彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

10月31日、第一次大隈重信内閣崩壊

2011年10月31日 | 何の日?
明治31年(1898)10月31日、第一次大隈重信内閣が瓦解し11月8日に総辞職しました。

第三次伊藤博文内閣の総辞職によって組閣された大隈重信内閣は明治31年6月30日から政務を行いましたが、その中には軍人を軍部大臣のみに推し止めるという当時としては画期的な人選で、実質的な日本最初の政党内閣だったのです。
しかし、新しいことを行うということは敵も多いということで、組閣当初から周囲の攻撃は理不尽に大きかったのです。そのうえで第一政党としての憲政党自体も、大隈重信や大東義徹・尾崎行雄らの旧進歩党と、板垣退助(内務大臣)らの旧自由党での内部争いも激化していたのでした。

とくに板垣退助は、星亨を外務大臣とするように依頼しますが大隈重信はこれを拒否して自分自身が外務大臣を兼任してしまうのです。


そして8月21日に尾崎行雄が共和演説事件を起こして失言を理由に辞任。後任には犬養毅が任じられますが、内閣内外からの批判が多く、犬養就任の翌日(10月28日)に板垣退助ら旧自由党の人々が辞任し、修正できないままに31日になって内閣が崩壊したのです。

失言問題や、新しい試みを複数政党が集まった形で行おうとして、意見が合わずに政党内が崩壊し、衰退の一途を辿る。
このようなことは、明治時代に既に行われていた事件だったのです。



ちなみに、この内閣の司法大臣が大東義徹。戦前で唯一の滋賀県出身の大臣であり旧彦根藩士であり、近江鉄道初代社長です。

150年前:和宮出発(10月20日)

2011年10月20日 | 何の日?
文久元年(1861)10月20日、和宮が関東に下向するために桂御所を出発しました。

和宮が、将軍降嫁することを兄である孝明天皇が認めて勅許を出したのは、前年10月18日ですので、勅許から出発までに1年を要したことになります。
それは、準備に必要な時間と言うよりは、幕府と朝廷が外国との交流をどのようにするのかを決定付けるための時間でもありました。
既に開国してしまい、諸外国との付き合いがなければ日本が滅びることを確信している幕府と、日本が神の国と信じて外国人を妖怪の類と思いこんでいた孝明天皇や公家たちの間の溝は大きすぎたのです。
結局、幕府が攘夷を決行することを約束するのを条件に和宮降嫁が実現したのです。

長い武家政権のなかで、皇女が武家に嫁ぐ唯一の例が和宮でした。
この為に、道中で和宮が奪われる可能性もあたったために、道はアップダウンが激しい山道ながらも浦海道のような役割を果たしていた中山道が工程に組み込まれたのです。
この行列の警護ぶりは過剰で、3万人が約50Km の長さを作って進んだ行列が通過する時には住民が外出すること、沿道で商売をすることを禁止し、寺の鐘などの鳴り物や、動物の鳴き声も厳重に警戒され禁止されたのです。

湖東に関わる2つの映像作品

2011年10月17日 | その他
10月15日、ついに『一命』が全国上映となりました。
以前にも書きました通り、これは武士道をさまざまな角度から取り上げた、作品です。
そして舞台が彦根藩上屋敷。
そう、井伊家でのお話なのです。

もう一つ10月16日にTBS系列で『南極大陸』というドラマが放送されました。
南極大陸は第一次南極観測隊の苦難を描いた作品で、タロとジロの二匹の犬の物語と共に知られています。
この作品で香川照之さんが演じられている星野英太郎のモデルは、西堀栄三郎で、第一次越冬隊隊長となり、原子力研究所理事も務めた人物です。
東近江市(旧湖東町)にある『西堀栄三郎記念館 探検の殿堂』は、そんな西堀栄三郎の功績を紹介した場所です。

『関ヶ原合戦祭2011』

2011年10月16日 | イベント
関ヶ原合戦祭2011を少し覗いてきました。
10月15日16日と行われたのですが、16日だけ覗いてみました。

管理人が行った時には、ちょうど関ヶ原トークバトルが始まろうとしている時でした。

さくらゆきの小栗さくらさんと坂本雅央さんの司会のもとで、観客から参加者を募ってテーマについて語るという企画です。

今年のテーマは「関ヶ原で一番輝いていた武将」

候補は
東軍:井伊直政・黒田長政・福島正則
西軍:宇喜多秀家・大谷吉継・島左近

これは、井伊直政を語らねばなりません。

というわけで、井伊直政押しで参加しました。
参加者は、東軍はおっさんばかり(笑)西軍は若い女性ばかりでした…
この時点で負けたな東軍(苦笑)


管理人は、井伊直政押しとして、関ヶ原が井伊で始まり井伊で終わったということを戦いだけではなく、石田三成を七将が襲った時に、三成が逃げ込んだのは家康の屋敷ではなく伏見の三成自身の屋敷で、そこを囲んだ七将と交渉して兵を引かせたのが直政であったこと。本来関ヶ原の徳川家康隊の軍艦は直政のみが担当で、直政が江戸で病に倒れたから急きょ本多忠勝が呼ばれたこと。関ヶ原の後に真田昌幸・信繫(幸村)が切腹だった筈が直政の口添えで助命されたことを話しました。

最終的に、輝いた武将は大谷吉継との総意になりましたが、なかなかおもしろかったです。
というか、関ヶ原の笹尾山のイベントで吉継に勝てる人気者はいないよね(笑)
参加賞として、イベントの大きなポスターと、平日しか手に入らないという6人の武将の千社札を貰いました。
子の千社札の中にも井伊直政は入っていますので、やはり直政の関ヶ原での活躍は公認されているんですね。


その後、甲冑隊を見学





相変わらず、関ヶ原の甲冑隊は人数も武将も多くてクオリティが高いです。