彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

屋形船1周年

2008年03月23日 | イベント
400年祭開催と時を同じくして運行が開始された『ゆらっと遊覧 彦根城お堀めぐり』の1周年記念イベントが3月23日に行われました。


このイベントでは、“掃部丸”“万千代丸”に続く3艘目の屋形船の名前が“中将丸”になった事が発表され、地元からお殿様とお姫様役の方も選ばれて屋形船の気分を盛り上げました。

また、今年は婚礼150年の記念年に当る井伊弥千代をモデルにデザインされた“やちにゃん”も登場し、お客さんにその愛らしい姿を披露していたのです。


400年祭期間中に大きな人気を呼び、彦根城ライトアップの期間中の夜間運行や予約制度の導入、冬の期間にはコタツに入りながらお堀巡り。そして船頭さんによってそれぞれに魅力あるお話が聴けるなどの多くの工夫を凝らした屋形船の情報を色々集めて、彦根城にお越しの時は観光コースに組み込んで下さいね。
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今年も梅がキレイです

2008年03月23日 | イベント
2007年の国宝彦根城築城400年祭の開幕の時期は、梅がとてもキレイな季節で、それから桜まで続く春の花の季節を来城された方々に印象付けました。

そんな彦根城の梅林の梅が今年も咲き誇っています。

http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/8be2195e33457a29b2e450d9ef0bf8e6
↑梅林の話は昨年に書きましたので参照してください


梅林は大手門から入ると近いのですが、観光客の出入りのメインとなる表門橋からですと、一度彦根山の中腹まで行かないと辿り着く事ができない上に、この季節以外は観光コースにはならない場所なので観光マップでも見所としては紹介されて居ない為、案外穴場となっています。
面倒かも知れませんが、彦根山全体を楽しむつもりで足を向けてみて下さいね。
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いいニャン弼

2008年03月20日 | いい彦根藩14ニャン物語
国宝彦根城築城400年祭で、市民ボランティアとして活躍した「ひこねを盛り上げ隊」
その盛り上げ隊の中に所属する『どんつき瓦版』編集部が、6月から始まる『井伊直弼と開国150年祭』の開催前に、「開国150年祭期間中は、開国150年でもあると同時に、井伊直弼が大老に就任して150年でもあるから」という事で、“ひこにゃん”や“しまさこにゃん”を始めとする多くの彦根のネコたちと肩を並べる新しいニャンを登場させました。

それが“いいニャン弼”です。

既に登場している“やちにゃん”のモデルは井伊直弼の次女・弥千代姫ですから、ニャン弼はやちにゃんの父親になりますので、やちにゃんと似たネコキャラになっています(実際、弥千代姫の晩年の写真は豪徳寺にある直弼の肖像画に似ていますし・・・)。

瓦版市民キャラクター“いいニャン弼”の今後の活躍に期待です。
ちなみに命名の由来は井伊家は名前に“直”の字が付きますので、この“直”を“ニャン”に変える事によって井伊家の人々もネコになっていただける様にとの思いが籠もっています。

『どんつき瓦版』では、2008年4月号で大々的に“いいニャン弼”を発表し、それと同時に『いい彦根藩十四ニャン物語』として、まずは歴代彦根藩主のネコを募集する予定になっています。
瓦版編集部で各藩主のイメージを伝え、それに沿って数パターンのポーズをお願いする予定です(いいニャン弼も既に4パターンのデザインが存在します)。

この先、どんなネコたちが登場するのか楽しみですね。
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3月14日、松之廊下刃傷事件

2008年03月14日 | 何の日?
元禄14(1701)年3月14日、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に斬りかかり、二カ所に傷を負わせました。
という訳で、恒例の『忠臣蔵』のプロローグとなるこの事件について書いちゃいましょう~


まずは豆知識を一つ。
刃傷の現場は江戸城松之廊下と言われていますが、本当は柳之間廊下だった可能性が高い。
柳沢吉保や梶川与惣兵衛(内匠頭を取り押さえた人物)の日記にも「柳之間」という文字が出てくるんですよ。

いきなり松之廊下と言う言葉を否定された事件ですが、通りがいいのでこの後も松之廊下という言葉を使いますね。


さて、本題

○経過
松之廊下刃傷事件の様子は数々の物語に描かれているので知っているつもりになっている人が多いですよね。
多くの場合は、浅野内匠頭が吉良上野介に散々にイジメ抜かれて、当日に松之廊下で教えを受けようとしたら罵られ、堪忍袋の緒が切れた内匠頭が廊下を進む上野介の後ろを追って背中に斬り付けます。
驚いて振り向いた上野介の額に二太刀目を浴びせた後、近くに居た梶川与惣兵衛に羽交い絞めにされて、「浅野殿、殿中でござる」と言う与惣兵衛に対して「武士の情けでござる、お放し下され梶川殿」と内匠頭が返す名場面があり、その後に事件は終了します。

でも、これはフィクション。
実際の事件は、与惣兵衛が上野介と話している時に急に「この間の遺恨、覚えたか」と言った内匠頭が上野介の額に斬り付け、逃げる上野介の背中を斬ったのです。
内匠頭はすぐに与惣兵衛に抑えられます。
その直前に罵られる事もなく、急にやって来ていきなり斬った。
本当は、ただそれだけの事件でした。

松之廊下刃傷事件で取り押さえられた浅野内匠頭は、取調べを受けた後に田村右京大夫の屋敷にお預けとなります。
田村家に護送された内匠頭は湯漬二杯を食べて、酒とタバコを要求したと記録されています。
内匠頭が事件を起こしたのが午前9時半頃の事で、田村家に護送されたのが午前11時。
そして午後4時に将軍・綱吉が“即日切腹”の沙汰を下したのでした。
江戸城内で刀を抜いた時はその理由に関わらず死罪となるのが当時の不文律であり、内匠頭は家臣の大石内蔵助に対しての口上を残しています。
「兼ねて知らせ置く可く存ぜしも、ぞの遑なく、今日の事は已むを得ざるに出でたる儀に候。定めて不審に存ず可き乎。」(以前から知らせようと思ったが、その時間もなく、今日やむを得ずにこうなってしまった。さぞかし不審に思うだろうな)
というもので、動機も詫びも家族への伝言もなかったのでした。
夜になって田村家の庭先で内匠頭切腹。
この辺りの行動から、内匠頭は精神病を患っていた可能性が高いことが指摘されています。
ちなみに『忠臣蔵』に登場する「風さそう~」の辞世の句が、詠まれたという記録は田村家が作った報告書『浅野内匠頭御預一件』には記されていないため、後世の作り話ではないかと言われています。


○将軍の沙汰について
浅野内匠頭が事件を起こした当日に真相の調査もせず切腹の沙汰を下し執行した将軍・綱吉を批判する声が結構高いです。
しかし、実はこれは大きな誤解なんです。
内匠頭が切腹になった罪状は“江戸城内で刀を抜いた事”でした。
江戸城内で抜刀する事は将軍に対する不敬であり、これはいかなる理由があっても死罪になるモノで、江戸時代を通して見ても一部の例外を除いて殆どの場合は切腹の沙汰を受けているのでした。
まして、内匠頭の場合は朝廷からの使者を迎える大事な日に、接待係の仕事を受け持った人物だったのだから、武士として切腹だったこと自体が幸運としか言いようがないのです。
これを現在の会社で例えるなら、社長が大事な取引先のお客を迎えるのに、浅野係長を接待係に任命し、吉良課長をその指導係にしたところ、接待の当日に浅野係長が吉良課長に殴りかかったのです。
社長である将軍はお客さんに頭を下げて謝って、でも浅野係長を自主退社の形で退職金を払って退職させた感じになります。
本当なら首にして、退職金も払わないのではないですか?
そういう意味では凄く恩恵がある処分だったんですよ。


一応、歴史的に有名な事件ですのでご紹介しましたが・・・

江戸時代でも稀に見る大きな事件ですし、幕閣は将軍を始め大騒ぎになった事件ですから、彦根藩はさぞかし深く関わっているのだろうと思われている方が多いと思います。

しかし、井伊家ではこの事件の9日前(元禄14年3月5日)に4代藩主井伊直興が隠居し、息子の直通に藩主の座を譲ったばかりでした。
井伊家の当主・隠居共に江戸に在府していましたが、彦根藩内では新藩主の下で新しい体制が作られる前だったと予測されるので、松之廊下刃傷事件には何も関わらなかったと考えられるのです。
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