彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

第1回24時間チャリティービーチボール大会

2008年08月31日 | イベント
『井伊直弼と開国150年祭』協賛事業の「24時間チャリティービーチボール大会」が彦根市稲枝地区体育館で行われました。

ビーチボールは、ビーチバレーと間違われやすい競技ですが、ビーチバレーにイメージされるような激しいスポーツではなく。ビーチボールを使用してバレーボールとバトミントンを合わせた様なルールで行うスポーツです。

軽いボールと、空気の流れで変わってしまう予想外の動き。
そしてチームで行う球技ということで、高齢者や運動に自信が無い方でも気軽に楽しめるので近年全国的に広がりを見せているスポーツでもあります。


そんなビーチボールを24時間行ってチャリティー活動として役立てて、また広く普及しようと言う目的で行われて居たのが「24時間チャリティービーチボール大会」です。

8月30日午前10時~31日午前10時まで、様々なチームが集い、日頃の練習の成果を発揮しています。
参加者も、彦根市内だけではなく奈良県・愛知県・石川県にまで広がっていて、ビーチボールの大きな輪ができている事を実感できますよ。
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桜田門外異聞「彦根藩士の歌碑」

2008年08月30日 | 史跡
吉村昭さんの『史実を歩く』という作品に、桜田門外の変から逃げ出した彦根藩士が匿われた寺があり、そこには墓もある。
みたいな内容の手紙をもらいそこを訪ねた。という記述があります(内容は略しています)。

そのお寺は、川崎市多摩区のという場所でした。
このお寺はとても古い由緒があり、歴史の証人とも言える場所だったのです。

住職さんを訪ねて話をお聞きすると・・・
ここにあるのはお墓ではなく歌碑との事でした
桜田門外の変の時に彦根藩士として現場に居た畑権助(72歳)は、桜田門外で君主の首が落とされるのを目撃したのです。
事件の後に彦根藩士たちが、水戸藩に仕返しをしようとする合議を開き、ここに権助も加わったのですが、老齢を理由に同志から外されたのでした。
これを儚んだ権助は、多摩の名刹だった廣寺に入り君主・井伊直弼の菩提をともらい、やがて近くの寺の寺男となって亡くなった。との事でした。

この碑は裏に「彦城隠士 畑権助 法名秀元 文久三年 歳七十五建」と刻まれていました。
表の字は和歌らしいのですが達筆すぎて読めませんでした。

桜田門外の変には、様々な人間ドラマがあったことでしょう。
畑のように現場に居ながらも何らかの理由で去る事になった者も他に居たのかもしれません。


廣寺は不思議な因縁により今は彦根藩に関わっています。
まずは、この畑の歌碑
そして、ご住職は彦根藩重臣の犬塚氏の末裔
この寺の近くには彦根藩士・相馬永胤が開校した専修大学があります。
これらの縁を疑問に感じてご住職に訪ねたところ「不思議な縁」としか考えられないとのお答えでした。
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8月19日、鼠小僧処刑

2008年08月19日 | 何の日?
天保3年(1832)8月19日、5月8日に浜町松平邸で捕まった鼠小僧次郎吉が江戸市中引き回し後に鈴ヶ森処刑場で獄門(打ち首のうえ晒し首にする刑)になる。享年36歳。


元々大名屋敷しか狙わなかった次郎吉の盗みは大名達が面目を保つために被害届を出していなかったので犯罪として成立していません。また次郎吉の家からは証拠となるお金が全然出て来ませんでした。

この事から義賊説が出て庶民の人気を呼びますが、実際は博打と女に使っていた事が証明されています。
しかし取り調べに手間は掛かりませんでした、次郎吉はどこでいくら盗んだかを全て記憶していたのです。そしてその内容に全ての人が驚いたのでした。

御三家御三卿を始め主な大名屋敷は全て盗みに入られていたのです。
こうして武士達は恨み晴らしの為に次郎吉を“市中引き回しの上獄門”としたのです。
当時の規則では人を傷つかなかった盗みは打ち首だけで終わった筈なのに、次郎吉は引き回しと晒し首という公正でない裁きを下した事に対する理不尽さは当時から反発を生んだと言われています。


次郎吉の処刑は江戸時代の処刑の一番悲惨なものを見ないで済んだために、江戸市民からは暖かい目で見送られました。

彼は盗賊になる前に親から勘当を受けて親兄弟との縁が切れた無宿人になっていて、尚且つ何人か居た隠し妻にも何故か捕まる直前に離縁状を書いて渡していたのです。
つまり、当時の一番の悲劇・連座制を適用される身内が居なかったのでした。
自分の罪を自分一人で被って死んだ事になりますね。

次郎吉が引き回しの時に詠んだとされる辞世の句
“天の下 ふるきためしは 白波の
    みこそ鼠と あらわれにける”
しかしこれは、赤穂事件の浅野内匠頭の辞世と同じく後世の人の作だと言われています。



ちなみに余談ですが・・・
市中引き回しと言うのは当時の江戸庶民のイベントの一つだったそうです。
作家・宮部みゆきさんの本に面白い話が紹介してありました。
《引廻しの道中、見物人のなかに、乳飲み子を抱いた若い母親がいました。彼女が赤子に乳をやっているのを見て、「あの乳が飲みたい」と所望。すると役人はどうしたか?
若い母親に命じて、飲ませてやったそうです。いい迷惑ですね!!!》
引き回し死出の旅という事で、罪人の望みは大体叶えられるものだったのです。

逆に被害者の遺族の近所を通るなどの遺族へのサービス(?)も行われていたそうですよ。



この話をここで紹介しましたが、彦根藩とは全く関係がありません。
ただ、次郎吉は江戸城以外の大名屋敷はほとんど忍び込んだそうですので、もしかしたら彦根藩の屋敷も被害に遭った可能性はあるのではないでしょうか?

調べてみたのですが解りませんでした、もしご存知の方が居られましたらご教示下さりたく、この話を敢えて紹介しました。
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8月15日、徳川斉昭死去

2008年08月15日 | 何の日?
萬延元年(1860)8月15日、水戸藩前藩主・徳川斉昭が死去しました。61歳。

徳川斉昭は個性の強い人物として幕末史の中でも賛否両論ですが、その個性から幕府をかき回したときもあれば、時には幕府の重責を担って進めていくこともあったのです。

その激しさは「烈公」という呼び名にも表されています。

水戸藩は『尊王攘夷』の総本山と言われている場所で、そんな水戸藩で藩政を握っていた斉昭は極端な異国嫌いの攘夷派としてドラマや小説で描かれますが、実は西洋の品々には大変な興味を持っていて、幕府に命じられて西洋船建造にも着手していたのです。

そんな斉昭にとって自慢の息子が七男で御三卿の一橋家に養子に入った一橋慶喜だったのです。
一橋家に入った事で、水戸家では認められていなかった将軍継嗣の権利を持つことになった慶喜を将軍に据えるために様々な政事工作を行いました。
まずは13代将軍継嗣で徳川家定と争わせ、そして14代将軍継嗣では紀州慶福とも争い、どちらにも敗北したのです。

特に慶福との争いには納得がいかなかった斉昭は、その後に行われた『日米修好通商条約』締結問題で責任者の井伊直弼を追及する事で直弼を辞任に追い込み、勢いで慶喜を14代将軍に就任させようとしましたが失敗。

続く安政の大獄で永蟄居を命じられ、この報復が桜田門外の変に繋がったといわれています。


桜田門外の変が起こったおよそ半年後・・・
水戸城内で中秋の名月を楽しむ月見の宴(新暦の9月29日)を楽しんだ斉昭は厠に立った後に俄かに斃れこみ、そのまま亡くなったのです。
心筋梗塞と伝わっています。61歳でした。

しかし、斉昭の死には不審な点も多く、当時から彦根藩士の報復という噂が絶えませんでした。
その最終力候補と言われているのが、第一次大隈重信内閣で司法大臣を務めた大東義徹だと言われています。
(この話は、信原潤一郎さんの『修羅の武士道』という小説にもなっていますので、桜田門以降の彦根藩を知る物語にもなります)

ちなみに、この水戸斉昭暗殺説は滋賀県民の研究対象にもなりやすいようで、元内閣総理大臣。宇野宗佑さんもこの説の支持者だったそうです。
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夕涼み狂言

2008年08月10日 | イベント
彦根城博物館でお盆近くに行われる大蔵流狂言『夕涼み狂言』が今年も行われました。

 狂言は昔ながらの芸能の一つですので、とても難しいように思われていますが、実際に観てみると、現代人にわかり易い言葉回しが使われていて、その話し方や動作にも滑稽さがありとても親しみが湧きます。
 それで居ながら、彦根城博物館の能舞台という本物の歴史的な舞台を使うことによって趣が付加されてくるのです。
 この夕涼み狂言を演じている茂山千五郎家は、天保元年(1830)の彦根藩十二代藩主井伊直亮の時代に、『枕物狂』という狂言で、狂言の一番難しいとされる曲を演じていたシテが急病で倒れ、地謡(斉唱団)にでていた茂山千五郎(九世)がとっさに演じついでに一曲を無事に終わらせた。その実力が認められて彦根藩お抱え狂言師となった家でした。
 そして井伊直弼も稽古の相手として茂山千五郎家を大切にし、直弼自身が書いた狂言『鬼ヶ宿』が伝わっています。そんな彦根にとってとても縁が深い名家が演じるイベントでもあるのです。


では今回演じられた3つの番組を、解説書きの頼るよりは茂山逸平さんの解説の言葉をできるだけ借りてご紹介しましょう。
「入間川」
 都で訴訟の仕事があって長々と都に居た大名が、仕事が終わって太郎冠者を連れて国許へ降る。その最中に「入間川」という川がありました。
 この川は今もあります、携帯電話で調べると日本にはたくさん入間川があるのですが、この狂言の入間川は埼玉の川だそうです。
 そこに嘘か本当か?昔“逆さ言葉”を使う風習があったみたいです。本当にそんな事があるのかどうかは実際にインタビューもしていませんし研究している方に聴いた事もありませんが、あったそうです。
“逆さ言葉”がどういうものかといえば、「(猛暑日の)今日は暑くない」「今日は涼しい」という事です。これが“逆さ言葉”ですが、入間川を通った大名が「逆さ言葉面白い、もっと聞きたい、もっと聞くにはどうしたらいいだろう?」という事で自分の身の回りにある物を使って入間川の人と“逆さ言葉”でやりとりをしあいます。

「魚説教」
 ついこの間まで、漁師さんだった人がふと思い立ってお坊さんになりました。ふと思い立ってお坊さんになったんですよ(笑)
 その元漁師は「よくよく考えると私は都に行った事が無い、行った事が無いので見物がてら都に行っていい檀家さんが居たらそこに足をとめてお坊さんにしてもらおう」と旅に出るんです。
 お芝居ですのでうってつけの人が出てくるんです、出てこないとお話になりませんよね。
 その方は、元漁師と言いますかお坊さんを連れて都に行くのですが、信心が深いのか真面目なのか?さっそくに「お説法が聞きたい」と言いました。
 もちろん新米のお坊さんはこの前まで漁師しかしていませんので「どうしよう、私は元漁師だ魚の名前は知っている、魚の名前を並べといたら分るやろう」と。大胆な狂言ですね(笑)
 魚説経という狂言自体(茂山逸平さんは)大ファンなんです。ふと思い立ってお坊さんに成れるんです、それを連れて帰ってしまう信心深い方が居るんです。単純と言いますか大胆にできているお芝居です。
 ただ、見事に元々にあるようなお経を魚に名を並べながらお経のようになっています。これがこの狂言の一つの見所にもなっています。

「神鳴」
 今降って欲しいような雷さんがドンと落ちてきて、落ちてきたら困りますね(笑)少し雨を降らせて涼しくして頂きたいとは思いますが・・・
 これも大胆な狂言です。
 一人のお医者さんが出てきます。でも実はちょっとやぶ医者なんです。だから京都に居ても儲からないので東(江戸)の方は昔は栄えていなかったので、あちらに行けばお医者さんも少なくて儲かるかも知れない・・・という事で江戸に向かって旅をしている最中に雷さんが落ちてくるんです!
 そして雷さんが落ちた拍子に腰を痛めるんです、そしてふと見るとお医者さんが居る。雷さんは「おい、お前治せよ」人間のお医者さんに雷さんが「治せ」と言う。そして治るんです。雷さんを治せるんです(笑) 名医ですよね、そのまま京都に帰った方が良い様に思うのですが(笑)
 そんな名医が雷さんに針治療という大胆な治療で治すんです。そしてやっぱりそこは人間です、お代を要求します。
 で「雷さんやから持ってへんのかな?」って思うんですが、実は「今日はふと落ちたから持ってないんや」という事。いつもは持ってるという事ですかね?
 なので「望みを叶えてやろう」ということで日照りや水害を無いように守ってあげるという御礼をするという、非常に心温まるストーリーですね。
 ただ狂言のお芝居ですのでそんなに心温まるお話だけではないのですかね、でも大胆で非常に面白いストーリーです。
 地上に雷さんが落ちてくるんです。狂言はドリフより早いんです!


 こんな感じの3つの狂言を見ていただきますが、今回は旅の途中という共通点があります。狂言にはあまり地名を特定する言葉が出てこないのですが、『入間川』では“駿河の国”“武蔵の国”“入間川”“京都”の4つ、『魚説経』では“兵庫の浦”“都”が出てきます、『神鳴』では“都”“東”と場所を限定した狂言を楽しんでいただけます。



・・・興味が沸きましたか?
 芸能ですので、まずは観て下さることをお薦めします。


 最後に『どんつき瓦版』記者として、舞台の後に茂山千五郎さんにインタビューを行いましたので、その様子をお届けします。

管理人「今日始めて狂言を見させていただきました、今まで堅い物と思っていたのですが凄く解り易かったですがこれは昔からなのですか?」

茂山さん「昔は式典の中の一つなので、そんなに面白くなかった。その時は家元制だったのですが明治になって家元制が無くなったのです。千五郎家でも井伊家のお抱えでしたが、それが無くなった時にこれぞれの家(野村家とか和泉家など)ごとに工夫が始まり、千五郎家もわかり易いと言っていただいています」

管理人「茂山家の井伊家に抱えられるエピーソードにプロの意識の強さを感じて大好きなのですが、やはり茂山家では意識を高く持っておられるのですか?」

茂山さん「本当は後見は変わるもので、私から言えば当たり前の事なのです。あのエピソードでは正虎(九世茂山千五郎)はアルバイトに行っていた様なものだったんです。そこで井伊直弼さんが感動されて抱える。本当は当たり前の事なのです。
 古典芸能ですのでいつ絶えるか分らない、そこで成人式までに一生分を習ってしまいます。成人の時に『釣狐』という体力的に難しい狂言をまず初演します。それが卒業論文の様な物で、それを演じる時には大体一生の分を習い終えてしまうのです。全部習う訳ではありませんが書物を見るなどで自分が考えていくのです。
 正虎も家元から戻って来る時にそれらを修めて帰って来ているので、すっとできたのです」

管理人「彦根は150年祭で井伊直弼のお祭りをしていますが、井伊直弼はどんな人物だと思いますか?」

茂山さん「会ってないので分りませんが、文化的に言えば初めは藩主になるつもりがなく、だから文化的なことをされたと聞いていますが、もの凄く気が強い人と思います。
 余談ですが祖父に聞いた話では、家元はどこかに抱えられないといけない訳ですが『井伊家だけは止めた方がいい』との噂があったそうです。
 曲目を言わないままに『シテと太郎冠者の格好をして出て来い』と言われ幕が開いて謡に入る前に『これをやれ』と言われそれができなかったら一週間の閉門だったそうです。
 そんな厳しい方だったんです、それが偶然にも井伊家から抱えて下さったわけです、だからお断りもできなかったのだとか・・・
 それほど能楽者の中では『彦根はちょっと・・・』って事があったと聞いています」


 井伊家の役者泣かせのお話は初耳でしたので、大きな収穫となりました。また井伊直弼の文化に対する熱心さを示すエピソードにもなるのではないでしょうか?
 茂山千五郎さんは、お疲れの中を快くそして終始笑顔で質問に答えて下さいました。これからもこの時期には『夕涼み狂言』が開催されますので、百聞は一見に如かずといいますから、ぜひその目で確かめてみてください。
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彦根新和菓子「いいかもん~蒸気船~」

2008年08月03日 | イベント
『井伊直弼と開国150年祭』に向けた市民創造事業として、滋賀大学経済学部SIFEでは「彦根の新しい和菓子」開発プロジェクトが始まりました。

そして四番町スクエア内の和菓子屋・わかくさ堂との共同開発で、新しい和菓子『いいかもんシリーズ』の第一弾となる“蒸気船”が完成し、8月3日より販売されています。


“いいかもん~蒸気船~”
ブルーハワイにレモン汁を加えた青くラムネ風味の餡に、蒸気船(黒船)をかたどった模様を乗せ葛で包む事で、さっぱりとしていて夏向けであり開国のきっかけとなった黒船来航を表しています。
そう言えば黒船来航も当時の6月3日、現代では7月8日の夏ですから時期のイメージも合いますね。

嘉永6年(1853)の日本では大騒ぎとなった黒船、それまでも何度も江戸湾にやってきていた異国船に対し、なぜこの時の黒船だけが大騒ぎになったのかといえば、それはそれまでの帆船とは違って蒸気船だったという事です。

「泰平の 眠りをさます正喜撰 たった四杯で夜も眠れず」
高価だったお茶の「正喜撰」を「蒸気船」に重ね、値段の高さとお茶を飲んだ後の興奮で四杯で夜が眠れなくなる様を、四隻の船の来航で夜もおちおち眠れなくなる様子と合わせた、今にも伝わる有名な狂歌です。

当時の狂歌を知って「蒸気船」と命名されたという事ですので、青い海にのんびりと浮かぶようなイメージの和菓子でありながらその裏には蒸気船来航による混乱すら表しているのかもしれませんね。


この和菓子つくりのきっかけは、滋賀大学SIFEが地域活性化の為に何ができるかと考え以前にアンケートをとると、和菓子の需要があり、そこからまた調査を進め新しい味作りへと動いたのだとか。
そして、和菓子作りは150年祭を通しての計画としてこれからも作って行きたいとのことでした。

イメージばかりが先行してしまい拘り過ぎた事から、和菓子を1から勉強するきっかけにもなったそうです。


これからはの目標として
150年祭に来て頂いた方のお土産として持っていただけるような、一年を通して売り出せて家に帰っても楽しめるようなお菓子を考えていきたい。
との事でした。


今回の和菓子“いいかもん~蒸気船~”は、
四番町スクエア内のわかくさ堂で9月上旬まで販売されます。
1日20個くらいの限定商品となってしまいますので、お早めにお試し下さいね。
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赤祭り

2008年08月03日 | イベント
国宝彦根城400年祭の時に行われ、今年が第二回目となる赤祭りが開催されました。

今回の開場は彦根城大手前広場。
お城の麓に赤い車や赤い服を着た人々が集合し、天守から眺めても赤・赤・赤の空間が出来上がっていたそうです。

赤い車のパレードがあり、屋形船は特別桟橋が作られといつもとは違う形で彦根城が染まった時間となりました。
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花火の後の清掃活動

2008年08月02日 | イベント
毎年8月1日は、松原水泳場付近で『彦根大花火大会』が行われます。

花火はとても雄大で綺麗なイベントなのですが、そんな楽しいイベントの夢を空しく覚めさせてしまうのが後に残る大量のゴミでした。

本来なら持ち帰っていただくのが原則ですが、ゴミ箱に捨てられたゴミならばまだ処理もしやすいのですが、困るのは投棄されたままになってしまうゴミたちです。
例年では花火終了後に大会関係者の方々が暗く危ない中を清掃されていました。

しかし、能率も悪く危険性も高かったので今年は市民のボランティアの力を集めての翌朝の清掃となったのです。


8月2日午前7時。
彦根港近くの集合場所には250人近い市民が集まりました。
特に目を惹くのが、この地域を学区に含んでいる彦根西中学校の生徒さん約80名です。
他にも様々な団体からもボランティアとしての清掃活動に参加されました。

幾つかのグループに分かれて清掃が始まります。
コンビニ袋に詰めて投棄されたゴミ、缶、ペットボトル・・・
場所によっては釣り人が捨てたと思われる釣り糸まで、ありとあらゆるゴミが集められていきます。

特に多いのがタバコの吸殻でした。
最近では、喫煙者の方が可哀相になるくらいに倦厭されているタバコですが、これ程に吸殻が投棄されていると、ますます不快感が募るのではないでしょうか?
一回のポイ捨てが喫煙者の身を少し縮めてしまうのでしょう。

他のゴミも含めてですが、誰もが気持ち良くイベントを終える事ができるマナーを守ってこそ本当にイベントを満喫した事になるのだと思います。


作業を終えた中学生たちに「タバコをポイ捨てする大人にならないように」と改めて伝えなければならないような情けない大人の行為が減る事を願うばかりです。
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八朔

2008年08月01日 | 何の日?
江戸時代、“八朔”という行事がありました。

“朔”とは新月の事を指して太陰暦の1日を意味する言葉です、そして“八朔”とは8月1日の事を指すんですよ。


天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸城に入城。
これを記念して毎年この日は江戸に居る大名は白帷子に長袴で総登城する習慣ができたのです。

また、家康によってその権利が認められた吉原もこの日に白無垢を着る習慣になっていたそうですよ。
家康が入城した頃の江戸は荒地に近い土地で、家康は大規模な開拓で近隣に町を作っていきました。
そして、その初期の頃に出来た町や村には“八朔”と言う地名を与えているんです。

そんな“八朔”の地名を貰った土地の一つである都筑郡八朔村(現・横浜市)は後世になって蜜柑の新品種栽培に成功します。これは『はっさくミカン』と名付けられて“はっさく”と言う言葉を私たちの身近な物にしてくれました。


元々徳川家康の江戸入りは、小田原の陣で豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし、その後始末の意味が込められていました。
ここで関東の治世に失敗すればそれを理由に徳川家断絶もあったかもしれないのです。

またこの時に秀吉は徳川家臣団の内紛を誘うような沙汰も下したのです。
それが家臣の領地配分に付いてでした。
秀吉は、徳川家譜代の重臣である本多忠勝や榊原康政には10万石
家康の幼い頃からの友でもある家臣の鳥居元忠や、三河で一族が繁栄していた大久保忠世には4万石しか与えさせず、新参者だった井伊直政に12万石を与えさせたのでした。

もし、ここで徳川家臣団に亀裂が入れば秀吉の思う壺だったのですが、そうはならなかったのです。

こうして井伊直政は突然徳川家筆頭家老になったのです。
直政は交通の要所であった箕輪城を与えられ居城とします、この直後に秀吉から箕輪運営に付いて直接手紙がきたようですので、秀吉の策は相当のものだったのでしょう。


箕輪入城後の直政は前年度の年貢免除などの政策をうち立てて善政を施します。
そして山城だった箕輪城から平城である和田城へ移転し、和田城を改築、高崎城と改名したのです(写真は高崎城乾櫓)。


江戸時代になって井伊家が去った高崎城では、歴史に残る大きな事件の終焉の地となりました。
それは三代将軍の跡目争い。
徳川家光の弟でありながら将軍就任を望んだ徳川忠長は、高崎城に幽閉されこの地で自害して果てたのです。寛永10年(1634)12月6日のことでした。
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