彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大分旅行記1:石垣原古戦場

2013年08月28日 | 史跡
大分県の別府と中津に行ってきました。大河ドラマ『軍師 官兵衛』の関連地巡りのためです。
ほぼ日帰りコースだったので、必要な場所以外は行きませんでしたから、別府と言えども温泉は入っていません(笑)
そういえば、名物も何だったのか全く分からずです…(おいおい)


とりあえず、早朝に別府駅をスタートして、石垣原古戦場巡り。
石垣原の戦いは、慶長5年(1600)9月13日に今の別府市街地で行われた戦いで、西の関ケ原(九州の関ケ原)とも言われています。
中津城の留守をしていた黒田如水は、城の金蔵を開いて近隣から兵を集めて3000近い軍勢となりました。中央での戦いのために徳川家康や石田三成に招聘されていて九州の各城の兵力が少なかったことを見越して、この3000の軍勢を率いて九州を制圧し、そのまま中央の戦いで勝利した方と決戦をしようとしたとも言われています。
そんな黒田如水が中津から挙兵して、最初に行った大きな戦が石垣原の戦いだったのです。
相手は大友宗麟の息子の大友義統。すでに国を追われていたのですが石田三成の援助で豊後に戻ってきていました。兵力は900とも2000とも言われています。

まずはそんな大友義統の本陣は立石に置きました。

ここには田原紹忍という重臣も控えていました。

右翼には重臣の吉弘統幸の陣。大友家滅亡後は立花宗茂に仕えていたのですが、義統が戻ってきたので大友家に帰ってきた武将です。

この地から市街地を観てみました。

左翼は宗像鎮続の陣があります。そして宗像の墓は本陣近くの天満宮に

宗像と田原は中川家に仕えていて、この時に中川家の旗を勝手に持ち出して上げたので、戦いの跡で中川家は徳川家康に対する弁明に苦労します。




さて、ここから市街地を挟んだ反対側に黒田如水の陣が置かれます。

ただし、如水自身は戦が終わった後に到着したそうで、そのまま実相寺山頂に登って首実検を行います。
その跡地は現在はお寺の搭になっています。


そして両陣の間が古戦場です。
今でも古戦場の地名を残していて、古戦場橋という橋も架かっています。
その周囲の川は古戦場です。

近くの民家の前に石碑や

供養の塔やお地蔵さまもあります。
 
また、この戦いの一番の猛将は吉弘統幸だったようで、吉弘が黒田軍の顔なじみだった井上之房と戦った付近にあった大石が残っています。

これは七ツ石という場所で、ここには神社もあります。

そして吉弘自身は討死し、墓が作られました。

祠の横の石が墓石

この地は、そのまま吉弘神社となっています。



石垣原の戦いは、9月13日正午に大友勢から戦を仕掛け、この戦いで死を覚悟していた吉弘や宗像の奮戦で黒田勢を押していました。しかし吉弘が井上に討たれたことで形成が逆転し夕方頃に決着がつき、大友義統や田原紹忍は立石城に引きました。
そして義統は黒田如水に降伏し軍勢に組み込まれ、戦後は秋田実季にお預けとなります。
紹忍は偽旗を使った中川家に戻り、続く戦の中で討死します。
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150年前:大和屋事件(8月12日)

2013年08月12日 | 何の日?
文久3年(1863)8月12日、芹沢鴨が大和屋事件を起こします。

大和屋は、この少し前に脅されながら天誅組に軍資金を提供します。
天誅組は大和(奈良)に籠って反幕の旗を挙げた土佐浪人を中心とする集団で、ここに資金提供をするという事は謀反人の懲らしめになるとも考えられたのです。
芹沢鴨はこの時に30人近い隊士を連れて木砲も持ち出したといわれているのですが、木砲を撃ったかどうかは諸説があります。

実際に判っている事だけを書くなら、鉄砲を撃ち込んで、火を放ち、建物や家財道具は打ち壊して路上に放り出したのです。
この時、試衛館の人々は大坂の事件で親しくなった小野川部屋の相撲興行を手伝っていたという話が伝わっているのですが、実際の事は解かっていないのです。


ただ、この一件で芹沢鴨は良くも悪くも京で大いに知られ畏れられる存在になったのです。
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