彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

ネコの日

2008年02月22日 | 何の日?
2月22日はニャン(2)ニャン(2)ニャン(2)でネコの日だそうです。

嘘じゃありません、本当です。


と言う訳で今回は『ネコの日本史』

現在人が知っているネコはリビア猫という種類の猫にネズミを捕る目的を与えて飼いならした種類で正式に“イエネコ”と言います。

また、ネコという言葉自体が“ネズミを狩るネコ”という意味で、鳥を狩るネコは“トコ”というと昔聴いたことがありますが、もしかしたら騙されたかな?なんて思っています。
(だって、ちゃんとした事を調べても出てこなかったもん・・・)
真相を知っておられる方は教えてください。
また、別の話では“寝る子”でネコだとも聞いた事もあります。


さて、イエネコは日本で昔から生息していた生き物ではなく、奈良時代に仏教伝来と一緒に日本にやってきたのです。
その役割はネズミから経典や仏像を守る為だったと言われています。
それ以前はヤマネコは居たらしく、考古学の発掘ではヤマネコの骨は出土したりしているのです、でも生息数はそんなに多くなかった筈ですよ。

ただ、最近になって姫路市でネコの物ではないかと思われる足跡のついた須惠器が発見されました。
もしこの足跡が間違いなくネコでしたら、ネコの渡来は6~7世紀初頭の古墳時代以前となってしまうのです。


ちなみに、古代中国ではイエネコがポピュラーじゃなかったために十二支にネコが入っていないと考えられているんですよ。


さてさて、日本にやってきたネコは、貴族のペットとして愛され、平安時代には多くの文献に登場するのです。

そんな中の一つが、平安時代に嵯峨天皇が小野篁に出した問題です。

《問題》
「子子子子子子子子子子子子」
これは何と読むでしょう?


はきり言って分かりませんね、管理人が最初見た時も全く分かりませんでした。
しかし、小野篁は子孫に小野小町が居るし、夜は地獄で閻魔大王の側近として働いていたくらいの文学の学者だったので、この問題を簡単に解いたと言われています。

答えは「猫の子の仔猫、獅子の子の仔獅子」

子という字は“ね”“こ”“し”とも読む上に昔は“の”の字は削除される事が多かったので(例えば“えちぜんのかみ”を漢字で“越前守”と書くみたいに)、こう読めるそうですが…
出題する方もする方なら、答える方も大概ですよね(汗)

平安時代はこう言った言葉遊びが結構流行っていたし、そういう頭の回転が必要とされていたのです。
『枕草子』を読むと現代の感覚では清少納言が嫌味に思える事が多いのですが、実はそれくらい機転が利く方が朝廷で重宝されたんですよ(それを考慮しても清少納言には嫌味な所がありますがね)。

そして、ネコがいかに一般的だったかも分かるエピソードですね。


そんなネコのキャラクターが“ひこにゃん”を始めとして“しまさこにゃん”や“いしだみつにゃん”“やちにゃん”など彦根では多く見られるようになりました。

ネコを愛し、ネコに出会える町・彦根
何かいいと思いませんか? ネコの日をきっかけにネコと彦根のつながりも注目してみるのもいいかもしれませんね。
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彦根城周辺史跡スポット:「上品寺」

2008年02月20日 | 史跡
慶長12年(1607)2月20日、出雲の阿国が江戸で歌舞伎踊りを披露した事から、2月20日は“歌舞伎の日”となっています。
現在の歌舞伎に繋がる芸能は、戦国時代に京都四条河原で「出雲の阿国」が披露していた「阿国かぶき」から始まるといわれています。

当時は女性が男装する方法が主流でしたが、江戸時代に入って女役者が幕府の取締りを受け、美少年を中心とする「若衆歌舞伎」となりました、しかし、これも幕府の指導を受けて現在の形に近い「野郎歌舞伎」となったのです。


実はその他にも、江戸時代初期に女性の手で始まった芸能がありました。

それは「浄瑠璃」です。
一般的に浄瑠璃は、三味線を伴奏に太夫が語るスタイルで、これに人形が加わるモノが特に知られています。

元々、早い時期から傀儡子といわれる人々が披露していた物だったのですが江戸時代初期に小野お通という女性が『浄瑠璃物語』という作品を仕上げ、この影響を受けて類似する芸事を『浄瑠璃』と呼ぶようになりました。

ちなみに小野お通は、真田幸村の兄・信之と意気投合し生涯文通を続けた相手で、お通の娘が信之の息子の側室となっています。
余談ですが、大河ドラマ『武蔵』の原作となった吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵の恋人として登場する“お通”のモデルはこの小野お通です。
ただし実際の武蔵とお通は面識がなかったと言われています。



さて、長々と歌舞伎や浄瑠璃の話を書きましたが、実は彦根にはこういった伝統芸能で演じられる物語の素材になった話が残されていますのでご紹介しましょう。

舞台は鳥居本。
ここには悲しい昔話を残す「上品寺の法海坊の釣鐘」があります。

《江戸時代、江戸で生まれ旅を続けた法海坊は19歳の時に荒れた上品寺に住む身となりました、せっかく宿場町のお寺なのに荒れっぱなしではダメだと思った法海坊は生まれ育った江戸で寄付を募ることにしました。
托鉢で寄付を求めていた法海坊は、どういう縁か吉原の遊女の元にも赴きました。
その時期、吉原で名の売れていた花魁の一人・花里が、法海坊の説法に感動し、「もっと仏様の話を聞きたい、吉原では私が寄付を募ります」と一生懸命に奔走し、そして仲間に法海坊の話を聞かせたのです。
しかし、花里は胸の病で若くして亡くなりました。
花里の意志は、同じ様に吉原に居た妹・花扇が継ぎ、ついに上品寺再興の費用が調ったのです。

明和6年(1769)法海坊は江戸で釣鐘を作り、遊女達の名前を刻んで法海坊が自ら押しながら地車(大八車みたいな物)で江戸から鳥居本まで運びました。

上品寺の釣鐘堂も完成し翌日に鐘初めを控えた日の夜の事、あでやかな着物を着た若い女性が居ました。法海坊が不思議に思って声を掛けると、「今、鐘の中から出てまいりました、遊女に身を落とした私が、貴方にお会いできたお蔭で、今は観音菩薩のお国に住まわせて頂いています、本当にありがとうございました」と言ったのです。これは法海坊が見た夢でしたが、薄幸の花里が成仏できたお礼だったのではないでしょうか?
上品寺では、法海坊が押した地車・花里と花扇の肖像画そして花里の衣装で作った袈裟が残されています。》


国道8号線で鳥居本を通ると道沿いに上品寺の法海坊の釣鐘を見ることができます。急ぎの道中でもふっと立ち寄って悲しいお話に手を合わせてみるのも良いかもしれませんね。
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2月12日、江戸幕府開幕

2008年02月12日 | 何の日?
慶長8年(1603)2月12日は徳川家康が征夷大将軍に就任しました(江戸幕府開幕)。

征夷大将軍といえば世襲制だと思われがちだですがそんな事はありません。この時はまだ豊臣秀頼が幼かった事もあり豊臣家大老の家康が一時的に政治を代行するための手段だと思われていたのです。
しかし慶長10年(1605)4月16日に家康が三男秀忠に将軍職を譲った事により、江戸幕府の存在を大きく主張する事となるのでした。

さて、幕府というのは元々将軍が戦争の為の派遣先で作る参謀本部の様な物で、臨時特権として現地での徴兵・税収等が認められているだけのモノでした。
“幕府”という言葉を政治機関として解釈し始めた事自体が江戸時代も落ち着いてからの事だったといわれています。

そんな軍事機関でしかない幕府ですから、各役職も支配地を治めるための臨時の統治機関として設置されたモノだったんです。
普段学校で習う様な組織図(将軍-大老-老中-若年寄とか並んでる図)は理想でしかなく現実に全てが揃うのは難しかったと言われています。
そして、実はそんな軍事政権が264年8ヶ月も平和に続いた事は世界史上でも稀な(日本史は世界史の稀が多いですが…)事だったのでした。

だからこそ幕末に大した騒動も無く崩壊する事も出来たそうで、勝海舟が晩年に幕府が簡単に崩壊した理由を尋ねられた時に「あれは家康様が釘を一本抜いたら壊れる仕組みにしてたのさ」と答えたという逸話も残っているくらいなんですよ。


そんな江戸幕府の支配体制は欧米人の日本史研究家の理解を悩ます事があるそうです。

まず一番大きな事は朝廷の存在。
これは幕末の外国人使節も悩んだ事の一つなのですが、武力も無く経済的にも恵まれていない朝廷に外交の決定を幕府が許可を求めに行く姿勢をみて、日本の代表政府がどちらだか分からなくなるのだとか・・・

次に大名の存在。
最高権力者が徳川将軍家であるはずなのに、諸大名から徳川家に税金の納付は無く、徳川家は自分の領地からの年貢のみを税収とし、下手な大名よりも貧しい生活を送っていたのです。
それなのに、大名の領国に問題が起きると簡単に取り潰す権限があり、それを諸大名が受け入れて反抗が無かった事。
他にも税金の徴収が農民からの年貢が殆どで、商人からの徴収が無かった事も不思議だそうです。
理由を聞かれるとそれぞれにちゃんとあるのですが、結局は日本人の感覚でしかなく、やっぱり理解に苦しむそうなんですよ。

そんな面から歴史を覗くのも面白いかも知れませんね。


ちなみに、幕府を開く事を江戸時代には“開国”と呼んだそうで、この事から徳川家の重臣として活躍した井伊直政に“開国の元勲”という認識がされて、それが井伊直弼の評価にも繋がった事は以前にも書いた通りです。
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2月2日、浄瑠璃坂の仇討

2008年02月02日 | 何の日?
寛文12年(1672)2月2日(3日未明)、奥平源八が父の敵の奥平隼人邸に討ち入りました。


正式には「浄瑠璃坂の仇討ち」と呼ばれるこの事件は一族同士の些細な争いから始まったものでした。

事件より4年前の寛文4年2月19日に、宇都宮藩主・奥平忠昌が亡くなります。
忠昌の曽祖父である信昌は長篠の戦で長篠城を守りきった事で徳川家康の覚えがめでたく、家康の長女・亀姫を正室に迎えていたのです。
この亀姫と家康の側近となっていた本多正純の仲が悪く、亀姫が正純を追い落とす為に仕組まれた事件が有名な『宇都宮釣り天井事件』だと言われています(機会がありましたら書きます)

宇都宮釣り天井事件の後に宇都宮城に入城したのが奥平家でした。
奥平家には12家の重臣があり俗にこれを“七族五老(江戸期に「大身衆」となる)”と呼びます。この12家は長篠の戦で手柄があった事から永代的に将軍へのお目見えが許された名誉ある家だったのです。


そんな七族五老のうちで母同士が姉妹と言ういとこ同士の2家の当主が忠昌の葬儀が行われる前日に当る寛文4年3月1日に事件を起こしてしまったのです。

この時、宇都宮城下の興禅寺に集まって葬儀の打ち合わせをしていた重臣や藩士たちの前で亡君の位牌を目にした奥平隼人は「玄光院殿海印」まで読んだ所で言葉に詰まってしまったのです。
これを見た従兄弟の奥平内蔵允が「道湛大居士でござる」と助け舟を出したのですが、この声が大きかった為に結果的に隼人が無学の恥を藩士たちの前で晒す事になったのでした。
この恥を消すために隼人が「内蔵允殿は僧の方が似合ってござる」と武道よりも学問に秀でた内蔵允に言った事から普段から犬猿の仲だった二人が争う寸前までいったのですが、内蔵允が抑えて引いたので表面上は収まったのです。

しかし14日の法会の時に、“入室”の札が貼ってあるので「何と仮名をふればよいか」という議論になり、誰かが「『にふしつ(にゅうしつ)』ではないか?」と言うとまた別の人が「いやいや『じゅしつ』だろう」と主張したのです。
この日、病で息子・源八を代理として出席させようとして源八が隼人に罵られて帰宅したために病をおして列席した内蔵之允がこの“入室”争いを制して「入室とは宮方、摂家、公達、門跡の入院を称する名称故、当家等では不相応の言葉だが、仏家の慣習で『にっしつ』と読むのだ」と言ったのです。
それを聞いた隼人は「古書漁りで風邪を引くのも満更無駄ではない。流石は坊主勝り」とまた余計な事を口にしました。

これには流石に堪忍袋の緒が切れた内蔵允がついに脇差を抜いて隼人に斬りかかったのです。
しかし、隼人は武断派で内蔵允は文治派の上に病の身でしたから返り討ちに遭って内蔵允の方が傷を負ったのでした。

大切な亡君の法要で怪我人が出ては流石に事件となり、七族五老の一人である兵藤玄蕃の仲裁で双方は親戚宅に預けられる事となりました。


この後すぐに『喧嘩両成敗』で隼人・内蔵允の両名に切腹の沙汰が下れば武士の世界としては全てが納得する終わりを迎えたのですが、忠昌の跡を継いだ昌能は、忠昌が亡くなった時に藩士から殉死者が出た事を幕府から責められて蟄居中だったので藩の存続すら危ぶまれていて「跡目相続が許された後に両名を切腹とする」としか言えなかったのです。
しかし、その沙汰が下る前に内蔵允は自害してしまいこれは藩命に叛く事となるので内蔵允は藩庁に「事件の怪我による破傷風によって死亡」と届けられたのでした。


やがて昌能は宇都宮藩を召し上げて山形への転封と言う形で跡目相続が許されたのです。
事件から半年後の9月2日、「奥平隼人は改易・奥平内蔵允の息子・源八(12歳)と内蔵允の従弟の奥平伝蔵正長の両名は家禄没収の上で藩より追放」という沙汰が下りました。

納得がいかないのは源八です。
「父・内蔵允は切腹して果てたのに、隼人は改易とは言えのうのうと生きている。この判決は不公平だ!」と主張し、隼人を敵として狙う事となりました。
この仇討ちに賛成したのが奥平伝蔵と源八の叔父・夏目外記ら70余名。
そして、源八の行動を知った隼人も父・半斎、弟・主馬允と九兵衛らと共に徒党を組んだのです。


お互いに大人数を引き連れての追い追われの駆け引きが続き、翌年7月3日に藩から出ずに家臣として奥平家に残った隼人の弟・主馬允が出羽上之山はずれの坂の上で奥平伝蔵の槍で突き殺されました。

「弟を殺された隼人が源八に仕返しに来るだろう」と予測した伝蔵は一門の桑名頼母も同志に迎えて隼人の襲撃に備えますが、隼人はやってこなかったばかりか、江戸牛込の浄瑠璃坂に屋敷を構えた事が発覚したのです。


こうして寛文12年2月2日、火事装束の下に鎖南蛮を着込み、頭巾・羽織・履物の裏にいたるまで牛の皮で作った防御性の高い衣装を装備した奥平源八以下42名が浄瑠璃坂へ仇討ちに出向いたのです。

この日は風が強く、その風によって一行の不穏な気配が悟られる事がありませんでした。
屋敷の門前に到着した一行に源八が「かかれ!」と叫び、大斧で屋敷の門が打ち壊されて侵入したのです。

桑名頼母・奥平伝蔵ら21名が隼人の屋敷に掛かり、残りは隼人の父・半斎が住む建物に向かいました。
しかし、隼人宅は猫の子一匹居ない状態で、頼母・伝蔵らは歯軋りしながらも半斎邸襲撃に加わったのです。ここにも隼人は不在でしたが半斎と九兵衛を討ち取った一行。

浄瑠璃坂の屋敷を出て怪我人に護衛をつけて20名を送り出し、22名が半斎・九兵衛の首を晒して隼人が取り返しに来るのを待ちました。
すると隼人が父と弟の無残な姿に逆上し、長槍を手に駆けて来たのです。
ただ一騎駆ける隼人の後ろを20名近い武士が刀を振りかぶりながら走ってきました。

お互い20名程の人数で互角の兵力で最後の決闘が行われました。
馬から降りた隼人に頼母・伝蔵が二人掛りで挑みますが隼人は二人を相手に闘い続けます。
しかし、隙ができたところで伝蔵に追い詰められ、この場が橋の上だった事から隼人が川に飛び込み頼母・伝蔵もこれを追って川に飛び込んで闘いを続けたのです。
やがて頼母と対峙して背中に隙ができた隼人の背後から伝蔵が袈裟懸けに斬り、後ろを振り返った隼人に対して頼母が刀を突き立ててえぐったのです。
「源八、とどめ!」
と言う叫びに反応した源八が川に飛び込んで脇差を抜き、「父の仇!!」と叫んで隼人の喉を突き隼人は絶命したのでした。

橋の上にはいつの間にか集まった群衆が源八に対して拍手を送ったのです。
この中に赤穂藩の江戸留守居役・堀部弥兵衛が居たとか居ないとか・・・(この人、高田馬場の仇討ちも見てるらしいから余程の野次馬根性ですよね・汗)



この後、一行はこのまま山形に向かおうとしますが、幕府から奥平源八・奥平伝蔵・夏目外記の出頭命令が出ていたので、大老・井伊直澄の彦根藩上屋敷に出頭します。
三名は詳細を報告し切腹を希望しますが、三名の武士道に惚れた直澄は幕閣で一同の無罪を希望します。
「元々は藩主・奥平昌能の不公平な沙汰から始まり、四年の長きを耐えて本懐を遂げたのは武士の鑑である」と主張したのです。

2月21日、幕府より判決が下ります。
仇討ちについては無罪となりましたが、江戸城下を徒党を組んで騒がせた罪が問われ三名は伊豆大島に流罪となったのです。

6年後、千姫の十三回忌の恩赦で三名は罪を許され、直澄は彦根藩に奥平源八を200石迎えたのを始め三名を高禄で召抱えたのでした。
仇討ちに参加した他の人々も各藩に召抱えられますが、浄瑠璃坂の仇討ちのあった年である寛文12年の4月26日に源八の同志だった菅沼治太夫・上曽根甚五右衛門が隼人の関係者28名によって襲撃されたのです。


ちょうど30年後、堀部弥兵衛を参謀とした大石内蔵助は亡君・浅野内匠頭の仇である吉良上野介を襲ったのです。この時に浄瑠璃坂の仇討ちを参考にしたことから源八の仇討ちは『雛型忠臣蔵』とも呼ばれているのです。
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