あまり注目されていない人物だからです。


そんな一遍上人を映画化するということだけでも大きな冒険だったのではないかとも思えますが、それと同時にどうしても宗教映画のように思われがちなのかもしれません。

もちろん、一人の聖を描いた作品なので、宗教の話が無いわけではありませんが、作品の中に「教えではなく気付きです」との意味の言葉に代表されるように、宗教の押し付けではなく、当たり前としてあるものをあるがままに受け入れる純真な心こそを重きにおいています。

主人公の一遍上人を演じるのはウド鈴木さん。

「ウドちゃんが主演の映画ってどうなん?」って話は、管理人が勧めた方の中でもよく出てきた言葉でした。僕も観ていない以上は「解らないけど、秋原監督が選んだなら間違いないと思うよ」としか言えませんでした。

でも、今回観て解りました「あっ、ウドちゃんじゃないとできない役なんだ」と。

おバカキャラが表に出がちですが、それと同時にどこまでも素直な印象があるウドちゃんが演じる一遍上人は、まさしく純朴に気付きを伝えていく人物でした。純朴であるがうえに誤解も生みますが、それでもただ己の想いに従って、周りに流されない強い信念がありました。
そんな強さを和らげるように映し出される美しい風景は、かたくな過ぎる一遍上人の生き方に彩りを加えていました。

そして最後に見せるそれまでとは少し違う顔
その直後に流れる宇佐元恭一さんが歌う『雨ニモマケズ』
宮沢賢治が残した詩に曲を付けられて歌われている曲なのですが、これが映画に合ってるんです。


この曲は、映画のために書かれたものではありません。管理人も数年前にFM滋賀で流れているのを聞いたことがあった曲です。
上映が終わったあとで秋原監督と宇佐元さんのトークがあり、その中で出演者よりも先に決まったのが歌だったと監督が仰っておられました。それほどに心に響くんです。

映画と共に楽しんでほしい曲です。

6月1日、鹿ヶ谷の陰謀

2012年06月01日 | 何の日?
治承元年(1177)年6月1日、平家追討の密談が行われました。

平清盛の全盛時代、「平氏でなければ人では無い」とまで言われていました。
そんな強大な独裁者が登場すると、当然それに反発する人々が現れます。

その反発者達は、法勝寺執行・俊寛の山荘がある京都東山鹿ヶ谷の山荘で行われました。主宰は平宗盛に右大将の位を取られた大納言・藤原成親。
参加者は俊寛、検非違使・平康頼、院の御倉預・西光、摂津源氏・多田行綱…
そして、後白河法皇の姿もあったのです。

会は、進んでいきますが具体的に平氏を倒す案は出ず、悪く言えば負け犬の遠吠、良く表現するなら被害者がお互いの傷を嘗めあっているだけでした(良く表現されてないなぁ…)

法皇の供として場に居た浄憲は、この事が清盛の耳に入って法皇に危害が及ぶ事を恐れ、早く場から法皇を連れて去りたかったのです。
それを成親に伝えると、成親は怒って立ち上がりました。するとその勢いで法皇の前に置かれた瓶子(へいじ)が倒れたのです。
これを見た参加者は不吉な気持ちになり沈んでいきました。

すると成親は「なんと、瓶子(=平氏)が倒れたぞ!」と叫んだのです。

これを聞いた法皇は大喜びして、成親の後に続く言葉を促しました。
すると「瓶子が多すぎて酔ってしまった」という言葉の後に西光が「それはならん、そんな瓶子の首など刎ねてしまえ!」と叫び瓶子のくびれた部分を折ったのでした。
これを見た他の参加者も、次々と瓶子の首を折って大笑いしたのです。

当人達はこんな事ですっきりするんだから、所詮小者の集まり。
信念のない小者の僻みだっただけなんでしょうが、行綱が西八条邸の清盛を訪ねて密告したのです。


清盛は参加者を捕縛しました。
西光は清盛の前に引き出され、清盛は「これがワシに歯向かって平氏を滅ぼそうと企んだ奴のなれの果てか」と言うと、履物を履いたまま西光の顔を踏みつけたのです。
凄いですね清盛! 新しい趣味でしょうか?
この後、清盛と西光の子どものような口喧嘩が続いた挙句、大人げなく切れた清盛は西光の口を裂いて処刑したのです。

藤原成親は首謀者でありながら清盛の嫡男・重盛の妻の兄という立場でもあったので自分の身は安全だと安心しきっていました(この時点で陰謀の失敗は目に見えてるやん・汗)
そして清盛に呼ばれて西八条邸に向かい、まんまと捕縛されたのです(…信じられないでしょうが史実です、歴史に名を残すアホですね)。西光の自白があるため罪は確定しますが、重盛の手前流罪となったのです。
しかし、清盛に成親を助ける意志はなく、毒酒を飲ませますが死なず、鉄の刺股を並べた崖に突き落とされました。

成親の息子・成経、平康頼、俊寛は鬼界ヶ島に流罪になります。
3年過ぎた頃、成経と康頼は許されて都に戻りますが、一番都に帰りたがった俊寛は島に残されそのまま亡くなったのです。