彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

ごぼう積み石垣

2006年08月27日 | 彦根城
石垣の歴史は安土城に始まるといわれています。安土城は日本史上で始めて全ての建物の土台に石垣が使われたお城だったからです。
しかし、実際には安土城以前にも石垣や石積みが使われている建物は存在しました。でも、それは城の重要部分の強化という目的でしかなかったのです。
信長から秀吉・家康へと政権が変わるのと同時に築城技術も大いに進歩して、石垣を作る技術も飛躍的に伸びていき、石垣の専門家誕生したのです。
そんな多くの専門家がそれぞれの技術を用いた為に、一概に石垣と言っても多くの種類が存在します。
例えば、「自然石をそのまま積んだ物」「石の一部を割ってできるだけ隙間を少なくして積んだ物」そして「隙間がないように全ての石を加工して積んだ物」、面白い所では「河原石の様な丸い石を積んだ物」などなど・・・

そんな中で、彦根城天守の石垣は「ごぼう積み」という技術が使われています。天守に行ってよく見てみると、できるだけ自然石を使い、大きな石と石の間に小さな石を埋め込むという技術が使われています。一見すると雑な感じもしますが、実は細かい計算の元に積まれているんですよ。
 
そして、彦根城天守台の石垣積みを指揮したのは、徳川家康の四男で、井伊直政の娘婿・松平忠吉でした。
忠吉は、関ヶ原の戦いで直政と一緒に先陣を駆けた位に直政といい関係を保っていたので、石垣にも力が入っていたのかも知れませんね。

玄宮園

2006年08月21日 | 彦根城
玄宮園の池に浮ぶ島
こんな何気ない風景にも美しさがありませんか?


玄宮園は、『長寿院大洞弁財天』のお話の時にも名前が出てきた4代藩主・井伊直興によって中国・唐代・玄宗皇帝の離宮になぞらえて造営された接客饗応の為の大名庭園で、玄宗の離宮を略して「玄宮園」と名付けられました。
大きな池を中心に臨池閣、凰翔台といった趣がある建物が建つ回遊式庭園になっています。

その池は、琵琶湖を模しているので、竹生島・沖の白石を表現する為の岩や樹木も置かれているんですよ。
そして、近江八景も表現されています。

近江八景の話も以前書きましたが、もう一度詳しく書くなら。
室町時代中期の明応9(1500)年8月13日に近江守護・六角高頼が近江に居た関白・近衛政家を招き、政家が中国の瀟湘八景に重ね合わせて近江八景の和歌八首を詠んだことが始まりです。
この為、その全てが湖南地域にかたまっています。
その内容は、
石山の秋月(いしやまのしゅうげつ)
勢田の夕照(せたのゆうしょう)
粟津の晴嵐(あわづのせいらん)
矢橋の帰帆(はばせのきはん)
三井の晩鐘(みいのばんしょう)
唐崎の夜雨(からさきのやう)
堅田の落雁(かたたのらくがん)
比良の暮雪(ひらのぼせつ)
全て、季節や時間による限定された期間の美しさを表しているんです。

琵琶湖を模して近江八景を表しただけでも、素晴らしい庭園なのですが、その背景に彦根山の樹林と彦根城天守や櫓を借景として、壮大でありながら、わび・さびのある風景となっていますので、時代劇でもよく使われていますよね。
有名なモノでは『暴れん坊将軍』で江戸城の庭園として登場するのが解かり易いでしょうか?

また、四季それぞれに楽しめる場所で、特に9月に行われる『虫の音を聞く会』は“日本の音百選”にも選ばれているんですよ。

彦根城周辺史跡スポット:「清涼寺」

2006年08月18日 | 史跡
夏の暑い一日、今日は彦根昔話の中から怖いお話をご紹介しましょう。


『清涼寺(せいりょうじ)の七不思議』


「ひぇ~」

静まりかえった清涼寺の境内に、小僧さんの悲鳴が響き渡りました。

「一体何があったんだ!」
「あれは、昨日は入って来た新入りの声だ!」
「墓地の方から声がしたぞ、行ってみよう!」

寺のお坊様や小坊主たちが墓地の方へ走って行くと、墓地の前にある池の側に新入りの小僧さんが腰を抜かして池を指差していました。

「あ、あそこに…、凄い顔の…お、女の人が…」

真っ青な顔で震えながら、言葉を口にするのもやっと、と言いたげな様子の小僧さんを見た一人のお坊様が

「何、池に女が。みんな、すぐにここを離れよう。ワシもここは気味が悪い…」

と、言ったので、みんな池を離れました。
池は、水が赤黒く濁り、風が吹くとさざ波の広がりが見ている者を池の底に引きずり込むような様子だったそうです。

「もう、大丈夫だ」
「あそこに何をしに行ったんだ?」

口々から出る言葉に、小僧さんは答えました。

「はい、池の周りが木の葉で汚れておりましたので、お掃除をしておりました。魚でも泳いでいるのかなぁ?と思い池を覗きましたら髪を振り乱した恐ろしい顔の女がこっちを睨んでいました、あぁ思い出すだけでも身の毛がよだつ…」

すると、年配の一人のお坊様が、
「やっぱりそうか、今は昼間なのに今日は天気が悪いからなぁ」
と、つぶやいたのです。

周りの者は、
「何か知っているんですか?」
と訊ねると、周囲はポツポツと雨が降り出してきました。
「お前たちが怖がるといけないから、何も言わないでいたがこの寺には幾つもの不思議な話がある。小僧が見たのは“血の池”と呼ばれていて、あの池は夜になると恐ろしい顔の女がうつしだされるんじゃ。
この寺は、井伊家のお殿様の菩提寺になっているが、裏の佐和山は豊臣秀吉が太閤さんだった頃に、秀吉の側近・石田三成のお城で、ここは三成の重臣・島左近の屋敷だった場所なんじゃが、関ケ原の戦いで三成が負けて、その二日後から徳川家康が平田山に陣を置いて、佐和山城を攻めた。
その日のうちに負けを悟った三成の父・正継と兄・正澄は、自分達の命と引き換えに城に残る家来や女性達の助命を願って、家康に認められたんじゃが、それを知らなかった田中吉政と小早川秀秋が翌朝に城に討ち入ってしまった。
こうして、佐和山城に居た2,800名余りの兵や女性達は混乱し、殆んどが殺された。
なんとか逃げようとした女性達も、城の前の谷に飛び込んで折り重なって死んだ、しかし、死にきれなかった者達の断末魔の叫びが三日三晩続いたそうじゃ、その谷は“女郎ヶ谷”と呼ばれて、その悲劇を今に伝えておるし、雨の降る日は女性達のむせ泣く声が聞こえるらしい…
そして、ここにも佐和山から流れた血が多く流れ込み、池を真っ赤に染め、本堂前のタブの木も多くの血を吸ったのじゃ
以来、池は女の顔を映し出し、タブの木は夜な夜な女に化けて見せるのじゃ」

年配のお坊様はそう言うと、佐和山の犠牲者の為にお経をあげると、雨はゆっくりと止んだ、女性達の涙雨は一時の安らぎを得たのかもしれません。


JPで彦根駅から米原駅に向かう途中、彦根駅を出発してすぐに彦根城とは反対側に佐和山城の名前を見る事ができます。
この近くには、井伊家に関わる幾つかの建物が並んでいるのが地図の上からでも分かりますね。

まずは、
井伊家の出身地・遠江井伊谷から移築した“龍潭寺”
井伊直弼の兄・直亮が建造し、今、保存の重要性が叫ばれている“井伊神社”
先日ご紹介した彦根の日光と賞された“大洞弁才天”
そして、今回の舞台・“清涼寺”
物語の中で、“血の池”と“娘に化けるタグの木(写真の中の木)”を紹介しましたが、ここには七不思議が残っていますので、あとの5つもご紹介します。

・“左近の南天”…島左近が愛した南天で、これに触れると腹痛を起こす
・“壁の月”…方丈の間は、島左近の居間を移したものといわれるが、壁に月形の影が現れ、寺側もことあるごとに何度も壁を塗りかえたが、一向に消えなかった。
・“唸(うな)り門”…左近の邸の表門だったもので、晩になると風もないのに低く唸り続けたという。なお、この門は安永5(1776)年の大火で消失。
・“洗濯井戸”…清涼寺の上方にある井戸で、左近はこの水で茶道を楽しんだ。この清く澄んだ井戸水を汲んで汚れ物をつけておくと一夜にして真っ白になってしまうと伝わっている
・“黒雲”…関ヶ原の役後、井伊家の家臣が戦利品の虫干しをしていると、突然、黒雲が湧き強風が戦利品をさらっていった。

清涼寺を訪ねると、その境内の広さに驚きます。
勿論、全国でも有名な名刹並の大きさがあるという訳ではありませんが、井伊家が家名の高さを呼び水に全国の高僧を集めた歴史があるために、修行道場としての名が高く、多くの修行僧を保護する建物として大きくなって行ったのかもしれません。
境内を中心に、何とも言い得ない空気の重力をヒシヒシと感じます。表の門をくぐってすぐに目に入るタグの木に恐ろしくも悲しい伝説を見る事は難しいですが、寺とその周囲に残る石田家郎党の悲劇を知るならば、その訴えを聞く事があるのかも知れませんね。

『七夕伝説』

2006年08月09日 | 何の日?
写真は七夕石


8月7日は「月遅れ七夕」と呼ばれています。
(少し日付がずれちゃいましたが・・・)

七夕を始めとする殆んどの年中行事は、太陰暦を中心に考えられたものでした。
そこで、暦が太陰暦から太陽暦に変わる時にこういった行事をどうするか? という事が重大な問題となったのです。
その結果、元旦や桃の節句・端午の節句・七夕など季節よりも日付を重要視されるモノはそのまま同じ日付に行事を行い、お盆のように時期が重要視される行事は1ヶ月遅れることになったのです。
ですから、今は8月15日になっているお盆も昔は7月15日だったんですよ。

ただし、日本の七夕には「稲が開花期に入り、害虫や風災害に気をつけるように」という注意と共に、身を清めて先祖の霊を迎える準備を行う大切な日でもありました。
このため、季節感が合う1ヵ月後の8月7日に七夕まつりを行う地域も増えてきたのです。
彦根市内中心部で8月4日~8日に行われる七夕まつりや、仙台での七夕まつりが今日を中心に行われているのもこういった事情があるんですよ。

ちなみに、彦根の北側の旧近江町と旧米原町の境を流れる天野川には、その名前の示す通り日本の七夕伝説の発祥の地とも言われているお話が残っています。
 
蛭子(ひるこ)神社で発見された『世継縁起之叟』という古文書によると・・・
雄略天皇の第四皇子、星河稚宮皇子(ほしかわ・わかみやの・おうじ)と仁賢天皇の第二皇女、朝嬬皇女(あさづまの・ひめみこ)は天野川を隔ててそれぞれに仏道の修行を積んでいたのです。そんな二人はいつしか恋に落ちるようになったのでした。
しかし、間柄は叔父と姪(星河稚宮皇子の姉が仁賢天皇の皇后)だったので、会うこともままならないような悲恋だったのです。

その二人の墓が天野川を挟んで残っています。
星河稚宮皇子の墓が米原市の朝妻神社の石塔で彦星塚
朝嬬皇女の墓が近江町世継の蛭子神社の七夕石(朝嬬皇女の墓は元々天野川の上流に円墳の立派な古墳があったのですが、天野川の洪水で流れてしまい、残った自然石をここに祀ったそうです)

ちなみに、男性が七夕石、女性が彦星塚にお参りすると恋が成就すると言われています。
そして上記の『世継神社縁起之叟』には。「七月一日から七日間、男性は姫宮に、女性は彦星宮にお祈りし、七日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び合わせて川に流すと、二人は結ばれる…」と書かれているそうです。
結ばれなかった二人は自分達の分まで周囲に幸わせを託してくれるのでしょうか?
ロマンチックな伝説ですね。

管理人も七夕石にお参りしてきましたよ。


でも、こんな伝説に水を指すようですが、『雄略記』という記録には雄略天皇が息子の清寧天皇に遺言として「星河稚宮皇子は悪逆でおまえ(清寧)を害するだろうから、注意するように」と残したと書かれていて、権力をほしいままにした星河稚宮皇子に対して反乱が起きたとも記されています。
恋に悩む皇子と、危険人物としての皇子、果たしてどちらが本当の顔なんでしょうかね?

彦根城周辺史跡スポット:「長寿院大洞弁財天」

2006年08月05日 | 史跡
彦根藩主の中で井伊直政・直孝に継ぐ名君と謳われ、幕閣においても大老職を2度務めた人物が4代藩主・井伊直興です。
直興は彦根藩中興の祖と呼ばれ、国宝彦根城築城400年祭のプレイベントでは直興の特集も組まれています。

1688年、日光東照宮の修築奉行を任せられた直興は、領内・甲良町出身で幕府お抱え大工棟梁・甲良宗賀(こうら・むねのり)と宗員(むねかず)と共に3年間に及ぶ東照宮の大改修を成功させています。
ちなみに日光東照宮建造の時は、甲良町出身の藤堂高虎が奉行となり同地出身の甲良宗広が大棟梁となりました(この関係で甲良町と日光市は姉妹都市の盟約を結んでいます)。

この時に培ったノウハウを元にして、1695年に彦根城の東北に建てられたのが長寿院でした。東北という方向は平安時代から災いの入り込む鬼門として恐れられていた場所で、彦根城から見ると、佐和山城址を含むその辺りに鬼門避けの寺院を建立する事は大きな目標の一つだったといっても過言ではないくらいだったのです。
建築には日光東照宮と同じ権現造になっていて、「彦根日光」とも呼ばれています、この事から、甲良大工が建築に携わったと考えられていて、多くのガイドブックにもそう紹介されていますが、実は彦根藩のお抱え大工によって建立された建物なんですよ。
また、当時は松原内湖の湖畔にあった事から水の神様である弁財天が祀られていて、日本三弁天の1つに挙げられ“大洞弁財天”という俗称の方が有名になっています。

ちなみに、直興の「領民全てが弁天様のご加護があるように」という願いから。建築に掛る費用の一部は領内に住む領民全てから1文ずつ集めました。この時の人数が25万9526名。その名簿が整理され今にも伝わっていて、当時の彦根藩を知る上での重要な資料となっているんですよ。