彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根城総構え400年(9)

2022年07月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本人の識字率は世界最高基準である。当たり前のように文字を読み文字を書く、ひらがな・カタカナ・漢字場合によってはアルファベットでも自由に使いこなしている。日本で住んでいると文字が読めないという環境がなかなか想像できないが、少ない割合とはいえども日本で文字が読めない人もいらっしゃる。そして世界に目を向ければ識字率の向上こそが大きな目標ともいえる。字を読んで理解するだけでも不利益を回避できることが多くあるからである。

 では、なぜ日本の識字率が高いのであろうか? その答えの一つに寺子屋がある。寺子屋は江戸時代中期辺りから全国に普及した初等教育施設である。始まりを遡ると室町時代に寺院で学問指導を行ったことではないかとされてきたが、近年の調査で奈良時代にも民間教育施設の痕跡が見られる発見があり、日本では想像するよりも古い時代から民衆の間でも文字を使う習慣があったとも考えられている。しかし日本国民の学問水準を飛躍的に向上させるのはやはり寺子屋であろう。

 江戸時代中期から徐々に増え始めた寺子屋は幕末には教育内容によって多彩な寺子屋が登場した。庶民として最低限の「読み(読書)書き(手習)そろばん(計算)」を教育する場から商人になるため、職人になるためなどの現在の専門学校に近い施設、女性の教養を教える施設もあったのだ。これに応じるように教師も武士・僧侶・職人・女性と多彩化して行く。基本的には六・七歳から十代前半までの子どもが朝から昼過ぎまで師の下で指導を受けるが現在のような授業方式ではなく生徒が個々に自らの学習を進め、師がそれぞれの能力に応じて個別指導を行っていた。このため、師弟の関係は生徒が寺子屋を卒業した後も続き一生の付き合いだったとされていて、師が亡くなったあとに生徒たちが師の遺徳を忍んで筆子塚と呼ばれる顕彰碑を建立し、歴史の中で忘れ去られる恩師の名を少しでも残したいと願った生徒たちの熱意が現在まで伝わってくる。

 さて、彦根藩領での寺子屋教育について詳細は公には知られていない。寛政8年(1796)井伊直中が12名の寺子屋師匠を召しだして「手跡指南職」として株仲間の制度に組み込む。指南職たちが管理した手跡指南所は幕末には9か所に減る。その9か所のひとつとして花しょうぶ通り商店街に残る寺子屋力石がある。手跡指南職の一家である力石氏が代々残してきた史料は現在滋賀大学経済学部に収蔵されていて時折調査報告がなされている。この調査が進むことで彦根藩領における寺子屋教育の実情が明らかになることを期待したい。 

 幕末、初代駐日米公使タウンゼント・ハリスは日本人の女性や子供までもが読書を楽しみ手紙を交換している姿を見て驚嘆し、日本を英語教育で植民地化しようとした方針を断念したとも言われている。


街の駅・寺子屋力石(彦根・花しょうぶ通り)
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