彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:久世広周死去(6月25日)

2014年06月25日 | 何の日?
元治元年(1864)6月25日、前関宿藩主の久世広周が亡くなりました。享年46歳。

いやいや、そんなこといわれても誰?という人物の一人ですね。
しかし、幕末を描いた大河ドラマなどでは出演率が高い政治家の一人なのです。

久世広周ほど、井伊直弼政権の割りを食った人物は珍しいかもしれません。

阿部正弘政権では、老中として阿部政権を支え、そのまま堀田正睦政権でも職務を続けていました。この間の重大な政治的動きは異国船来航でしたが、阿部・堀田共々そのかじ取りの一端を担ったのです。

安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任。
この時には、将軍継嗣問題が大きな政治問題になっていました。久世は一橋派ではなかったのですが、将軍継嗣問題で一橋派に対して直弼が行った安政の大獄に対し、厳しすぎるとの諫言を行ったために、直弼の怒りを買って老中の座を追われたのです。

万延元年(安政7年)桜田門外の変で直弼が暗殺されると、井伊政権の方針を引き継いだ安藤信正からの要請を受けて閏3月1日に老中として復職し、公武合体を進め、4月28日には老中首座になったのです。

2年後、坂下門外の変で安藤信正が罷免されると、その連座を受ける形で失職します。この際に安藤久世政権の罪として大きく摂り立たされたのが「桜田門外の変で井伊直弼が亡くなっていたことを知りながら、彦根藩から出された直弼が生きているかのような届を受理したこと」でした。

広周は、井伊直弼自身によって最初の老中職を追われ、死後の処理によって二度目の老中職を追われたのです。その両方とも広周の責任とは言い難い理由によってでした。


このような理不尽な失脚をし、隠居と永蟄居そして計2万石の減封を受けその罪が許されないままに失意のうちに失脚から2年後に亡くなったのです。

150年前:池田屋事件(6月5日)

2014年06月06日 | 何の日?
元治元年(1864)6月5日、祇園祭の宵山で賑わう京都の町で幕末史を彩る池田屋事件が起ります。
 
そもそも池田屋事件とは一般的に《前年の“八月十八日の政変”で京から追い出された長州の起死回生の手段として京都に火を放ち、混乱に乗じて天皇を奪回し長州に連れ去る》と言う計画を立てていた過激志士達を新撰組が急襲し志士達を惨殺した事件と言われていますが、新撰組は人斬り集団ではなく現在の京都府警の仕事をしていたので、この時も惨殺ではなく捕縛を一番の目的としていたのです。

池田屋事件は、最後まで会合の場所が特定できなかった新撰組が、池田屋襲撃組と四国屋襲撃組に分かれて、四国屋は会合がなかったためにこの組を引きいていた土方歳三らが慌てて池田屋に向い、この間に池田屋では近藤勇や沖田総司・藤堂平助らによって斬り合いが始まっていたといわれています。
池田屋では、近藤が駆け上がって二階の踊り場に居た北添佶麿を斬り(池田屋階段落ち)、そのまま二階へ踏み込んで新撰組の一方的な強さに尊王攘夷の志士たちが斬られていったというイメージがあります。

しかしよく記録を見てみると、近藤は簡単に階段を駆けあがれず、二階に5.6人の志士が居て、上からの攻撃を近藤が階段途中の下から受け止めていた防戦一方の様子でした。
その間に、永倉新八の刀が折れ、藤堂平助は額を斬られ、沖田総司は近藤周平を守る事で精一杯だったのです。
土方たちがやって来て初めて新撰組有利となったのですが、現代では考えられないくらいの闇の中の斬り合いであり(この日、事件の時間には月が沈んでいた)今解っている状況はイメージでしかないのです。
何もわからないままに斬り合いが行われ、気が付けば宮部鼎蔵や北添佶麿らの遺体があった。というのが真相のようです。
また吉田稔麿と望月亀弥太も池田屋で亡くなった事になっているが、どうも長州藩邸近くで自害したそうです(それぞれ場所は違う)。
長州藩邸は事件が起こったともしばらく門を開けていたようで、早い段階で稔麿や亀弥太が長州藩邸に入っていれば保護されたのですが、たぶん最初は志士たちが有利だったために逃げ遅れたのでしょう。会津・桑名・彦根藩の藩兵が新撰組の連絡を受けて池田屋周辺を警護しはじめた辺りで長州藩邸の門が閉じられたのでした。


池田屋事件の時には有名な逸話も生まれています。その中の一つ“沖田総司の喀血”
これは史実的には全くのフィクションであることが最近明らかになってきました。
その証拠に永倉新八の手記には、
《沖田総司病気ニテ会所江引取》
としか書かれておらず、更に近藤勇の手紙にも、
《沖田総司昏倒》
としか書かれていないのです。

沖田総司と言えば労咳と喀血なのですが、労咳に冒され始めたのは3年後の慶応3年(1867)の事だったそうで、池田屋事件の時はただの貧血だったとか・・・
その時の養生で、5月30日に書いた女性と会うんですね~。


さて池田屋事件の時に、危うくその難を逃れた人物に桂小五郎が居ます。
彼は《予定よりも少し早めに池田屋に行ってしまったために志士達がまだ誰もおらず、少しずらして来ようと思って対馬藩邸に行き難を逃れた》と自分の回顧録に書いている。
しかし、対馬藩の記録の中に《桂小五郎は池田屋事件の時に屋根伝いに一番に逃げてきた》との記録が見つかったのです。
桂小五郎の回顧録が池田屋関係者の殆ど居なくなった明治に書かれた事から、一番最初に逃げた自分の不名誉を取り繕ったモノだと解釈されているのです。
桂小五郎がこの会合に参加すれば、その立場から会合同志の頭に祀り上げられる事は明白だったために、その煩わしさから逃げ出すつもりだったが、まったく顔を出さないのも変なので、誰も着ていない時間に顔を出し、池田屋主人に自分が来た事だけを印象付けたのではないか?との考え方もあります。

また、池田屋事件は桂小五郎が黒幕だったとの説もあります。
長州藩の起死回生としては過激すぎる“京都大火”に恐れをなした桂はこれを利用する事で長州藩の名実共に実力者になろうとしたのです。
まずは幕府方の役人に知れるように情報を流す。これに新撰組が乗っかってきたとか…。
そして、長州の実力者・吉田稔麿や維新後に生き残っていれば必ず首相になれたと言われる宮部鼎蔵等の邪魔者を始末したのです。
現に池田屋事件を知った桂は長州藩邸に行き救援の禁止を命令、その後にやって来た吉田稔麿は池田屋に戻る破目にもなってしまったのという物語はここから生まれます。
情報操作の元だったからこそ新撰組の池田屋襲撃を事前に知りえた桂。だから桂は一番に逃げられたとも考えられるのです。

≪長州藩邸跡≫



幕末史を語るには欠かせない池田屋事件。
「池田屋事件で明治維新が一年遅れた」と俗に言われていますが、この後に続く佐久間象山暗殺事件の方がもっと維新を遅らす原因になったと思います。
その後長州は池田屋事件の報復に“禁門の変”を起こし望み通り京を丸焼きにします。
そしてこの事により長州征伐の口実を幕府に与え屈服した事で長州の保守派は消え去り倒幕への進みは速くなったのではないでしょうか?
「池田屋事件は倒幕を十年早めた」と書いた人もいるが、もしかしたらこっちの方が正しいのかもしれませんね。
でも当の新撰組隊士達は、この後に給金が増えて女性を囲えるようになった事が一番嬉しかったという事ですから、歴史の転換期って知らない内に起るモノなんですね。


最後に池田屋事件で悲劇的な運命に遭った人をご存知でしょうか?
その人は、“まさ”
河原町御池の酒房近江屋女将で、池田屋事件の時に長州藩士吉岡庄助と会津藩兵の斬りあいにまき込まれ死んでしまった女性なのです。
宿の主人・池田屋惣兵衛の悲劇や多くの志士達の死を惜しみ現在でも墓参りをする人もいますが、こんな女性こそが本当に知らなければならない人なのかもしれませんね。