彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊家千年の歴史(14)

2016年12月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 井伊直平が井伊家の当主を再任したとき、その年齢は74歳とも84歳とも言われている。どちらにしても戦国の世.を戦うには大変な年齢だった。そんな直平に今川氏真は無理な出陣を命じた。その戦の最中、引馬城主飯尾連龍が陣中見舞いに訪れ正室お田鶴の茶のもてなしを受けるが、茶には毒が盛られていて直平急死(戦疲れとの説もある)、数え三歳の虎松以外に男子がいなくなったために身内である新野親矩と中野直由が虎松を後見する。しかし二人とも一年後の引馬城攻めで討死するのだった。
 井伊家に残る男性は、養子として井伊家に入り菩提寺龍潭寺二世である南渓瑞聞、そして幼子で今川氏真から命を狙われる危険があるために三河国鳳来寺山に逃がした虎松のみとなる、ここに窮余の策として僧となっていた次郎法師の存在が注目されることになる。今川家でも義元の母である寿桂尼がまだ健在だった時期であり女性が当主になることへの抵抗は少なく、尼ではなく僧として出家していた次郎法師は男性の立場として還俗することが可能となっていた。こうして次郎法師は直虎と名乗り井伊家当主となる。しかし井伊家の記録には直虎という名は残されておらず当主に数えない人物でもあった。
 井伊家を守り、成長した虎松に無事に相続させることが直虎の使命となった。しかし氏真は直虎に無理難題を押し付ける、井伊領内の民衆から徳政令発布の訴えがあったために徳政令を出せというものだった。徳政令は借金帳消しの借主にとってはありがたい命令だが貸主が困窮し、後に貸し渋りが起こり結局は経済が悪くなる悪法と言ってよいく下手をすれば井伊家そのものを潰す可能性もあった。氏真の命を三年近くいなし続けた直虎だったが要求はだんだん苛酷になりついに井伊谷徳政令発布を認めなければならなくなる。このときに直虎の署名と男性しか使わない花押を書いたことが女性当主として稀有な存在になり史家の注目を集めている。徳政令発布とともに直虎の領主としての不徳を責められ井伊谷の両領主は井伊直虎から小野但馬守(和泉守の息子?)へと替えられるが、その一か月後には徳川家康によって遠江侵攻が始まり、但馬守は城を追われのちに見つけ出され処刑された。遠江に入り引馬城を浜松城と改称して拡張し居城とした家康は今川氏も滅ぼした。
 いったんは家康の支配下になった遠江に対して武田信玄が侵攻、井伊谷は山県昌景の赤備え隊によって火の海にされるが後にその隊のほとんどが井伊直政に吸収されることになる。故郷の焼ける様を何もできずに見るしかなかったであろう直虎は、鳳来寺から虎松を呼び寄せ一人前の武将として育て、天正3年(1575)2月、浜松城下で虎松を家康に引き合わせたのだった。こうして井伊家は譜代大名筆頭としての第一歩を踏み出すこととなる。来月からはそんな物語を大河ドラマで楽しんでいただきたい。

墨絵師・御歌頭さんが描く井伊直虎
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